プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中条善伸

2024-03-20 22:23:38 | 日記
1981年
4度の甲子園出場を果たした東北の星。ノーコン病に泣いたが、最後の三年の夏に真価をみせた。ややスリークォーター気味にでる腕からの速球にはナチュラル・シュートがかかる。「おもしろい球を投げる、まず中継ぎで使いたい」と国松二軍監督。最近の投手には珍しく小柄。本人もカラダのないことを知っており、「速球よりも変化球。打者心理の勉強が必要」と頭脳派宣言。粘り強い性格。貴重な左腕。活躍の機会は意外に早いだろう。

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小美濃武芳

2024-03-20 22:21:15 | 日記
1988年
秋の東都大学リーグ(62年)で東洋大Vの原動力として活躍したエース。ドラフト4位指名で入団した。大学4年生でにわかに頭角を現し東都のエースと言われるまでに急成長した。武器のフォークボールに磨きをかけたのが、その原因。それにカーブ、スライダーなど打たせて取るタイプの投手。


1990年


東都リーグのエースとして、東洋大から入団して今年で2年目。ウ・リーグでは主に抑え役として働き2勝1敗3セーブの成績を残した。フォークボールの切れは絶品で、どちらかといえば変化球主体に打たせて取るタイプだ。入団早々、キャンプの出遅れを取り戻そうと、張り切りすぎて、足腰からヒジ痛にまで見舞われた。それだけに「アセったらいけない。とにかく、じっくり体力をつけることが先決です。」と反省の言葉も忘れない。マウンドでのかけ引き、勝負度胸も十分心得ている完成品。あとは、さらに球威を増すことが、一軍へ浮上する条件だろう。2年目の今季に期待。

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福山龍太郎

2024-03-20 22:17:46 | 日記
1999年
直球とスクリューボールでマウンドに新風!東京六大学では9年ぶり、大学選手権でも優勝を経験した。高校は北九州市。市民球場で芽生えた夢がついに叶った。後は大きな実を自ら掴みとるだけだ。

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辻本弘樹

2024-03-20 22:15:34 | 日記
1988年
ドラフト外で入団した異色新人。というのは、奈良の野球名門校智弁学園では、1年生夏と2年生春の2度、甲子園のマウンドに上がり「智弁のエース」として、その剛腕を期待された。その後、右肩を痛め野球から見放されていたのを「回復に見込みあり」と再評価。中日入りが決まった。今後の復肩ぶりに注目。


1989年


智弁学園(奈良)では、1年生で甲子園に出場、桑田(PL学園=巨人)とともに、一躍評判を上げた。その後、右肩を痛めて鳴かず飛ばずだったが「肩の回復に見込みあり」との判断で、昨季ドラフト外で入団した。まず下半身の強化に専念、肩の回復にもつとめたが、再び形の変調に見舞われた。夏場を迎えて回復、ユニホームを着て再び、ファームでの練習に明け暮れた。ウ・リーグでは1試合に登板。「やっと、ハリの穴ほどの明かりが見えてきた」と、本人はヤル気満々だ。かつての豪球が復活するかに注目しよう。


1990年


プロ入りした2年間、登板したのが入団した年にたった1試合だけ。しかもファームの試合である。理由は何かー力が不足していたというわけではない。右肩を完全回復するまでに、時間がかかったからである。辻本はそんな特別な事情を持つピッチャーだ。昭和63年のドラフト外で奈良・智弁学園高から中日入り。高校では1、2年生の当時、2度の甲子園の全国大会に出場した実績を持つ。ところが、3年生になったとき、突然肩を痛めて、一時は野球を断念するまで追いつめられた。「あの剛球投手が故障とは惜しいなあ」と、一度は球界から見放されたが、復調の見込みが十分ある…と中田スカウトが見込んで獲得にふみ切った。こうした背景があるため、気長に本人の回復を待っていた。登板しなかったのはそのためだ。そして昨秋、米教育リーグに参加したのを機に、辻本の右腕が息を吹き返した。全力で投げ込む速球は、ズシリと重い。新たに覚えたばかりの沈む変化球が、その速球の威力をいっそう引き立てた。教育リーグでは何度も先発して勝ち投手になった。じっと辛抱し、体づくりに打ち込んできた努力が、ようやく実ってきた証拠だ。体調、とくに右腕さえ復活すればもう大丈夫、辻本の体内に「さあ、オレもやってやるゾ」のファイトが、ムクムクと沸き出す。同期の鎌仲に負けるものかーライバル意識さえのぞかせる辻本。石の上にも3年の今シーズン、浮上が約束される若手投手の一人である。


