プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

水原茂

2024-03-01 11:40:57 | 日記
八回表…水原はシュートとカーブで一番打者松木と対したが、川上が熊工で投げすぎてスピードを低下させていたとすれば、水原は高松商ー慶大ー奉天満倶ー巨人と投げ続けてきたのだからスピードはもう磨滅してしまっていた。スリ切れてしまっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土山佳晴

2024-03-01 11:36:03 | 日記
1962年
混血児の施設として知られる神奈川・大磯のエリザベス・サンダース・ホームから十五歳の混血児・土山佳晴君が読売巨人軍に練習生として入団した。プロ球界に混血児選手が登場したのはこれが初めて、巨人軍の多摩川合宿に参加して毎日二軍選手たちと練習に励んでいる。ユニホームは着ていても練習生なので背番号はまだない。今のところバットをかたづけたり、ボールを集めたり、というマスコット・ボーイだが、もうグラウンドの人気者になっている。土山君が野球を始めたのはエリザベス・サンダース・ホームに入ってから。若林忠志さん(元阪神)が指導するサンダース・ホームの野球チームではショートを守り、チームの中心として活躍していた。大の巨人ファンで、テレビで試合をみているうち、将来は野球選手になろうと決心したという。若林さんの紹介で正力松太郎氏を通じて、この七月下旬巨人軍に入団したもの。慎重1メートル63、体重50キロ。足の大きさは十一文半と年齢に似合わず大きい。「野球選手としての素質はいまのところ分かりません。これから4~5年みっちりきたえて選手としての体をつくり、それから試合にだしていきたい。性格は明るく、合宿所ではすっかり、みんなともなじみました。私には二人の息子がいますが、まあもう一人息子がふえたようなものです」親代わりとなって面倒をみている武宮敏明コーチの話。


1969年


元読売の練習生だった土山佳晴(22)の回想では、「ホームの外へ出ちゃいけないし、遊ぶ場所も、男の子と女の子は別だった。木登りもシカられた。ガラスを割ったり、喧嘩も楽しいことだった。すると園長は怒った。怒ると、近くにあるものをつかんでぶった。そのうえご飯抜きで部屋に閉じ込められる。喧嘩をすれば、三日ぐらいご飯をもらえなかった」土山君は現在、静岡県の清水でトラック運送に従事するかたわら、沢田さんによれば「私の相談相手」になり、昔の仲間の就職の面倒を見てもいる。土山君に限らず「どの子も、親とか家庭という、人間としての当然の組織を知らないから、ワクをはめないと本能のままになる」危惧もあり、きびしくなったようである。


1982年


印象深いのが練習生の土山。彼は亡くなった沢田美香さんが運営していたエリザベス・サンダースホームの出身で、2千本安打を達成し昭和名球会入りした柴田の大恩人でもある。というのは柴田も、プロの水は厳しく、37年のペナンとレース開幕早々投手失格となり、当時監督だった川上さんは、柴田をショートにしようと考えた。二軍にやってきた柴田は、たまたま二軍でショートを守っていた土山とともに練習することになったが、ノックをしてみると、フィールディングは土山のほうが断然うまい。結局、練習生よりヘタでは話にならないということで柴田は外野に回った。柴田が土山よりうまくて、将来柴田がショートを守ることになったとしても、柴田はロクなショートになれなかったろうし、名球界入りもなかったろうと確信しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アキーノ

2024-03-01 11:12:44 | 日記
1996年
近鉄の新戦力・アキーノは味方の失策で惜しくもパーフェクトは逃したが、三回無安打、無失点投球に胸を張った。「感じとしては百パーセント。後は開幕までゲームで球数を増やしていけばOKさ」五月に三十歳になる現役大リーガー(ジャイアンツ)はシート打撃や紅白戦の登板もなく、昨年の十月以来といういきなりの実戦だった。だが、メジャー通算31勝の実績はだてではない。さして速くはないが、打者の手元で伸びるストレートとカーブ、スライダー、シンカー、チェンジアップの変化球を巧みに織り交ぜた打たしてとる投球で中日打線を完全に沈黙させた。初回、12球で三者凡退に仕留めワンマンショーは始まった。二回は6球で三者を三ゴロに打ち取り「最初はカーブ、後の二人はシンカー」と、にんまりだ。三回一死後、遊失でパーフェクトは消えたが、アキーノはそんなことは気にすることもなく後続二者を内野ゴロに仕留め、予定回数終了だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下川満康

2024-03-01 11:05:35 | 日記
1963年
大毎・西鉄戦で公式戦に初登板した西鉄の下川は十九日にベンチ入りしたばかり。二十日、球場にきて中西監督に先発を命ぜられてびっくり。下手投げからのシンカーを武器に、一回は無難に押さえたが、初陣を飾ることはできなかった。下川は「いつもはもっとスピードがあるんですが…。でも別に堅くなったわけではありません。きのうはじめてベンチにはいったときの方がよほど緊張しました。一軍のふんい気がわかったのでこれからはやりますよ」と、KOされた投手とは思えないほど張り切っていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原正

2024-03-01 11:01:19 | 日記
1963年
西鉄は十二日、原正投手(22)=左投左打、黒木高=の退団を発表した。同投手は三十七年二月入団したが、からだが小さく左腕独特の球の切れがなく公式戦、ウエスタン・リーグにも登板していない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須崎正明

2024-03-01 10:50:11 | 日記
1963年
さる二十三日の大阪球場で近鉄の須崎という無名の新人がホームランを打った。五十試合の研修があけて二試合目の殊勲打だ。須崎は研修あけの二十日、対東映戦に先発メンバーで出場しているほど別当監督の期待は大きい。須崎が近鉄にはいった動機がこうだ。関根の友人にベルト会社の社長がいる。三十三年のある日関根はその社長に「ウチに野球がメシより好きなヤツがいる。できれば野球で身をたてさせてやりたいんだが…」と相談をもちかけられた。それが多摩高を卒業したばかりの須崎だった。「プロのテストに合格できるようになれ」関根は法大の後輩、ノンプロ信越電電の林監督に紹介した。五年たった昨年の十月、藤井寺の秋季練習に参加させると、俊足と強肩が別当監督の目にとまった。しかも近鉄からもらった支度金はわずか五十万円程度。ところがウエスタン・リーグがはじまると一番を打ちつづけ、四割八厘、ベスト・テンのトップをみやげに二十日の一軍入りになった。公式戦でも六打数二安打、ホームラン一本。「足には自信があるが、まだバッティングは…」と須崎はケンソンするが、研修生当時からからかっている別当監督は土井、矢ノ浦とともにチームのバックボーンにしようと懸命だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする