プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

祓川正敏

2021-01-16 13:07:18 | 日記

1959年

南海の第二線投手といえ、今シーズン17勝をマークした祓川投手と、こんどの日本シリーズに正式登録された三浦投手は大の仲よし。この二人と、捕手の渡会は、揃って、三十二年春の入団組でプロ三年生だが、おなじ九州出身という郷土愛も手伝って、いたって仲がよい。特に祓川と三浦は投手として第一線に一日も早く立つことをつねに意識してはげんできた。この競走は、祓川が今シーズンの活躍で三浦は先手を打たれた格好だが、早く目をつけられたのは三浦の方だった。三十二年の春二月、折から中モズでキャンプを張っていた合宿に渡会と三人で、学生服に身を固めた坊主頭、石川スカウトに連れられてやってきたのがそもそものはじまり。合宿の応接室でチョコンと座った三人は、堅くるしそうにしていたが、ちょうどそこえ作家の五味康祐氏が現れて、合宿はひとさわぎとなった。だが、この無名の三人は、ただおろおろするばかりだった。ところで、この祓川は野球に熱心なことにかけては人一倍、一方の三浦も、それに劣らぬ野球の虫で、祓川とは好勝負。ただ違っているのは、祓川は記者団の一問一答にも、まだプロずれしないのか、いかにも朴とつな感じを与えるのに対し、三浦の方は完全にわり切った戦後派タイプ。チームの中でも、いい意味での心臓男といわれるほどはっきりしている。いわゆるぼうよう型と、明朗型の取組みだが、お互い友情の強いきずなに結ばれているだけ心強いものがある。

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祓川正敏

2021-01-16 12:56:06 | 日記

1959年
祓川は、シュートを武器とする投手だが、昨年あたりから伸びてきた。いわゆる真っ向からどのチームにもぶつけられるというタフな投手ではないが、中堅的投手としては、働く力を持っている。

 

報道陣にとりかこまれた祓川は、ホッとした表情だった。「連投は覚悟していましたけど別に苦しくはなかったですネ。西鉄がボールを打ってくれたので、ピッチングが助かりました」ひたいを流れる汗がとまらない。十五、六日、お盆シリーズと銘うった西鉄との3連戦に南海が勝ち越せば、いよいよペナントへの希望が濃くなってくるし、西鉄とすれば最後の望みをかけたといっていいシリーズだった。15日の第一戦、南海は祓川を先発させ、西鉄は山野本をマウンドに送ったが、意表とも思える山野本起用はまんまと図に当たり、南海打線はすっかり沈黙。「あんなピッチャーから点とれんで、どうするんや」ベンチにひびくのは鶴岡監督のダミ声だった。この第一戦、南海は0対1とシャット・アウトで敗退した。西鉄にとっては、この調子でつづく2試合をモノにして3タテをカマせたいところだったが、翌16日の21回戦は、予定どおり杉浦が快投をみせ、九分どおり勝負をきめたかにみえた。ところが、ドタン場の九回裏この日の当たり屋花井にタイムリーされて2対2、引き分けにされてしまったのだ。1勝1引分、しかし杉浦で引き分けとは、まさに誤算というほかはなかった。ダブル・ヘッダーの第二試合(第三戦)南海は前日にひきつづいて、またも祓川をマウンドに送った。「いまのウチのピッチング・スタッフで、杉浦のほかに頼れるのは祓川だけや」と鶴岡監督がいっていたが、その期待を裏書きするかのように、前日の疲れもみせず、立ちあがりから快調なピッチングをみせた。ピンチといえば、先取点をあげたあとの四回、二死後から豊田に外角球をうまくあわされた右翼線の二塁打だけ。あとは調子をとりもどした感のある西鉄打線をピタリとおさえこんで、よせつけなかった。八回代打の大下にライナーで2ランをブチ込まれたが、これは、「カウントをととのえようとして、ストレートを投げたのがねらわれた。まさかあの球をたたかれるとは…。きょうはスライダーがよかった」といっていたが、九回大事をとった鶴岡監督の杉浦起用にバトンを渡すまで、5安打の散発におさえたのはみごとだった。しかも前日、先発して7イニング投げていただけに、なおさら目立った。「ボクは、いつも八、九回ごろになると打たれる。スタミナには自信があるから、決して疲れるわけではないが、やはり気のゆるみがでてくるのかもしれない」ともいっていた。祓川は大分商出身で、西鉄の地盤がかたい九州地方にもファンが少なくない。こんどのお盆シリーズにも、三塁側の南海ファンからたくさんの声援がとんでいた。「これで14勝(5敗)ですが、勝星のことは気にしないで、とにかく投げまくりますよ。連投だって、やれといわれれば…」杉浦につづく西鉄キラーとして、今シーズンの祓川のみごとな連投でお盆シリーズをのりきった南海は、また一歩ペナントへ前進した。

