プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中村常寿

2015-06-09 05:38:29 | 日記
1959年

プロ球団が中村投手に注目しだしたのは昨春。広島、近鉄が勧誘していたが、本人もまだ学業半ばでプロ入りを考える余裕もなく、今年になってから巨人、大毎、中日が誘いの手をのばした。とくに巨人としては堀内が今シーズン復帰不可能とあって、ぜひとも本格派投手の欲しいところから宇野代表が熱心な勧誘をつづけ、本人もようやくプロ入りに踏みきり、どうせプロで働くなら強力なバックをもつ巨人にと八月中旬巨人入りを決意したものである。しかし中村投手としては残り半年の学生生活を有意義に送り、正式に卒業したい希望もあったので交渉も困難だったが、学校当局ならびに野球部は退部するものの、学業はそのままつづけるという異例の契約となった。三日から正式入社、六日の対阪神戦から一軍入りするが、月末の定期試験にも出席日本選手権終了後再び学生生活をつづけることになっている。

中村投手の話 他球団からもいろいろ話がありましたが、投手として入るボクにとってやはりバックのいい得点力のあるチームとして巨人を選びました。大学だけは正式に卒業したいと思っていましたが、学校当局、野球部の理解ある取計いでこのようにスムーズに入団できたことを喜んでいます。プロ野球は見たことがありますが、なんとかやれそうです。でも大学と違って職業野球ですからカーブ、直球だけでは通用しないのでこれからはいろいろな変化球をマスターしたい。

宇野代表の話 日本選手権にそなえていいピッチャーを一人入れようじゃないかというので、近代の中村君と契約しました。野球部はもちろん退部したわけですが学籍は残っています。六日の阪神戦から一軍と合流させますが、中村君を見た新田コーチも大丈夫と太鼓判を押してくれていますので、われわれの期待にそむかぬ力をみせてくれるものと楽しみにしています。

昭和十二年六月、愛媛県に生まれる。南宇和郡御荘中学では投手と捕手をやり、松山商時代は一、二年を投手、三年には三塁を守った。一年当時には夏の甲子園大会に出場した。31年、近畿大学に入学と同時に再度投手としてその春のシーズンから出場した。同シーズンの対和大戦でノーヒット・ノーランを記録して素質のよさをみせ、今春四月、神宮球場で行われた学生野球協会結成大会で関大から17三振を奪って注目を浴びた。今春のリーグ戦では6勝1敗の好成績を収めている。右投右打、1㍍72、70㌔、二十二歳。
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有光磐明

2015-06-09 05:00:50 | 日記
1962年

強打の下関商有光磐明外野手(18)=左投左打、1㍍77、75㌔=も阪神入りを決意した。大洋と激戦のすえ阪神入りとなった有光外野手も昨年の選抜大会出場でホームランを打ってスラッガーぶりに注目されていた。有光外野手には大洋が先輩引地の線でいち早く名乗りをあげていたが、さらに東映、阪急、近鉄、阪神が争奪戦に加わってこんとんとしていた。このなかで積極的だったのは阪神で、東京駐在の佐川スカウトが下関の同選手宅を訪れて獲得に熱意をみせ、このほど入団の確約を得たもの。
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村松修

2015-06-09 04:51:19 | 日記
1962年

久留米商の伊藤、鹿児島商の浜崎と並んで九州高校球界屈指の好投手といわれていた小倉工の村松修投手(18)=右投右打、1㍍80、76㌔=はこのほど南海入りを表明。南海入りを表明した村松投手は今夏の福岡地区決勝でこのほど準優勝校となった久留米商に敗れたが昨年選抜大会に出場して早くから注目されていた。甲子園出場後一時ヒジを痛めたがその後回復、夏の予選で最高のピッチングを示した。切れのいいシュートが武器でバッティングもよく、とくに足が速い。南海は石川スカウトを通じて早くからこの村松投手をマークし、鶴岡監督ものりだし、最後まで食い下がった近鉄、大洋をけ落として獲得した。小倉市高峰町に住む父の春造さんも「大洋や近鉄さんもこられましたが、プロ入りするなら南海と決めていましたから」と語っていた。
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