プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

杉田久雄

2017-12-17 22:30:56 | 日記
1976年「日本ハム時代」
・「完封を意識?とんでもない。ただ、なんとか、ともかく最後まで投げる、そう
完投したいという事だけでした・・」
ゲーム終盤、マウンドでソワソワしていた日本ハムの先発・杉田は、これだけいうのがやっとだった。7月11日、仙台でのロッテ戦。散発6安打の堂々たる内容の
完封だというのに、悪さをして見つけられた子どものように頭をかいた。
プロ6年目の初完投が初完封。「遅すぎた春」への嬉しいやら、恥ずかしいやらのテレだとしても不思議ではないが、杉田はこの完封をもっと、「嬉し恥ずかし」に結びつけたーー。
「これで、プロ通算3勝目だが今年の両目でしょ。この記念にボクも女房も行ったことのない南九州に新婚旅行に行きます」。その後が泣かせる。自分の口からは恥ずかしくて女房にいえない杉田は、この談話の載っているスポーツ紙を「仙台みやげ」に持って帰り、順子夫人にそっと手渡した。その記事を見ながら、順子夫人はうれし涙をこぼしたという。「あなた、本当なのね。うれしいヮ。よかった。本当なのネ、本当よネ・・・」。その喜びようを見た時、杉田は初完封の実感がこみ上げてきたという。そして、杉田ももらい泣きしていた。川崎市中原区上小田中の
2DKの狭いアパートで・・・。まさに愛妻物語。
太いマユの下に、少しタレ目がつて、太くて濃い頭髪がボサボサ。ヤボ天に見える杉田と順子夫人の出会いは朴訥な感じを与えるこのボサボサ頭だ。川崎・小杉陣屋町の合宿から最寄りの東横線新丸子駅への途中にある理髪店で理容師として働いていた順子さんに、そのボサボサ頭を散発してもらった。「美人ではないが、色白のポッチャリした女」という印象しかなかったというが、以後は恥ずかしくて一回も散発に行ってないのは意識していた証拠だ。ただ、店の前を通ると順子さんは大きな鏡の中で杉田にニッコリ微笑みかけてくれたとか。秋田・本荘からひとりで働きにきていた純情な田舎娘と、マジメ人間・杉田の気持ちは通じ合った。49年、杉田の実家の近く浜松市、新居町の「町民センター」で挙式、野球選手には異例の6月30日というシーズン中。「シーズン中もいいとこ。でも、オフまで待てなかった。だってオナカが・・・」。順子さんは挙式から4か月後の11月16日に長男・英基君を出産した。これでは「新婚旅行」どころではなかった。そのうれしい新婚旅行だが、順子夫人が喜んだのは、杉田が「旅行は一人前になるまでお預けだ」と約束していた。一人前の投手になれたという喜びだった。「生活の苦しさは慣れっこです」いざとなれば「理容師」として「髪結いの亭主」を養える自信のある順子さんは、こういうが、一軍に上がってやっと月給20万円になったばかりの杉田。
ボーナスなし。月20万の生活がどんなものか。6畳、4・5畳2部屋だけ。風呂もないアパート。小遣いは月3万ーー。歩いて10分少しの駅まで、車ならぬオンボロ自転車に乗り電車通勤だ。
5年もの長い下積みだが、そんな覚悟を必要としない投手として杉田はプロに入った。実力の東都、中央大のエース。速球が武器の「大学球界№1」の折り紙付きで
ドラフト1位。ただ騒がれるだけの大物ではない証拠に、杉田の初登板は入団した
46年の開幕戦「対・西鉄、小倉球場」である。この時は救援だが、その後、ギックリ腰での一か月の戦線離脱が痛かった。さらに練習を再開した時には、ドラフト1位入団の期待と焦りから、杉田のとった行動はムチャクチャな走り込み、投げ込みだった。その心身の疲労が重なって、今度は「急性肝炎」。点滴注射を毎日、打ちながら一か月半の病院生活、これが杉田の野球人生を大きく狂わせてしまった。
この年、中大では1年先輩の皆川投手が富士重工経由で「同期の桜」として入団していたが、ドラフト5位の皆川が11勝で新人王に輝いていた。この皆川も翌年からヒジ、肩などを痛め、丸2年を棒に振っているだけに杉田の気持ちはよくわかるという。「杉田は大学まで挫折の二字を知らない男だった。速球一本で牛耳れた。からだにも粘りがあった。それが病気・・。オレ以上心身の回復に時間がかかったんだろう。強心臓の男が弱気になってたもんね」。
3年目の48年4月、ロッテ戦で初勝利。が、それからまた今年の初勝利、プロ2勝目まで丸3年が過ぎていた。二軍では「1点とるのがやっと・・」と相手チームにいわせるほどの好投をつづけながら一軍に上がるとダメ。そんな繰り返しに「もう野球をやめよう」と何度も考えたという。が、そのたびに励ましつづけたのが順子夫人と実母しずさん「56歳」。「アナタ、男がいったん選んだ道でしょ。とことんまで頑張ってから結論出したら・・」。日頃、「亭主関白」を自認している杉田も、いざとなったら強い女房のこんな言葉に奮い立ったのが今年だった。
「女房、オフクロはもちろん、皆川さんをはじめ、ナインも励ましてくれた。大沢監督も一軍に上がってすぐ先発に使ってもらったり、感謝することばかり」だそうだが、本物の投手らしくなった初完封の喜びが実感になったのは、そういう周囲の喜びを知った時だ。長い間の挫折で失っていた自信がよみがえったとたんに、大学時代のようなドデカい夢が膨らむ。「でも、たったこれだけではね。もっと稼いでオフには給料上げてもらわなきゃ。せめて風呂つきのアパートに住めなきゃ」
結婚して2年。間もなく2歳になる英基クンにも物心がついてきた。「ボクがアパートまでたどりつくと窓を開けて、パパお帰り、なんだ。どうしてわかるのかと思ったら、オンボロ自転車の、ギギーッというブレーキの音でわかるらしいんだ」
6年間の生活の実感をにじませた話ではないか。
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大映選手 就職口

