プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井原慎一朗

2023-05-21 22:33:05 | 日記
1974年
「よかったな。おめでとう」のナインの祝福に、「いやあ、まだ自分でも信じられないんです」と、井原が目をパチクリさせていた。井原といえば、ファームのエース。今シーズンもイースタンで5勝3敗、防御率1.36という堂々たる成績をあげている。しかし、一軍の壁は厚く、入団五年目でやっと1勝。ことしもまだ一軍で二度しか一軍のマウンドに登板していなかった。その井原が、二十年ぶりの優勝を目前にして乗りまくっている中日を相手に、九日の神宮球場ですばらしいピッチングを披露。4イニングを1安打に抑えて、とうとう今シーズン初白星をあげてしまった。「きょうは、スライダーがよかったです。それにしても、きょうの中日はおかしかったですよ。ボールには手を出してくれるし、どまん中の絶好球は見逃してくれる、ボクが勝ったんじゃなく、向こう(中日)に勝たしてもらったようなものなんですよ」それにしても井原は、うれしそうにウイニングボールを握りしめていた。

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大石滋昭

2023-05-21 13:49:09 | 日記
1985年
近鉄を退団した大石滋昭内野手(20才)、やっと成人式の若さだが、野球一筋にやってきた若者にとって、やはり再就職の道は厳しいようだ。朝早くから夜遅くまで、アルバイトで忙しい本人に代わって、兄・直昭氏は、「退団後、昨年の年末まで警備員をしていましたが、最近は知人の植木屋の仕事を手伝っています。しかし、いつまでもアルバイトでは仕方がないし、この3月からは不動産会社に入って、人生の再出発をする予定です。自分が本当にやりたい仕事が何なのか、これは本人に聞いてみなければわかりませんが、弟のことですから頑張ってくれることと思います」

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山川喜作・手塚明治

2023-05-21 11:51:15 | 日記
1959年
巨人の三塁手だった山川喜作はプリンス自動車の販売課長におさまっている。広い顔を利用して販売の実績をあげ、高くその手腕を買われている。面白いのは大量のプリンス特製(?)フン尿車を売り込んだせいか、このフン尿車が走っているのを見かけると山川さんが走っているといわれるほどになっていることだ。


カメラ・ブームに乗って成功しているのは巨人ー大洋にいた三塁手の手塚明治。東京銀座でカメラ店の重役におさまっているほかに、下丸子にレンズ工場をもち、レンズ製作で大いに当て、現在は増築増築とうれしい悲鳴をあげている。

