プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

富永格郎

2017-01-14 22:41:02 | 日記
1961年

マウンドの上の富永は姿勢をただして安藤のサインをゆっくりのぞき込んで投げた。笑いもせず、おこりもせず、ただメガネを光らせるだけ。八回1点を失ったときも同じだった。「故障者続出で頭が痛かった。久保田がやっと復調してきたし投手陣はちょっと持ち直した」といっていた水原監督が、マウンドをおりてくる富永を握手して迎えた。八回、惜しいところでシャットアウトを逸したが、七月三十日の対阪急戦以来二十三日ぶりの勝利投手で5勝目をあげた。近鉄から8試合2勝目だが、安藤、山本(八)のホームランに守られて完投した富永は、言葉少なに「カーブがよくきまった。コントロールがよかったのが完投できた原因だ。八回は少し疲れて球が内角へそろいすぎた。しかし久しぶりの勝ちだから・・・。これからがんばる」とそそくさとぬれたアンダーシャツを片手に持って、帰りを急いだ。その富永のピッチングを土井垣武氏はつぎのようにみている。「カーブのコントロールが大へんよかった。球速がないのが欠点だったが、この日はスピードが乗り、近鉄が前半まったく打てなかったのは当然だ。ただカーブがいい代わりにシュートがないので、ピッチングの切りかえができない。前半カーブで外角を攻めれば、後半はシュートをまじえて打者のタイミングをくるわさないとなかなか完投できるものではない。また上から低目へきまる球の角度がいいので、外角に弱い共通点を持つ近鉄には好都合だった。ただ左打者にはピッチングに横の幅がないので弱い。その点近鉄が左打者を代打にくり出して攻めたのはよかった。1点とられた八回はそのっ左打者攻撃でピッチングがくるったからだ。こんご上位チームに投げるためにはシュートを投げるコツを覚える必要がある。それにしても富永がよく投げたので、東映投手陣はいくぶんよくなった。こんご東映が首位の南海をおびやかすには、投手陣を強力にしてぶつからなければならない。その点では富永の好投は大きなプラスだ」
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後藤修

2017-01-14 22:01:37 | 日記
1961年

試合前は近鉄のレギュラー・バッティングを後藤はダッグアウトでのんびり見ていた。「ぼくだと思っているんですな。でも近鉄にはいつでも勝ちますよ」左投手の阿部を使って打撃練習の大半をレギュラー・バッティングについやした近鉄打線を7安打2点に押え込んだ。それでもやはりフーフーいいながら引きあげてくる後藤に「ごくろうさん、ゴンちゃん。タフやな」と握手する杉浦へ「いやいや、ことしと違ってやはりやられました。シャットアウトしてやろうと思ってたけどな」それでも久しぶりの完投勝ちに日ごろむっつり屋の後藤も軽口をたたいてごきげんだ。「調子は悪い方だったな。ランナーがいないときは打たせてとろうというピッチング、走者が出てからは全力投球をした。しかしどうもそれが極端なんだな。近鉄がボール球を振ってくれたからよかったが、じっくりとこられたらあぶなかった。いつもスタミナを考えながら投げているんだが、うまくいかない。もっと味のあるピッチングをしなくては、いつまでもこれ以上の進歩がないからね。もう10年目だから・・・。野球生活ももう先はみえているが、それでもその間だけでも有意義にすごしたいからね」ヒマなときはシェークスピアを愛読。原語で暗記しているほど野球選手としてはふう変わりな存在だ。話しっぷりの間にもちょいちょいかたい言葉が出てくる。「小玉に打たれたのは内角のシュート。ねらっているからはずそうと思っていたが、ついいいコースへいってしまった」とちょっと残念そう。しかしはじめのころの笑顔は、もうすっかりなくなっている。「勝ち星はみんな近鉄ばかり。でもウチが近鉄にポカポカ負けているようでは優勝できないし、ぼくは与えられた仕事をやっているだけだ」27年松竹ロビンスから、洋松、東映、大映、巨人、近鉄そして南海と渡り歩いた球界のジプシーも「南海に骨をうめる」と新人のような気持ちではりきっている。
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西村省三

