プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

名取和彦

2023-05-27 11:21:56 | 日記
1980年
甲府商ー明大ー日産自動車とずっと投手。その素質は明大時代から高い評価を受けていたが、本領を発揮し始めたのはノンプロ4年目の昨年から。「技術もだけど精神的にやっと投球がわかってきた。納得してのプロ入りだから年齢は気にしてません」武器は何といっても1・83メートル(78キロ)の長身から投げおろす重い速球。あとは大きく割れるカーブとシュートが持ち球。本人の見込みは「プロで生きるには落ちる球が必要。社会人時代に練習したことのあるフォークを何とかマスターしたい」ちゃんとわかっているようだ。

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柳田利夫

2023-05-27 10:48:00 | 日記
1960年
「これがぼくの契約金ですか。冗談じゃない。ぼくの力はぼくがいちばん知ってます。これではやれませんから帰らしてもらいます」三十二年の秋、すすんで大毎のテストを受けて合格しながら、契約金が安いといって郷里に帰ってしまったという話がある。どこまでがほんとうかしらないが、ウソではないらしい。大変自尊心の強い、右か左かはっきりわりきらないと気のすまない、それでいて辛抱つよいところのある柳田の、まるで作りあげたようなエピソードである。福島県湯本市に、常盤炭鉱を定年でやめた利吉さんの四男として彼は生まれた。兄三人もすべて炭鉱づとめ。彼もまた見習工として働くかたわら内郷高に通っていた。野球を覚えたというより、社内で盛んなスポーツといえば野球しかなく、その唯一の娯楽をたのしんでいたといったほうがいい。この常盤炭鉱チームには小野(大毎)がいて、小野は清峯伸銅にひっぱられ、そこに半年ほどいて大毎に入った。常盤炭鉱というのは、大毎とまんざら縁のないところではなかったわけである。プロ入りした柳田は、プロに入ったことで周囲に気押されることもなかった。むしろその荒っぽい気性は、実力本位のこの世界の空気にふれて、さらに鋭くとぎすまされていったようである。まもなく認められて一軍へ上がったが、シーズン半ばでふたたび二軍へ帰るように別当にいい渡された。紳士別当と異名をとった前監督別当薫には、ただいたずらに向こう気の強い、荒さだけの目立つ柳田は肌に合わなかったのかもしれない。別当がそのまま大毎に居座ったら、あるいは柳田の人生は変わった絵をかいただろう。柳田を買っていた二軍西本監督が別当に代わったことで、柳田の環境は一変した。西本新監督のもとでキャンプに参加した柳田が、人知れず一軍昇格を夢みて練習にはげんだのはうなずけることだった。もともと器用なタイプではなく、ダッシュのきかない足で守備はいいほうではなかった。守備がダメでも打てたらいいんだろうと、柳田は一流のわり切りようで、キャンプでは打つことに専念した。柳田のライバルは八田である。守備なら文句なく八田が上であり、打撃も悪くはなかった。西本がシーズン・インにさいして、どっちを遊撃にするか迷ったのは、それぞれに特色がありながら決定的な印象を二人とももたぬことであった。西本が柳田にきめたのは、同じようなものなら、気性のはげしい馬力のある柳田をすえようと思ったのは、その柳田のもつはげしさが、いままでのオリオンズになかったからだった。手首をきかせたキャンプでの長打も、西本の決定に一役買った。評論家小西得郎は「キャンプと公式戦でこれほどちがいをみせた選手はみたことがない」といったが、「この男はきっと一線で打つ。ひょっとすると三番のダーク・ホースだ」といった人である。前に大毎にいた佐々木信也である。ある日、映画をみて帰った友人が、たまたま殺し屋の竜という映画の題名から、角ばった、目つきのよくない柳田の顔をみてふと思いつき。殺し屋のリュウと呼んだ。柳田の一字にかかっているこの呼び名が、案外ぴったりしているのだろう。柳田の周囲で二、三度このニック・ネームが口にされたとき、それを伝えきいた新聞記者が紹介した。この殺し屋は、文字どおり五球団のエースたちに必殺の打棒を加え、一躍ジャーナリズムの筆にかかる存在となった。

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1970年プロ野球引退後

2023-05-27 10:12:05 | 日記
1970年
・アトムズから西鉄に移籍されたオカボンこと岡本凱孝が、立大時代の友人が専務をやっている大阪のある鉄鋼会社に庶務課長として迎えられ、相変わらず威勢のよいところを見せている。


・西鉄の鈴木五郎(プロ七年生、仙台工・宮城県出身、二十七歳)は、故郷・仙台に帰って家業のクリーニング屋を手伝うはずだったが、夫人が福岡で高校の音楽教師をしていて、仙台へ行けないこともあって、福岡市内のある工務店に平社員として入社した。そこでは「野球をやめた場合を考えて…」と、取っておいた運転免許が役に立っているそうだ。


・十人あまりの選手がやめさせられたヤクルトでは、「就職についてはいつでも相談にのる」と温情のあるところをみせていたが、その相談に乗ってもらえたのが、倉島今朝徳捕手。赤井喜代治外野手、無従史朗外野手。全国的な販売組織を持っている親会社ヤクルトが控えているからには、外部に就職口を求める必要はない。倉島と赤井はヤクルト本社の総務課に入って七万円の月給。年二回の賞与を入れると選手時代の九万円とそう変わりない。無徒は、故郷の大阪のヤクルトへ…。もう一人、上地英満という選手名簿に載らない選手が沖縄ヤクルトへ派遣された。


・南海の田坂正明内野手は選手から用具係へ転向を命じられたが、昨年暮に広瀬選手の仲人で結婚したばかりのところへ、この転機命令はショックだったようで「ユニホームを着られないのなら、新しい職業で…」と、鶴岡元監督の口ききで早川電気に入社した。


・中日の神原隆彦捕手(プロ十年目、愛知学院大、広島県出身、三十二歳)は、名古屋の愛知学院大から西鉄入り、その後中日に移籍しただけに、地元で知人も多く、新たに名古屋市内で喫茶店をはじめた。経営者兼マスター。


・若くて経営者になるのに西鉄に一年間いた中村益章(プロ一年、川内実業、鹿児島県出身)という無名の選手がいる。この中村は昨シーズン西鉄入りした右腕投手で、球団ではクビにするつもりはなかったのだが、鹿児島県川内市で旅館を経営中の父親が病気になったためせっかく二年目の成長を期待されながら自分から退団を申し出て、親父にかわって客商売に精を出す。


・西鉄の柏熊克美投手、同じく羽里功投手が、それぞれ故郷の実家に帰って家業を継ぐことになった。


・同一球団での職場転換では、広島の山本真一内野手がスコアラーに、またロッテの堀田芳信投手が二軍のマネジャーになっている。


他球団の選手として拾われたのには、西鉄の藤本和宏投手がいる。藤本は福岡市内でバーを経営する予定だったが、野球への未練が捨て切れず、広島カープのテストを受けて、合格したものである。


近鉄から西鉄に移った徳久利明は、視力減退がもとで、あたら新人王も十年の寿命を保つことが出来ず、西鉄でも再起せず退団した。彼の新しい人生は、知人の紹介で、住み慣れた大阪で、創価学会の職員になった…、と伝えられているが、その詳しいことは本人の希望で明らかにできない。

