1970年
昨年暮れの第一次、第二次テストで、ともにトップの好成績。「あのテスト生は見どころがある」と、審査員の意見が一致して採用と決まった。新人とはいえ社会人生活五年を経験している。「いまさらという気もしましたが・・・何もかも清算して人生プロ野球に徹するの強い信念で西鉄入りを決意した」そうだ。だが、ポッと出のテスト生というわけではない。その素質は高校時代にも芽をもたげていた。三十八年夏の高校野球「九州工は左腕佐藤投手を擁して福岡県北予選を勝ち進む。南北のベスト8が争う県大会に出場。あと一押しで甲子園。だが、クジ運に恵まれなかった。八回まで0-0、その九回表に橋本に打たれて決勝の1点を奪われた」-相手は博多工の好投手橋本(近鉄)「橋本は近鉄でくすぶっている。できれば彼よりも早くプロで1勝したい」と佐藤は反骨精神をむき出しにする。西鉄入りまでの五年間、佐藤は東京で腕をみがいていた。ノンプロ丸井クレジットでは東映の大杉とプレーをしたこともある。林建設に移ってからは、エースとして真価を発揮した。昨年夏の都市対抗では三回戦で電電関東に惜敗したが林建設に佐藤ありの印象を強めている。「プロで投げてみたい、そう思った瞬間、西鉄のテストを受けようと決心した。このツキを逃がしたくない。ぼくにとっては死活問題です」こう言い切るプロ野球選手は、ざらにはいない。昭和二十年生まれ、二十四歳だ。
昨年暮れの第一次、第二次テストで、ともにトップの好成績。「あのテスト生は見どころがある」と、審査員の意見が一致して採用と決まった。新人とはいえ社会人生活五年を経験している。「いまさらという気もしましたが・・・何もかも清算して人生プロ野球に徹するの強い信念で西鉄入りを決意した」そうだ。だが、ポッと出のテスト生というわけではない。その素質は高校時代にも芽をもたげていた。三十八年夏の高校野球「九州工は左腕佐藤投手を擁して福岡県北予選を勝ち進む。南北のベスト8が争う県大会に出場。あと一押しで甲子園。だが、クジ運に恵まれなかった。八回まで0-0、その九回表に橋本に打たれて決勝の1点を奪われた」-相手は博多工の好投手橋本(近鉄)「橋本は近鉄でくすぶっている。できれば彼よりも早くプロで1勝したい」と佐藤は反骨精神をむき出しにする。西鉄入りまでの五年間、佐藤は東京で腕をみがいていた。ノンプロ丸井クレジットでは東映の大杉とプレーをしたこともある。林建設に移ってからは、エースとして真価を発揮した。昨年夏の都市対抗では三回戦で電電関東に惜敗したが林建設に佐藤ありの印象を強めている。「プロで投げてみたい、そう思った瞬間、西鉄のテストを受けようと決心した。このツキを逃がしたくない。ぼくにとっては死活問題です」こう言い切るプロ野球選手は、ざらにはいない。昭和二十年生まれ、二十四歳だ。