2017-01-14 21:08:10 | 日記
1961年

南海は二十二日、近畿大のエース西村省三投手(20)=法学部二年、花園高出身=の獲得に成功、近日中に入団を発表する。

同投手は近畿大学リーグで№1投手といわれ、同リーグでノーヒット・ノーラン、連続12三振、一試合23奪三振の記録をもっており近大を中退する。西村がスカウトにマークされだしたのは昨年秋からで大洋、南海、阪急、巨人の順で交渉していた。同投手の一切の面倒をみている実兄幸太郎氏(京都在住)は大学を卒業してからプロ入りさせるつもりだったが、十六日の全日本大学選手権大会のとき、中退することをきめた。一番手の大洋は条件が折り合わず、阪急ももたついている間に南海鶴岡監督が十六日に本人に直接会談、さらに十九日に二度目の話し合いを行い、南海入りが内定した。巨人はその後名のりでたが、すでに手遅れだった。同投手は二十二日近大野球部松田監督に退学したいと伝えた。

西村投手の話「南海のほかにもさそわれていたが、同じ野球をやるならプロでやりたいと思っていた。プロ球団との交渉は兄に任せてある」

富永スカウトの話「すぐに第一線で使える投手だ。ウチにきてもらうよう努力している。くわしいことは休んでいたのできいていないが、きまったのならすぐ発表しなければならないだろう」
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山本義司

2017-01-14 20:02:17 | 日記
1961年

八回からバウアーにバトンを渡した山本(義)はさっそくベンチ横のトレーナー室にはいった。左中指の先に力投を物語るマメができている。針で穴をあけ赤チンをぬってもらった。「ほとんどストレートで勝負した。自分でも球がのびてると思った」といいながらも赤チンがしみるのか顔をしかめる。四月盲腸をやって出遅れた山本(義)は「六月になったらスパートするぞ」と計算していたそうだ。「きょうがそのスタートや」そのとおりピタリと当った自分のピッチングに満足している。もっとも一週間前多田コーチ、安藤捕手から「お前は下腹をかばって力のはいったピッチングをしておらん」とドヤされた。痛いところをつかれたわけだ。三日前から先発を水原監督にいわれ、それから外出もせず、フォームをなおすのに一生懸命。「腕が上にあがっていたでしょう。おなかをウンと張って・・・・。振りおろしたときも深く腰がはいっていなかった?」その成果を報道陣に披露?していた。「シュートもよく切れたし」と自慢していたが、水原監督をチラリとみて「これで勝たなければ怒られるよ」と小さな声を出した。「盲腸のきずあとはもうみえないよ。もうそんなことは忘れた。さあこれからバリバリかせぐぞ」と大きく背のびをするように立ち上がった。合宿では人を笑わせるので有名。食堂に若手を集めて寄席を開く。趣味のゴルフは東映一の腕前とうわさされるが「実はハンディは30。しかしいまはやめている。監督さんに怒られるからな」とほんとうに水原監督に怒られたように真顔で答え、ロッカーに向かった。
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野崎洋

2017-01-14 19:23:59 | 日記
1961年

阪神ではこのほどノンプロ長崎大洋クの野崎洋投手(19)=1㍍76、74㌔、左投左打、長崎南山高出=の獲得に成功した。同投手はすでに大洋漁業を円満退社。十九日朝大阪駅着の急行雲仙で来阪して契約する。同投手は南山高で中堅手で三番を打ち岩本(大洋)のリリーフだった。この春大洋漁業に入社、長崎大洋クで投手と中堅手をやり、五番を打っていた。カーブのコントロールがよく、また2ホーマーを記録している。

父親初治さんの話「会社の関係で大洋からかなり誘われ、それに東映、西鉄からも交渉を受けていたが阪神が好きでした。打者でも投手でもやれるが、洋は投手に魅力を感じています」

阪神・戸沢代表の話「野崎君は騒がれていなかったが、素質のある投手なので期待している。打撃もいいらしいが左投げでスピードもあるから投手としてやってもらう。間もなく入団がきまるだろう」
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栗本光明

2017-01-14 19:10:57 | 日記
1961年

倉敷レイヨン岡山の栗本光明投手(25)は大会終了後大毎入りする。同投手は三年前からプロにマークされ、大毎、阪急、大洋などが交渉していたが、倉レの幹部を通して話を進めていた大毎が獲得に成功したもの。

