プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

阿部八郎

2017-12-17 23:10:08 | 日記
1953年

七月十六日に彼としては一年半ぶりの一勝を毎日からあげ、十九日には近鉄にも勝って鮮やかなカムバックぶりを見せている。近鉄、大映につぎ阪急がパ・リーグの第三の旋風を巻きおこそうとしている。阿部の復調が浜崎監督をいよいよ強気にしているわけ。「去年の冬のトレーニング中全員がレントゲン写真を撮ったのだが、それに不合格で入院した別にどこといって悪くなく、寝たり起きたり今年のキャンプのときも早く球を握りたいので毎日のように球場へ通ったが、おやじ(浜崎監督)からお前は俺のいうことはきかないでいい先生のいうことさえきいておれば、といわれて悲しくなった」という。阪急入団が廿三年冬、それまでは福島日東紡におり、都市対抗に出場したこともある。「森さん(森弘太郎=元阪急投手)の勧めで入ったが、一年でお払い箱だろうと思っていた」そうだ。廿五年に14勝をあげてこの田舎者なかなかやるわいと注目され、廿六年にも阪急最多勝の12勝を稼いで忽ちエース。サウスポー独得のシュート一本槍で打者に立ち向かうが、技巧を持ち合わせていない。廿六年には監督と衝突、野球をやめようかと思ったこともあったが、やはり若気の至りと反省したという。その性格がピッチングに反映されているのかもしれない。一年半ぶりの阿部はカーブにこそまだ鋭さを欠いているが、低目をつく速球は往年の威力を再現している。浜崎監督は「病気はもうすっかり治っているようだが、この病気(胸部疾患)は梅雨のときが一番危険だ。梅雨があがれば本人も心配しないで投げられるようになるだろう。優勝チームには必ず優秀な左投手がいるもので、ウチの阿部がやってくれたならば、優勝も夢ではなくなる」とむろんすこぶる気が強い。今シーズンの目標は「天保、柴田、池田さんらを助けて六、七勝できればと思う。まだ若いんだからここ当分は生じっか技巧を非せず、真正面から打者とぶつかる。しかし中西、豊田らの若手の進出は凄いですね。あれでは素直な球ではいかれてしまうね」と不安そう。廿九歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉田久雄

