プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

飯山正樹

2017-10-07 16:37:54 | 日記
1971年

北川工は優勝をうかがっている。春の県大会へ進めなかったのが発奮材料になった。エース飯山が速球ときれのよいカーブで安定したピッチングを見せる。
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カルバー

2017-10-05 21:32:38 | 日記
1975年

2イニングの試運転の予定があれよあれよという間に九回まで7イニングを投げ、三日に来日以来二週間足らずで初登板を初勝利に結びつけた日本ハムのG・カルバー投手。3Aでは今季1勝6敗と振るわなかったが、羽田空港に着いたときの記者会見で「全試合で勝ってみせる」と豪語、強心臓ぶりをみせたその言葉がまた耳の底に残っているうちのこの日の好投。「ワシの見込みは間違っていなかったろう」と中西監督が胸を張るのも無理はない。2点差をつけられた三回から藤原を救援。190㌢に近い長身を折り曲げて重心を低くし、カーブ、スライダー、シュート、チェンジアップなど多彩な変化球を手玉にとって低目に集めるピッチングに南海打線のバットはタマの上や下をむなしくたたくだけ。初回に大本塁打を放った野村監督でさえ二回目の対決は大きい左飛を打ったものの、あとはつまり気味の浅い右飛と投ゴロに倒れた。威圧感はないが低目にていねいに投げる。タイミングも狂わせてくるし打ちにくいよ」と野村監督。二十六人の打者に対し奪われた安打は1本だけ。「日本の打者はよく選球してくると聞いていたが、早くから打って来たので楽だった。藤原に打たれたタマは自信を持っていたのだが・・・。でもきょうは会心のピッチングだった」と華麗なデビューを飾ったのにもかかわらず外人特有のオーバーなゼスチャアも見せず淡々とした口調。中西監督も「霧雨が降る悪いコンディションでこれだけ投げれたのだから本物だよ」と強力な新戦力にニコニコだった。
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ティロットソン

2017-10-04 19:54:19 | 日記
1971年

南海ホークスに入団する元ヤンキースのファーム、3A・シラキュースのティロットソン投手(30)=1㍍91、87㌔、右投右打、背番号24=は九日来日、午後九時半全日空機で大阪に着いた。同投手は四十二年ヤンキースで43試合に登板、3勝9敗。四十三年シーズン中にシラキュースに移り、エースとして活躍。昨年まで三年間の通算成績は31勝21敗。記者会見で「私の武器は速球とスライダー。昨シーズン終了後、ボールはにぎっていないが、ランニングは続けていた。できれば15勝したい」と語った。

南海はティロットを先発、チェンジアップでロッテをかわそうとしたが、このタマはほとんど効果なく、逆にティロットが悪投、ボーク、悪投でつぶれた。

南海ホークスは二十日、大阪球場でT・ティロット投手(30)の退団を発表。即日パ・リーグへ任意引退選手として届けた。同選手は今春15勝投手として期待され入団したが、二十日現在、18試合(44回1/3)に登板、3勝4敗、防御率は6・55とさっぱり。そのうえ八月十四日夜、自宅でガラスで右ひじを切り、約三週間のケガをした。球団では全快しても今シーズンは戦力として期待できないとの理由から退団を決めたもの。
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前田修二

2017-10-03 20:35:34 | 日記
フォーム・・不明 球種・・・ストレート、カーブ、シュート、ドロップ

1957年

高校時代

今までに見られないほどのネバリ強さをもっている。昨夏も出場した猪狩、高野、小泉、前田、出村らが健在で、今春からの戦績は8勝2敗という好成績。しかし投手陣が手薄で使える投手は前田だけ。右投、5尺8寸、18貫の前田はスピードに伸びがあり、インシュートとドロップが武器。耐久力もあるタフな投手だが、心臓が弱く、試合になると全力を発揮できない欠点がある。