 

八月十五、十六両日の平和台における対西鉄戦はまさに死闘だった。西鉄が稲尾を温存して、山野本、畑、若生をそれぞれ先発させれば、南海もまた祓川、杉浦、祓川と一歩もゆるさじと迫った。結果は1勝1敗1分と完全に星を分けてしまったが、第一戦にほとんど完投に近い量を投げていながら、第三戦にこれまた八回を投げて勝利投手になった祓川はまさに西鉄キラーの面目躍如たるものがあった。「西鉄ってべつにこわいとも思わないなあ。疲れているはずなのに、あとの試合の方が投げ易かったくらいだ。ただちょっと八、九回くらいになると自分のピッチングにスキが出て来て打たれるので、それが気にかかる程度です」通称デンスケこと祓川投手は淡々たる表情でこう語るのである。「元来がヌーボーの九州人だけに話をしていてもつかみどころがないが、ピッチングでも一見そうだというのが好投のポイントではないか」と西鉄選手はいっているが、ともかく西鉄キラーという名前ははっきり立証されたわけだ。ところでこの三日あと、杉浦はとんでもない好投をやってのけた。大阪での対東映戦のこと。「はじめっかた調子が良かったので、何とかノーヒットゲームをやってみようと思っていた。五回、二死からはじめて西園寺に打たれたが、やはり大記録というものは容易に作れないものですね」と笑っていた。

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1959年 大毎 退団選手

2021-01-16 11:23:54 | 日記

1959年


シーズン終了とともに、球団内部では、数々の色模様が現れるが、今シーズンかぎりで大毎から去る六選手がこのほど判明した。滝良彦、太田正男、山本格也、新井茂、橋本力の五選手が、まず第一陣。すでに、山本はいすゞ自動車、橋本は浅草の工業会社に就職が決定している。ところで、もう一つ大毎の話題の主も今シーズンかぎりで野球に見切りをつけた。鉢村錦吾投手であるが、三十二年の春の大島キャンプで別当監督に独力で泣きついた挙げ句の果に、それならやってみろというわけで大毎に入団した異色選手であったが、二年間連日連日三度の飯より好きだといわれる野球をやってみたが、けっきょく自分の力がプロではとうていおぼつかないものと知って、このたび、やめることを決心したという。

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竹下光郎

2021-01-16 11:09:05 | 日記

1967年


漫才師秋田Vスケに似ているところから、ビーちゃんの愛称で親しまれている竹下は一昨年末選手契約されず、昨年はバッティング・キャッチャーをつとめていたが、今シーズンからスコアラーをつとめることになった。チーフ・スコアラーは江渡で、竹下はチームの先回りのサブ・スコアラーだが、巨人から近鉄へ移籍、長いキャリアがあるだけに、その肥えた目は陰の力として大いに期待される。「昨年も試合前のバッティング・ピッチャーをつとめたあと、試合がはじまるとスコアラーのお手伝いなんかもしてきただけに、一年生といっても大体要領はわかっています。この仕事はこれからのベースボールでさらに比重が重くなってくると思うので責任重大ですが、小玉野球に少しでもプラスになるように努力したい」といっていた。

