1976年
ジミー・ボンナは古い資料によると、身長1㍍87、体重91㌔、ヘビー級世界チャンピオン、モハメッド、アリは1メートル89だから、まずあのアリだと思えばいい。見事な体である。横浜港に上陸したとき、鮮やかにいい切った。「私のニックネームはガン・ボンナ、キャッチフレーズは1試合15奪三振」ガン・ボンナとは日本語に訳して鉄砲ボンナとでも、鉄腕でもいったらいいのか、1試合15奪三振とは驚いた。昭和11年の夏、大東京軍代表鈴木龍二は米球界に精通している名古屋軍球団代表河野安通志より、耳よりな話題を聞き込んだ。「鈴木さん、黒人なんだが素晴らしい投手がいる。ジミー・ボンナっていって、いま25歳の働き盛りだ。本当はうちでとりたいがノースとハリスって白人の外人がいるだろう。だからまずいんだよ。よかったらあんたのところでとらないかね」ここに黒人が参加すれば、興行的立場からみても、衝撃的成功をおさめるかもしれない。鈴木はとびついた。さっそく調査してみると、彼はカリフォルニア州サクラメントになるオークスに所属、右投げ右打ち、内野手もできるうえ、打撃もいいという。鈴木はオークスあてに移籍の手続きをとった。鈴木の提示したボンナの給料は200円。三原脩200円、田部武雄180円、苅田久徳170円、スタルヒン150円、要するに巨人軍の大スター級と同一給料を提示したのだから、いかに鈴木がボンナを買っていたかわかるだろう。ボンナは10月21日、横浜港についた。なぜ、来日日時がこれほど正確にわかっているのか。それは彼が来日2日後の23日、宝塚球場の対阪神3回戦前にデビューしているからだ。22日夜、大東京ナインと合流した。ここで彼はナインを前に、一世一代の大演説をぶち始めた。「私の名はジミー・ボンナ。ニックネームはガン・ボンナ。いままでの最高記録は1試合に22奪三振。だから日本にきたら1試合平均15奪三振。これが私のキャッチフレーズだ」ナインはポカンとしている。「登板しない日は二塁か三塁をやる。いままでの通算打率は3割5分、残念だが天才タイ・カップ(タイガース)の終身打率3割6分7厘(打数11429、安打4191)にはおよばない。これは許していただきたい」鈴木代表は「あすの対阪神戦はボンナを先発させよう。阪神は間違いなく若林忠志だ。これは受けるぜ。おいマネージャー、ボンナには血のしたたるビフテキを3人前、球団のツケで食わせてやれ」当時の大東京軍はあまり金がない。翌日、運命の巨人対阪神戦が始まった。鈴木代表はネット裏で笑いがとまらない。大東京は1点を先取して、ボンナはより余裕をもってマウンドに立った。ボンナはトップ打者藤井勇に第1球を投げた。その瞬間、大東京ナインも阪神も、そしてネット裏にいる鈴木代表もあっと思った。まるでスピードがない、しかもコントロールがない。途中でハエのとまるようなボールしか投げられない。ボンナは藤井を四球で歩かせた。「おい、どうなってるんだ」そう思っているうち、こんどは二番松木謙次郎、三番小島利男も歩かせた。無死満塁。四番景浦将も歩かせた。1対1の同点である。五番山口政信を遊飛にし、一死満塁。六番伊賀上良平がはいった。初球、2球目、ボンナはストライクをとった。2-0。ボンナは2-0からカーブを投げた。伊賀上はジャストミートし、左翼席中段へ入る満塁本塁打となった。その夜、大東京軍の幹部は白っぽ顔つきになった。翌24日、宝塚球場での対阪神戦にまたボンナが先発した。トップ打者は平桝敏男、また平桝を四球で歩かせた。するとボンナはマウンドからすっとんできて、捕手筒井良武に注文を出した。「もっと投げやすく構えろ」「この野郎、能書きが多いんだよ」筒井はムッとした。二番藤井も歩かせた、どうやら筒井の捕球姿勢には関係ないらしい。ここでボンナは降板。ボンナは10日後の11月3日、対セネタース3回戦に先発、また負け投手になった。鈴木代表は投手としてはあきらめた。それなら内野手で使ってみよう。11月10日、上井草球場での対阪急4回戦に二塁手として先発させた。まるで使い物にならない。試合は5対14で負け。その夜、鈴木代表はボンナをよび出した。「あのなあボンナ、あしたアメリカに帰ってもいいわ」「特別休暇かね」「うん、特別休暇でもなんでもいい。ただし来季はもう、こなくてもいい」黒人第一号ボンナ。来日20日間、7試合で消えて行った。むろん、その後の彼の消息について知るよしもない。ホラ吹き1号鉄砲ボンナはいま生きていたら65歳。「おれが40年前、日本にいったときは、1試合平均15を奪い、ホームランをポンポン打ち、すごいスターじゃった」案外、そんなことをいっているかもしれない。