前田主将の話 ナインの調子がよいので大会に暴れ回る積りだとにかく勝敗にこだわらずに全力をつくす。

高萩に一回のツマヅキさえなければ二回以後前田が切れのよいカーブで土浦三を押さえていただけに試合は面白くなったろう。
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長持健一

2017-10-02 20:37:02 | 日記
1969年

東映の更改は四日から始まり、この日の予定者十一選手のうち十選手が契約を更改した。しかし長持健一投手(22)=国士舘高卒=は更改の話し合いの席上、健康上の理由で退団を申し出、球団も任意引退を認めた。
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オースチン

2017-10-02 20:33:10 | 日記
1974年

第二で、阪急の外人左腕・オースチンが初登場。長身からの速球は、阪神の左腕・山本和にくらべても角度があり、上背に恵まれた利点は大きい。球はさほど違いはないが、この有利性を生かせば、公式戦でも十分通用するだろう。もっぱら右打者のヒザ元をつく速球とカーブが主体だが、カーブのブレーキがもう一つ。外角へのシュートもかぞえるほどしか投げなかったので、やや単調さが気にかかる。
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カルバー

2017-10-01 15:33:38 | 日記
1975年

野球選手のひじ病は、ひじに無理な負担をかけるので起こる。プロ野球の選手、特に、ピッチャーにとっては選手寿命を断ちかねない職業病のひとつ。関節の部分に軟骨の突起が出来、これを切除することで痛みは止められても、その手術によって、本来のパワーを回復できた例は、極めて少ない。

八月末、日本ハムの給料日。東京・六本木の球団事務所の社長室で、三原脩球団社長は、入団二ヶ月目のジョージ・カルバー投手と向かいあい世間話をしていた。身長189㌢、88㌔、赤毛をのばした神経質そうなこの白人の大男は、このところ負け続きでふさぎ込んでいる感じだった。パ・リーグ後期の「優勝」をうたい文句に呼び寄せたもの、ここ数試合の非力なピッチング内容に、三原さん自身も読み切れない感情を抱いていたところだった。半そでのスポーツシャツのそで口からのびた太い、毛むくじゃらの右腕。なに気なく長髪をかき上げたとき、三原さんは、心中「アッ」と叫んだ。それから、思わず「ウーン・・・」と、うなってしまった。ひじの部分にタテ7㌢ほどの大きな傷跡をみたのだ。知将と呼ばれた三原さんの目には、その傷跡がなんであるか、聞いてみる必要はなかった。軟骨を切除した手術跡に、まぎれもなかった。「キズものをつかまされた」と判断したとき「私は、本人には、なにもいいませんでしたねえ。ただ、シーズンが終わったら、アメリカへ送り返すほかないと、即断しましたよ。もっとも、これは外にもらしませんでしたがね」・・・。三原さんが、このことを打ち明けたのは、ずっと後、大沢新監督就任が決定した十月末の夜だった。大リーグ通を自認する三原さんのアイデアで、日本ハムは六月、名門ヤンキースと相当額の金を払って業務提携を結んだ。補強外人を獲得するための交渉窓口の確保、フロントスタッフの交流など、球団運営に大リーグ方式を導入するねらいだった。カルバーは、その業務提携の「輸入第一号」だった。後期開幕直前の七月はじめ来日。初登板は同十二日、札幌・円山球場での対南海戦で、三回から救援に立ち、カーブ、シュート、チェンジアップを駆使して九回まで、打者二十六人に1安打だけ、無得点に抑える好投から、あっさり勝利投手になった。昨年まで、インディアンス、レッズなどに在籍。大リーグ通算四十八勝四十九敗でこの間、ノーヒット・ノーラン試合を一回やっている。彼を買い受けるのに、日本ハムはざっと五千万円近い金を投じた、といわれる。ところが、四日後のロッテ戦では、初先発したのに立ち上り4安打をつるべ打ちされて、アッという間に2失点。五回まで本塁打を含む6安打、5点を奪われて降板、敗戦投手となった。なにより球威不足。そのまま、八月はじめまで、先発しては打たれて四連敗。後は、中継ぎ専門で出番も減り、結局、一勝四敗の成績に終わった。デビュー戦だけは「ごまかし」が通じたということか。帰国前「日本のむし暑い天候が合わない。ストライクゾーンの相違はじめ日本の野球は、アメリカと違いすぎた」と語っている。が、右ひじのことは、ひとことも口にしなかった。ただ、いまになって考えてみれば、暑い昼間の練習でも右ひじにはめていたサポーターの白さが、あらためて目に浮かんでくる。日本のプロ野球には、来年もまた、何人かの新たな外人が入団する。「カルバーのひじ」が例外とは、限らないだろう。
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カルバー

