1965年
山崎正が見事なピッチングを見せた。フォーク・ボールを武器に内外角をカーブ、シュートでたんねんに攻め、6安打を許したはしたが、10三振を奪って1点に押え切った。山崎正の勝利は巨人時代の三十六年八月三十一日の対大洋戦以来のもので、同年五月十八日の国鉄戦についでプロ入り二度目の完投勝利。この山崎正が好投できた原因は、初回から見せた東映の猛攻であった。トップの西園寺から五番の萩原まで安打を連ねて3点を奪い、15球で井上をKO、代わった与田からも二、三回に山崎正、毒島の本塁打で追加点をあげた。
スイッチ・ヒッターというのはあっても、投手、野手(打者)どれでもというスイッチ選手は珍しい。ところが、東映の山崎正は、投手を断念して打者に、そしてことし五月中旬、投手に再転向をすすめられてからも外野を守り、代打、代走で出場していた。その山崎正が、みごと四年ぶりに完投勝利をやってのけた。かつて巨人の藤本英雄選手(現姓中上)が肩を痛めて外野に転向、また投手に逆もどりして完全試合をやったことはあるが、当の中上氏は「僕の場合は、投手から外野をやってすぐ足をネンザした。野手としてはほんのわずか。こうなったら投手でもう一度やるしかなかった。だから山崎正君のケースとは違う」という。四年ぶりの奇跡ともいえる復活。当の山崎正は「完投できるとは思わなかった」というが、五回の無死二、三塁、六回の一死一、二塁の二度のピンチにバーマ、玉造、ロイ、和田ら主力打者五人をから振りの三振に仕止めたピッチングはみごとだった。そして、打者としてのユメを捨て切れなかった山崎正の心に、勝利は大きな波紋をえがいた。「僕の今後は監督さんが決めること・・・」といいながらも「きょうは夢中で投げたが、打者の顔色がわかり、思うところに投げられるようになれば・・・投手だと必ず出られるからね」と意欲をみせてきた。しかし多田コーチはいう「もっと研究することだ。とくに直球のコントロールを身につけることだ」この1勝を生かすも殺すも、山崎自身の今後の努力にかかっていることだけはたしかである。この山崎正が二足のワラジを投手一本で進めるようになったとき「投手は九人目の打者」という言葉も生きてくる。
山崎正が見事なピッチングを見せた。フォーク・ボールを武器に内外角をカーブ、シュートでたんねんに攻め、6安打を許したはしたが、10三振を奪って1点に押え切った。山崎正の勝利は巨人時代の三十六年八月三十一日の対大洋戦以来のもので、同年五月十八日の国鉄戦についでプロ入り二度目の完投勝利。この山崎正が好投できた原因は、初回から見せた東映の猛攻であった。トップの西園寺から五番の萩原まで安打を連ねて3点を奪い、15球で井上をKO、代わった与田からも二、三回に山崎正、毒島の本塁打で追加点をあげた。
スイッチ・ヒッターというのはあっても、投手、野手(打者)どれでもというスイッチ選手は珍しい。ところが、東映の山崎正は、投手を断念して打者に、そしてことし五月中旬、投手に再転向をすすめられてからも外野を守り、代打、代走で出場していた。その山崎正が、みごと四年ぶりに完投勝利をやってのけた。かつて巨人の藤本英雄選手(現姓中上)が肩を痛めて外野に転向、また投手に逆もどりして完全試合をやったことはあるが、当の中上氏は「僕の場合は、投手から外野をやってすぐ足をネンザした。野手としてはほんのわずか。こうなったら投手でもう一度やるしかなかった。だから山崎正君のケースとは違う」という。四年ぶりの奇跡ともいえる復活。当の山崎正は「完投できるとは思わなかった」というが、五回の無死二、三塁、六回の一死一、二塁の二度のピンチにバーマ、玉造、ロイ、和田ら主力打者五人をから振りの三振に仕止めたピッチングはみごとだった。そして、打者としてのユメを捨て切れなかった山崎正の心に、勝利は大きな波紋をえがいた。「僕の今後は監督さんが決めること・・・」といいながらも「きょうは夢中で投げたが、打者の顔色がわかり、思うところに投げられるようになれば・・・投手だと必ず出られるからね」と意欲をみせてきた。しかし多田コーチはいう「もっと研究することだ。とくに直球のコントロールを身につけることだ」この1勝を生かすも殺すも、山崎自身の今後の努力にかかっていることだけはたしかである。この山崎正が二足のワラジを投手一本で進めるようになったとき「投手は九人目の打者」という言葉も生きてくる。