プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

川端英文

2016-10-22 21:50:38 | 日記
1963年

「これで巨人の選手? うそだあい」小さな子供までが信用しないそうだ。無理もない。昭和二十三年三月生まれの川端英文君(15)。面長の顔がまだあどけない少年だ。身長はあっても(1㍍78)体重はまだまだ(67㌔)。「十日に一度は必ずはかってみるんですが・・」なかなかふえないのが悩みだという。茶畑と温泉の町、伊東南中学を卒業したばかり。野球を本格的にやりだしたのも中学にはいってからだった。「ピッチャーをやらせて下さい」となんども先生に頼んだが、バッティングにほれられたおかげでダメ。三年生になったときは不動の四番でセンターを守っていた。これがちょうど近くの稲取に静養にきていた巨人・荒川コーチの目にとまった。昨年十二月のこと。同コーチは地元の知人のすすめもあってさっそく旅館であってみた。「雨が降っていたんでテストは部屋の中でした。素振りとピッチング・フォームをやってみせました」外野手のくせに堂々とシャドー・ピッチングをやったというから相当心臓は強い。「どうしても投手になりたかったから」と理由は単純だ。その度胸が認められたのかも知れない。合宿にころがりこんだのは三月末。七時半起床。朝のランニングはみんなといっしょだが午前中の自由時間は学校の予習復習が待っている。近くの東京高校定時制へ通っているからだ。午後からの練習もきついが現在はまだお手伝いさん的存在。ボールを集めたりバットを整理したり。しかし楽しみもある。「毎日三百球ブルペンで投げさせてもらえるんです」二日は来あわせた中尾コーチがつきっきりでみてくれた。まだ欠点だらけ。「女子野球にもノックアウトされるだろう」(武宮コーチ)だれもが笑って認めている。川端君も「いまはからだづくりの最中。しかたないですよ」と頭をかいているが「三年後には巨人の選手になれるかどうかをはっきりきめる」この荒川コーチのことばを胸にしまって、根気よくからだづくりにはげんでいる。
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黒田勉

2016-10-22 21:31:50 | 日記
1962年

「これでやっと四つになった」黒田(勉)は試合が終わりそうになると、こんな計算をしていた。四つになったとは南海からの勝ち星だ。三十五年に2勝、昨年は1勝だった。「入団してから四年間一度も勝てなかったのは南海や。出ては負け出ては負けていたんや。それがどんなかげんか、一昨年からぼくにツキがまわってきたんやね。きょうもこうして初白星を南海さんからかせがせてもろうたし・・・」黒田(勉)は帽子をつかんだりユニホームのソデを自分にひっぱってみたり、まるで子供のようにはしゃいでいた。「ストレートはたった六つしか投げなかった。それもはじめの方にね。あとは外角にスライダー、内角にフォークボール。左右にパッパッと散らして・・・。考えながら投げたんや」これが南海を八回一死まで四安打に押えた黒田(勉)のピッチングだ。鶴見工(神奈川県)時代四百㍍で連続二年全国大会に出場した陸上選手。オリンピック候補にのぼったこともある。高校を出ると地元の日本鋼管に入社。これが近鉄にはいる前の黒田(勉)の経歴。近鉄には七年前百万円の契約金で入団している。「去年までのぼくははっきりいって他の投手の引きたて役だった。昨年は徳久の・・・。それじゃあまり自分がかわいそうや。だからことしはどうしても一本立ちしたかった」ことしダメだったら思い切って商売がえしようと思ったそうだ。「でもこれで自信がついたから商売がえはやめや。やっぱり野球をやった方がいい」自分のことをしゃべり終わるとこんどは南海の話になった。「広瀬、野村、それにピートはたしかにこわい。でもことしの南海は四番以下にまるで迫力がないんだ。投げていても下位打線はでくの坊ばかりやものね。去年の南海なら下の方からバチンバチンと打ち上げてきたんや。杉山がいなくなっただけでも楽や。ことしのマウンドの上から南海を見てみると、杉山のしめていたウエートがこんなに大きかったのかとびっくりするものね」黒田(勉)はことしの南海をカモだといった。
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戸川一郎

