プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

森川卓郎

2017-12-02 20:17:07 | 日記
1965年

広島は森川、竜の好リレーで大洋をかわし二連勝した。稲川は立ち上がり球威がなかったので広島がかんたんに先行した。初回トップの横溝二塁打のあと、古葉が定石どおり送り、山本四球で一、二塁のチャンスをつかみ二死後森永が投手強襲安打して横溝をかえした。さらに三回一死一、三塁でまたも当っている森永が右前適時打して加点した。広島の先発森川は六回みずからのエラーでピンチを招き竜の救援をあおいだが、一発屋の多い大洋打線をうまくタイミングをはずして好投した。身上とするフォークボールの制球もよく大洋を最小得点に押えたのは大きかった。それにしてもこのところ大洋はさっぱり元気がない。三回まで毎回安打の走者を出しながらいずれも併殺でつぶした。稲川にいつもの精彩がなかったことも誤算だが、打線がこう低調では勝てない。
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駒田桂二

2017-12-02 18:56:08 | 日記
1955年

阪神が今年はじめてのナイターを行った対大洋戦は、巨人軍で全力を出しつくしたあとで阪神選手は動きが鈍く、カンも悪かったがこの中でただ一人張切っていたのが駒田投手。シンカーを多く投げスライダーとカーブも思うがままにキャッチャー・ミットにスポリ。その上コントロールも申し分なく二回のピンチを除いて完全に大洋打線を押え、これが一ヶ月前の国鉄戦に逆転負けした投手かと思われる程で、とうとうシャット・アウトに成ってしまった。数年前、後楽園での対巨人戦のナイターには必ずといってよいぐらい登板してナイター専門といわれた駒田、阪神居間シーズン初の夜戦で殊勲のシャット・アウトを記録した。
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金本秀夫

2017-12-02 17:26:35 | 日記
フォーム・・・上手投げ 球種・・・ストレート、スライダー、カーブ。

1967年

阪急投手陣の課題、若手の育成はまだまだ解決にはほど遠い。三回ごろからピッチの上がりかけた金本は四回、2-2後の内角のカーブを遠井に右前打されておかしくなった。次打者藤井に高めのスライダーを長打され、さらに四球を連発してくずれた。期待の左腕浜崎も藤井に振り逃げされてピッチングが甘くなり、藤本、和田に連安打を許した。両投手ともまだまだ制球力不足。
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長尾旬

2017-12-02 17:18:22 | 日記
1954年

投手力の充実が阪神の優勝にもっとも貢献したといえよう。長身の長尾(池新田高)のスライダーは、打撃面において常に中心となった最高殊勲選手横山(扇町商)のたくましい打力とともに「まさに一軍もの」(御園生監督談)このほかバネのよい大根(桜ヶ丘高)ユーティリティー・プレヤーの赤松(洲本実)も鋭いドロップを武器として好投していたが、この投手団をうまくリードした山本(熊本工=昨年入団、前期戦は後半一軍に出場)投手団に適切なコーチを与えた御園生監督のカゲの力も見のがすことが出来ない。「御園生に投手のコーチ一切をまかせたい」(松木監督談)というのも当然のことだった。

1955年

ウエスタン・リーグでは三十日公式戦記録集計の結果つぎの表彰選手を決定、各球団別に近日中に表彰する。

勝率第一位投手 白崎泰夫(南海) 九試合五勝一敗、八割三分
防御率第一位投手 長尾旬(阪神) 五試合三十三・三分二イニング・自責点三、防御率0・79
最多本塁打 川越亀二(阪急) 藤井良一(南海) 林国夫(南海) 各三本
打撃率五傑 ①川越亀二(阪急)0・333 ②野村克也(南海)0・321 ③林勝美(近鉄)0・310
④横溝桂(広島)0・306 ⑤木村一美(阪神)0・304
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佐々木剛

2017-12-02 16:49:08 | 日記
1965年

エースの佐々木は右腕から繰り出す速球に威力を持っているものの、制球力に難があり。この進境がチーム力のカギだ。

市営球場の二回戦第一試合、釜石北ー花巻農戦で釜石北の佐々木剛投手は無安打試合を記録した。同投手は上手からの重い速球とカーブで花巻農打線をほんろうし、四死球7、味方の失策による出塁1という記録で安打は1本も打たせなかった。しかし、初回に4四球を連発して1点を献上していたのでノーヒット・ノーランにはならず、惜しくも大記録を逸したが、同チームは佐々木投手の健闘よく花巻農に逆転勝ちした。

1967年

釜石市鵜住居町、県立釜石北高野球部エース佐々木剛君(18)=同市浜町二丁目=は一日、プロ野球産経アトムズに入団が決定した。釜石市内の高校選手でプロ野球入りしたのは、佐々木君が初めて。入団契約は、一日に佐々木君の自宅で、産経球団宇高スカウトと佐々木君、父親の勇太郎さん=釜鉄勤務=らの間で取りかわされ、佐々木君の産経入りが正式に決まった。佐々木君は三月一日の卒業式を待たずに、十五日ごろ出発、身体検査を受けたあと、直ちに鹿児島湯之元でキャンプ中の産経ナインに合流する。佐々木君は釜石一中から釜石北高に進み、一年生のときから同校野球部の投手をつとめた。身長180㌢、体重70㌔の右腕から投げおろす速球は、県下高校選手でもAクラスの折り紙がつけられていた。四十年の夏の大会には、ノーヒット試合をやってのけた。産経球団は、全国からテストに集まった百六十六人の高校選手の中でも、ずば抜けていた佐々木君の速球に目をつけ、採用したという。

佐々木君の話 産経入団が正式に決まって、うれしさでいっぱいです。昨年の春から痛み出した肩も、いまはすっかり回復、調子は上々なので、一生懸命がんばります。十五日ごろキャンプ地に出発するが、卒業式にはまた帰ってきます。
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