1958年
同じく阪神へ入った関大の村山とちょっと似ている点がある。村山の右に対して柴山は左だが、相似点というのは同投手ともムラ気だということ。そしてこれはいけるぞと思って期待していると、ずるずるとスランプのドン底にいつの間にか落ちてファンをがっかりさせる。しかしいいかえれば期待が大きかっただけに風当りが強いといえる。三十一年彼が二年の時は矢形(丸善石油ー阪急)大塚(川崎重工)のカゲにかくれてほとんど登板の機会にめぐまれなかったが、三十二年春からようやく不振の投手陣をひきいて毎試合顔をみせ第三週の同大戦に連勝(3-0、2-0)シャット・アウトしたころから高く評価されだした。低目々々へねらい、外角へときにみせたシュートなど見事な切れ味で、カーブも深く鋭かった。無制球投手の悪評もふきとばす鮮やかさであった。近大付属高の三年春のこと、泉陽、浪商についで選抜大会代表の補欠校に選ばれたことがあり彼の健腕はすでに高かった。その後肩を痛めてそのままうずもれるのではないかとの声も一時はあった。前年の秋季近畿大会に好成績を収め代表校になれるかも知れないというのでまだ寒い冬の間から猛ピッチングをやりすぎたためかえってヒジを痛め甲子園行きもフイ、自分の腕にも自信を失ってからだったが彼の生一本さがなせるわざであった。真っ黒な顔に歯だけ白いからスモカとアダナされている六尺近くの大男で、愛くるしいともいえる童顔。ピッチングも大きく構えてスリークォーター気味から投げるが腕と腰がばらばらでこれが一致するときには当然のことながら重い球質を生かした豪速球となり各打者をなでぎり、ちょっと間違うとボール、ボール、こわごわ整えようとするところをばかすかたたかれてカイ滅するという甘さが残っている。三十二年秋には一挙に関学の大黒柱として一人で屋台骨を背負ってたったが、ことしに入るとまるっきりだらしがなかった。第一週の神大三回戦に先発として初登板したが、無制球の悪癖をさらけ出して二回にしてKOこれ以後ほとんど顔をみせず、秋のシーズンに入っても全然だった。まるで信頼されないのか下位チーム相手の試合にも起用されなかった。彼自身監督に見放された状態に半ばなげやりで不平をうったえていた。こんな心境ではカムバックののぞめないのが当然、これを最後に学生生活を去らなければならない彼にとっては何ともいえない気持だったろう。そんなリーグ戦も半ばを過ぎたころだったろうか。彼の阪神入りがうわさにのぼった。某紙が彼にむかって阪神入りのつもりかと聞き、入りたいような口ぶりをもらしたところ、本人の希望を入団内定として発表してしまった。しかし自信を失っていた彼にとって彼の入団を希望する球団のあることは確かに何かの心の安定を与えたことは確かであろう。吉田、佐々木の頼みとする投手陣をくり出して伝統の関大一回戦に敗れた関学は二回戦に思い切って柴山を出したが、予想外の好投で勝利をもたらし決勝では負けたが、やはり先発として登板、よく投げている。とにかくその場の状況に左右されることが多いのが彼の最大の弱点といえそうだ。体もあり素質もあるのだから、この精神的な弱さをどう解決していくかが大きな問題であろう。
国賀敏男氏の話(関西六大学審判員、関学OB) 体格もあり連投も苦にせぬタフネスな投手だが、投手の基本たる制球力に欠ける点がこれまで進歩をおくらせている主因ともなっていたようだ。球質も重く、体も柔かいので今後フォームの完成ということが最も急がれる。大学時代は荒れ球で成功して来たものの、このピッチングが意識して荒れているならよいが、フォームそのものがアンバランスでストライクを投げるのが精一杯、このような有様では到底プロとしてはいますぐ第一線に登場できないだろうが、あせらずフォームの改良に努めることだ。特に投球の際にキャッチミットから目が離れ、首のゆれる点が大きな欠陥のように思われる。
池田良雄氏の話(関学監督・関学OB) せっかくの素質をもちながら精神的な弱さに災いされのびなやんだ格好だ。腕の力はあるが下半身が弱くピッチングがバラバラになり肩に力が入りすぎるのでコントロールが乱れる。調子のよい時など内角低目にきまる速球は重くしかもスピードがある。シュートもよいが肝心の外角球がほとんどボールになる。これは手首のかえしが悪い結果だろう。好投した時はこの外角球に手を出してくれたからよかったが、プロはそうはいくまい。まず足腰をきたえることが先決で外角球をマスターしなければならないだろう。自信をもつことができれば彼の最大の欠点である精神的な弱さも自然解消されるだろう。すぐ使える投手ではないが、体もあり力もあるので将来は村山同様楽しめるだろう。