2016-10-15 16:23:12 | 日記
1956年

最後のバッター豊田を遊ゴロにしとめた戸川投手をぐっとにぎって上につき出し勝利のジェスチャアをみせた。そして松井捕手と握手、ついで帽子をとって山本監督に一礼、そのあとはやたらに各選手と握手してまわっていた。六回一死二、三塁。得点は3-3。打者は投手の戸川。だれもがスクイズを考え、河村もそれを予想して二球目、高いウエストを投げた。南海はその裏をかいた。投手ながら昨年三割九分五厘の打率をあげた好打者戸川は、全然バントのゼスチャアなどみせず、1-2後の高目の直球を左前に糸をひく安打して決勝の二点をとったのである。五尺六寸という小柄な体。帽子をアミダにかぶり、五回すぎから繰り出した雨の中をニコリともせず最後まで投げきった。「バットに当てるくらいならやれるだろうと思った。ベンチを出るとき監督さんから打てといわれた。1-2になったのでスクイズかと思ってベンチを見たらやはり打てだった。直球で真ん中からやや内角よりだった。ほんとうはぼくは打つ方が好きなんです。ピッチングではドロップを多く投げた。調子は悪くなかったが、毎日戦でひっそりかえされてから自信そう失気味」とこれはヒーローの弁。脇役の西鉄の河村投手は「カーブは曲がらないし、低目には入らないし、全然悪かった。戸川選手に打たれたけど、あの球ならばぼくでも打てますよ」といってニヒルな笑いを浮かべていた。
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竹下光郎

2016-10-15 13:50:31 | 日記
1960年

阪急は近鉄に勝てば戦後はじめて開幕以来の六連勝となる。その夢を破ったのが竹下だ。この夜五打数四安打してベストテンのトップにおどりあがった。試合後、ぐるりとかこんだ報道陣に「とにかくバットがよく振れた。同点にしたのも外角のカーブだったが、決勝打も外角カーブ。安藤は知らない投手だから外角にヤマをはる以外に方法がなかった。延長戦までいったんだからぜひとも勝ちたかった」むろん、勝ちたいのは竹下だけではない。阪急戸倉監督は「あのバカ当り・・」といかにもくやしそうだった。この春近鉄が巨人から大友の移籍に成功して東京銀座のホテルで発表したとき、竹下の名刺が大友のあとについた。当時大北代表は「竹下などは一人で発表しても目立たないから・・・」といっていたが、たしかに巨人の竹下といっても知るファンは少なかった。巨人で三年間、昨年竹下が公式戦に出たのは三試合だけ。しかもバッター・ボックスに入ったのはたった一回。どちらかというとお天気屋で巨人でも「エラそうにしている」という評判があったくらいだ。それが「しかしウチではあんなのがいてかえって沈んだ空気が明るくなる」と近鉄では評判がいい。「まだ相手が彼の欠点を知らないし、また竹下も相手投手のこわさがわからない。問題はこれからだ」というのがネット裏評論家の意見だった。
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田中和男

