1978年
小学校は川崎(宮前小)だったが、父の仕事の関係で、韓国のソウルに移った。韓国も野球が盛んで、培文高へ進学すると、野球部に入部。石川の名前が韓国内に知れ渡ったのは2年生になってすぐの5月だった。韓国の全国大会である大統領旗争奪戦で、優勝候補の公修高を2安打に完封。それから速球には威力があるという情報が、巨人やロッテに入ってきた。ロッテのスカウトをしていた若生忠男氏が、金田監督の命令で渡韓した。卒業後の進路を打診するためだ。しかし、小学生の頃から巨人ファンだったため、「巨人でプレーしたい」といったため、若生氏は勧誘をあきらめたそうだ。だが、韓国内にいても正確な技術は分からない、石川自身も、「日本の高校に転校した方がいい」ということで、昨年の9月に福岡市の私立博多高校へ編入。下宿先は若生氏宅。巨人の勧誘を待ったが、ドラフトで指名されず。だが密かに石川と交渉し、昨年12月入団となった。ただ残念なことに合同自主トレには、ネンザのため参加できなかった。1月10日に若手だけの自主トレが合宿所近くのよみうりランドで始まったが、前日に合宿所入り。初日から自主トレに参加。次々とメニューを消化し、最後にサッカーに取り組んだがその際に球を蹴ろうとして右足首に「全治1週間のネンザ」をしてしまった。その痛みが2週間たっても消えないため、早く練習したいと焦るが、ゆっくり身体を治してドラフト組に負けない奮闘を期待しよう。
日本生まれの韓国籍で、ドラフト外で昨秋入団した本格派。「韓国の星」として騒がれて入団したが、イースタンの公式戦にはまだ一度も登板はない。ファームの休養日などには一軍の打撃練習にかり出されて後楽園のマウンドを踏んでいる。高田にプレゼントされた愛用のグラブには、韓国語で親孝行するなら、親が生きているうちにする…という意味の言葉がマジックペンで書かれている。ソウルの自宅を出発する時に父親の稠(しげる)さんが紙に書いてくれたのもの。このグラブは青島キャンプの時、25日間も早朝ランニングを続け、その皆勤賞として高田がくれたものだ。本格的な日本でのデビューはまだまだ先になりそうだが、「一軍入りするまでは、国に帰らない」という石川。