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矢ノ浦国満

2023-05-21 11:15:41 | 日記
1968年
満州の大連に生まれ、わずか四歳のとき、日本へ引き揚げてきた。だから生まれ故郷を覚えていない。両親が落ちついた先は福岡県遠賀郡水巻町、矢ノ浦はここで育ち、その風土の影響を強く受けた。水巻町は日炭高松の町であった。矢ノ浦が住んでいる実家から三百メートルも離れていないところに、ノンプロの日炭高松の合宿があった。そこにいまや押しも押されもしない巨人の遊撃手黒江の青春があった。「どういうきっかけで知り合ったのか、いまでは、はっきりしないが、よく黒江さんから内野手の心得を手ほどきしてもらったものです」東筑高二年のころである。それから十年、かつての師弟がひとつのポジションをめぐって争いを繰り広げる。奇しき因縁というべきだろう。近鉄の監督は千葉茂氏であった。「もやしのように、ひょろっとした選手だったが、カンのよさは抜群だった。それだけ練習をしていたよ。しかし性格はどちらかというと親分肌、それにちょっと淡白すぎるきらいもあった」入団の年の三十五年のシーズン、プロ一年生で、いきなり百十試合に出場、二割五分六厘の打率をマークした。新人王のタイトルも近いといわれたが、いま一歩が不足し、ついにこの年のパ・リーグは該当者なしに終わったのだった。「昼は藤井寺の二軍練習場で練習したり、ウエスタンリーグに出場、夜は日生や大阪球場へ駆けつけたものだよ。あのころはほんとに夢中だった。いつも合宿で夜のバットスイングもやっていた」だが、矢ノ浦はしだいに初心を忘れていった。ノンプロの優勝チームと試合をやっても負けるのではないかといわれた弱小チーム近鉄の環境になじんだのも影響した。しかし、こうしたなんの抵抗も、苦労も経ぬまま、いつしか矢ノ浦は、近鉄のお山の大将となっていった。プロ二年目を迎えたころの矢ノ浦は、参加報酬はいきなり倍増して、月収十四万円となった。「大阪のミナミを肩で馬を切って歩いたものですよ。ビール一杯で顔が赤くなり、一本がリミットなんだが、バーやキャバレーの雰囲気が好きだったんですよね。よく馬鹿遊びしたものですよ」独身で生活に苦悩することもない。それに大阪女に惚れられることもしばしばだった。「月給を手にしたら、その足でミナミに飛んでいった。そしてきれいさっぱり使い果たすと、つぎの給料日まで合宿に閉じこもる。そんな生活の繰り返しだった」サラリーの範囲内で遊んでいたまではよかった。それがついつい、フトコロが寂しくなると球団に給料の前借を申し込む。それが積もり積もって、いつしか八百万円にものぼった。そして矢ノ浦は借金王となったのである。近鉄から移籍のさい、矢ノ浦の借金はそのまま産経が肩替りした。だがその借金は半額の四百万は球団が負担する取り決めになっていた。「保証人も三人いた。産経に関係した人もいるんだ。しかしそれも一礼とっていなかったためそんな約束をした覚えがないと突っ放された。昨年の暮、突然移籍要員に指名されたけど、それもこれも借金がからんだためだ」かくて、矢ノ浦は巨人のユニホームを着ることになった。そして十年前の師・黒江と遊撃のポジションをめぐって、静かな対決をするのも、これまた野球人生なのだ。「よそのチームから巨人へはいった人は多い。だが埋もれたまま消えていったものも多い。それらの人たちは、よそのチームでレギュラーでありながら、巨人では控えであるという欲求不満にスポイルされていったからだ。ベンチにいるときも、いつゲームに出されてもいい体調の配分を考えておかなかったからだ。ぼくはそんな前者の誤りを繰り返したくない」矢ノ浦は人が変わった。近鉄、産経の矢ノ浦を想像してはいけない。自分の才能に溺れ、いつしか練習嫌いといわれてきたのだが、多摩川、台湾、そして宮崎でトレーニングを積んだ矢ノ浦の生活態度は、首脳陣の目をみはらせた。「練習嫌いなんて、ウソだったんだろう」白石ヘッドコーチも、矢ノ浦の真剣な練習ぶりに目をみはった。東京・南麻布の矢ノ浦宅。やっと二歳になったばかりの長男聖君が寝入ったころ、矢ノ浦の素振りが始まる。結婚以来かつてなかったことである。「ことしの主人は、人が変わったみたい。バットを持ち出して練習するなんて。この前も雨が降るんじゃないと冷やかしたんだけど、あれだけ野球に命をかけているなら、もし失敗しても悔いは残らないでしょう。うんと頑張ってもらい、どんどん稼いでほしい」天才に努力がプラスしたら、もう鬼に金棒。黒江とも正面から挑戦していくだろう。矢ノ浦は黒江といういい先輩を得て幸いというべきだ。「努力すればそれだけ給料がもふえる。働く楽しみ、巨人がそれを教えてくれた。目覚めたといってもいい」球界の借金王であり、放浪息子だった矢ノ浦。心構えも違ってきたというが、巨人ではどんな活躍を示すだろうか。

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奥村武博

2023-05-21 10:37:16 | 日記
1997年


阪神から6位で指名を受けた土岐商高の右腕奥村は「幼いころからの夢だったのでうれしい」と晴れやかな表情。すでに内定しているJR東海との兼ね合いもあるのか、「周りの人と相談したい。でも気持ちは前向きです」とプロ行きをほのめかした。奥村は今夏の甲子園を逃したが、188センチの長身から繰り出す直球と角度のあるカーブを武器に県大会準優勝の原動力となった。九月にJR東海から内定をもらい、その後、阪神から調査書が届いて心が揺れたという。

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