プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

秋本祐作

2017-01-29 21:55:27 | 日記
1961年

「秋本さまさまだね」試合が終わってダッグアウトから出てきた戸倉監督はごきげんだった。秋本はムッツリしていた。低目低目をねらったシュートがうまくはいらなかったためらしい。いまの西鉄を4安打、1点におさえたのは、さしずめ大関を倒した銀星くらいだ。「もし九回田中(久)にホームランされなかったら、シャットアウトだったのにな。田中(久)に打たれたのは外角の落ちる球だった」秋本は残念そうだった。今シーズン初の完封勝利をかざれなかったが、これで4勝目。そのうちこの夜の1勝を含めて銀星は三つになった。その1は五月三十日南海に完投勝利した2勝目。これで南海に15連敗からチームをすくった。その2は六月六日大毎に完投勝利した3勝目。これで対大毎10連敗をすくった。4勝のうち3度が完投である。「負け出したら秋本にたのめ」というのが阪急ナインの合い言葉になっている。秋本が中西を二ゴロにしとめてダッグアウトに帰ってくると、梶本が握手をしてはずかしそうにロッカーへもどっていった。秋本は小さいからだの胸を張って大きくみせながら「中西さんはスライダーを打ってくれた。きょうは徹底的に低目をついてまかり間違っても高目にいかないよう注意した。西鉄はいま当りが出ているし、豊田さんがいなくてもとにかくヒットが2本つづいたらおしまいだから神経を使った。落ちるボールがよかったね」ゆうゆうとした受け答えだった。「阪急投手陣がみな秋本のような強心臓主だったらもっと成績が上がる」と伊勢川コーチがいっていた。秋本は阪急の3連敗をくいとめ、西鉄の4連勝をはばんだ。
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斎藤喜

2017-01-29 21:11:28 | 日記
1970年

選抜会議で中日に指名された阪急・斎藤喜投手(22)は十九日午後、宝塚市光明150の三幸マンションで「プロ野球から足を洗うつもりなので中日へは行かない」とトレードを拒否した。二十日・大阪・東阪急ビルの球団事務所で渓間代表と会い、退団の決心は変わらないことを伝える。同選手は十七日「これ以上プロでやっていく自信がない」という理由で退団を申し出ていた。
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泉嘉郎

2017-01-29 19:51:14 | 日記
1970年

南海・新山代表は八日午前、大阪・浪速区蔵前町の球団事務所に泉嘉郎投手(26)を呼び、任意引退選手にすると通達した。同投手は昨年のオープニング投手をつとめたりして期待されていたが、その後パッとせずほとんどファーム生活。今シーズンは野村構想からはずれ、一試合に登板しただけで、早くから引退を申し入れていた。
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吉沢岳男

2017-01-29 19:07:18 | 日記
1971年

十八日午前十時ごろ、名古屋市中村区名楽町二、荻野荘アパート一階二号室の元プロ野球中日球団選手、吉沢岳男さん(38)の部屋で異臭がするので、同アパート経営者があけてみると、吉沢さんがふとんの中で死んでいた。中村署で調べたところ、死後五日ぐらいたっており、外傷もなく脳出血による病死とわかった。吉沢さんは長野県の松商学園を卒業後二十九年に中日にはいり、三十七年に近鉄へ移籍、中日に戻って四十四年退団するまで捕手として活躍、オールスター戦にも二回出場している。プロ球界から引退後はトラックの運転手をしていたが、奥さんと離婚、最近は四畳半の同アパートで一人暮らし、たこ焼き屋の店員として働いていた。
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