2016-10-15 11:07:45 | 日記
1960年

法大の田中和男一塁手(22)は東映から入団交渉を受けていたが、このほど東映入りを決意した。正式契約はリーグ戦が終ってから行われる。東映はすぐに使える選手、将来チームの中心となる選手という点から大学選手に重点をおいて補強にのり出した。そして第一業として慶大・渡海、法大・山本、山崎、立大・杉本と神宮の花形に交渉を進めたが、全部失敗したため第二業、大学の中堅選手に方針をきりかえ、田中、萩原(駒大)小池(専大)村木(慶大)岩上(立命大)といったところにねらいをつけた。こうして田中に交渉をしたのはちょうど彼がノンプロ松下電器の入社試験の翌日だった。田中は高校時代からプロにいきたい希望を持っていたが、春のシーズンの不振もあってプロをあきらめ熱心に入社をすすめてくれる松下電器にいくことをきめていた。大補強と意気ごんでいた東映も成功したのは萩原一人なので田中獲得に全力をそそぎ、砂川球団主任、井出スカウトが説得にあたった。ちょうどこのころから田中は調子を取りもどしてベストテンにはいった。にわかにあがった田中株に近鉄も驚き兄武智投手に「近鉄もとる用意がある」と伝えたが「兄弟で同じチームにはいると弟がついボクをたよるようになる。そうなってはお互いに不幸だ」という武智投手の考えから、近鉄はかんたんに落ちた。二十五日上京した武智投手は東映側と話し合った結果、松下電器の了解がついてから契約することを条件に話がまとまった。

田中選手の話「松下電器へ就職がほとんどきまっていたが、プロでやりたいという希望を持っていた。東映から話があったので兄とも相談してプロでやることにした。東映は在京球団というボクの希望にも合う。監督さんをはじめ野球部の関係者へは兄からボクの気持を伝えてプロ行きを了承してもらった。まだ松下電器の方へあいさつをしていないが正式な道をふんでおことわりする」

石原代表の話「田中君は岐阜商時代からほしい選手だと思っていた。積極的に交渉しはじめたのは八月の中旬ごろから。田中君もお兄さんも東映に好意をもっていてくださるのでまずウチにはいってくれると信じている。素質も十分ある人だしウチに来てくれたら活躍してくれると思っている」

田中和男一塁手略歴 岐阜商出身。高校では清沢(慶大)とコンビで投手兼一塁手。四番を打って村瀬、所(早大)丹羽(立大)などとともに打線の中心だった。31年春、夏の甲子園大会に出場していずれも準優勝、32年法大入学、一塁手専門になり、34年春からレギュラー。クリーン・アップを打つこともあるがややムラがあり、今シーズンは六番に定着。シーズン後半は、独特のたたきつけるようなバッティングで二割九分四厘をマークして打撃12位。田中四兄弟の末弟。(長兄・武智投手=近鉄、次兄・田中義雄投手=東映レーヨン、三兄、田中照雄投手=元近鉄、常盤炭鉱)1㍍76、71㌔、右投右打、経済学部四年。
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栗野芳治

2016-10-15 10:40:24 | 日記
1960年

大型外野手として定評のあった松阪商栗野芳治外野手(18)=1㍍76、64㌔、右投右打=は十三日実兄とともに大阪市内の万寿美旅館に大毎西本監督、青木スカウトをたずね、大毎入りを決意したもようである。栗野選手は先に南海入りの決定した吉田投手とともに松阪商の中心選手。今春の選抜大会では三番打者として八打数五安打の高打率をあげて活躍した。大毎をはじめ中日、南海、近鉄、阪急の各チームが同選手をめぐってせり合っていた。
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松田守、芦刈達雄

2016-10-15 10:39:07 | 日記
1960年

東映では、このほど松田守投手(18)=鹿児島県照国高、1㍍78、70㌔、左投左打、芦刈達雄捕手(17)=大分県佐伯鴻城高、1㍍78、70㌔、右投右打=獲得に成功した。松田投手は夏の県予選で一回戦川内商工に5-4で勝ち、二回戦加治木高に9-2で敗れた。左腕から投げ下ろす重い速球、特に内角にくいこむカーブに威力がある。制球力にやや欠けるが、球威の点では南九州随一といわれ、西鉄、国鉄もねらっていた。芦刈捕手は三番を打つチームの主力打者で、県予選では準々決勝で日田高に1-0で惜敗したが、三試合で九打数三安打(うち二塁打1)を記録している。投手のリードのうまいことと長打力を買われた。
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江藤正

