プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

財津守

2015-06-06 15:09:12 | 日記
1960年

中日ドラゴンズはノンプロ日鉄二瀬の四番打者財津守選手(22)の入団を内定、十五日正式発表する。財津選手は三十二年大分県日田高を卒業、日鉄二瀬に入社、一塁兼外野手で、身長173㌢、体重70㌔、左投左打。

濃人監督の話 三年間二瀬で一緒にやったことがあるが、確実なバッティングで案外よく打ったものだ。しかしその後のことはよく知らない。プロからは私が監督をしていた当時から目をつけられていたが、上背が足りないので手控えられていた。まあうちの場合は打撃層が薄いだけに貴重な戦力になってくれると思う。

財津選手の話 プロ野球はほとんどみたことがないので力の程度はわからないが、ただ一生懸命やる。幸い中日には濃人さんはじめ江藤君ら知人が多いだけに心強い。左だからといって左の投手がそう苦にならない。財津選手は対阪神戦まえの練習に早速ユニホームを着て参加、フリー・バッティングを行った。デカイ当たりはみられなかったが、シャープなそして着実な打法はさすがで、石本コーチも「打撃は巧い。ポイントをつかんでいる。あとは力をつけることだけだ。べつにフォームその他ではなおすところはない」とほめていた。財津の打撃はちょうど巨人の高林中日の井上を左にした感じで、力がつけばかなりやれそうだ。
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野口勝治

2015-06-06 14:06:50 | 日記
1962年

野口投手は上手からの本格派で明電舎のエースとして活躍、三十五年には熊谷組に補強されて、都市対抗本大会に出場している。1㍍74、75㌔、右投げ右打ち、背番号34。

野口投手の話 去年までプロ入りの気持ちは全くなかったがことしになってピッチングに自信がついたのと、社会人野球出身者が活躍しているのに刺激されてプロ入りをきめた。入った以上、だれにも負けないようがんばるが、さしあたっての目標は、一日も早く第一線で投げるようになることだ。
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小川敏明

2015-06-06 12:39:28 | 日記
1959年

小川敏明捕手は突然家庭の事情で中京大を中退したいと申し出て、学校関係者を驚かせたが、学校側では同選手に事情を聴取した結果本人の意思を尊重し、プロ入りを承諾したもの。同選手は中日ドラゴンズ側と両親との話し合いをつき、十四日学校側の了解も得たので、きょう十六日中に正式契約の運びとなった。同選手は昭和三十三年中京商高から中京大学へ進学すると同時にひきつづきマスクをかぶり現在にいたっているが、中京商時代には同級生の現阪神本間投手とバッテリーを組んで活躍、中京商卒業後本間同様各プロ球団や社会人球界から勧誘を受けたが学業を断念することができず、学業と野球の両方を生かすため進学に踏み切った。この熱意が中京大学の一年生時代から認められ、レギュラーとして退部するまでマスクをかぶり、打っても上位をつとめ、三十四年春以来の三シーズン連続優勝に貢献全日本大学選手権大会にも出場、中京大学の名を広めた。身長一㍍七五、体重七五㌔、右投右打。

小川敏明捕手の話 家庭の事情でプロ入りを決めました。中日をえらんだのは私にとって地元の球団であったからです。プロへ入ったからには第一歩からやり直して大いにガンバリます。

滝・中京大監督の話 突然のことでびっくりした。しかし事情を聴いてみると引きとめるわけにはいかん。とにかく体格もいいし肩も強い。それに若いだけに勉強してがんばってもらいたい。

内川(中京大マネジャー) 中退するといい出したのは四、五日前で、あまり突然のことでびっくりした。小川君は性格も明るく、負けずぎらいだからプロに入っても十分やってくれると思う…。それにしても野球部としては実に痛手だ。
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七森由康

2015-06-06 11:32:58 | 日記
1961年

南海、巨人、広島の三球団、ノンプロ東洋レーヨン、大日本製薬から勧誘を受けていた左の本格派投手、七森由康=身長1㍍80、体重75㌔、左投左打、大阪西商高=はかねてからプロ入りを表明していたが、このほど巨人入りが確実となった。七森投手は今夏の高校野球選手権大会大阪府予選の三回戦で市岡高に1-0で敗れたが、市岡を1安打に押え、大阪府下でもPL学園堀川、市岡高加納、吹田高西川投手らとともにプロ球界から目をつけられ、早くから南海松本、巨人伊藤両スカウトが話を進めていた。同投手はさる八月九日大阪球場で鶴岡監督と話し合い、入団をすすめられていたが、その数日後には甲子園球場で巨人軍の幹部とも話し合い「条件的に有利な方を選ぶ」という希望で巨人入りがはっきりした。一時は父親一郎さんが広島県出身であることから、広島入りの可能性もあったが、南海、広島は条件的に折り合わず、巨人入りとなった。なお阪急ブレーブス足立投手は七森投手の先輩にあたる。

父親一郎氏の話 南海、巨人、広島とは正式に話がありました。親子二人っきりの生活ですし、その上、私が病気ですので息子に気がねなく野球をできるようにしてやりたいと思っています。二十五日の夜伊藤さんからはじめて条件が出されましたが、不満な点もあり、もう一度三十日に会うことになっています。南海との話が打ち切られたとしたら巨人に決めます。先生の方を通じての広島は正式におことわりしました。

七森投手の話 優勝可能なチームが第一の希望でした。条件のことは父親にまかせています。
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羽里功

2015-06-06 10:47:10 | 日記
1962年

広島カープはこのほど徳島海南高のエース羽里功投手を獲得した。身長1㍍78、体重70㌔、右投右打。同投手は下手投げで球速もあり、徳島県下ではナンバー・ワンの折り紙がつけられていた。広島上田捕手(コーチ)の後輩にあたるところから話がとんとんと進み、今夏県予選大会敗退後すぐ退部、契約を行った。なお同投手は近鉄、阪急などからも勧誘されていた。
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東田巍

2015-06-06 10:32:40 | 日記
1959年

東田巍(たかし)捕手…立命大、身長176㌢、体重78㌔、右投右打。

東田選手は三十五年春季リーグ戦終了とともに一身上の都合で立命館大野球部を退部、同時に同大学を中退、近鉄入りとなったもの。在学中の同選手は三十二年秋季リーグ戦から6シーズン、第一線捕手として活躍、三十三年秋季リーグ戦では三割八分九厘の打率で首位打者となり、今年の春季リーグ戦では打率こそ二割三分五厘だが二塁打3、三塁打、本塁打各1とその長打力を発揮していた。なお東田選手の背番号は7。

千葉監督の話 東田君は一度みただけだが、馬力もあり、体も大きい。それに根性もありそうだから私の考えているチームにはもってこいの選手だ。長打力もあるようだが、将来クリン・アップ・トリオを打てるようになってもらいたい。

東田捕手の話 近鉄を選んだのは学生時代の本拠地日生で野球ができるということです。それ以外の理由はありません。小さいときからただプロ野球選手になることにあこがれていました。プロのことはやってみなくてはわかりませんが一生けん命がんばります。

永江球団社長の話 近鉄としては東田君のようなはつらつとした新鋭を迎えてチームの中に新風を吹き込みたい。東田君が刺激剤となってチームが若々しくなってもらいたいものだ。
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伊藤則男

2015-06-06 10:15:42 | 日記
1962年

南海ホークスではこのほど伊藤則男投手(22)=立命大中退、京都市役所勤務、1㍍78、80㌔、右投右打=と正式契約、近く同球団から正式発表される。同投手は昭和33年の第30回選抜高校野球大会に立命館高のエースとして準決勝に進出、卒業後は立命大に進学したが、家庭の事情で二年生で中退、京都市役所に勤務。社会人野球京都大会では今年の春準優勝、夏の都市対抗野球予選では決勝リーグまで勝ち残るなど本格派投手としての素質をもち、南海ほか二、三の球団からもプロ入りをさそわれていた。なお同投手はすでに中モズ球場で柚木二軍監督の指導をうけ練習に参加している。背番号は未定である。

伊藤投手の話 去る十八日、正式に南海と契約した。南海以外には二、三の球団からさそわれていたが、話があったときから南海と決めていた。京都市役所とは事前に話し合いをつけている。プロで働ける自信は今年の都市対抗予選ではっきりした。
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