プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

前田勝宏

2023-05-16 14:57:32 | 日記
1989年


主戦の前田は186センチから投げ下ろす直球に威力があり、カーブの切れもいい。


主戦前田は1試合ごとに調子を上げてきた。186㌢の長身から投げ下ろす直球に威力があり、カーブ、スライダー、ナックルなど球種も豊富だ。


この日の前田は、立ち上がりの制球が悪かった。1回は二塁打を打たれたが、三失点で切り抜けた二回、初球の内角シュートが外れ・・・。


1993年


「きょうあかんかったらファームでしたからね」一軍生き残りをかけ五度目のマウンドを踏んだ西武の新ストッパー候補、前田は得意の快速球がさえ、ほっと一息、これまで四球で自滅するケースが多かったが、この日はストライクが先行し、最高146キロをマークした。重い速球とフォークで抑え込んだ。


1996年


米大リーグのマウンドを目指し、ヤンキースの2Aノーウィッチで経験を積んでいる元西武の前田勝宏投手(25)は28日、ハードフェアシティ戦に先発し、1安打に抑えて初の完封を飾った。ジム・エミアン監督は素質を高く評価する。「彼はよくやっている。いい速球を持っているし、カーブ、チェンジアップもある。経験を積めば、1年半くらいでヤンキースに上がるだろう」早ければ来年にはヤンキース・マエダが見られるかもしれない。




1997年


昨年の米大リーグのチャンピオン、ヤンキースのバッテリー陣が14日、キャンプ地んも当地に集結。元西武の前田勝宏投手(25)は早くも投球練習するなど大リーグ昇格に向けてアピールした。いきなり捕手を座らせ速球、チェンジアップなどを約50球。




2002年


米大リーグ・ヤンキースの帽子をかぶって参加した前田勝宏投手(31)も帰国組。93年に西武入団後、96年から4年間、米マイナーリーグに所属。昨年帰国し、中日に入ったが、1年で退団。今年は台湾に渡ったものの、7月に自由契約となった。以前は150キロを超す速球が持ち味だったが、この日はスライダーでカウントを稼ぐ投球術も披露。「今後もテストしてくれるならばどこへでも行く。まだ、やれる感触はある」と意欲は衰えていない。


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妻島芳郎

2023-05-16 10:17:50 | 日記
1988年
軟式球界に登録ずみのプロ野球選手の中には、投手でもあり打者でもあり、三原監督時代は「二刀流選手」と騒がれ、打っては首位打者にもなった永淵洋三さん(近鉄ー日本ハム)、ノーヒット・ノーラン投手・佐々木宏一郎さん(大洋ー近鉄ー南海)、防御率1位投手になったこともある妻島芳郎さん(ロッテ)、新人王になった藤沢公也さん(中日)らもいる。町の野球テングと一緒にプレーし、野球を語る風景を想像するだけで心がなごむ。こういうプロとアマのつながりをもっと広め、もっと強めたい。野球を愛する心に変わりはないからだ。

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角田満

2023-05-16 09:07:42 | 日記
1987年
練習生からドラフト外で入団した角田満投手。惜しくも名護メンバーに入れなかったが、それほどの落胆は見せていない。「ボクは、2年後の一軍入りを目標にしていますから。まだ体だって出来ていないし」首脳陣の見方は「ストレートはズシリと重いし、シュートもいいものを持っている」と評判は上々だ。国士舘大を中退し、練習生として10ヶ月頑張った根性持ち。多摩川キャンプでも他の投手のスローぶりを横目に急ピッチの仕上がりぶりだ。

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笠松実

2023-05-16 08:59:07 | 日記
1983年
笠松実。12年から21年まで阪急、3年のブランクをおいて25年から3年間、広島で投げつづけた。戦前の後半、巨人戦というと阪急の投手はほとんど笠松だった。昭和17年には対戦15試合中9試合の責任投手。3年のブランクは幻のプロ野球といわれる国民野球リーグ・唐崎クラウンの監督兼投手。浅黒い顔で36歳まで投げた。

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水谷宏

2023-05-16 08:48:42 | 日記
1971年
不幸な三年目の投手がいる。水谷宏投手。一年目、二年目と芽が出なかった水谷が、勝負の年の三年目に中原コーチが、スリークォーターをサイドに変えた。これがうまくいってスライダー、シュートが強くなり、コーチ陣は「辛抱したかいがあった。ことしこそ一軍入りだ」そう喜ばれていたとたん、延岡キャンプで、水谷は打球を顔面に当ててバッタリ、これで練習を休んだのが、せっかくの上り調子を崩し、またやり直し、それでも、「夏場に投手陣がバテてくるときにファームから上がるのは水谷が第一だろう」といっているのが救いだが、この突然の故障さえなければ夏場などといわず、春から出られていたのではないだろうか、実績のないと選手の故障での出おくれほど痛いものはない。

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井上嘉弘

2023-05-16 08:43:07 | 日記
1949年
御承知のように飯塚商業より中日へ入り、昨年小鶴、藤原などと一緒に中日を脱退して急映へ参加したが、七月に退社し、九州星野組の投手となった。しかし、長身六尺近い体格と豪速球をもちながら、精神的な迫力に不足して、いささかの進歩の跡も見られなかった。素質的には大型投手であるが、去る日、多摩川の第二軍の練習に藤本投手がコーチに赴いたところ、私は今度、バッティングで行きますと折角指導に出向いた大投手を唖然たらしめたという。性格的な弱さと怠け癖が直らない限り何時までも呉下の旧亜蒙かもしれない。巨人としては第二軍の投手として、どれだけたたき直せるかやってみたいといっている。


1951年


セ・リーグ、広島カープでは、バー・ドミノで長持栄吉選手を刃傷沙汰に及んだ井上嘉弘外野手について、登録取消を七月三十一日に申請、承認された。井上選手は二十九日広島の対国鉄戦における長持選手の試合運びについていいがかりをつけ店先にあった刺身包丁で斬りつけたもの。なお長持選手は当分出場をあやぶまれたが三十一日の試合からはやくも対名古屋戦に出場した。

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