プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井上晃二

2021-01-17 12:28:51 | 日記

1978年


いったん別府鶴見丘高に入学したが、「本格的に野球をやりたい」と、二か月後に別府大付属高に転校。二年までは遊撃手、三年になってからは投手。練習試合を含む三年間の通算成績は打率3割7分3厘、本塁打30本。特に二年秋から三年夏にかけては4割7分2厘を打った。内野手としては守備範囲が広く、遠投百十㍍と強肩。ベース一周14秒で投攻守三拍子そろった選手と高く評価されていた。日本ハムは、内野手としてリストアップ。家庭は造園業で学校の成績もトップクラス。別府市青山中出身。

 

井上選手の話 プロ野球は小さい時からのあこがれだったので、本当にうれしい。日本ハムはいい球団だと思う。入団を前提に話を進めたい。当分は二軍だろうが、歯を食いしばって練習に耐え、四年後には一軍で活躍したい。高校出で活躍している阪神の掛布選手が目標です。

 

プロ野球・日本ハム球団が内野手としてドラフト三位で指名した別府大付属高野球部の井上晃二選手(17)=別府市荘園北町の園団地=の入団の発表があった。契約金千八百万円、年棒二百四十万円(いずれも推定)同校野球部ではすでにドラフト外で佐野浩一捕手(18)も同球団入りが決まっており、二人のプロ野球選手が誕生した。井上選手は身長176㌢、体重73㌔、右投げ、右打ち、二年秋から三年夏にかけての十九試合で、打率4割7分3厘、本塁打8本を記録、守備範囲が広く、ベース一周13秒8と俊足。攻走守三拍子そろった好選手と高く評価されていた。二年まで遊撃手、三年からは投手だった。瓜生勝同球団スカウトは「井上選手のプレーは二年生の時から見ていた。バッティングなど粗削りなところはあるが、プロ向きの好選手だ。将来、日本ハムの二遊間をつくる選手になってもらいたい」といっている。一方、佐野選手は178㌢、78㌔、右投げ、右打ち。強肩、好打の捕手で、井上選手とは青山中野球部時代からの同級生。この日、同校で行われた井上選手の入団発表にも同席し、「井上君と一緒に入団するのは心強い。レギュラーを目指して二人でがんばる」と話していた。

 

井上選手の話 プロ野球を志望していたので、高く評価してもらってうれしい。厳しい世界だろうが、努力すれば、それだけのものが得られると考え、入団を決めた。日本ハムの実情はくわしく聞いた。いい球団だと思う。目標は掛布選手(阪神)佐野君とも励まし合って、レギュラーを目指す。

