プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

奥柿幸雄

2021-01-23 15:47:07 | 日記

1967年


昨秋のこと、アトムズの練習に一日参加した奥柿は、ポツリとこういった。「プロ野球選手になれるのなら、もっと一生懸命、野球の練習をしておけばよかったなあ」奥柿の中学時代の夢は、一日でも早く実社会に出て働くことだった。「野球部のある会社にはいる以外、考えたことがなかった…」だから、静岡商に入学しても、野球はほどほどにしかやらなかった。欲がないという評判にも、こんな背景があった。それでいて、静岡商の三年間、奥柿は野球部の大黒柱だった。キャプテンの重責も果たした。打力は超高校級。せいいっぱいの努力をしたら、どんな怪物に成長していたか、見当もつかない。それがまた、周囲の人に大きな夢をいだかせる。奥柿獲得に走りまわったサンケイ・小山スカウトの見方はこうだ。「ファームでみっちり一年間きたえれば王(巨人)に負けないバッターになる」岡本コーチも「打撃の素質はりっぱなもの。長打を打つコツを身につければ、プロ野球を背負って立つ選手になれる」と、タイコ判を押す。奥柿は無口な男だ。自分から積極的に話をしようとはしない。一日二十四時間だまっていても、苦痛にはならないらしい。「プロ入りが決まってから、なるべく話をするように心がけているんです。ぼくの考えを他人にわかってもらうことは必要ですから‥」みずからをみつめる目は、ちゃんと持っている。末っ子だが、奥柿に甘えん坊なところは、女手ひとつで、奥柿を育てるのに母親こうさんが、どれほど苦労したか、知っているからだ。浜岡中学から静岡商へ進学するときも、考えた。大学進学かプロ入りかでも、奥柿は悩み抜いた。だが、結局は母親にラクをさせたいという望みが、プロ入りにふみ切らせた。「これ以上、オフクロに苦労をかけたくなかった」奥柿は、きっぱりといい切ったものだ。それから日はたった。日一日とプロ生活への実感がわいてくる。そんな奥柿の心中にも変化が生じてきた。「ひとまずひとりで東京に出る。そして、一人前になったらオフクロを呼ぶんだ」その日は果てしない希望に輝く。さらにいま、奥柿はひとつの決意を胸に誓った。「ボクといっしょに、ずい分多くの新人選手がプロにはいった。だが、ボクは絶対にだれにも負けない。一年でも早く、きっとアトムズの中心選手になってみせる。なにしろオフクロを喜ばせたいんだ」静岡県小笠郡浜岡町ー。御前崎に近い奥柿の故郷は、水野オーナーの生まれたところ。サンケイが奥柿の入団交渉権を獲得して以来、獲得に一番力を入れたのが水野オーナーだった。「オラが村から、こんなりっぱな選手が出た」いまでも、水野オーナーは、こういって奥柿を自慢する。

 

 

 

静岡商・本間文雄野球部長の話「シンが強く、実行力のある選手だから競争の激しいプロ野球の世界でも、りっぱにやっていけると思う。昨年夏、甲子園に出場したときに、ふだんより自分の力を発揮できたのも、度胸がいい証拠。高校野球ではホームランをねらう打撃をしていなかったから、中距離打者のようにいわれているが、長打力の素質はじゅうぶんになる。ハデなことのきらいな性格なので花やかなプロ野球の世界になじめば一流選手になることは間違いない」

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永利勇吉

2021-01-23 12:48:51 | 日記

永利は、ろくにものもいわず、メシをかき込んだ。もう五杯目、まったくよく食う男だ。わたしも若いころから食べるほうでは人後に落ちなかった。五十五歳のいまでも、朝食は米のメシがいいし、かるく三杯はお代わりして若手スカウト諸君にちょいちょいひやかされたりする。いや、実のところ、よく食べるくらいでなければ、日本中を走り回るスカウト家業はつとまらないのだ。そのわたしも、永利にはドギモを抜かれた。どこへはいってしまうのか、五杯、六杯のうちはまだよかったが、十杯をこえるころから、料亭の女中がプリプリしはじめた。無理もない。こんな大食漢に出会ったのは女中もはじめてだろう。こっちだって、しまいにはハラハラものだ。わたしのおかずをすすめたり、野球の選手はみんなよく食べるんだと、それとなく女中の耳に入れて、きげんをなおしてもらおうと試みたりした。お代わりは、十八杯でと決まった。永利勇吉君ー、記憶している方もあるかと思う。昭和三十七年、失恋のすえ四十一歳で鉄道自殺をとげた元西鉄捕手の永利君である。立大時代から強肩、打力のパンチもある好捕手で、立大卒業後、ノンプロ別府星野組をへて阪急入りした。昭和二十四年の暮れ、職業野球がセ、パの二リーグに分裂した直後、当時セ会長の故安田庄司さんから依頼をうけて、引き抜き工作に走り回っていたわたしは、宝塚駅に近い料亭「宝蘭」で永利を勧誘、諾否の返事を聞く前に、まず、その食いっぷりに驚かされたのである。永利は、無口な男だった。マスクをかぶり、投手をリードしているときは、むろん声も出し、テキパキと動いたが、ユニホームをぬぐと、とたんにむっつり屋になった。お世辞をいうでもなく、喜怒哀楽をはっきりあらわすでもなく、はたから見ていると、永利のヤツ、なにを楽しみに暮らしているんだろうと人ごとながら気になるほどだった。わたしはこの交渉にかかる前、同じ阪急の速球投手天保義夫を取りそこねたので、永利はぜびものにしたかった。食事が終わり、さっそく勧誘の話し合いにはいったが、無口な永利は、こういう改まった席へ出ると、よけい口が重くなるらしい。こちらがああだこうだと話しかけても、とにかくうつ向いたままだ。話をする。相手がのってくる。じゃ、これでどうだと契約金を示す。こうした勧誘交渉には、すべてタイミングというものがある。ところが、相手がしゃべってくれないことには、タイミングのつかみようがない。おかげで、むっつりうつ向いた男を相手に、わたしは一人芝居を演じているようなかっこうだった。永利に口をかけてから、彼の気持ちがどう変わっていったのか、よくわからなかったが、どうやら、はじめからパイレーツ入りはいやではなかったらしい。間もタイミングも無視したあげく、契約金を示すと、簡単にコックリうなずいた。永利は大食漢だったばかりにいろいろなエピソードを残した。人知れぬ苦労もしたはずである。二十四年といえばまだまだ食糧不足、たらふく食べるにはヤミ米を手に入れるほかなかった時代だ。グラウンドで張り切る前に、まず食事の満足を得るため、永利がどんな苦労したかと思うと、いまでも心が痛む。二十五年、パイレーツの一員となった永利は、かなりの活躍だった。前年、阪急での成績は78試合に出ただけで打率も2割2分9厘と低かったが、二十五年は132試合に出場して打率3割(十四位)、ホームラン21本、打点80、捕手としては堂々たる成績だった。パイレーツはパの西鉄グリッパースと合併、新チーム西鉄ライオンズが生まれるが、この合併のごたごたにつけ込んだかっこうで、二リーグ分裂時を再現するような引き抜き合戦が演じられた。セ・リーグの攻勢は激しく、日比野武捕手、南村不可止内野手(現巨人ヘッドコーチ、南村侑広氏)平井正明遊撃手、関口清治外野手を巨人がねらっていた。やがて永利にも手がのび、わたしは神戸の二つ手前、三ノ宮駅のプラットホームで、セの使者と永利をめぐって力ずくの対決をすることになる。

