プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

西田亨

2017-01-23 22:46:39 | 日記
1960年

大毎は投手陣強化をはかって東映から西田の移籍補強に成功した。ところが首、足の故障から二軍生活を続け、もっぱら治療に専念していた。その西田が二年ぶりにマウンドに立った。試合前ブルペンのピッチングに目をやってみると、ゆっくりとしたペースで、長い時間(およそ二十分)をかけウオームアップしていた。普通の投手なら十ー十五分くらいのところである。本来のピッチングを考え出しながら、やっているようにもみえた。速い球はほとんど投げてなく、もっぱらコーナーにボールを集め、肩をあたためているふうであった。プレーボールとなったが、案にたがわずスピードボールはなかった。ところが打者一巡の三回まで1本外飛があっただけで、あとはみな内野ゴロであった。カーブ、シュート、シンカーとことごとくボールを低目に集めコーナーをうまくついていた。とくにカーブを内外角にうまくコントロールしていたのが目立った。速球がないためチェンジアップを勝負に使って打者のタイミングをはずしていた。四、五、七、八回安打を許したが、走者を出してからのピッチングが実にうまかった。間の取り方、打者とのかけ引きもなかなか堂にいっていた。二年間もマウンドを離れるとカンを取り戻すのに相当苦労するものだが、西田の場合、立派に元に戻っていた。前半、味方の5点リードで楽な気持ちで投げられたのも好投できた原因の一つだが、終始慎重に自己のペースで投げたことが完投できた最大の原因だと思う。いま一つスピードが身につけばオニに金棒となる。投球数109球だったが、九回完投では普通だと思う。

今季初登板のビル西田が完投勝利を飾った。報道陣に「おめでとうだネ」と自分から話しだし「シュートとスロードロップがよかった。きのう登板を命じられたが完投できるとは思わなかった。四、五回なら押えられると思っていたが・・・。後半は疲れた」と、かたことの日本語でたて続けにしゃべる。大毎の安部社長、和田代表もわざわざダッグアウトまできて握手するという喜び方。
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大矢根博臣

2017-01-23 22:18:41 | 日記
1960年

4勝のうち3つが巨人からあげた勝ち星。杉下監督が「巨人戦用の投手を作らなければ・・・」といっていたが、この試合で大矢根の右腕に巨人キラーのレッテルを大きくはることができたと思う。前夜は本郷の宿舎で珍しく九時をまわるとマッサージをして、しんみょうに床についたという。プレート度胸では彼の右に出るものはいないといわれていても、こと巨人戦、首位争いに直接ひびくとあれば、よほど慎重にこの試合にそなえたのであろう。この日の彼得意のシュート、スライダーが巨人打者をようしゃなく切り落としていった。立ちあがりややこれが高目に浮くきらいがあったが、味方の先取点とともに回を追って巨人キラーの本領が発揮された。とくに威力を発揮したのはシュートで与那嶺、王、国松といった左打者にはこのタマがものをいった。そしてもっともマークする長嶋にはシュートで攻めたあと、外角へのスライダーで泳がせている。大矢根が迎えたピンチといえば、四回国松にホームラン性の大飛球を右翼に打たれたときであろう。1-0後の内角高目のストレート、これは国松がもっとも得意とするタマである。おそらく投げた瞬間ハッとしたことであろう。幸い風向きは逆、しかも森の美技でこのピンチから一瞬にして抜け出すことができた。あとはシリに帆をかけるがごとくさっさと走った。巨人打線の歯車はいたずらにカラ回りするだけ。巨人は二度どころか、つづけて三度、大矢根にニエ湯を飲まされた。大矢根の右腕を見るとくの字のように曲がっている。シュートを多く投げるためにもう真っすぐにはもどらないのだ。「それでもいいさ。巨人を倒して、ことし優勝すればいいではないか」きっと大矢根はそう思っているに違いない。
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大石正彦

2017-01-23 20:44:36 | 日記
1960年

ー現在の調子はどうか。

大石 いいね。体調ともにー。

ー好調の原因についてー。

大石 キャンプからずっと故障ひとつせず順調にやってきたこと。技術的にはコントロールがよくなっている。たとえば右打者なら外角へストレートかスライダーを投げてカウントをかせぐ。打ってもファウルになるからね。それでインザボールにしてからシュートで勝負する。大体ボクのピッチングは相手の目先を変えることにある。だからコンビネーションがよくなければカモになってしまう。それとウチのスタッフはみんなタイプが違っている。リリーフで成功しているのもそういったことが原因の一つだね。

ーいま投げているタマは?そして得意なのは?