2017-10-01 12:25:30 | 日記
1975年

煙るように球場を包む細かい霧を突き破って、一回バックスクリーン左の芝生席へ、文句無しにボールを運んだ野村のバットが、三回の二度目の打席から戸惑いの色を見せ始めた。決して目を見張るほどの速い球が来るわけではない。だが、それでいてバットのシンに当たらない。首をひねり、顔を紅潮させながら、野村は三度カルバーに立ち向かったが、平凡な外野フライ2本と投ゴロが残された記録だった。「丁寧に低めをついてくる。いいピッチャーや」-野村監督が強敵の出場に悩みを濃くしてベンチに引き揚げるころ、一方の中西監督は「どや、本物だろう?」と有頂天になっていた。昨年以来、日本ハムに入団した外人投手は、このカルバーで三人目。過去ケキッチ、レイで失敗しているだけに、カルバーをマウンドへ送る中西監督の胸中は、期待と不安が交錯していた。グラウンドは霧雨で滑り、力を試すには決していい状態ではない。外人投手といえども、最初につまずくとやはり立ち直りに時間がかかる。ケキッチやレイが本当の力を出せなかったのもこのためだった。そしてこの日、カルバーの最初の打者門田博の遊ゴロを野手がはじき、中西監督の胸をまた重苦しく締めつけた。しかし、カルバーは「コントロールのよさ」という点で、過去の二人をはるかにしのいでいた。門田博を一塁にクギづけのまま三回を終えて、監督の緊張をまずときほぐすと、四回からはもう完全に自分のペースに巻き込んで行った。「気候が涼しかったし、練習も日本に来てからよくやっていたので、最高のピッチングができた」と言う通り、カーブ、スライダー、シュート、チェンジアップと、多彩な変化球をあやつって、南海打線を手玉に取った。パ・リーグの試合は、北海道になじみが薄かった。札幌に姿を見せたのは、四十一年の東映(現日本ハム)-東京(現ロッテ)戦以来、九年ぶりのことである。つい十日前の巨人戦と違って、スタンドも寂しい限り。しかし、カサをさしながらじっとグラウンドを見つめるファンは、来日間もないこのカルバーの名をちゃんと知っていた。カルバー登板のアナウンスに精いっぱいの拍手を送り、そして一流のピッチングを堪能した。チームの後期に明るい光をともすとともに、日本ハムの新星カルバーは、札幌のファンにパ・リーグの野球を強く印象づけるヒーローにもなった。
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山中雅博

2017-10-01 12:01:43 | 日記
1954年

阪神は山中、小山ら若手の好投と先制の攻撃で会心の勝ち星をつかんだ。先投の山中はアウトシュート、内角球、カーブなどがいずれも低め一ぱいによく決まり、前半を快投、六回田宮の凡守備から一点を与えて、小山に引き継いだが、まず上々の出来ばえ。
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中島孝司

2017-10-01 11:32:00 | 日記
1954年

投手起用に変頭を来している南海が時をかせぐ意味で先発させた中島が先取点に守られコントロールされたカーブで近鉄打者を完封、初の完投勝利を飾った。決勝点になった初回の2点は二死一、二塁に内野の凡プレーと森下の中前適時打が続いたもの、近鉄にとってはあきらめ切れぬ失点だった。

南海中島投手「カーブがよく決まり調子はよかった。完投出来たのはバックのおかげだ」
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