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菊村徳用

2021-01-23 12:21:19 | 日記

1974年


育英高の左腕菊村徳用投手(18)=178㌢、73㌔=が四日、ロッテと正式契約した。不運にも甲子園の晴れ舞台を踏めなかったため土屋(銚子商)工藤(土浦日大)永川(横浜)定岡(鹿児島実)の高校ビッグ4ほどの知名度はないが、その快速球は早くから超高校級といわれた逸材。あこがれの大投手金田監督の横で、「プロ入りは子供時代からの夢でした」と抱負を語る菊村の顔は上気していた。幻の左腕江夏二世と、うわさされる菊村の前途は洋々だ。

 

菊村が兵庫県下で注目され出したのは、尼崎市の日新中時代。三年のとき、兵庫県中学校大会阪神大会(神戸新聞社後援)で強敵報徳をなんと20奪三振の快投をみせたのだ。県大会出場ことはばまれたが、この快挙でが然日新中に菊村ありと、評判になった。中学生では珍しく大阪、兵庫などの野球名門校から激しいさそいがかかったほど。育英進学は当時の監督、日下隆氏の「君の速球なら、必ず甲子園に出れる!」の熱心な勧誘が実ってきたものだ。甲子園へ・・。だが、菊村の青春の夢をかけた高校生活は不運の一語に尽きた。入学早々の五月、春の兵庫県大会に早くもエースで登場した菊村。打線の援護がなく、初戦の市神港に0-2で敗れたが、その豪快なピッチングは未完の大器と、関係者の話題をさらった。一年夏の全国高校野球選手権兵庫県大会ではベスト16入り。同秋の県大会では四強で争う決勝リーグに進出。「さあ、今年が勝負だ!」一歩一歩近づく甲子園に、菊村がなお一層の闘志をかきたてた二年の春、予想もしなかった事件が待っていた。野球部員の不祥事に科せられた一年間の「対外試合禁止」処分。これは名門育英にとっても、エース菊村にとっても痛恨の出来事。当時の育英は県下でも屈指の大型チームといわれたが、夏の大会では不本意にも幻の優勝候補のまま消えた。それからは教えてくれるコーチもいなく「単調な練習だけで過ごした」つらく、長かった一年。菊村はほぼ手中にしていた二年夏、三年夏と、二度までも甲子園を失った。しかし、この試練に耐えた一年間は菊村だけでなく、育英ナインをも精神面で大きく成長させたのだろう。二年の冬休み、全部員がアルバイトに励み、その収益金をすべて社会福祉事業に寄付する善行が話題を呼んだ。菊村には最後のチャンスとなった今年夏の甲子園。だが、一年間のブランクはあまりにも大きかった。強敵洲本実を相手にした兵庫大会3回戦。菊村は相変わらずの快速球で力投したが、どたん場の九回であきらめきれないサヨナラ負け。「あのスピードは、文句なく一番だ」「いや、江夏の阪神入団時よりも速いさ」プロ野球のスカウト連がささやきあっているとき、菊村が流れ落ちる悔し涙をふこうともせず、ベンチに一人立ちつくしていた姿が印象的だった。その左腕からの速球が、高校球界№1といわれながら、一度も踏むことがなかったヒノキ舞台。夏休み。ライバル土屋、工藤、定岡が甲子園で脚光を浴びている間、菊村は道路工事のアルバイトに励んでいた。炎天下にツルハシを持って穴を掘る仕事。そこにはもう不運な高校生活を悔いる気持ちは消えていた。「足腰を鍛えるんです。将来の野球生活に備えて…」こう話す菊村の表情は、底抜けに明るかった。先のドラフト会議では、まず予想通りのロッテ一位指名。「希望球団はセ・リーグ」といっていた菊村も、尊敬する金田監督の直接勧誘には「ロッテでがんばります」ときっぱり。契約金でもめるビッグ4とは対照的に、「お金は両親にこれまでのお礼としてあげます。僕は裸一貫でやり抜くんです」その心意気もカネやん好みだ。過去、育英からプロ入りした左腕投手は鈴木(近鉄)竹田(中日)と成功している。「甲子園組には絶対負けません」幻の左腕は、来春、全国ファンの前にそのベールを脱ぐ。

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