大石 ストレート、カーブ、シュート、スライダーくらいかな。得意といっても力で押すピッチャーじゃないからこれというタマはない。しいていうならシュート。

ーどんなタイプの打者がニガ手か。それはだれか。

大石 コツコツ当ててくる人はいやだね。吉田(阪神)のようなタイプだ。ミートするのがうまいから、なかなかこちらの誘いに乗ってこない。(笑い)岡嶋(中日)もニガ手だな。油断してるとでっかいやつを打つからね。左のバッターもこわい。横から投げるピッチャーはだれだって好きじゃないよ。(笑い)もっとも好調なときはそれほど気にならない。内角へはずれるカーブやストレートでファウルさせておいて、シュートで打ちとればいい。巨人に2勝したのはそのピッチングがうまくいったからだ。

ーというと好きなタイプは逆に大振りしてくるバッター?

大石 どちらかといえばひっかけやすいからね。それだってひとつ間違えばスタンドへ直行だもの。こわいことには変わらないよ。(結局はどれもこれもいやになってしまった。しかし、これは技巧派の投手に共通した弱味ではないだろうか)

ー今シーズンの抱負についてー

大石 こんなにすべり出しのよかったことは入団以来(七年目)はじめてだ。でもこの調子がいつまでもつづくとは思っていない。いま5勝3敗だが、せめて最高の勝ち星をあげた三十二年の12勝(11敗)よりいい成績はあげたい。さいわいバックがはりきって点をとってくれるから六回まで3点に押えれば勝てる。調子のいいうちにドシドシ出てかせぎたいと思っている。
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宮崎晋一

2017-01-23 20:20:17 | 日記
1961年

中日ドラゴンズは、二十二日午後二時から中部日本新聞社貴賓室で高田代表、濃人監督が立ち会いのもとに、日鉄嘉穂のエース宮崎晋一投手(25)=1㍍75、75㌔、右投げ右打ち、久留米商出身=と正式契約したむね発表した。同投手は大洋、南海などに誘われていたが「プロで働くなら、濃人監督のもとでー」という強い希望から中日入りが実現したもの。すでに会社側とも円満に話しあいがついて退社。コミッショナーの認承があり次第、大体二十七日ごろから出場できる見込み。純アンダースローの変化球投手として、すぐに第一線での活躍が期待されている。背番号は47。

ー中日に入団した動機は?
日鉄二瀬当時から、濃人監督をよく知っていた。一度ぜひ、濃人さんのもとで働いてみたいと思っていた矢先に、話があったのでさっそく中日に入団したわけです。
ーいままで練習はやっていたか?
名古屋にくる前は、毎日約四十分くらいピッチングの練習をやってきたので、からだのコンディションは大丈夫だと思います。
ー下手投げだというがー。
投手は中学生当時からやっており高校にはいった年に先制にコーチされ下手投げをやりはじめた。いまのフォームになって、ちょうど十一年目になります。
ープロでやれる自信は?
プロ野球はときどき平和台で西鉄のゲームを見ただけ。セ・リーグのことはなにもわからない。とにかく、入団したからには、一生けんめいにやるだけです。

濃人監督の話 宮崎君は下手投げといっても、ウチの石川、広島とは本質的にちがったピッチングをやる。長いシーズンを乗り切るために、いまの投手力ではコマが不足している。しかもチームの調子があまりよくないときだけに宮崎の入団は、投手力に新風を送りこむ意味でも大きなプラスだと思う。もちろん石本コーチも、私も大丈夫やれるという確信をもっている。とにかく、この春久しぶりにピッチングを見たのだが、以前にくらべコントロールが非常によくなっている点が一番目についた。

高田代表の話 日鉄嘉穂の好意で、宮崎投手を獲得できた。ピッチングについては大丈夫ーという折り紙つきだし、本人もしっかりしているので、ウチの大きな戦力になるものと期待している。

昭和十一年二月五日、福岡県久留米市生まれ。小学校五年生のときから野球をやりはじめ、久留米商を経て二十九年日鉄嘉穂に入社。以後同チームの主戦投手としてことしで八年目になる。その間、三十二年には全国炭鉱大会で優勝に貢献。また都市対抗の補強選手として三十一年(日鉄二瀬)三十五年(東洋高圧)に出場している。昨年の成績は15勝5敗。六人姉弟の末っ子である。
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