1985年
ルーキー島田章がマウンドを降りたのは、九回の無死一塁で宇野を歩かせた場面だった。救援の中西に会釈してベンチへ向かう。その姿を追う内野陣の目つきが、傍らの吉田監督には「スマン」とわびているように映った。二度目の先発で七回まで無安打無失点。なのに、報いてやれなかった。「みんな、いつもと違う目つきでした」と吉田監督。岡田のサヨナラ本塁打はこうしたチーム一丸を背景に生まれた。「実に良く投げていた。こういう試合を落とせば、きっとあとにひびく」と岡田は思った、という。九回の一死一塁。郭の初球、内角シュート気味の球は、九度目の五万八千大観衆の声援につつまれて左翼フェンスを越えた。初体験のサヨナラアーチだった。それにしても、島田章のひたむきな投球には目をみはらせられる。先発は前日いわれたそうだが、立ち上がりは緊張のあまり最悪。しかし、二回からきっちり軌道修正できたところにねうちがある。一回、中日の先頭島田に四球を与える。冒頭と内野ゴロで二、三進。上体が突っぱったままで、体重が乗ってこない。これでは武器のきれのいい速球は無理。ところが、谷沢を0-2から浅い中飛に抑えた。捕手の木戸から「走者は気にするな」といわれ、いくぶん気分がほぐれたのだろう。真ん中高めの危ないコースだったが、本来の速球だった。米田投手コーチは「甘い球はずいぶんあった。でも、力があるのでうち取れたのだ」と分析。その最初の例が谷沢といえた。八回、投手の郭に真ん中高め直球を左中間へ二塁打。「ストライクを取ろうと、スーと投げた」失投。早くから気付いていた、という大記録の夢は途絶えた。箕島高時代、完全試合の経験はあるが、そうそう巡ってはこない好機。でも「どうってことないです」米田コーチが「実戦で力以上のものを出すタイプ」と話す肝っ玉ルーキーは、次の登板に初勝利を目指す。