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坂巻明

2021-01-17 12:11:32 | 日記

1982年


「あの時は、おぼえたてのフォークがおもしろいように決まって、お蔭ですぐ一軍入りが決まりました」開幕間もない4月8日の後楽園。雨で近鉄戦が中止になった一塁側ブルペンで、首脳陣の見守るなかテストが行われた。それより先5日の西武戦で投の切り札・江夏が、バント処理を誤って右足首を負傷した。当面の戦力減を補うために急きょ、投手枠が10人から11人に広げられ、まず候補の1番手として坂巻に白羽の矢が立ったのだ。7日、多摩川での二軍の練習を終えて、合宿に戻ると岩下監督から「明日、後楽園でテストがある。思い切って投げてこい」と激励された。テストをいう条件付きだったが、「本当に?」と半信半疑だった。シーズンインして間もなかったからだ。今年はキャンプ、オープン戦と一軍候補としてそれなりに順調にやってきた。しかし、投手王国といわれるチーム事情もあって、結局は開幕を目前にして二軍に落とされてしまった。「よし、もう一度とことん自分を鍛え直して、次のチャンスをモノにしよう」そう覚悟を決めたばかりのところへ届いた朗報だった。プロ6年目。とっていもテスト入団だっただけに、約3年は半ば打撃投手としての生活が続いた。やっとイースタン戦で初先発できたのが55年7月29日の西武戦。それからメキメキ頭角を現した。それだけにけっして変な焦燥感や屈折感にとらわれることはなかったという。しかし、一方で、その55年オフに智子夫人とゴールイン、一国一城の主になって、「なんとか一軍入りして生活基盤をしっかりしたい」という思いもあった。そのハングリーさをムキ出しに放ったテスト・ピッチング。球速では一軍要員の中に入ってもピカ一といわれる坂巻は、あらためて首脳陣をうならせた。そして即、一軍入りが決まる。そしてさっそく9日から今季初の大阪遠征に参加、しかも11日大阪球場の南海戦に4番手の敗戦処理ながら、プロ入り初公式戦マウンドを踏むという幸運に恵まれた。2回投げて8打者に3安打1与四球で2失点。初めてついた防御率は9.00と、決して手放しで喜べるマウンドではなかったが「一つの大きな関門を突破したようななんともいえない充実感が残りました」もちろん、その後はほとんど敗戦処理のマウンドが続いた。しかし、回を重ねるごとに自分なりのピッチングができるようになった。一軍暮らしも工藤や岡部、川原とファームで共に苦労した仲間がいたので、思ったほど戸惑いもなかった。練習中にひたすら走り込んでいると、ある二軍経験のない選手に「そんなに走って大丈夫か?」と真顔できかれたことがある。常に臨戦態勢をとっている一軍投手の練習方法は、ただガムシャラにやればいいファームとは違っている。そんな学ぶことも多い毎日が続いた。そして5月16日、西宮球場の阪急戦では4番手として登板して、実にたった1回で7失点、4連続四球の押出し点もやらかす、メロメロピッチングをしてしまった。どうしようもない屈辱感にさいなまれた。「こんなことでは、また落とされてしまうかもしれない…」そして、翌17日の多摩川練習。青菜に塩の坂巻は、神様江夏に呼ばれた。そして、じゅんじゅんと説かれた。「野球人生にはいろいろある。きのうのことはもう忘れろ。お前はリーグでも投手王国といわれる日本ハムの一員、堂々と胸を張って投げるんだ」雲の上の人と決め込んでいた人間から身内以上の心配りをしてもらった。感激、そしてあらためて勇気と責任感が胸の内に高まってきた。「もう絶対に二軍には落ちまい。吸収できるだけのものをこの一軍生活で得るんだ」そう、ひたむきな敗戦処理人生を決意した坂巻は、ついに後期初登板の8月8日、仙台でのロッテ戦で公式戦初先発の大役をおおせつかる。残念ながら初白星は逃したものの、立派に一本立ちしたのである。

 

1987年

 

「思うような投球ができた」と胸をなでおろす坂巻。プロ入り九年目の一昨年秋に右ひじを手術し、昨シーズンを棒に振った。それだけに「ことしが勝負」と若手なみの練習を積んできた。六回から三回投げ、カーブと直球だけで1安打の無失点。スピード、切れはまだまだだが、打ち気をはずして打たせるうまさはさすが。「まだシュートを加えた球に切れがいまひとつ。でも投げこんでいけば大丈夫。いけるという感触もつかめた」

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坂巻明

2021-01-17 10:57:58 | 日記

1984年

高代が左足ヒザ故障、新外人ブラントがファーム落ち、おまけに工藤、間柴が調整遅れ、苦戦が予想された植村監督が、なんとか、やり繰り算段やっている裏には、ニュー・ウェーブの活躍なくては考えられないころだ。その№1は、8年目を迎えた坂巻(二松学舎ー青山学院)だろう。4月17日現在でチーム15試合中、早くも6試合に登板。昨シーズンは、わずか9試合だから、新生日本ハムの期待度がどれだけ高いかがわかろうというもの。投球回数も、チームでトップの26回2/3を記録し、自責4の防御率1・35(19日現在)は、防御率争いのトップを占めている。なかでも圧巻だったのは、12日の西武3回戦(後楽園)だった。先発・工藤が1回に一死を取っただけで4失点のあとを受け、8回2/3の準完封で、プロ入り2勝目をマークしたのだ。52年に、バッティング投手として入団し、8年目で花開いた坂巻が、投手陣の代表だ。