2016-10-15 05:12:58 | 日記
1950年

昨年一年間。二軍の生活をしてきただけに、プロ選手としては十二分に慣れているが、それにしては成長の速度が速い。何故江藤が堂々とした歩みを続けているかというと、余りにピッチングフォームがなだらかで美しいからである。もちろん美しいといっても、江藤の場合は別な美しさである。つまりフォームの上で等速運動を繰り返しているからの美しさを指すのであって、ピッチングの内容からいうと、決してホメるべき美しさではない。これを悪くいうと、拘りのないピッチングフォームということが出来る。振り出しから投げ終わるまで同じような力の動きをみせているだけで、ここだという鋭さがみられない。従って球質そのものは非常にタチがよくなり、カーブのブレーキもスマートといっていよいほどのものである。だからよく打たれる。それにかんじんのシュートも余りきかない。ピッチングフォームというものは、きっとダイナミックな躍動的なものであることである。鋭角的な美しさがなければいけない。江藤に最もいい見本は巨人投手である。あの振り出しから球を離す瞬間における手首の使い方の何とはげしく美しいものであるか。これを江藤のそれと比較してごらんなさい非常な相違のあることが一目瞭然であろう。ことに江藤が注意しなければならない点は、あまりに上体の振動だけで球を投げようとするきらいのあることである。大洋の高野投手はややこの型に似ていると思われるが高野の場合はクロスファイア気味に踏み出されるので、球質に自ら違った味わいが出てくる。江藤にはそうした特徴もない。これでは平凡な投手になるだけである。この城を脱することが江藤にとって一番大事なことである。補助的な左腕を脇下いはげしく引き込むようにすることも、一つのフォームを変える方法である。またや振りかぶり気味に投球することも考えていい。とにかく現在のままのフォームでは同じような結果の繰り返しにすぎないのではないかと思うが、どうだろうか。
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松林茂

2016-10-12 22:41:59 | 日記
1973年

ビュフォード、レポーズという太平洋の売り物をこのルーキーはいとも簡単にうちとった。五イニングを投げ、福富に二塁内野安打されただけ。引きあげてくるなり、ネット裏でしぶい顔をしていた太平洋の中村オーナーを横目で見ながら「打たせなくて悪かったでしょうか」とニヤリとした。心臓の強さも相当なものだ。入団発表の席でも「二十五歳のひねたルーキーです。だから将来のメドを一日も早く立てなければならない。バリバリやるしかないでしょう」とケロリとした顔で抱負を述べた。昨年のいまごろは、雪の北海道で柔軟体操に明け暮れていた。ドラフト二位指名。よほど会社に残ろうかと思ったが、両親の「広島なら故郷に近いし(生まれは岩国)帰ってこい」という勧めに従った。いまでは「プロに踏み切ってよかった。働けば金になるし、好きな野球一本で進めるだけでもいい」という。日南キャンプでのシート・バッティング、紅白試合でも衣笠、三村らの主軸打者を手こずらせた。元中日の下手投げ投手、小川健太郎ばりのフォーム。グッと浮き上がる速球、外角に鋭く流れるカーブはキラリと光った。これまで広島の新人でオープン戦の第一戦で先発したのは、この松林が初めて。それだけ首脳陣が期待をかけている証拠だ。一回先頭打者の福富には内角に二球速球をずばり決めた。ビュフォード、レポーズはシュート攻めにし、バットを折らせている。「キャンプでは味方なので投げなかったが得意球はシュート。これからどんどん投げて自分のよさを見てもらう」という松林。別当監督も即戦力とみた。「これで使えるメドがついた。あのシュートは立派に通用するね」あまりほめない長谷川コーチも「実力あるピッチャーだから第一戦に投げさせたんだ。このままいけば面白い存在になる」とその力を認めていた。1㍍76、68㌔、右投右打、岩国工ー大昭和白老。
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石井茂雄