2017-12-17 20:49:04 | 日記
1957年

元大映ユニオンズの渉外担当者小林、青木の両氏は旧大映整理選手の就職口を探しているがそのメモによるとつぎの選手のノンプロ入りが確定している。

花沢、筒井弟(積水化学)駒井(大阪・アワ井機工)柘植、下山(日野デーゼル)西本、菊地、島内(東京芝浦電気)広田(日本軽金属)坂上(播磨造船)。また栗木選手は北海道羽幌炭鉱の監督に決定した。このほか枝村外野手は東映移籍が確実である。上市捕手はテストを経て西鉄入りの可能性がある。結局旧大映の整理では小川、竹内、森口の自家営業を除いて高野、渡辺、木村、川本、山内、横山、吉岡、安居、藤本の九選手が未決定である。
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杉田久雄

2017-12-17 20:21:13 | 日記
1970年

東映・瓜生スカウトは十一日夜、第一位で指名した中大・杉田久雄投手(22)を、浜松市新居町の自宅にたずね、両親、実兄・雅彦氏をまじえ、はじめての交渉をした。本格交渉にはいる前のあいさつ程度の話し合いだったが、父親・久蔵氏は、プロ入りに消極的な態度を示した。しかし「本人の意思を尊重する」ということなので、東映入りは時間の問題のようだ。杉田は「プロでやってみたい気持ちと不安が半々。いまのところ、東映入りするかどうかは五分五分だ」と、この日は意思表示をさけた。過ぎたが十二日に帰京する予定なので、今後は東京で本人と交渉をつづけることになる。

父親・久蔵氏「指名したのでよろしく、というあいさつだけだった。私はプロ野球があまり好きじゃないので、プロ入りについては賛成しないと瓜生さんに伝えた。しかし、本人がプロでやりたいというのならやむを得ない。最後は本人にまかせる」
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浜崎正人

2017-12-17 15:44:43 | 日記
1962年

夏の全国高校野球大会、国体高校硬式競技で活躍した鹿児島商業高校の浜崎正人投手(18)は、阪急ブレーブスに入団すると、二十九日同球団から発表された。浜崎投手は左投げ、左打ち。カーブ、速球が得意。同投手が全国的に有名になったのは夏の全国高校野球大会の甲子園で好投してから、一回戦の天理を3安打、広陵を4安打に押え、中京商と並んで左投手のピカ一といわれた。また秋の国体高校硬式野球では北海高校に散発の7安打に打たれたが、要所をよくしめ、勝因をつくった。

浜崎投手の話 鹿商の先輩である古川、新留さんが阪急にいた関係や、大阪にいる兄が阪急をすすめた。またむかしから阪急は優秀な投手が育つところだといわれている。そういうことで阪急入りを決心した。プロのことはまだ全然わからないが、とにかく全力を尽くして努力したい。二月からキャンプが始まる。とりあえずシュートに重点をおいて練習する。
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大沼清

2017-12-17 13:12:01 | 日記
1953年

白石高

国鉄スワローズの佐藤孝夫外野手の出身校という以外中央球界にはなじみがうすい。地味ながら堅実で攻守にバランスのとれたチーム、ピンチにあっても混乱しないチームワークが身上である。大沼投手は二年生ながら五尺九寸の長身から投げおろす速球に、外角一ぱいをつくカーブ、胸もとにくいこむシュートを巧みに配合して打者のタイミングをはずす投球はなかなかの味がある。
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太田武

2017-12-13 19:46:03 | 日記
1954年

空谷が去年の夏の選手権のヒーローなら、太田(伏見高)は春の選抜のヒーロー。彼にとってはじめての桧舞台の選抜一回戦早々に三振奪取の新記録をつくったばかりか、大会を通じての戦後最高の三振奪取王となるなど、伏見の活躍は初優勝した洲本高よりめざましかった。一回戦は今度中日に入った田原の北海高を3-0で破って奪った三振は17(大会新記録)二回戦は平安高を三振12を奪って3-2で降し、三回戦は柳井高に延長十一回三振13を奪って21-1で凱歌をあげた。このときの相手投手は今度南海でともにマウンドを踏むことになった戸川である。このときの相手投手は今度南海でともにマウンドを踏むこととなった戸川である。準決勝では連投の疲れが出てか球威がなくなり3-1で浪華商に負けた。しかし6三振を奪って四試合で48三振(戦後最高)の記録を作ったのである。もともと連投は投手力を重視してチームを選考するので好投手が多い。昨年のこの太田をはじめ中下(浪商)北口(洲本)山本(済々黌)戸川(柳井)田原(北海)中山(中京)と一流投手が集ったが、大会後の優秀選手選考委員会で太田は北口、中下、山本、戸川とともに優秀投手に選ばれたが、断然彼の票が多かったと聞いている。太田はまったくのドロップ投手で、ドロップをウィニング・ショットにしているというより、攻め道具に使っているといった方がいい。配球の比率はドロップ六、速球四ぐらいだが、選抜のときなどは七分ぐらいまでドロップを多投していた。ブレーキはそれほど鋭いとは思えないがインドロの大きさとコントロールはすばらしい。しかしそれを投げすぎて自ら武器を武器でなくしてしまっていることが多く、ドロップに頼りすぎているのでドロップを打たれると次の手がなくて自滅してしまう。彼の育ての親、伏見高辻監督(立命大OB)が「太田はドロップと同じ位の威力のある武器を持っている。サウスポー独特のアウトシュートで、外角いっぱいにホップするからそうたやすく打たれない」と私に語ったことがある。選抜のときなぜこれを活用しなかったかいまでもわからない。プロではこのシュートを活用しなければならない。フォームにも無理がある。身体を後に落しすぎるので左が伸びきってしまい、スナップの切れが悪くなっている。これをなんとかカバーしようと腕を無理に巻き込むので苦しいフォームとなり、選抜後肘を痛めてしまった。幸い全快したというから二度と肘をこわさぬようフォームとコンビネーションに研究をつんでほしい。第二の柚木の素質を十分に持っているだけにとくにこの点を望みたい。彼の父は大阪鉄道局でお召列車の機関手をつとめている。五尺七寸五分、十七貫五百。十八歳、背番号34。

南海は昨シーズン半ばに泉陽高の中村大成投手をとって成功したが、太田君も中村君以上に働ける逸材だと思う。昨春の選抜大会のドロップの冴えには少なからず驚いた。ブレーキは特に鋭いとは思わなかったが、コントロールの正確さ、落下度の大きさは超高校級。自分の武器を少し乱用しすぎるきらいがあり、そのためか昨夏一度左肘をこわしている。肘の方はすっかりなおったというからこの機会にピッチングに工夫をこらせば素質はあるのだから南海が望んでいるように柚木君の後継者になれるだろう。
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矢ノ浦国満

2017-12-12 00:00:48 | 日記
1968年

巨人の矢ノ浦も、別の世界の誘惑に負けて球界を去る。もちろん、就職は決まっていない。近鉄ーサンケイー巨人と渡って注目されていた矢ノ浦だが、意志の弱さは自分で自分の首を絞める結果を招いた。
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戦前のプロ野球投手資料

2017-12-10 22:05:26 | 日記

浅岡三郎 サイドスロー カーブ
菊矢吉男 アウドロ、シュート
木下勇 アウドロ ドロップ カーブ
野口明 シュート カーブ
鈴木鶴雄 シュート カーブ
松本操 シュート
大澤清 ドロップ
近藤久 シュート カーブ
畑福俊英 カーブ ドロップ
藤野文三郎 ドロップ、シュート、カーブ
森井茂 サイドスロー
金子裕 シュート カーブ
望月潤一 カーブ
古川正男 下手投げ
丸尾千年次 上手投げ ドロップ
桜井七之助 カーブ
松尾幸造 カーブ
成田友三郎 シュート
小田野柏 カーブ
亀田忠 カーブ
高橋敏 カーブ
宮武三郎 カーブ
中田武夫 サイドスロー シュート
伊藤次郎 カーブ
政野岩雄 カーブ
松元三彦 シュート
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渋谷誠司

2017-12-10 20:53:02 | 日記
1966年

巨人戦の完封勝ちは三十八年九月いらい約二年半ぶり。それだけに渋谷の顔からはいつまでも笑いが絶えない。だが試合前の練習で、彼にはちょっとしたアクシデントがあった。一塁を守っているとき三塁からの送球が頭に当った。大事な試合前のこと。渋谷はグラブをたたきつけてくやしがった。ロッカールームで右前頭部を冷やしているとき、飯田監督から「ボヤボヤするからだ」としかられた。そのときはカーッと頭にきたそうだ。だがマウンドに登った渋谷はすっかり落ち着きをとり戻し、巨人打線をぴたりと押える快投をやってのけた。「きょうはコントロールもよく、カーブもうまく曲った。九回のピンチに王を迎えたときは、どうでもなれとど真ん中に投げた。長島とは内角球で勝負した。でもこのふたりはやはり威圧感であります」ON砲を凡退させただけに、話し方にも余裕がある。四球王といわれる渋谷は、今シーズンも9試合に登板、51イニングで26四球と無制球ぶりをみせていた。つまり2イニングに一個の割り合いで四球を出したことになる。キャンプ中巨人用にとその左腕が期待されながら、この無制球で自滅のケースが多く、開幕から5連敗した。ところがこの日は別人のように最後まで乱れなかった。「対巨人作戦は」と聞くと「別に考えなかった。五回まで投げられればいいと思っていた。ジャクソンが本塁打したときもまだ勝てるとは思わなかった。調子は広島戦(五月十九日、完封勝ち)の方がずっとよかった」という。飯田監督も「広島戦で立ち直ってから投手陣の柱になると思っていた。きょうの渋谷は満点」とほめていた。
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花沢英雄

2017-12-10 20:08:45 | 日記
1956年

原投手の後輩で銚子商のエース。二十九年秋の関東大会に千葉県代表として出場している。中央大会に出場するチャンスがなかったのであまり知られてはいないが、重い速球とドロップは高校生ばなれしており、バッティングもいい。五尺八寸五分、十九貫、右投右打。
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田島俊雄

2017-12-09 23:11:39 | 日記
1987年

南海の田島(右投げ=日本生命)の評判がいい。当初、杉浦監督は「うちの投手陣の中で、十番目の力」とみていたが、日が進むにつれて速球が周囲の目を引き、覚えたてのスプリット・フィンガード・ファストボールもよく落ちる。
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秋本祐作

2017-12-09 23:06:49 | 日記
1972年

大胆不敵なピッチングは、かつての宮田のような人気をつかみそうだ。プロ17年生の下手投げに注目したい。

1958年

秋本はカーブと外角へのスライダーを巧く使い分け大毎は八回まで3安打の散発、二、六、八回は得点圏に走者を送ったが、後続の貧攻で全部逃した。阪急も正面から勝負しない荒巻から七回まで5四球を奪ったが、後続が凡打にかわされた。ところが八回無死思いがけない秋本の右前安打で幸運が転り込み、バルボンの送りバントは野選、つづく本屋敷の巧い送りバントも三塁内野安打となって満塁の絶好機をつかんだ。ここで急いで代った植村には古川が四球押し出し、中田、川合の犠飛で2点を追加した。これで秋本は13連勝。

