プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

長持健一

2014-12-07 20:14:42 | 日記
1969年

硬式ボールを持ってからたった一か月半、組織的な野球は一度もやったことがないというテスト採用の投手に、プロのベテランが押えられたのだからハプニングである。紅白戦の紅軍の三番手、松本、伊藤のベテランのあとでマウンドにのぼった長持は、動ずるようすもなく第一球をインコースに絶好球のストライク。中学二年(東京・駒沢中)から野球を始めたが、国士舘高へ進んだ一年間はボールを握らず、家(世田谷区三軒茶屋)の近くでつくった草野球のアカシア・チームで二塁手、このあとは自衛隊にはいって千葉県習志野の落下さん部隊で六か月間教育を受け、新潟県新発田の部隊へ配属になったという変わり種。ここで草野球の経験を買われて一年半内野をやったり投手をやったりした。昨年十月二十六日、東映のテストを受けて合格した。総勢百六十人余、そのうち投手希望者約七十人の中から椎正年(神奈川大)住友秀雄(松江一中)とともに採用になった。投げ始めたとき松木監督は「これは面白いですよ」と報道陣にいった。堂々としている。「度胸がいいですな」と松木監督、土橋コーチもうなずいた。第一打後原を左飛にとってスタート。六人目の松村に真ん中のタマを三遊間へ初安打されたが、2イニング、7打者を1安打に押えた。投げ終わるとそのままブルペンに走って約50球のピッチング、さらに球場横の坂道でダッシュ30回。無名とはいっても血筋はあった。父親の弟が戦後活躍した元広島の長持栄吉氏(現大宮市教育委員会)なのだ。「初めて堅いボールを持ったんです。無我夢中の一か月でした」という。カーブは投げて二日目、これがチェンジアップ気味になる。「自信なんてありません。一生懸命やるだけです」といった。松木監督は「土橋の二代目や。土橋は出て来るまでに二年半かかったが・・・。こりゃオープン戦のメンバーを考えないかんようになったわ」といった。土橋コーチは「まだスピードは出るだろうし、いいものをもっている。自分でどんどんやるしこういう選手が出てきたらほかの投手の刺激になるでしょう」という。なによりもいいのがくそ度胸。これは最近上映されている「グリーン・ベレー」ではないが、わずか六か月ではあったが、この間十五回もスカイダイビングをしたという自衛隊での訓練で養われたものだろう。「一応ナックルなども投げられますが、まずストレートだけで投げ込みたい」といった。オープン戦参加が決まったら、それこそ草野球にプロの選手がなめられることになるだろう。春のミステリーめいた興味深い話題である。
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斎藤喜

2014-12-07 19:45:29 | 日記
1966年

斎藤喜(よしと)遊撃手(18)…1㍍79、75㌔、右投げ右打ち、背番号21。

・斎藤選手は高校時代の通算打率が4割を超す強打者。昨年は40打数、21安打、・525の高打率、とくに韓国チームが来日したときは全関東軍に選抜され5打数、5安打と活躍した。攻守走そろった大型遊撃手として、千葉県下では長嶋二世と評判をとっていた。

斎藤選手の話 とにかく第一線に一日も早く出たい。そのためには技術をさらに身につけようと思っています。

西本監督の話 交渉に当った丸尾スカウトが、将来レギュラーになる選手だと推薦している。からだつきをみただけで、スケールの大きさがわかり今後が楽しみだ。
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鎌田豊

2014-12-07 19:26:52 | 日記
1965年

鎌田選手は父親登さん(52)木庭スカウトに伴われ、記者会見の席に現れた。茶色のブレザーコートを着込んだがっちりした肩幅の鎌田をたのもしそうに見やった山本球団代表が紹介したが、その間鎌田は青カンな顔にえみをたたえていた。同選手は中学時代、陸上競技とサッカーをやっていたが、倉敷工業へ進むと野球でもたちまち頭角を現した。三年生の夏甲子園大会での活躍が認められ、10球団からプロ入りを誘われたが、法大に進学。一年生の秋からレギュラーになるという大物ぶりを発揮、二年の春と秋のリーグ戦にそれぞれ打率・286をマーク、ベスト・ナインに選ばれている。三、四年のシーズンは、故障がちで、二年のときほど花やかではなかったが、カンがよく足が速く、肩もよいという天性の素質に恵まれ、広島は高く評価していた。ドラフト会議に提出したリストでは三番目にランク。ウエーバーでは佐野(専大)についで二番目に交渉権を獲得、入団交渉を進めていた。

鎌田選手の話 これからいろいろ勉強し、早くプロ野球に溶け込みたい。中距離打者として鋭いバッティングを目指したい。

木庭スカウトの話 足と肩がそろった近来ない好外野手だ。パッティングもよく、右の外野手として活躍すると思う。
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永淵洋三

2014-12-07 12:30:19 | 日記
1967年

永淵洋三投手(25)…168㌢、65㌔、左投げ左打ち、佐賀高出、東芝。

・永淵はドラフト会議で早大・三輪田投手に次いで二番目に指名した選手。ノンプロ東芝では投手と外野手をかけもっていた器用な選手。投手としては小柄だがコントロールのよさが身上。また登板しない日は外野手として三番を打ち三十九年社会人選抜大会で準優勝したとき三割八分を打ち敢闘賞を得た。上背がないため騒がれなかったが左不足の近鉄は「ウオームアップは10球でOK」という救援投手としての適性と「ノンプロ七年間で80ホーマーした打力」に目をつけ三原野球にうってつけの異色の戦力として大きな期待を寄せている。

永淵投手の話 ノンプロで七年間やってきてプロ入りへ踏み切ったのは自分の力を試してみたかったからだ。投手か野手といえばやはり投手としてやる方が魅力がありますね。

芥田球団社長の話 永淵は投打どちらでもこなせるのは魅力。選手生命を一年でも長く保てるよう願いたい。その意味でははじめからあまり飛ばさないよう注文をつけてある。
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柳川福三

2014-12-07 11:55:57 | 日記
1965年

ノンプロと縁が切れるきっかけとなった柳川事件の本人、柳川外野手もことし限りでクビ。いまでは中日スタジアム営業課の販売担当。「整理されてみて生存競争のきびしさを知らされた。幸い僕は平岩さん(スタジアム社長)のおかげで就職できたが、みんな就職難で困っているようだ。ただ僕のプロ入りでノンプロと絶縁状態になっただけにみんなにすまないような気がします。九月ごろ選手会からコミッショナーに整理選手の就職について嘆願書が出されたそうだが、一日も早くプロと社会人野球が交流できるようにお願いしたい」と訴えていた。
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杉町攻

2014-12-07 11:52:05 | 日記
1965年

変わり種としてはすでに相撲の世界に転じて九州場所で二番出世した土師(近鉄)がいるが、杉町(西鉄)もその一人。長崎南山高から鳴り物入りで入団したがさっぱりでついに自由契約。こんどはプロボーラ―転向をはかっている。入団二年目の終わりから原因不明のジンマシンに悩まされ、九大などで再三検診を受けたがだめだったそうだ。「野球には未練があり、積極的にテストを受けたいがからだがこれでは・・・」という。そして「ボーリングならそんなに手もかからないからやってみないかと勧められ転向に踏み切った。習い覚えたばかりで185点のアベレージなのでなんとかやっていけるかもしれない」という。母親と弟を養わなければならないのであせってもいるが、東京の岩上プロと面識があるので上京して腕をみがくそうだ。
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伊藤久敏

2014-12-07 11:20:58 | 日記
1966年

伊藤久敏投手(22)…175㌢、72㌔、左投げ右打ち、久留米商出身。

・同投手は三十七年久留米商時代夏の甲子園大会で準優勝投手となり、駒大では一年先輩の新宅(中日)とバッテリーを組んで三十八三十九春の二度優勝に貢献した。左腕不足に悩む中日が早くから注目していた投手で、入社が決定していた日通とも円満に話し合いがついて入団の運びとなった。