1991年


1軍にも上がった。先発もしてみせた。だが、このクセ球で売った若者は、変則フォームゆえに右肩を痛めてしまった。そこで昨年から、フォームの改造にとりくんだ。努力の成果が出た。見事に新フォームが身についてきた。打者の手元で微妙に変化するクセ球。このツジボールにくわえ、ボールに力がついてきた。「もう一度、ナイターで投げたい」一軍目指し、異色の投手は勝負をかける。

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鈴木伸良

2024-03-20 22:12:12 | 日記
1979年
キャンプ中に一軍昇格の話も出た。怪物投手と異名をとるほどの重い速球が、早くも二年目で全国のファンに披露されることになるかもしれない。ひと冬越してスタミナにも不安がなくなり、特に投手にはもっとも必要とされる背筋肉がついた。カーブ、シュートの変化球も覚えたので調子にのれば一軍でも十分やれる。「これほど投手らしい若手はどこのチームにもいない」とすっかりほれ込んでいる。「まず1勝」をめざすマンモス。

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松本基淳

2024-03-20 22:09:05 | 日記
1979年
掘り出し物と評判の左腕。進学をあきらめ、東洋の有名受験校都立立川からプロにとび込んできた少年は、やはりただ者ではなかった。「リストの使い方がすごくうまい。こいつは将来大成する」と自主トレ中、90番がまず目をつけ、キャンプでは投手コーチ陣も「球質はマンモス鈴木伸以上だ」とニンマリ。性格も落ち着いていて物事に動じない。「ブルペンよりマウンドの方が力を発揮できる」とは頼もしい発言である。


ドラフト外・上手投げのサウスポーだけに、じっくり時間をかけて育てる方針だ。うまく素質を開花させることができれば新浦二世になれるだろうと期待が大きい。


東京都下でも指折りの進学校といわれる都立立川高の出身。巨人に都立高校の選手が
入団するのは、昭和三十七年の内木忠男投手(退団、都立葛飾野高出身)以来十六年ぶりのこと。松本は昨年夏の西東京予選三回戦で名門、日大三高を倒すという大金星をあげて、一躍プロから注目を集めた本格派のサウスポーだ。準々決勝では日大桜丘に敗れたが、堂々ベストエイト入りをはたしている。本人は進学の意思が強く、慶大、早大、立大のセレクションを受けたほどだったため、ドラフト会議ではどの球団もリストアップを控えていた。それをくつがえしたのが、巨人の内堀スカウトの熱心な誘い。「大学を出て将来プロ入りするのもいいけれど投手の場合はむしろいきなりプロできたえたほうが大成することが多い、といわれて巨人入りを決めたという。「堀内さんのように、まっこうから勝負するタイプの投手が目標です」と目を輝かせる。松本の主武器は長身からのストレート。第二の新浦としての期待は大きい。


1981年


合宿ではいつもいちばん最後まで、ひとり投げ込みをつづけている。練習の虫だ。ことしの正月に目標をたてた。「一年間さぼる日がないように精いっぱいやる」「みんながマツみたいに練習してくれればなあ」と武宮寮長がよく松本を引き合いに出すことがある。ある意味では完全主義者。ここはよかったけれどあそこに問題がある、とあれこれ考えすぎてしまう。「そんな悩まず、もっと夢中になれ」と木戸コーチ。都立の星ももう三年生。

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