1976年「日本ハム時代」
・「完封を意識?とんでもない。ただ、なんとか、ともかく最後まで投げる、そう
完投したいという事だけでした・・」
ゲーム終盤、マウンドでソワソワしていた日本ハムの先発・杉田は、これだけいうのがやっとだった。7月11日、仙台でのロッテ戦。散発6安打の堂々たる内容の
完封だというのに、悪さをして見つけられた子どものように頭をかいた。
プロ6年目の初完投が初完封。「遅すぎた春」への嬉しいやら、恥ずかしいやらのテレだとしても不思議ではないが、杉田はこの完封をもっと、「嬉し恥ずかし」に結びつけたーー。
「これで、プロ通算3勝目だが今年の両目でしょ。この記念にボクも女房も行ったことのない南九州に新婚旅行に行きます」。その後が泣かせる。自分の口からは恥ずかしくて女房にいえない杉田は、この談話の載っているスポーツ紙を「仙台みやげ」に持って帰り、順子夫人にそっと手渡した。その記事を見ながら、順子夫人はうれし涙をこぼしたという。「あなた、本当なのね。うれしいヮ。よかった。本当なのネ、本当よネ・・・」。その喜びようを見た時、杉田は初完封の実感がこみ上げてきたという。そして、杉田ももらい泣きしていた。川崎市中原区上小田中の
2DKの狭いアパートで・・・。まさに愛妻物語。
太いマユの下に、少しタレ目がつて、太くて濃い頭髪がボサボサ。ヤボ天に見える杉田と順子夫人の出会いは朴訥な感じを与えるこのボサボサ頭だ。川崎・小杉陣屋町の合宿から最寄りの東横線新丸子駅への途中にある理髪店で理容師として働いていた順子さんに、そのボサボサ頭を散発してもらった。「美人ではないが、色白のポッチャリした女」という印象しかなかったというが、以後は恥ずかしくて一回も散発に行ってないのは意識していた証拠だ。ただ、店の前を通ると順子さんは大きな鏡の中で杉田にニッコリ微笑みかけてくれたとか。秋田・本荘からひとりで働きにきていた純情な田舎娘と、マジメ人間・杉田の気持ちは通じ合った。49年、杉田の実家の近く浜松市、新居町の「町民センター」で挙式、野球選手には異例の6月30日というシーズン中。「シーズン中もいいとこ。でも、オフまで待てなかった。だってオナカが・・・」。順子さんは挙式から4か月後の11月16日に長男・英基君を出産した。これでは「新婚旅行」どころではなかった。そのうれしい新婚旅行だが、順子夫人が喜んだのは、杉田が「旅行は一人前になるまでお預けだ」と約束していた。一人前の投手になれたという喜びだった。「生活の苦しさは慣れっこです」いざとなれば「理容師」として「髪結いの亭主」を養える自信のある順子さんは、こういうが、一軍に上がってやっと月給20万円になったばかりの杉田。
ボーナスなし。月20万の生活がどんなものか。6畳、4・5畳2部屋だけ。風呂もないアパート。小遣いは月3万ーー。歩いて10分少しの駅まで、車ならぬオンボロ自転車に乗り電車通勤だ。
5年もの長い下積みだが、そんな覚悟を必要としない投手として杉田はプロに入った。実力の東都、中央大のエース。速球が武器の「大学球界№1」の折り紙付きで
ドラフト1位。ただ騒がれるだけの大物ではない証拠に、杉田の初登板は入団した
46年の開幕戦「対・西鉄、小倉球場」である。この時は救援だが、その後、ギックリ腰での一か月の戦線離脱が痛かった。さらに練習を再開した時には、ドラフト1位入団の期待と焦りから、杉田のとった行動はムチャクチャな走り込み、投げ込みだった。その心身の疲労が重なって、今度は「急性肝炎」。点滴注射を毎日、打ちながら一か月半の病院生活、これが杉田の野球人生を大きく狂わせてしまった。
この年、中大では1年先輩の皆川投手が富士重工経由で「同期の桜」として入団していたが、ドラフト5位の皆川が11勝で新人王に輝いていた。この皆川も翌年からヒジ、肩などを痛め、丸2年を棒に振っているだけに杉田の気持ちはよくわかるという。「杉田は大学まで挫折の二字を知らない男だった。速球一本で牛耳れた。からだにも粘りがあった。それが病気・・。オレ以上心身の回復に時間がかかったんだろう。強心臓の男が弱気になってたもんね」。
3年目の48年4月、ロッテ戦で初勝利。が、それからまた今年の初勝利、プロ2勝目まで丸3年が過ぎていた。二軍では「1点とるのがやっと・・」と相手チームにいわせるほどの好投をつづけながら一軍に上がるとダメ。そんな繰り返しに「もう野球をやめよう」と何度も考えたという。が、そのたびに励ましつづけたのが順子夫人と実母しずさん「56歳」。「アナタ、男がいったん選んだ道でしょ。とことんまで頑張ってから結論出したら・・」。日頃、「亭主関白」を自認している杉田も、いざとなったら強い女房のこんな言葉に奮い立ったのが今年だった。
「女房、オフクロはもちろん、皆川さんをはじめ、ナインも励ましてくれた。大沢監督も一軍に上がってすぐ先発に使ってもらったり、感謝することばかり」だそうだが、本物の投手らしくなった初完封の喜びが実感になったのは、そういう周囲の喜びを知った時だ。長い間の挫折で失っていた自信がよみがえったとたんに、大学時代のようなドデカい夢が膨らむ。「でも、たったこれだけではね。もっと稼いでオフには給料上げてもらわなきゃ。せめて風呂つきのアパートに住めなきゃ」
結婚して2年。間もなく2歳になる英基クンにも物心がついてきた。「ボクがアパートまでたどりつくと窓を開けて、パパお帰り、なんだ。どうしてわかるのかと思ったら、オンボロ自転車の、ギギーッというブレーキの音でわかるらしいんだ」
6年間の生活の実感をにじませた話ではないか。
・「完封を意識?とんでもない。ただ、なんとか、ともかく最後まで投げる、そう
完投したいという事だけでした・・」
ゲーム終盤、マウンドでソワソワしていた日本ハムの先発・杉田は、これだけいうのがやっとだった。7月11日、仙台でのロッテ戦。散発6安打の堂々たる内容の
完封だというのに、悪さをして見つけられた子どものように頭をかいた。
プロ6年目の初完投が初完封。「遅すぎた春」への嬉しいやら、恥ずかしいやらのテレだとしても不思議ではないが、杉田はこの完封をもっと、「嬉し恥ずかし」に結びつけたーー。
「これで、プロ通算3勝目だが今年の両目でしょ。この記念にボクも女房も行ったことのない南九州に新婚旅行に行きます」。その後が泣かせる。自分の口からは恥ずかしくて女房にいえない杉田は、この談話の載っているスポーツ紙を「仙台みやげ」に持って帰り、順子夫人にそっと手渡した。その記事を見ながら、順子夫人はうれし涙をこぼしたという。「あなた、本当なのね。うれしいヮ。よかった。本当なのネ、本当よネ・・・」。その喜びようを見た時、杉田は初完封の実感がこみ上げてきたという。そして、杉田ももらい泣きしていた。川崎市中原区上小田中の
2DKの狭いアパートで・・・。まさに愛妻物語。
太いマユの下に、少しタレ目がつて、太くて濃い頭髪がボサボサ。ヤボ天に見える杉田と順子夫人の出会いは朴訥な感じを与えるこのボサボサ頭だ。川崎・小杉陣屋町の合宿から最寄りの東横線新丸子駅への途中にある理髪店で理容師として働いていた順子さんに、そのボサボサ頭を散発してもらった。「美人ではないが、色白のポッチャリした女」という印象しかなかったというが、以後は恥ずかしくて一回も散発に行ってないのは意識していた証拠だ。ただ、店の前を通ると順子さんは大きな鏡の中で杉田にニッコリ微笑みかけてくれたとか。秋田・本荘からひとりで働きにきていた純情な田舎娘と、マジメ人間・杉田の気持ちは通じ合った。49年、杉田の実家の近く浜松市、新居町の「町民センター」で挙式、野球選手には異例の6月30日というシーズン中。「シーズン中もいいとこ。でも、オフまで待てなかった。だってオナカが・・・」。順子さんは挙式から4か月後の11月16日に長男・英基君を出産した。これでは「新婚旅行」どころではなかった。そのうれしい新婚旅行だが、順子夫人が喜んだのは、杉田が「旅行は一人前になるまでお預けだ」と約束していた。一人前の投手になれたという喜びだった。「生活の苦しさは慣れっこです」いざとなれば「理容師」として「髪結いの亭主」を養える自信のある順子さんは、こういうが、一軍に上がってやっと月給20万円になったばかりの杉田。
ボーナスなし。月20万の生活がどんなものか。6畳、4・5畳2部屋だけ。風呂もないアパート。小遣いは月3万ーー。歩いて10分少しの駅まで、車ならぬオンボロ自転車に乗り電車通勤だ。
5年もの長い下積みだが、そんな覚悟を必要としない投手として杉田はプロに入った。実力の東都、中央大のエース。速球が武器の「大学球界№1」の折り紙付きで
ドラフト1位。ただ騒がれるだけの大物ではない証拠に、杉田の初登板は入団した
46年の開幕戦「対・西鉄、小倉球場」である。この時は救援だが、その後、ギックリ腰での一か月の戦線離脱が痛かった。さらに練習を再開した時には、ドラフト1位入団の期待と焦りから、杉田のとった行動はムチャクチャな走り込み、投げ込みだった。その心身の疲労が重なって、今度は「急性肝炎」。点滴注射を毎日、打ちながら一か月半の病院生活、これが杉田の野球人生を大きく狂わせてしまった。
この年、中大では1年先輩の皆川投手が富士重工経由で「同期の桜」として入団していたが、ドラフト5位の皆川が11勝で新人王に輝いていた。この皆川も翌年からヒジ、肩などを痛め、丸2年を棒に振っているだけに杉田の気持ちはよくわかるという。「杉田は大学まで挫折の二字を知らない男だった。速球一本で牛耳れた。からだにも粘りがあった。それが病気・・。オレ以上心身の回復に時間がかかったんだろう。強心臓の男が弱気になってたもんね」。
3年目の48年4月、ロッテ戦で初勝利。が、それからまた今年の初勝利、プロ2勝目まで丸3年が過ぎていた。二軍では「1点とるのがやっと・・」と相手チームにいわせるほどの好投をつづけながら一軍に上がるとダメ。そんな繰り返しに「もう野球をやめよう」と何度も考えたという。が、そのたびに励ましつづけたのが順子夫人と実母しずさん「56歳」。「アナタ、男がいったん選んだ道でしょ。とことんまで頑張ってから結論出したら・・」。日頃、「亭主関白」を自認している杉田も、いざとなったら強い女房のこんな言葉に奮い立ったのが今年だった。
「女房、オフクロはもちろん、皆川さんをはじめ、ナインも励ましてくれた。大沢監督も一軍に上がってすぐ先発に使ってもらったり、感謝することばかり」だそうだが、本物の投手らしくなった初完封の喜びが実感になったのは、そういう周囲の喜びを知った時だ。長い間の挫折で失っていた自信がよみがえったとたんに、大学時代のようなドデカい夢が膨らむ。「でも、たったこれだけではね。もっと稼いでオフには給料上げてもらわなきゃ。せめて風呂つきのアパートに住めなきゃ」
結婚して2年。間もなく2歳になる英基クンにも物心がついてきた。「ボクがアパートまでたどりつくと窓を開けて、パパお帰り、なんだ。どうしてわかるのかと思ったら、オンボロ自転車の、ギギーッというブレーキの音でわかるらしいんだ」
6年間の生活の実感をにじませた話ではないか。