ジミー・ボンナは古い資料によると、身長1㍍87、体重91㌔、ヘビー級世界チャンピオン、モハメッド、アリは1メートル89だから、まずあのアリだと思えばいい。見事な体である。横浜港に上陸したとき、鮮やかにいい切った。「私のニックネームはガン・ボンナ、キャッチフレーズは1試合15奪三振」ガン・ボンナとは日本語に訳して鉄砲ボンナとでも、鉄腕でもいったらいいのか、1試合15奪三振とは驚いた。昭和11年の夏、大東京軍代表鈴木龍二は米球界に精通している名古屋軍球団代表河野安通志より、耳よりな話題を聞き込んだ。「鈴木さん、黒人なんだが素晴らしい投手がいる。ジミー・ボンナっていって、いま25歳の働き盛りだ。本当はうちでとりたいがノースとハリスって白人の外人がいるだろう。だからまずいんだよ。よかったらあんたのところでとらないかね」ここに黒人が参加すれば、興行的立場からみても、衝撃的成功をおさめるかもしれない。鈴木はとびついた。さっそく調査してみると、彼はカリフォルニア州サクラメントになるオークスに所属、右投げ右打ち、内野手もできるうえ、打撃もいいという。鈴木はオークスあてに移籍の手続きをとった。鈴木の提示したボンナの給料は200円。三原脩200円、田部武雄180円、苅田久徳170円、スタルヒン150円、要するに巨人軍の大スター級と同一給料を提示したのだから、いかに鈴木がボンナを買っていたかわかるだろう。ボンナは10月21日、横浜港についた。なぜ、来日日時がこれほど正確にわかっているのか。それは彼が来日2日後の23日、宝塚球場の対阪神3回戦前にデビューしているからだ。22日夜、大東京ナインと合流した。ここで彼はナインを前に、一世一代の大演説をぶち始めた。「私の名はジミー・ボンナ。ニックネームはガン・ボンナ。いままでの最高記録は1試合に22奪三振。だから日本にきたら1試合平均15奪三振。これが私のキャッチフレーズだ」ナインはポカンとしている。「登板しない日は二塁か三塁をやる。いままでの通算打率は3割5分、残念だが天才タイ・カップ(タイガース)の終身打率3割6分7厘(打数11429、安打4191)にはおよばない。これは許していただきたい」鈴木代表は「あすの対阪神戦はボンナを先発させよう。阪神は間違いなく若林忠志だ。これは受けるぜ。おいマネージャー、ボンナには血のしたたるビフテキを3人前、球団のツケで食わせてやれ」当時の大東京軍はあまり金がない。翌日、運命の巨人対阪神戦が始まった。鈴木代表はネット裏で笑いがとまらない。大東京は1点を先取して、ボンナはより余裕をもってマウンドに立った。ボンナはトップ打者藤井勇に第1球を投げた。その瞬間、大東京ナインも阪神も、そしてネット裏にいる鈴木代表もあっと思った。まるでスピードがない、しかもコントロールがない。途中でハエのとまるようなボールしか投げられない。ボンナは藤井を四球で歩かせた。「おい、どうなってるんだ」そう思っているうち、こんどは二番松木謙次郎、三番小島利男も歩かせた。無死満塁。四番景浦将も歩かせた。1対1の同点である。五番山口政信を遊飛にし、一死満塁。六番伊賀上良平がはいった。初球、2球目、ボンナはストライクをとった。2-0。ボンナは2-0からカーブを投げた。伊賀上はジャストミートし、左翼席中段へ入る満塁本塁打となった。その夜、大東京軍の幹部は白っぽ顔つきになった。翌24日、宝塚球場での対阪神戦にまたボンナが先発した。トップ打者は平桝敏男、また平桝を四球で歩かせた。するとボンナはマウンドからすっとんできて、捕手筒井良武に注文を出した。「もっと投げやすく構えろ」「この野郎、能書きが多いんだよ」筒井はムッとした。二番藤井も歩かせた、どうやら筒井の捕球姿勢には関係ないらしい。ここでボンナは降板。ボンナは10日後の11月3日、対セネタース3回戦に先発、また負け投手になった。鈴木代表は投手としてはあきらめた。それなら内野手で使ってみよう。11月10日、上井草球場での対阪急4回戦に二塁手として先発させた。まるで使い物にならない。試合は5対14で負け。その夜、鈴木代表はボンナをよび出した。「あのなあボンナ、あしたアメリカに帰ってもいいわ」「特別休暇かね」「うん、特別休暇でもなんでもいい。ただし来季はもう、こなくてもいい」黒人第一号ボンナ。来日20日間、7試合で消えて行った。むろん、その後の彼の消息について知るよしもない。ホラ吹き1号鉄砲ボンナはいま生きていたら65歳。「おれが40年前、日本にいったときは、1試合平均15を奪い、ホームランをポンポン打ち、すごいスターじゃった」案外、そんなことをいっているかもしれない。