1959年

阪急の勝因は秋本の力投だ。三回一死遊ゴロの山下は半田の悪投で一挙二進、これをバルボンが中前適時打して先取点をあげた。しかしここで動揺した金彦から2死球を奪って退けながら代った皆川に対し青田の右犠飛で1点を追加しただけ。つづく中田の四球による再度の満塁も古川が凡退して最小限の得点しかあげられず攻撃力は依然低調だった。この打線とは対照的に秋本は一回広瀬に中前打、杉山に三遊間を破られ一、二塁の危機を招いたのみで、これを上手に乗り切ってからは回を追って調子をあげた。二、七回一死から寺田、長谷川に長短打を許しただけで外角へのスライダーを主にシュートも配合よく最後までさえて完封勝利を飾った。南海は一回の逸機が致命傷。なおこの試合で本屋敷遊撃手はパ・リーグタイの10捕殺を記録した。
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義原武敏

2017-12-09 22:40:17 | 日記
1956年

「いまままでの野球生活のうちで、いまが一番緊張している瞬間」という高橋。ロッ間神経痛という難病を克服した義原の両左腕投手は「安原さんをはじめ若い先輩投手たちはフォームからして基本に近づいている」と驚異の目を見張っている。「徐々に自信をつけさせてプロになじませ、私の持論である十人の投手団の一員に育てあげる。とくにこの二人は左だし、中尾の後継者として期待している」という水原監督の言葉も彼らの耳にはまだ入っていないようだ・・。高橋は夏の全国大会と秋の国体優勝という歓喜の絶頂で、義原は二ヶ月の闘病生活という失意のドン底でそれぞれ得難い人生の体験をつんだ。握手をすると掌がジットリと油じみるほど義原は油ぎってエネルギッシュだ。あらゆる治療をしたあと、万策つきで頭部に直接打った一本の注射で、全快したときのはればれとした気持は忘れられないという。五尺八寸、十八貫の身体は柔軟そのもの。大きなコセつかないフォームは水原、藤本監督らの目を細めさせている。武器はドロップ。

1957年

投手陣では義原がよくでてきている。紅白戦のピッチングをみても一回は球が浮いて5点も取られたが、二回からは左打者(紅軍は左が四人)を内角低めに沈むシュートと切れのよいカーブで押えすっかり立ち直っていた。今年は去年以上に働くことうけあいである。

1957年

六回から代った木戸はまだ球道の変化に欠け球速ももう一歩のところだが、先発した義原の切れのよいカーブとコントロールされた速球の威力はシュートの鋭さと相まって今シーズンの新威力であることを如実に示した。
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後藤修

2017-12-09 22:07:36 | 日記
1957年

松竹、東映、大映と転々としてきた後藤投手も恩師新田恭一氏のもとに帰って張切っている。内角低めにくい込む速球に威力を持ちナックル気味のカーブを交えるピッチングは水原監督の目にとまり「重いピッチャーだ。普通のカーブを投げられるようになるともっと変化が出てくるが、オープン戦に連れて行くからウンと投げさせておけよ」と藤本コーチに指示していた。
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外山義明

2017-12-09 21:42:56 | 日記
1970年

最後の打者ミラーが三ゴロに倒れて試合終了。ヤクルトのベンチから異様な歓声が上がり別所監督が大きなからだに喜びをいっぱい表して一目散に外山のところへ走り寄り背中をどやしつけながら初勝利を祝福した。インタビューでの外山は171㌢、70㌔という投手にしては小柄なからだつき。「プロ入り初勝利が初完封。もうなんにもいうことはありません」と汗だくの顔に笑顔。この日の決めダマはスライダー。「チームがこんな状態でしょう。新人でもなんでもいい、とにかくこの大幅な負け越しムードをだれかが打ち破らなければといピュンピュン投げました」という。天理高を卒業してノンプロの倉レ岡山からことし入団。別所監督は「本当はいい投手なんですよ。前半戦でも3試合ほどいい内容のピッチングがあったが勝ち運に恵まれなかっただけ。ピッチングコーチもあいつはスタミナがあるといっているしね。それにきのう連敗から抜け出し、ミーティングできょうから新しい力を盛り込んでいこうと話し合ったばかりですからね」と新人の出現に大喜び。一方、中日の水原監督は外山を打ち込めない味方打線にごうをにやし九回はコーチボックスを森下コーチに渡してベンチへ。ギブアップしない野球の水原監督をついにベンチに引っ込ませてしまうほどの外山の好投だった。
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