2016-10-12 22:29:41 | 日記
石井茂雄投手

1978年
・昭和33年、岡山県の郡部にある県立勝山高から阪急ブレーブスに入団。西鉄ライオンズ全盛時代に、当時は灰色カラ―といわれた阪急で下積みの苦労をした。3年目に2勝2敗と初めて勝ち星を残したが、その後も1勝1敗、4勝9敗と停滞ぎみのシーズンを送り、大きく開花したのは、ようやく6年目に入ってからだ。38年、西本監督を迎えた阪急で17勝の高成長ぶりを見せ、一躍、米田、梶本と並ぶエーストリオの一角を占めたのであった。翌39年には28勝をあげ、2位躍進の原動力となった。40年も21勝と、2年連続20勝台に乗せたが、この年チームはBクラスに転落し4位。シゲやんのエース時代も、ここで終わりを告げることになった。41年には10勝へと一気に後退した。負け数が13だから彼にとっては4シーズンぶりの負け越しだった。チームは42年から3年連続で優勝し、1年おいた46年からまた2年連続優勝を飾り、いわゆる阪急の第一期黄金時代をうたいあげるのだが、シゲやんの右腕はすでに疲れ切っていたのである。45年の16勝で、やや立ち直りを見せかけたが、あとは7勝、5勝と二けた勝利から遠ざかってしまう。転落のコースといってもいいだろう。エースから中堅級への後退だから、それはその通りなのだが、どっこいシゲやん、このあとの生きざまが他のエース体験者たちとは全く違っていたのだ。ほとんどの元エースたちが、低迷期の入口で肩やヒジを痛め精神的にも滅入り込んで、寂しくユニフォームに別れを告げることになっている。しかし、シゲやんこと石井茂雄投手の場合は一味違った。自らのピッチングが、もはや通用しなくなったことを悟った時に彼はためらいもなく「力」を捨て「技」を選んだのだ。47年に5勝したところで彼は住み慣れた阪急を元・エースにはふさわしくない金銭トレードで追われる。「ちょっとしたこと、例えばカッときてマウンドにグラブを投げつけてみたり、ベンチの中でふて腐れてみたりといったことが、監督やコーチに嫌われる原因になったようだ」とは阪急の某重役。とにかくシゲやんは48年に西鉄を買収してスタートを切った太平洋クラブ・ライオンズに「友情トレード」されている。阪急の15年間に投手としての精力を使い果たし、もはや10勝以上の勝ち星は残せないだろうと見られていた彼が、何と移籍した48年には、ノンプロに毛が生えた程度と酷評された打線をバックに12勝をマークする健闘をやってのけた。その後は登板数も年々減り、勝ち星も8,9、5,5,5勝と1ケタ台にとどまっているが、今シーズンは前期に東尾、山下らのお株を奪って7完投、3完封、無四球試合4と大いに健在ぶりを見せつけたものだ。180センチ、77キロの均整のとれた長身はプロ入り以来ほとんど増減なしで、ゼイ肉なしの理想的な投手体格をいまだに保っている。サイドハンドからのシンカー気味に落ちるシュートを決め球に、フワリと曲がり落ちるカーブと高めに伸びて横にすべるスライダーを混ぜ、これにスピードの変化をミックスするから、投球はイヤでも多彩になるわけだ。これで打者のタイミングを狂わせ読みの裏をかくのだから焦った相手打者は、まんまと彼の術中にはまり込んでしまう。勝ち星の割にシャットアウトが多いのも、そんなピッチングの特性を証明してるといえるだろう。タイトルは阪急時代に一度だけ勝率第1位投手になっただけで、むろんエースの立場もとっくに卒業してしまったのだが、いまだに一線級の実力を持ち続けている。元・阪神ー毎日で活躍した故・若林忠志投手が引退した42歳までは現役続行を目指し、「中4日の休養なら十分。一週間もあけないかんようになったら、その時は引退や」ともいい続けてきた男が、自らギブアップする前に球団から戦力外通告を受けてしまった。「本当にいいにくいのだが、来季の戦力構想にキミは入っていない」と気の毒そうに切り出す坂井代表に石井は静かにうなづいた。そしてひと言だけいった。「記録に区切りをつけてからやめたいので、拾ってくれるところを探してもらえないでしょうか」記録・700試合登板→あと10試合、
200勝→あと13勝。これが21年目のシーズンを終えたシゲやんの、たった一つの「注文」であった。なお、石井の退団が決まった11月25日、高垣、松岡、中島啓、吉田隆、吉野、米沢、丸川、ハンセン、川島の9選手もヒッソリと「最後通告」を受けた。中堅級を容赦なく放出して田淵、野村、古沢らのベテランを入団させ、他方では若返りと称してベテランを切る。人気と実力との奇妙な組み合わせを図る「新生・西武ライオンズ」の強烈なアラシの前には、さしもの長距離ピッチャーも無力であった。
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駒田桂二

2016-10-12 19:53:23 | 日記
1950年

梶岡ブツたおれ、藤村弟傷つき、田宮復調せず、野崎また元気なし・・・というんじゃあ猛虎タイガース牙も無かろうというもの、その傷だかけの虎がこれでなんとかゴマかしたいもんだとマウンドに押出したのが駒田君、コマダ?あんまり聞いたことねえ投手ー左腕、雇ったばかりの社員に大会が持たせられんと同情、未知数の新人、大切な公式戦にチョイチョイ顔を出せるハズもない。「ナイターのとき、中沢不二雄、サトウ・ハチローの両大人がネット裏でみていて、カーブを投げぬ面白い新人だといっていたけど、どうして投げない・・・」「まだカーブが投げられないんです。軟球界にいたときも速球だけで・・けっこう打たれませんでした、いつもヒット四、五本におさえてきました」野球選手としては眼のキレイなまあ上品な顔、新人だけに借りてきた猫のようにおとなしいが、言葉の調子に、芽が出かかったハリがノゾいている。「いまのピッチングで押すつもり?」「とにかく低目の速い直球と自然に落ちる球が出るンで、当分このまま・・監督さんも思い切りほうれといわれるんで・・・」「投げていて心細くないかナ」「やっぱり、いつ打たれるかと心細くてネ、だから御園生さんにカーブを習っているんです、しかしたまにカーブやってみると、スピード落ちるせいかキット叩かれちゃってネ・・」「でもこないだの夜と廿二日の大洋戦は大出来・・・」「まア、自分でもあの程度にほうれるようになって嬉しいんです。コントロールがついて、球にノビが出るようになったと先輩もいってくれるんで・・・」その先輩の一人、御園生主将によれば「カーブはほうれんが、コントロールがいいからネ、のびる男や。背は五尺七寸で十分やが、横がもう少しほしいナでもこんな時助かる、この頃の駒田は立派なもんや・・・」そうだ速球投手だけに、スタルヒン、別所、藤本あたりが目標だという。ナイターは気が楽だという「夜は速球が打てんことになってますから打たれそうで当らないフフ・・・」「もう少し肉がほしいネ」「これでもプロに入って太ったほうですよ、小さい時から野菜嫌いで偏食したからこんなにヤセているんでしょう、でもいまは無理して何でも食べてます、身体のために食べるってこと、ようやくイタについてきました」・・負傷者続出で腕の見せどころ「だからまア、チャンスなんです、暑いのは苦手ですが・・・」無理して夏も食べてる駒田君である、国鉄、広島、大洋に三勝、まだ黒星はない、廿四歳。
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五井孝蔵

