1991年
伴は、ほとんど知られていない存在だった。中央球界では全くの無名。福岡県の筑陽学園ではなんと4番手ピッチャーだったというから、よく渡辺省三・九州地区担当スカウトの目にとまったものだ。当時のエースは、近鉄にドラフト外入団した野口理夫投手。伴は野口の陰にかくれ、背番号「12」だった。そんな控え投手が、わずか1年で見違える成長を示した。昨秋のドラフト6位。2月の春季キャンプではまともにキャッチボールもできない状態。大町定夫二軍マネジャーも「近い距離でキャッチボールの相手をしたことがあるけど、胸に返って来るボールはなかった。あっちへこっちへ暴投みたいな球ばかりだったね」と苦笑した。預けられた上田次朗育成コーチも、途方に暮れた。そんなハシにも棒にもかからないような投手が、急速な進歩。9月18日から参加した米国フロリダ州で行われた教育リーグで好投したのだ。今季、ウエスタン・リーグの登板はない。米教育リーグが実戦初登板であった。「ウエスタンでなかなか使えない投手でも、教育リーグでは使ってみようかという気になる。いろんな投手にチャンスを与えられるということからも意義があった」と石井晶コーチ(二軍監督)は、米教育リーグだからこそ、伴を起用してみた。すると6試合で2勝1敗。18回1/3を投げて被安打13、奪三振18、与四球4、失点4、自責点2、防御率は0.98だった。「ストレートの切れがいいし、抜けたカーブはチェンジアップの効果もある」と石井コーチから一躍、注目を浴びた。安芸キャンプの紅白戦でも1回イニングを投げた。3者凡退に仕留め、中村監督も称賛。「ウチにいないタイプ。面白い存在」と伴にスポットライトを当てる。
伴は、ほとんど知られていない存在だった。中央球界では全くの無名。福岡県の筑陽学園ではなんと4番手ピッチャーだったというから、よく渡辺省三・九州地区担当スカウトの目にとまったものだ。当時のエースは、近鉄にドラフト外入団した野口理夫投手。伴は野口の陰にかくれ、背番号「12」だった。そんな控え投手が、わずか1年で見違える成長を示した。昨秋のドラフト6位。2月の春季キャンプではまともにキャッチボールもできない状態。大町定夫二軍マネジャーも「近い距離でキャッチボールの相手をしたことがあるけど、胸に返って来るボールはなかった。あっちへこっちへ暴投みたいな球ばかりだったね」と苦笑した。預けられた上田次朗育成コーチも、途方に暮れた。そんなハシにも棒にもかからないような投手が、急速な進歩。9月18日から参加した米国フロリダ州で行われた教育リーグで好投したのだ。今季、ウエスタン・リーグの登板はない。米教育リーグが実戦初登板であった。「ウエスタンでなかなか使えない投手でも、教育リーグでは使ってみようかという気になる。いろんな投手にチャンスを与えられるということからも意義があった」と石井晶コーチ(二軍監督)は、米教育リーグだからこそ、伴を起用してみた。すると6試合で2勝1敗。18回1/3を投げて被安打13、奪三振18、与四球4、失点4、自責点2、防御率は0.98だった。「ストレートの切れがいいし、抜けたカーブはチェンジアップの効果もある」と石井コーチから一躍、注目を浴びた。安芸キャンプの紅白戦でも1回イニングを投げた。3者凡退に仕留め、中村監督も称賛。「ウチにいないタイプ。面白い存在」と伴にスポットライトを当てる。