栗本投手の話「どのチームへ行くかはまだ自分の口からはいえません。しかし自分のピッチングにある程度の自信がついたのでプロ入りにふみきった。ノンプロとしてはきょうが最後のゲームです」

大毎・松浦代表の話「栗本君に入団をすすめていることはたしかだ。多分ウチへきてくれることになるでしょう」

福山工出身、都市対抗に倉レ三年連続出場の原動力となったノンプロ中国地区のNo・1投手。一昨年秋の産業対抗に優勝、台湾に遠征している。やや線が細い感じだが、低目へのコントロールがいい。1㍍75、60㌔、右投右打。

大毎では七日午後四時半大阪市北区の毎日会館大映関西支社で、ノンプロ倉敷レイヨン岡山の栗本光明投手(25)=福山高出、1㍍75、64㌔、右投右打=と契約、入団を発表した。八日宇野監督が練習をみたうえで、すぐベンチ入りさせるかどうかをきめる。背番号は57。

栗本投手の話「二、三のチームから話があったが、大毎のチームカラーがいちばん好きなのできめた。きょう(七日)会社の方へ辞表を出して正式に退社した。ノンプロではカーブ、スライダーが通用したが、プロではそうはいかないだろう。シュートを早く自分のものにしたい。小野さんのピッチングを手本に、早く一本立ちするようにがんばる」

野口コーチの話「栗本のピッチングは一度もみたことがないのでまだなんともいえない。しかしなかなかうまみのある投手らしい。すぐゲームに、と期待するのはムリだろうが、栗本の特徴をつかんで、持っている技量を十分にのばしてやりたい」
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宮崎晋一

2017-01-14 18:48:54 | 日記
1961年

中日では二十二日午後二時、名古屋市中区の中部日本新聞社二階貴賓室でノンプロ日鉄嘉穂の宮崎晋一投手(25)=久留米商、1㍍75、75㌔、右投右打=と契約した。背番号は47。同投手は二十九年春日鉄嘉穂に入社、三十一年八月の全国炭鉱大会に優勝、三十一年には日鉄二瀬、三十五年には東洋高圧の補強選手として夏の都市対抗に出場した。昨年の成績は15勝5敗。

宮崎投手の話「プロ入りするなら濃人監督のいる中日と決めていた。名古屋にくる前まで毎日トレーニングしていたので投げろといわれればすぐ投げられる」

濃人監督の話「宮崎は下手投げだが、石川、広島らと違った球質をもっており、コントロールがいい。投手陣がコマ不足なのでよければすぐにでも使いたい」
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奈良正雄

2017-01-14 17:45:36 | 日記
1970年

東京都杉並区高円寺にあるロッテ・オリオンズ二軍合宿に行くと、玄関からまる見えの台所のガス台の上では、サンマが盛んに煙をあげていた。まもなく夕食が始まるところ。アイちゃん、女三四郎と呼ばれる二人のおばさんが用意した献立は焼魚、オムレツとベーコン、トンカツ、すまし汁。それに大きなスイカ一切れがつけてあった。二十歳前後の若者たちの集団とはいえ、彼らの食欲には驚かざるをえない。その日、炎天下の東京球場で行われたイースタン・リーグの巨人戦に勝って、意気ようようとロッカールームに引きあげてきた彼らが、まず最初にしたことは出前の注文。大もりソバとか、カレーライスとか、それぞれに好みのものをたいらげてからまだ三時間しかたっていなかった。それなのに、大抵の者がドンブリめしをおこわりをした。女三四郎に「いい?」と速達がちに聞く少年がいたので、名前を聞くと、それが昨年雲散霧消したグローバル・リーグ「東京ドラゴンズ」の最年少選手、大宮工高出身で十九歳の奈良正雄クン。背番号は88。「84はいるけど、88は名簿にないね」というと「ぼくはテスト生で、まだ登録されていないんです。あのう・・・バッティングピッチャーをしています」と答えた。八人きょうだいの末っ子。埼玉県戸田市の実家から東京球場は近いが「みんなといるほうが楽しいから」と、合宿に泊めてもらいにきた一日午後。二ハイ目をソッと出した理由がそれでわかった。月給は四万円。「オリオンズで一番安いけれど」ベネズエラのカラカスで、何日もパン一個で過ごした日を思えばなんでもないと、腹いっぱいに食べて眠そうな目にまった。
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