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浜浦徹

2023-05-27 09:42:18 | 日記
1978年
浜浦の変身ぶりに目を見張った。三回まできれいに三人ずつ料理していった。パーフェクトピッチングのすばらしいスタートだ。7回3分の2で永射にバトンを渡し、完投こそ逸したが、五十一年七月三十日の後期、対南海一回戦以来、二年越しでうれしい白星を飾った。変化球にコントロールがついた。カーブ、スライダーで、カウントをかせげるようになったのは強みだ。当然、安定感が出てきた。投の一角をまかされるだけの力をつけたとみていいだろう。長いトンネルを抜け出した本人は「ホッとした」と白い歯をのぞかせた。毎年大きな期待をかけられながら裏切ってきた浜浦。自分自身にもどかしさを感じ、苦しみぬいていたときの勝利だけに、この味は格別だ。この日浜浦は、朝食をすませると「スッキリしよう」と思い、宿舎近くの散髪屋へ行ってきた。サッパリしてのマウンド。力んで一人相撲をとる昨年までの姿はまったく見られなかった。冷静なピッチングは「余分なことを考えずキャンプでやってきたものだけを出すことを心がけて投げた」からである。つまり、キャンプではフォーム固めに専念した。そのフォームで打者と対することだけを考えていたのだ。浜浦がベンチへ帰ると、根本監督が1イニングごとにアドバイスをしていたが、これも「状況判断するのもいいが、お前の持ち場は、いかに正確に投げるかにあるんだ。打者に投げるのが先決だ」と、同監督は口をすっぱくして言い続けた。「フォームが安定したので、コントロールがよくなった。力まなくなったのもフォームが固まったからだ。八回は、結果を考えてしまった。だからスピードの落ちたところを打たれた。でも、ある程度投げられる自信はついた」投手が苦しんでいるときの一番いい薬は白星である。波に乗るきっかけをつかんだ浜浦に期待したい。

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水沢薫

2023-05-27 09:31:55 | 日記
1988年
ルーキーだった昨年度、イースタンで最優秀救援投手賞(8セーブポイント)に輝いた。武器は大きく割れるカーブと胸もとを鋭くえぐるシュート。「特にシュートは絶品。あれだけのシュートを投げられるのは、西本以来じゃないか」とは、2軍の首脳陣の声だ。

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木下智裕

2023-05-27 09:29:34 | 日記
1986年
東海大からドラフト1位で阪急入り。58年には9勝4敗1Sと活躍したが昨年、阪急を自由契約になった。巨人のテストを受け採用決定。左腕から繰り出すシンカーなど変化球が武器で、上手から横手からと変幻投法も特徴。中継ぎとして期待大。


1988年


第二の人生(知人と会社経営予定。) 61年阪急から移籍。今季は一軍出場なし。


ちょっと肩をこわして調子を落とすとヤジ・罵声、それがつらかった。これからは実業家として大成したい。

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フレッド

2023-05-27 09:24:03 | 日記
1978年
中日の助っ人・フレッド投手が二日のゲーム前に初練習した。稲尾・中山両コーチの見守る中でブルペンで約50球。時差ボケ、寒さなどで周囲は「大丈夫かな?」と心配していたが、左腕から速球、カーブ、スライダー、フォーク、チェンジアップと持ち球をすべて披露した。フォームもスリークォーター、上手、サイドと投げ分け、クセ者ぶりの片リンをチラリ。投げ終わったフレッドは「先週の日曜日にハワイで9回を投げたので、一週間くらいでベストになる。得意球は速球。もう少し速くなる。日本の野球は微妙なコントロールが必要だと聞くが、自信はある」と胸を張る。また、ハワイに比べて寒い日本の気候については「ソルトレークシチー(ユタ州)はもっと寒かったので平気」と言った。稲尾コーチは「米国でいう二番手投手タイプ。来たばかりで、あの程度では評価ははっきり出せないが、最初はリリーフだろう。コントロールはよさそうだね」一週間ほど名古屋で練習させてから、一軍登録するか決める予定だ。

