1960年
「これがぼくの契約金ですか。冗談じゃない。ぼくの力はぼくがいちばん知ってます。これではやれませんから帰らしてもらいます」三十二年の秋、すすんで大毎のテストを受けて合格しながら、契約金が安いといって郷里に帰ってしまったという話がある。どこまでがほんとうかしらないが、ウソではないらしい。大変自尊心の強い、右か左かはっきりわりきらないと気のすまない、それでいて辛抱つよいところのある柳田の、まるで作りあげたようなエピソードである。福島県湯本市に、常盤炭鉱を定年でやめた利吉さんの四男として彼は生まれた。兄三人もすべて炭鉱づとめ。彼もまた見習工として働くかたわら内郷高に通っていた。野球を覚えたというより、社内で盛んなスポーツといえば野球しかなく、その唯一の娯楽をたのしんでいたといったほうがいい。この常盤炭鉱チームには小野(大毎)がいて、小野は清峯伸銅にひっぱられ、そこに半年ほどいて大毎に入った。常盤炭鉱というのは、大毎とまんざら縁のないところではなかったわけである。プロ入りした柳田は、プロに入ったことで周囲に気押されることもなかった。むしろその荒っぽい気性は、実力本位のこの世界の空気にふれて、さらに鋭くとぎすまされていったようである。まもなく認められて一軍へ上がったが、シーズン半ばでふたたび二軍へ帰るように別当にいい渡された。紳士別当と異名をとった前監督別当薫には、ただいたずらに向こう気の強い、荒さだけの目立つ柳田は肌に合わなかったのかもしれない。別当がそのまま大毎に居座ったら、あるいは柳田の人生は変わった絵をかいただろう。柳田を買っていた二軍西本監督が別当に代わったことで、柳田の環境は一変した。西本新監督のもとでキャンプに参加した柳田が、人知れず一軍昇格を夢みて練習にはげんだのはうなずけることだった。もともと器用なタイプではなく、ダッシュのきかない足で守備はいいほうではなかった。守備がダメでも打てたらいいんだろうと、柳田は一流のわり切りようで、キャンプでは打つことに専念した。柳田のライバルは八田である。守備なら文句なく八田が上であり、打撃も悪くはなかった。西本がシーズン・インにさいして、どっちを遊撃にするか迷ったのは、それぞれに特色がありながら決定的な印象を二人とももたぬことであった。西本が柳田にきめたのは、同じようなものなら、気性のはげしい馬力のある柳田をすえようと思ったのは、その柳田のもつはげしさが、いままでのオリオンズになかったからだった。手首をきかせたキャンプでの長打も、西本の決定に一役買った。評論家小西得郎は「キャンプと公式戦でこれほどちがいをみせた選手はみたことがない」といったが、「この男はきっと一線で打つ。ひょっとすると三番のダーク・ホースだ」といった人である。前に大毎にいた佐々木信也である。ある日、映画をみて帰った友人が、たまたま殺し屋の竜という映画の題名から、角ばった、目つきのよくない柳田の顔をみてふと思いつき。殺し屋のリュウと呼んだ。柳田の一字にかかっているこの呼び名が、案外ぴったりしているのだろう。柳田の周囲で二、三度このニック・ネームが口にされたとき、それを伝えきいた新聞記者が紹介した。この殺し屋は、文字どおり五球団のエースたちに必殺の打棒を加え、一躍ジャーナリズムの筆にかかる存在となった。