2016-10-11 20:57:06 | 日記
1952年

首位にたった南海としてはこの近鉄戦あたりで二位毎日を大きく引離したいところであったが最好調の五井を押し立てた近鉄の闘志に立上りずるずると押されて、あるいはの感がしないでもなかったがさすがは南海、八回地力を十分に発揮、一気に大量三点を奪って見ごと試合を逆転勝利をにぎった。南海の先発江藤は立上り鬼頭、森下の連続二塁打で軽く先取点を奪われ、さらに五回には鬼頭の中前安打を足場に三安打と宝山の遊ゴロで二点の追加を許し早くも六回にして新人大神にプレートを譲った。一方五井は上手投からの快速球とドロップをもって力投、ほとんどチャンスらしいものを与えず僅かに四回一点を許したのみで南海打線を封じさるかと思わせたが、八回一死後大神にプロ入り以来初めての安打を許してから代打の村上に四球を与え続く木塚には右翼線二塁打されてその差一点と迫られて降板、沢藤と代わった、沢藤は次打者飯田を四球に歩かせて一死満塁、このピンチに強打山本に左前痛打されて勝越点を奪われ五井前半の力投も空しく惜敗した。試合前南海は大当りの岡本がフィールディングの隙顔面にボールをまともにうけて退場、若い森下或いは、負傷いまだ癒えない蔭山、さらに外野の蓑原、投手の中原と不慣れな選手を三塁に送らなければならなかった。守備、攻撃両面で相当のマイナスがあったが最終回二死一、三塁と追い込まれた最大のピンチに急遽リリーフした柚木の絶妙の巧投とあいまって宝山の中飛を背走よく好捕した黒田のファインプレーに辛うじて近鉄を降した。
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有村家斉

2016-10-11 20:19:19 | 日記
1952年

第一戦をものにした巨人は是非とも連勝し、首位確保を不動のものとするため別所の連投策をとって必勝を狙った、別所は安居の五号ホーマーを許したが、要所要所はよく締めて危な気なく一蹴、巨人攻撃陣も前半有村の好投に多少押されていたが中盤からじりじりと本調子を出し有村を攻略、打撃力の差で順当な勝利をおさめた。巨人はスタートから有村のアウトシュート、インコースに入るカーブに手こずってチャンスらしいチャンスはなかったが、五回四球の青田が二盗に成功、さらにこのとき捕手の悪投もあって一挙に三塁に進み、続く宇野の中飛で青田還り一点を先取、まずリードを奪った、しかしこれに対し大洋は一回二死後ながら藤井が右中間に痛烈な三塁打を放ったが、岩本が遊飛に倒れたのは痛く、先取点を奪えなかった。その後は別所の剛腕に押されながらも四回まで毎回ヒットは記録したものの得点機はつかめなかったしかし六回安居が左翼に5号ホーマーとしてタイとし、俄然投手戦を白熱化させた、しかり有村の好調子も六回が峠で七回ごろからぐんと疲労の色が濃くなり、球威がおちた、巨人川上、青田が連続四球を選び、続く宇野も遊撃右に内野安打して一死満塁の絶好機をつかみ、小松原の中飛、つづく広田のスクイズ・バントが幸運な内野安打となり二点を奪い、さらに八回はリリーフの林から平井の遊失をきっかけに千葉の中堅越し二塁打、川上の中前安打とダメ押しの二点を追加、さらに九回にも小松原、広田の安打と大洋守備陣の混乱から一点を拾うなどまったく後半は巨人のワンサイドゲームに終わった。これにひきかえ大洋は七回木村保の左翼線二塁打、八回には安井の四球など無死で走者を出しながら別所に後続を阻まれ、さらに最終回二死後からこの日の当たり屋木村保がまたも左前安打を放ちさらに遊失もまぜてチャンスをつかんだが、後続なくとくに四番岩本の不振が目立った。
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鈴木幸雄