遅まきながら、わたくしヒゲの坂巻と申します。8年前に日本牛豚食肉混合加工組合に、テストという臨時願いで酒盃をもらった29歳の弱輩者でござんす。身分は直訳すれば打たれ役。つまりバッティング投手とでも申しましょうか…。年貢?ハイ、1年間、精出しても1両3分(130万円)いただきました。証言その①同じ打たれ役から救援班(リリーフ)のリーダーになった川原「ヒゲの坂巻は、出てくるのが遅まきだったほど、イヤ、笑ってください。それほど、あいつの、シュートはエゲツなかったんです」証言その②55年暮れに華燭の典もあげず、ずるずると同棲生活から世間一般のおかみさんと呼ばれるようになった智子夫人「野球選手というと、ONを代表する千両も、万両も稼ぐ職業と思っていたのでビックリしました。でも、私も、日本生命の事務員を命を賭けてやったんです…」証言③遅まきの、イヤ、坂巻のフトコロをエグル。鋭いアイ口(シュート)を見抜いた先代の大沢親分「あいつは、打ち手にすりゃあ、いや~な、クセ(球=シュート)があったんで、モノになると思ってたんだ。野郎が逃げずに、敵に立ち向かっていけば大判、小判やるのに‥」そんな、中途半端ながらも、ファームでは、テスト生のバッティング投手が、チームの救世主になろうとは。6月6日のロッテ10回戦で、三度目の先発で、なんと8連勝と勢いにのる稲尾・鉄腕を急停車させるばかりか、日ハム部隊の連敗を8でストップさせる初完封。12日の南海・エリ巻きトカゲの穴吹集団に対しては、遅咲きでは、先輩の川原にリリーフを仰いで3勝目をマーク。ファームでは、人にいえない苦労もあったが、遅まきながら、ハイ。

ようやく連敗がストップした。じつに3分をはさんで14連敗。パ・リーグ記録(15連敗)日本記録(16連敗)は目前だった。それに並んだり更新しなかったとはいえ、チームのワーストレコードを塗り替えた不名誉は変わるものではない。11日の弘前での南海戦。6対1としながら、最後のアウトを取るまでナインは「イヤな感じばかりしてた」(島田誠)という。7月7日に勝ったのを最後に、白星を忘れて34日。もし相手が5連敗と元気のない南海でなかったら、と思うとゾッとする連敗脱出劇でもあった。ストッパーとなったのは坂巻だった。6月も8連敗を止めている。1失点の完投勝利は、選手だけの自主ミーティングのおかげだという。10日の練習のとき、キャプテン柏原が「選手集合」の号令をかけた。「何としても勝とう」屈辱の記録を前にして、ようやくナインに盛り上がりがみえた。だが、追い詰められて初めてみせたナインの自覚。もっと早く目覚めれば、こんなにも転落することはなかったと思えるのだが。ある時期は四無主義が、はびこっていた。無気力、無関心、無感動、無抵抗。口では「きょうこそ」といいながら、試合が終わってみれば「明日、明日」の連続。「うまいビールを飲みたい」というものの、負けて苦いはずのビールが、いつしかうまくなっていた。負けグセがしみついた、といっていい。連敗を脱したとはいえ、来季をにらんだ場合、これからが大変である。親分の述懐にも、それは現れていた。「こんなに負けたのは球団にとって初めての経験。なぜ負けるのか、球団も選手も監督、コーチもよく考えるチャンスだった。学んだものは少なくない。これを生かさんといかん」そうそう、しっかり反省してください。

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