伊藤投手の話 先輩のいい点を見習って早く第一線で働けるようなピッチャーになりたい。あせらず地道にやっていくつもりです。カーブには自信を持っています。

西沢監督の話 ことしは左投手不足で苦しんだ。それだけに伊藤君の加入は大きい。来シーズンから近藤、大場とともに活躍してくれると期待している。とくにうるさい左バッターの多い巨人、大洋阪神戦でバリバリやってもらいたい。
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小室光男

2014-12-07 11:04:24 | 日記
1965年

西鉄が交渉権を獲得していた松江商高・小室光男遊撃手(18)=1㍍70、68㌔、右投げ右打ち=の入団を十七日午前十一時から球団事務所で正式に発表した。同選手は来春卒業と同時に三和銀行大阪本店へ就職が内定していた。このため学校側は「途中で撤回することは学校の信用にかかわる」と難色をしめして交渉が長引いたが、十七日朝、三和銀行との話し合いがつき、この日の発表となったもの。なお同選手は西鉄の契約第一号である。

城島スカウトの話 高校三年間を通じて三割をマークしており、安定したバッターだ。守備もよく中学時代には百㍍を12秒で走ったという俊足の持ち主でもある。
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大熊伸行

2014-12-07 10:48:57 | 日記
1966年

巨人から入団した大熊伸行投手は、福岡市内に新居も決まって十三日福岡入り、さっそく球団事務所へあいさつにきた。九日に結婚式をあげた新婚の同投手は「西鉄で心機一転、第二の人生にスタートする」という。西鉄にはオープン戦で10試合ほど投げたが、ベンチなどを見た感じでは楽しんでいるのが西鉄の魅力」だそうだ。「十四日から練習を始めるが、目標はあくまでも一軍で投げること。また決め球のスライダーを生かすためにシュートを研究し、好不調の波を少なくしたい。同じ年の船田もいっしょなので心強い」と張り切っていた。背番号は15。
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山本寛

2014-12-07 09:57:50 | 日記
1965年

山本がプロ入りを決めたとき、育ての親ともいうべき愛知高鹿島田監督は「無口でものごとには控えめな性格だから、競争の激しいプロでやっていけるかどうか」と心配した。八人兄弟の末っ子でのんびりしたところがある。産経・小山スカウトも「末っ子のせいかどうかしらないが、たしかにおっとりしていますよ」と同じ見方をしている。ところが気が弱い面ばかりかというとそうでもない。「マウンドに上がると実に大胆なピッチングをする」(芝繁夫愛知高野球部長)1㍍78、70㌔、サウスポー独特の荒れ球は威力がある。鹿島田監督は「調子に波はあるが、調子のいいときはすばらしいピッチングをする」ともいう。「速球をびしびし投げ、要はコントロールをつけることだと思う。変化球は二の次」なかなかシンはしっかりしたものをもっている。「目標は巨人の金田さんのような投手になることです」なんのためらいもなくはっきりいう。昨年春の県大会予選で愛知商戦でノーヒット・ノーランの記録をつくり、夏の県予選では準々決勝に進出する原動力となったが甲子園出場の経験はない。しかし山本はたえず目標に向かってがんばった。「父は愛知学園へ進学をすすめたが、僕ははじめからプロでやりたいと思っていた」その気持ちが学校を終えてから知多郡大府町横根、羽根山の近くを毎日5㌔のランニングを欠かさず続けている。「はいったかぎり全力をつくして期待にこたえるようがんばるだけ。自分の力は自分が一番よく知っているのだから、あとは努力にかかっているんです」文字どおり練習の虫。努力型の飯田監督が好みの選手である。中学時代は内野をやっていたが、愛知高にはいって鹿島田監督の希望で投手に変わり、一年までは二年先輩の金田(巨人金田投手の弟)を助けた。通算成績は60勝15敗。打っても五番で打率は・260をマークした。「まじめだから本人の努力しだいで将来産経を背負って立つ投手になることは間違えない」産経首脳陣が大きな期待を寄せているルーキーである。
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