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飯田敏光

2021-01-16 09:57:21 | 日記

1974年


外人を除けば日本一のノッポ選手として話題を集めていた大洋の飯田敏光投手(25)=1㍍92、92㌔、右投右打、静岡・清水中出=が、太平洋に移籍してさらに腕をみがくことになった。大洋は十一日、同投手を自由契約にしたが、太平洋の江藤新監督がその重い速球に注目、即座に太平洋入りが決まった。このノッポ君、実はテストで大洋にはいる前、プロレスラーも経験し、大相撲から誘われたこともある変わりダネだ。

 

「もう野球とおさらばだ」とすっかり観念していたところに江藤監督からの誘いがきた。「大洋をクビになったらワシが面倒をみる」-。だからこの日の自由契約の知らせは、むしろ男出発のスタートラインとして飯田は受けとめた。大洋での二シーズンは、一軍どころかイースタンリーグにも登場せずに過ぎてしまった。「もうクビになる」と信じ込んだのも無理はない。が、江藤監督はバッティング練習で毎日投げる飯田の重い球に何度もびっくりしたという。「若い打者がボキボキとバットを折るんだ。投手のことはわからんが、打者の立場からこいつの球は、もしかしたら真剣勝負に使えるんじゃないかと思った」その江藤が太平洋の監督になり、飯田は予想通りにクビの宣告を受け、二人は九州でめぐり合うことになったのだ。「こんなにうれしいことはありません」と飯田は、その長身を折り曲げて江藤監督に最敬礼。「母さん、人間一度は死ぬんだよ。好きなことをやらせてください」と五年間、二十歳の飯田は母親・春江さん(48)に頭をさげ波乱の人生に飛び込んでいった。「中学を出るとき、横綱・若乃花さん(現二子山親方)が相撲をやれ、と誘いにいらっしゃいました。そんな世界に送り出すのがこわくて絶対反対といったんです。でも、成人した敏光にこんどはプロレスラーになるから認めてくれといわれたときは、もう好きなようにしなさい、としかいえませんでした」と春江さん。ジャイアント馬場の門下生になったが、ヒザを痛めてダウン。中学卒業と同時に努めた三島市の会社で草野球のエースだったことから次はプロ野球のテストを受けてまわった。巨人、東映(現日本ハム)西鉄(現太平洋)にふられ四十七年秋、やっと大洋が拾ってくれた。また来年も野球が出来る喜びだけではない。これまでのバッティング投手専門ではなく「出来たら戦力に」と監督が期待する第三の人生だ。「両親にも随分心配をかけたけど、冒険人生もこれがおしまいです。太平洋でダメならサラリーマンに戻ります」とキッパリ。「あれはあれでいいと思いますよ」とニッコリ笑っていうのは、契約金二千五百万円でヤクルト入りが決まった横浜・永川ら金の卵のこと。契約金なし、月給十万円で飯田は再びプロのカベに挑戦していく。

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須崎正明

2021-01-16 09:39:59 | 日記

1966年


サンケイアトムズは九日、岡嶋博治、麻生実男両内野手を自由契約選手に、また、須崎正明外野手はトレード要員にすると発表した。

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小山恒三

2021-01-16 09:32:16 | 日記

1952年


低調の極をゆく松竹には全然精彩がなく攻めては今シーズン初登板の小山(小諸実高、廿歳)の快速球に手がでず、守ってはピカ一小林恒に安定性なく完全に国鉄に押しまくられ七連敗し最下位と決定。国鉄の小山は初登板とはいえスピード豊かなカーブ、ドロップには一応の威力があり、試合度胸も十分で、松竹打者を二安打の散発に抑え込んだ力投は見事だった。この若い投手をバックがよく援護して打線また大いにふるいチャンスは必ずものにするソツのない攻撃をみせた。二回小山のタイムリーでまず優位にたち六回井上親のタイムリーで加点、さらに八回は無死藤田、杉浦の連安打につづく森谷四球で満塁にし井上親と初岡のタイムリーが続いて三点をあげ、完ぷなきまでに小林恒を打ちのめして勝利を握った。

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