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猪爪義治

2023-05-27 09:16:01 | 日記
1999年


サイドハンドからMAX143㌔の直球とフォーク、スライダーが武器。「内角をガンガン突くピッチングが身上です」

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大内貴志

2023-05-27 09:08:19 | 日記
1990年
層の厚さでは球界№1の巨人の投手陣にあって、将来の楽しみなルーキーは、東海大四高からドラフト外で入団した大内貴志投手だ。今年の新人の中では、地肩の強さは一番。プロの体力をつけて、3年後、一軍入りを狙う。北国、北海道の出身。東京の暑さには「一度、練習中に日射病になった」ほど。球種は真っすぐの他にカーブ、スライダー、シュート。しかし、どれも今一歩だ。「球もそんなに速いほうじゃないし、三振を取れるタイプでもないので、とにかく低めをコントロールよくつけるように気をつけます。目標とするピッチャーは桑田さん。球のキレとコントロールで勝負して、知らないうちに試合が終わっているようなピッチャーになりたい」甲子園(高校3年生のとき、センバツで出場)では、体調を崩してしまい、1回戦で敗退。「あんまりいい思い出がないので、プロでいい思い出をたくさん作りたい」という。

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千原淳弘

2023-05-27 09:01:06 | 日記
1992年
8月16日の対大洋戦、0対6と大きく点差の開いた4回に千原の出番が回ってきた。「緊張しっぱなし」の初登板は3回を投げて被安打3、自責点2の結果ながら、光る野球センスは首脳陣の目を引いた。「フィールディングではショートスローできるし、スナップもきく、フットワークもいい。ピッチングの組み立て、コントロールもまずまず、全体的にバランスがとれているよ」と和田博実二軍監督も目を細める。小学校3年生の時に少年野球チームに入り、投手は6年生から。高校時代は県大会3回戦進出が最高だが、3年生の春、練習試合ながら強豪・明徳義塾を1安打完封したことで一躍分校のエースとして注目を集めた。自分自身のピッチングを「コーナーを丁寧について、緩急をつけた攻め方が持ち味。球種はカーブ、シュート、スライダー、高校では通じても、ストレートで押すのはプロでは無理です。打者へは、向かって行くより、だましていくタイプです」と評するが、「変化球でかわるようなことをせず、若いのだから、勢いのあるストレートをほおれるような力をつけてほしい」(和田監督)と、高校の先輩、垣内哲也外野手のように、ダイナミックに育つことを期待されている。

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佐藤貞治

2023-05-27 08:51:45 | 日記
1990年
佐藤は左腕本格派。フォームはしなやかで安定しており、制球力がいい。迫力はそれほど感じさせないが、速球は見た目よりずっと伸びがあり、相手打者を振り遅れさせる。左腕独特の大きなカーブやシュートを交えて投球を組み立てて、「ここぞ」という場面ではパームボールが決め球。フォーク以上に落差があり、「思った所に投げられるし、打たれたことはない」と佐藤自身も自負している。新チームでの防御率は0.95と安定。昨秋の九州大会3試合は1人でマウンドを守り、自信をつけた。


本格的にピッチングに取り組んだのは、昨年新チームになってから。中学時代も投手は救援を務めた程度で、高校入学後はむしろ打力を買われて、一塁手のポジションを獲得していた。ところが、投手に起用してみると、予想以上の力を発揮し、昨秋の九州大会では3試合を1人で投げ抜くエースに成長。朝倉監督に「佐藤のおかげで4強に入れた」といわせた。短期間で整ったフォームを身につけ、自己流でパームボールを覚えたことからもわかるように野球センスは抜群。ピンチで顔色を変えない度胸のよさもある。

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山田直政

2023-05-27 08:44:35 | 日記
1967年
左腕山田は今大会屈指の速球投手。1㍍76、73㌔の体格にも恵まれ、落差の大きいカーブと真っすぐ落ちるドロップを織りまぜた投球は強打チームでも二点を奪うのが精いっぱいだろう。昨秋から140イニング投げ自責点22。174三振を奪っている。難点は牛耳ろうという意識が強いため冷静さを欠くピッチングとなり制球が乱れる。

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