プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

林千代作

2017-01-08 20:22:29 | 日記
1966年

性格はプロ野球向きにできているのだろう。ちょっとしたことにビクともしない。プロ入り初ホーマーを打ったというのに、まるで無表情だ。「打ったの?真ん中から外角寄り低めの直球。打った瞬間、手ごたえがあったが、ホームランとは思わなかった。二塁を回りかけたとき、スタンドがワッといったのではいったかなと思ったんです」イースタンでの成績は二割七分三厘で、ホームランは一本。「イースタンでも、こんなの打ったことありませんよ。一軍は、ムードがいいですね」ケロリとしていった。マイヤーズ・コーチがひと目でほれ込み、マン・ツー・マンで指導していたが、どうやらこの成果は実ったようだ。「マイヤーズ・コーチには毎日手首の返しをいわれたが、きょうはよく返っていた。合宿に帰ったら電話するんだ」一軍入りしたのが優勝決定後の二十四日。初出場は二十五日の対中日戦。このときは代打で出て右飛。プロ入り二打席目に飛んだホームランというわけだ。ちょうどホームランを打ったとき、横浜市南区伏見町の自宅で母親のふみさんが横になっていたところ。球場にきていた青木スカウトからの電話であわててテレビをつけたそうだ。「そうですか。じゃ、最終回もっとがんばれば・・・」と、九回の三振をしきりにくやしがった。シーズン終了後には大リーグの教育リーグへ参加することになっている。「やっと近ごろになって実感がわいてきたのです。本場の野球を勉強できるなんて、こんなにうれしいことはない」渡航手続きをつづけているうちに教育リーグに参加する責任感というようなものをジワジワと感じたそうだ。ロッカーに山積されたホームラン賞。それには巨人・林様と書かれてある。「コレ、ほんとうにぼくがもらっていいんですか?」びっくりしたように賞品をみつめた。プロ入り初ホーマーの実感がわいてくるのも、合宿に帰ってひとふろ浴びてからではないだろうか。

林が打ったホームランは真ん中低めの速球。高めの棒球を打ったのなら少しもおどろかないのだが、あの低い球をうまくすくいあげたスイングの鋭さには恐れいった。二十五日、後楽園(対中日戦)でもライトへ大きなフライを打ったが、スケールの大きなプル・ヒッターであることを一打席ごとに証明している感じだ。林のいいところは、まず打席にはいった姿である。王や長島、野村、江藤、榎本、それに新人の広野を含めて、強打者はすべて打席でも姿がいい。自信をもっているからこそ、堂々とした姿になるのだろうが、それにしても入団当時の林と比べると、そのかわり方におどろく。本人の努力とマイヤーズ・コーチの指導のたまものだが、バットが鋭く、速く出るようになった。二度目の打席では高橋にカーブを投げられてタイミングが合わず、三振した。変化球と内角ぎりぎりの球に対するバッティングは、もう少しみてみないと結論が出せない。いずれにしても外人コーチを招いた成果が形になってあらわれたことは、非常に喜ばしいことだ。
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バーマ

2017-01-08 20:03:15 | 日記
1966年

ネット裏で二男ジョン君が大声をあげた。久しぶりに見るパパだ。昨年暮れ、小児マヒ治療のため京都の聖ヨセフ整肢園に入院、三度にわたる大手術を乗りこえて見違えるように元気になった。車イスはスタンドのすみにめだたないように置いて、ママ(マーフィーさん)となつかしそうにスタンドにすわった。しかもこの日はジョン君の九回目の誕生日だ。パーマがグラウンドでジョン君のことにふれたのは昨年の終盤近く、東京球場で猛打賞をもらったときだった。「ジョンの病気は重い。いけないことだがそれが気になって、バッティングに打ち込めなかった。昨夜第一回の手術が成功した。ジョンはいつもぼくの成績のことを気にしている。そのためにもなんとしても打たなければ・・・」そして半年がすぎた。野球が大好きなジョン君はいつの間にか関西弁をおぼえてしまった。ラジオでもテレビでも「ライオンズのゲームをやってえへんので、さびしくてたまらん」毎日だった。初めてジョン君のいる京都での試合。マーフィー夫人、長女ジュディちゃん(三つ)もかけつけた。病院から特別の許可をもらってホテルでいっしょに眠った。ジョン君は毎日勉強と足を強くするためのトレーニングをつづけれければならない。「きょうはダディ―と一時間半もトレーニングしたんや」流ちょうな関西弁でジョン君はひとみを輝かせた。そして1ホーマー、2二塁打を含む四打数三安打五打点。バーマは今シーズン一度も打撃三十傑から落ちたことがない。ロイ、アギー、ウィルソンとつねに西鉄のほかの外人選手の陰にかくれてパーマはじみな存在だった。だが堅実な守備はくろうとをうならせるし、ファイン・プレーをバーマほど巧みにこなす選手もいない。打った球の種類とコースを聞かれたとき笑った。「どうして日本人はコースと球種にこだわるんだろう」といつもいう。この日も「バッティングはタイミングだ」と強調した。「スイングは去年と少しも変わっていない。ことしいいのはバットの出るタイミングがいいからなのだ。高低、コースを問わずうまくミートしているんだ」ベンチ前でジョン君にまた大きく手を振った。マーフィー夫人も答える。「ジム(バーマ)も頭の中はジョンの病気のことでいっぱいだった。でももう心配していない。きっとことしは打ちつづけます」夫妻はファンに囲まれながら肩を並べてジョン君の車を押した。
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スタンカ

2017-01-08 19:39:34 | 日記
1963年

スタンカは汗だらけの太い首に長いきれいなタオルを巻きつけた。これで10勝目、人がさの中に立たされてのインタビューにも、すっかりなれた。「調子はまあまあっていうところかな。球が速かったって?そうかね、フフフ・・・・。ぼくはシンカーがよくきまったと思うんだ。それにコントロールもよかったし・・・。三つ目のシャットアウトで10勝目か。早く家に帰って子供たちに報告してやらなくちゃあ」家庭にはジーン夫人と三人のむすこたちに偉大なパパと信じ込まれている。この日も家を出るとき指きりさせられてきた。「パパ、負けちゃだめだよ」「だいじょうぶさ。パパはきょうも勝ってくる。おとなしく待っておいで」末っ子は近所の少年野球の捕手、二男はすばしっこい内野手、そして長男はその二人の友だちのコーチ役をしている。だからパパのプレーにはだれよりもうるさい。スタンカは子供たちとの約束を果せてホッとしたのだろう。首に巻きつけたタオルをこんどは腰のポケットにねじ込みながら、うれしそうにしゃべった。「自分のピッチングができたときは心の中が充実する。いまがちょうどそれさ。オールスターには出場できなかったけれど、その期間をとても有意義に暮せた。まず前半戦のピッチングをじっくりふりかえれたこと、そして休養、それから子供たちといっしょに野球ができた。とても楽しかった。後半戦にはいって意外に速く10勝ラインにとび込めた秘密は、まあそんなところかな」10勝のうち阪急からの勝ち星が五つもある。そのうちシャットアウト・ゲームが三つ。南海の新しい阪急キラーだ。スタンカはそれに答えた。「別に阪急戦だけが得意っていうんじゃないんだ。東映だって、大毎や近鉄だって、ぼくはやれるよ。いままではチャンスがこなかったんだ。これからはどしどし東映戦や近鉄戦に使ってもらってがんばる。そして日本シリーズでケント(ハドリ)やピートといっしょに活躍するんだ」ペラペラとしゃべり終わると口笛を鳴らし、軽い足どりで引きあげていった。
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