2016-10-10 22:37:34 | 日記
フォーム・・・・アンダースロー 球種・・・ストレート、カーブ、シュート

1952年

五回までは榎原が七個、鈴木が八個の三振を奪い合う好投手戦を展開した、榎原が速球とドロップで要所を締めれば鈴木は下手からのインシュートと外角にホップする速球で毎日打線を寄せつけなかった。ただ毎日は捕手に上林、遊撃に海部を起用した内野陣の破綻から前半五個の凡失を記録して自ら苦境を招いた。一回阪急は一死後中前安打した川合が投手牽制の悪投で二進、二死後今度は二塁への投手牽制球を本堂が大きくはじき一点を拾い、二回も二死後古川が遊ゴロ失に生き二盗に成功、つづいて三盗の時上林がとんでもないところに暴投して古川は易々と生還、四回も無死戸倉が第一球をレフトホーマーしてさらにリードを大きくした。一方毎日は五回まで二安打に抑えられ、その二安打を集めた三回の二死満塁も三宅が三振で無為に終った。鈴木は後半ますます快調で七回二死一、二塁のピンチも別当を二飛にうちとり、毎日は代打、代走をくり出し最終回に大館の二塁打、伊藤のレフトホーマーで毎日らしい強打を見せたに止まった。この鈴木の好投にこたえ阪急打線は六回戸倉の二塁打につづく東谷の三遊間安打で榎原をKO、リリーフ稲垣の代りハナに植田が左中間二塁打を浴びせ、八回二死二塁のチャンスには代打ブリットンが右前に快打して止めを刺した。なお鈴木は八回三振を奪いそこねて惜しくも毎回三振の記録を逸し九回代打大舘、伊藤に長打されシャットアウトを出来なかったが、毎日を七安打、三振十一に抑え天晴れな勝利投手となった。

阪急はナイターに強い下手投げの鈴木をマウンドに送ったのはうなずけるが、東急が球速なくスローカーブのコーナーワークだけを武器とする宮沢にスタートさせたのはこころもとない限りだった、果して阪急は初回から宮沢に襲いかかり毎回ランナーを出して攻めたてたが、粗雑な攻め口で二回中谷、東谷の連安打と植田の右飛で一点を入れただけだった、しかし五回に至り無死で植田、新居の連安打と鈴木の手堅いバントで二者を進塁させたあと藤井が中前安打して二点を追加、有利な態勢となった。一方鈴木は例によってアンダースローから外角大きく流れるカーブとホップする速球のコントロールよく容易に東急につけ入る隙を与えず三回の無死鈴木、宮沢の連安打によるピンチも中谷の好守に救われ不安のないピッチングを続けた。投球は宮沢を見限って六回から樽井をリリーフさせたがその樽井も七回トップ植田に第二球のゆるいカーブをレフトに叩き込まれ一点を追加された、鈴木のこの日の調子からみて東急の敗色はいよいよ濃くなったところが鈴木がこの回四球を右腕に食らって退場、七回から原田がリリーフにたちここを投球につけいれられるかとみえた、しかし原田は速球とカーブで低目を攻めてよくリリーフの役目を果たした。東急は日頃の元気なく三塁を踏むもの唯一人という有様、これに反し阪急は前半おとなしかったブリットンが五回ごろから例の奇声を発して景気をつけナイン全体張り切って投球を完全にその意気込みでも圧倒していた。
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笠松実

2016-10-10 22:08:38 | 日記
1951年

打線を無安打に完封した笠松の好投と、三回笠松自らの殊勲打で奪った二点を守りきり楽勝するかと思われた広島も八回お家芸の松竹の痛烈な反撃に遭い一挙に逆転され惜敗した。ただ快調なペースをもって廿七試合連続安打を放っていた岩本を四打席とも凡退させ岩本の野望を阻止したのが好投した笠松のせめてもの慰めとなった。この日の笠松は極端にスピードを殺しカーブ、ドロップをよく内外角にきめ、豪速球に強いと定評のある松竹の打線に対抗した、この投法がまんまと奏功、松竹各打者を全くほんろうし、七回まで二、五回に四球各一つを与えただけで笠松のノーヒット・ノーラン・ゲームの記録もできそうな好調ぶりだった。
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