2017-12-17 22:30:56 | 日記
1976年「日本ハム時代」
・「完封を意識?とんでもない。ただ、なんとか、ともかく最後まで投げる、そう
完投したいという事だけでした・・」
ゲーム終盤、マウンドでソワソワしていた日本ハムの先発・杉田は、これだけいうのがやっとだった。7月11日、仙台でのロッテ戦。散発6安打の堂々たる内容の
完封だというのに、悪さをして見つけられた子どものように頭をかいた。
プロ6年目の初完投が初完封。「遅すぎた春」への嬉しいやら、恥ずかしいやらのテレだとしても不思議ではないが、杉田はこの完封をもっと、「嬉し恥ずかし」に結びつけたーー。
「これで、プロ通算3勝目だが今年の両目でしょ。この記念にボクも女房も行ったことのない南九州に新婚旅行に行きます」。その後が泣かせる。自分の口からは恥ずかしくて女房にいえない杉田は、この談話の載っているスポーツ紙を「仙台みやげ」に持って帰り、順子夫人にそっと手渡した。その記事を見ながら、順子夫人はうれし涙をこぼしたという。「あなた、本当なのね。うれしいヮ。よかった。本当なのネ、本当よネ・・・」。その喜びようを見た時、杉田は初完封の実感がこみ上げてきたという。そして、杉田ももらい泣きしていた。川崎市中原区上小田中の
2DKの狭いアパートで・・・。まさに愛妻物語。
太いマユの下に、少しタレ目がつて、太くて濃い頭髪がボサボサ。ヤボ天に見える杉田と順子夫人の出会いは朴訥な感じを与えるこのボサボサ頭だ。川崎・小杉陣屋町の合宿から最寄りの東横線新丸子駅への途中にある理髪店で理容師として働いていた順子さんに、そのボサボサ頭を散発してもらった。「美人ではないが、色白のポッチャリした女」という印象しかなかったというが、以後は恥ずかしくて一回も散発に行ってないのは意識していた証拠だ。ただ、店の前を通ると順子さんは大きな鏡の中で杉田にニッコリ微笑みかけてくれたとか。秋田・本荘からひとりで働きにきていた純情な田舎娘と、マジメ人間・杉田の気持ちは通じ合った。49年、杉田の実家の近く浜松市、新居町の「町民センター」で挙式、野球選手には異例の6月30日というシーズン中。「シーズン中もいいとこ。でも、オフまで待てなかった。だってオナカが・・・」。順子さんは挙式から4か月後の11月16日に長男・英基君を出産した。これでは「新婚旅行」どころではなかった。そのうれしい新婚旅行だが、順子夫人が喜んだのは、杉田が「旅行は一人前になるまでお預けだ」と約束していた。一人前の投手になれたという喜びだった。「生活の苦しさは慣れっこです」いざとなれば「理容師」として「髪結いの亭主」を養える自信のある順子さんは、こういうが、一軍に上がってやっと月給20万円になったばかりの杉田。
ボーナスなし。月20万の生活がどんなものか。6畳、4・5畳2部屋だけ。風呂もないアパート。小遣いは月3万ーー。歩いて10分少しの駅まで、車ならぬオンボロ自転車に乗り電車通勤だ。
5年もの長い下積みだが、そんな覚悟を必要としない投手として杉田はプロに入った。実力の東都、中央大のエース。速球が武器の「大学球界№1」の折り紙付きで
ドラフト1位。ただ騒がれるだけの大物ではない証拠に、杉田の初登板は入団した
46年の開幕戦「対・西鉄、小倉球場」である。この時は救援だが、その後、ギックリ腰での一か月の戦線離脱が痛かった。さらに練習を再開した時には、ドラフト1位入団の期待と焦りから、杉田のとった行動はムチャクチャな走り込み、投げ込みだった。その心身の疲労が重なって、今度は「急性肝炎」。点滴注射を毎日、打ちながら一か月半の病院生活、これが杉田の野球人生を大きく狂わせてしまった。
この年、中大では1年先輩の皆川投手が富士重工経由で「同期の桜」として入団していたが、ドラフト5位の皆川が11勝で新人王に輝いていた。この皆川も翌年からヒジ、肩などを痛め、丸2年を棒に振っているだけに杉田の気持ちはよくわかるという。「杉田は大学まで挫折の二字を知らない男だった。速球一本で牛耳れた。からだにも粘りがあった。それが病気・・。オレ以上心身の回復に時間がかかったんだろう。強心臓の男が弱気になってたもんね」。
3年目の48年4月、ロッテ戦で初勝利。が、それからまた今年の初勝利、プロ2勝目まで丸3年が過ぎていた。二軍では「1点とるのがやっと・・」と相手チームにいわせるほどの好投をつづけながら一軍に上がるとダメ。そんな繰り返しに「もう野球をやめよう」と何度も考えたという。が、そのたびに励ましつづけたのが順子夫人と実母しずさん「56歳」。「アナタ、男がいったん選んだ道でしょ。とことんまで頑張ってから結論出したら・・」。日頃、「亭主関白」を自認している杉田も、いざとなったら強い女房のこんな言葉に奮い立ったのが今年だった。
「女房、オフクロはもちろん、皆川さんをはじめ、ナインも励ましてくれた。大沢監督も一軍に上がってすぐ先発に使ってもらったり、感謝することばかり」だそうだが、本物の投手らしくなった初完封の喜びが実感になったのは、そういう周囲の喜びを知った時だ。長い間の挫折で失っていた自信がよみがえったとたんに、大学時代のようなドデカい夢が膨らむ。「でも、たったこれだけではね。もっと稼いでオフには給料上げてもらわなきゃ。せめて風呂つきのアパートに住めなきゃ」
結婚して2年。間もなく2歳になる英基クンにも物心がついてきた。「ボクがアパートまでたどりつくと窓を開けて、パパお帰り、なんだ。どうしてわかるのかと思ったら、オンボロ自転車の、ギギーッというブレーキの音でわかるらしいんだ」
6年間の生活の実感をにじませた話ではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大映選手 就職口

2017-12-17 20:49:04 | 日記
1957年

元大映ユニオンズの渉外担当者小林、青木の両氏は旧大映整理選手の就職口を探しているがそのメモによるとつぎの選手のノンプロ入りが確定している。

花沢、筒井弟(積水化学)駒井(大阪・アワ井機工)柘植、下山(日野デーゼル)西本、菊地、島内(東京芝浦電気)広田(日本軽金属)坂上(播磨造船)。また栗木選手は北海道羽幌炭鉱の監督に決定した。このほか枝村外野手は東映移籍が確実である。上市捕手はテストを経て西鉄入りの可能性がある。結局旧大映の整理では小川、竹内、森口の自家営業を除いて高野、渡辺、木村、川本、山内、横山、吉岡、安居、藤本の九選手が未決定である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉田久雄

2017-12-17 20:21:13 | 日記
1970年

東映・瓜生スカウトは十一日夜、第一位で指名した中大・杉田久雄投手(22)を、浜松市新居町の自宅にたずね、両親、実兄・雅彦氏をまじえ、はじめての交渉をした。本格交渉にはいる前のあいさつ程度の話し合いだったが、父親・久蔵氏は、プロ入りに消極的な態度を示した。しかし「本人の意思を尊重する」ということなので、東映入りは時間の問題のようだ。杉田は「プロでやってみたい気持ちと不安が半々。いまのところ、東映入りするかどうかは五分五分だ」と、この日は意思表示をさけた。過ぎたが十二日に帰京する予定なので、今後は東京で本人と交渉をつづけることになる。

父親・久蔵氏「指名したのでよろしく、というあいさつだけだった。私はプロ野球があまり好きじゃないので、プロ入りについては賛成しないと瓜生さんに伝えた。しかし、本人がプロでやりたいというのならやむを得ない。最後は本人にまかせる」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜崎正人

2017-12-17 15:44:43 | 日記
1962年

夏の全国高校野球大会、国体高校硬式競技で活躍した鹿児島商業高校の浜崎正人投手(18)は、阪急ブレーブスに入団すると、二十九日同球団から発表された。浜崎投手は左投げ、左打ち。カーブ、速球が得意。同投手が全国的に有名になったのは夏の全国高校野球大会の甲子園で好投してから、一回戦の天理を3安打、広陵を4安打に押え、中京商と並んで左投手のピカ一といわれた。また秋の国体高校硬式野球では北海高校に散発の7安打に打たれたが、要所をよくしめ、勝因をつくった。

浜崎投手の話 鹿商の先輩である古川、新留さんが阪急にいた関係や、大阪にいる兄が阪急をすすめた。またむかしから阪急は優秀な投手が育つところだといわれている。そういうことで阪急入りを決心した。プロのことはまだ全然わからないが、とにかく全力を尽くして努力したい。二月からキャンプが始まる。とりあえずシュートに重点をおいて練習する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大沼清

2017-12-17 13:12:01 | 日記
1953年

白石高

国鉄スワローズの佐藤孝夫外野手の出身校という以外中央球界にはなじみがうすい。地味ながら堅実で攻守にバランスのとれたチーム、ピンチにあっても混乱しないチームワークが身上である。大沼投手は二年生ながら五尺九寸の長身から投げおろす速球に、外角一ぱいをつくカーブ、胸もとにくいこむシュートを巧みに配合して打者のタイミングをはずす投球はなかなかの味がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする