プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大内貴志

2023-05-09 14:35:48 | 日記
1992年
右のオーバーハンドから140㌔の速球をビシバシ投げ込み、相手打者を軽く料理。相手打者もビックリの快投を開幕から続けているのは巨人の大内貴志投手。この2年間は打撃投手が主で、イースタンの登板はゼロ。雌伏2年、満を持してのデビューだ。ここまで3試合に登板。打者19人に対し、打たれたヒットはわずかに1本という完ぺきな内容で「ストレートで三振の取れるピッチャーを目指す」と大内。一瞬タメをつくって思いっきり腕を振りおろすフォームは桑田二世だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤幸男

2023-05-09 14:31:03 | 日記
1974年
伊藤選手が昨年暮れに選手生活をやめたことから、経済的に苦しくなったのではないか、という憶測も流れた。だが、この夫婦には、まったくそういう事情はない。選手生活のかたわら、従業員が20人以上もいる会社(下着メーカー)を経営してきただけでなく、大阪に貸し家も持っている。お金に困っているわけではないのだ。理由はほかにもあった。彼が、プロゴルファーに転身を決意したのである。「ことしの正月、打ち明けられたときは、ほんとうにびっくりしましたわ」を彼女はいう。野球選手になる前から、彼はゴルファーになりたいという希望をもっていたそうだ。野球関係者のゴルフのコンペがあるとさっそく出場して毎回たくさんの賞品をとってきた。ハンディ9というりっぱな腕前である。だが、それにしてもプロゴルファーへの道はきびしい。日本にはプロゴルファーが約1000人いるが、トーナメント・プロになっても賞金で食べていけるのは100人たらずだ。「ま、ふだんから体をきたえている野球選手は、ふつうの人にくらべればずっと有利ですよ。ジャンボ尾崎などの例もあることだし、彼がゴルフに挑戦してみるのはいいと思う」と、ジプシー後藤氏(ゴルフ評論家)はいうが、野球ではプロだった伊藤選手も、ゴルフでは球拾いの段階からスタートしなければならない。「下着会社の社長さんにおさまっていればいいものを・・・」という彼女の心配も、根拠のないことではないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合田栄蔵

2023-05-09 14:02:26 | 日記
1980年
プロと社会人野球が十二年ぶりに交流を再開。荒川博氏(元毎日ー巨人)らプロ退団者が社会人選手の技術指導を行なった。これは日本社会人野球協会がことしから「プロ経験者を二週間以内、一年に三度以内の範囲でコーチとして受け入れてもよい」との規定を作ったため実現したものである。大阪市のエアロマスターから(元日本熱学)からは、宅和本司氏(元南海ー近鉄)と、合田栄蔵氏(元南海ー阪神)の二人が申請されたが、これも同審査室の許可が出た。宅和氏は三十六年、合田氏は四十六年にプロ野球を退団。その後エアロマスターに勤務している。宅和氏は同社で課長。合田氏は係長の肩書きを持ち、野球選手とは同じ会社に勤務しているわけだが、これで晴れて野球チームの技術指導ができるわけ。エアロマスターのコーチは、三月七日から二週間となっている。これまでは技術指導を受けたくても、またコーチしたくなくてもできなかったのだが、これをきっかけに次々とプロ経験者のコーチ受け入れが実現しそうな気配である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥村武博

2023-05-09 13:41:32 | 日記
1997年
五回裏、県岐阜商は一死満塁。土岐商のエース奥村武博君は、主砲の秋田君と向かい合っている。土岐商のリードは2点。この回も1点入れられ、点差を縮められていた。奥村君はこのとき思っていた。「カーブやスライダーでは県岐阜商打線を抑えられない」ストレートが決まっていた。見せ球の内角高めも、県岐商の強打者たちが詰まらせていた。四回裏、カーブをたたかれる。甘く入った球を秋田君は見逃さず、バックスクリーンに持っていかれた。「カーブを狙っていたと思いますよ。力がない球じゃだめだと思い知りました。まっすぐしかだめだと…」試合後、奥村君はこういっている。奥村君は、一回裏の県岐阜商の攻撃を、三人ともショートゴロに打ち取った。4割を超えるチーム打率。破壊力のある打線を試すつもりでストレートを投げてねじ伏せた。奥村君は187㌢の長身。女房役の柴田君からいわせれば「巨人」奥村君は、腰を柴田君の方に落としながら右腕を振りきる。球が走っているときには、「ビュッ」という摩擦音が聞こえるという。再び五回裏。秋田君との対決の場面で、2-2に追い込んで、スライダーを3球続けて投げた。外角にきわどく曲がるスライダーを、秋田君にことごとくカットされた。この回の秋田君への最後の一球、奥村君はストレートを内角に差し込むように投げた。少し中に入ったが、球威があった。秋田君は動けず、見逃しの三振に終わった。「ビュッ」という音は歓声に消されていた。それだけの大舞台だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下地勝治

2023-05-09 13:30:12 | 日記
1978年
満場の拍手を浴びて、第2試合の五回から、地元出身のルーキー下地が登板。ストライクを取る度に口笛や歓声がわき上がり、三振させたときなど大騒ぎ。温かい故郷の人々の声援で落ち着いたのか、下地は伸び伸び。走者を出しても大きなカーブなどで切り抜け、二回を無失点に抑えた。それでも本人は「あがっていました。カーブはおきにいった感じでぜんぜんだめ」と反省。「これからコントロールと変化球が課題です。チェンジアップも覚えなくてはと話した。しかし「ゼロに抑えたことには満足しています。大きな声援を受けてうれしかった」と、かわいらしい笑顔を見せた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門岡信行

2023-05-09 13:25:04 | 日記
1980年
昭和37年、当事としては超破格の「契約金三千万円」で中日入りした門岡信行投手(37)が、この年の瀬に一家で夜逃げしたのだ。彼、大分・高田高時代は稲尾二世と騒がれたが、プロ入り後はサッパリ。四十五年に退団し、故郷で喫茶店「それから」を開いた。が、これがケチのつけ始め。翌年、妻の紀代子さんがガス自殺。原因は「元モデルだった紀代子さんが、田舎の生活にガマン出来なかった」ことだったという。それでも、まだ彼には野球時代の後援者が付いていた。すぐに再婚。喫茶店も三年前まで続けていたのだが、常連客の一人によれば「喫茶店より儲かるスナックをと、三年前、自分の名前をつけた店を開いてからおかしくなってしまった」スナック開店資金のほとんどがサラ金や高利貸からのもの。借金は雪だるま式にふくれ上り、負債額五千万円。夜逃げを余儀なくされてしまったのだ。門岡には再婚した妻との間に三人の子供がいる。大分にいる両親は必死の思いで息子一家を捜しているというが、その行方は杳として知れない。


門岡投手はさる三十六年、大分県豊後高田市の高田高から中日に入団、その年十勝を挙げ、将来のエースを期待された選手だった。しかし、肩の故障のため四十五年退団、郷里の豊後高田市に戻り、市内の目抜き通りで喫茶店「門岡」を開き、水商売に転身した。翌年八月、子供に恵まれないのを苦にした妻・紀代子さんがガス自殺する不幸があったが、事業のほうは順調で、間もなく、近くの飲み屋通りにスナック「門岡」も経営するようになった。私生活のほうでも再婚。三人の子供に恵まれるなど、一見安定した生活ぶりだった。同業者の話でも「スナックは月に三、四百万円の売り上げがあり、かなり繁盛していた」というが、開店時の借金が四千万円もあり、また派手な生活を支えるために高利の市中金融を借りまくったため、千月下旬不渡りを出し事実上倒産、その後数日のうちに、妻子ともども姿を消してしまった。豊後高田市智恩寺に住んでいる父親醇さんはこういっている。「十月九日に会っただけですが、カネに困っている様子はなかった。もともと仕事のことは話したことがないんです。子供まで連れてどこへ行ってしまったのか・・・」醇さんのところにも取り立て業者が、連日訪れているという。借財は五千万円とも一億円ともいわれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大島敏夫

2023-05-09 08:54:03 | 日記
1963年
県下随一の好投手。174㌢、75㌔と体力に恵まれており、オーバーハンドから繰り出す外角低めに沈むシュート、内外角に決まるカーブが得意。県大会での5試合を通じて自責点はわずかに2点。春の大会には制球力に欠ける難点をみせ、たびたびピンチを招いていたが、県大会中の合宿で徹底的に投げこんだ自信をみせてきた。打線がいいだけに「大島が持っている力をじゅうぶん発揮してくれれば…」と菅田監督の期待は大きい。一年生から投げはじめ、二年生の後半から主戦投手となった。二塁守備のうまさにも定評があるが打撃はあまり期待できない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米川清二

2023-05-09 08:38:30 | 日記
1957年
二日正午から二時間、西宮市の大阪ガスグラウンドで最後の仕上げを行ったが、エース米川投手は心配された背中の筋ちがいも九分通り回復、近畿大会出場当事にもまさるスピードのシュートボールを内外角に決めドロップ、カーブもキレイに決めていた。


1958年


地元新宮高中退の米川が阪神の先発に起用されたが1㍍85(六尺一寸)の上背を生かした本格的なオーバー・ハンドの快速球はかなりの球威を見せた。三回安打をはさむ2四球で二死満塁と追込まれたのはまだ力の配分を知らないせい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする