プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田島俊雄

2017-12-09 23:11:39 | 日記
1987年

南海の田島(右投げ=日本生命)の評判がいい。当初、杉浦監督は「うちの投手陣の中で、十番目の力」とみていたが、日が進むにつれて速球が周囲の目を引き、覚えたてのスプリット・フィンガード・ファストボールもよく落ちる。
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秋本祐作

2017-12-09 23:06:49 | 日記
1972年

大胆不敵なピッチングは、かつての宮田のような人気をつかみそうだ。プロ17年生の下手投げに注目したい。

1958年

秋本はカーブと外角へのスライダーを巧く使い分け大毎は八回まで3安打の散発、二、六、八回は得点圏に走者を送ったが、後続の貧攻で全部逃した。阪急も正面から勝負しない荒巻から七回まで5四球を奪ったが、後続が凡打にかわされた。ところが八回無死思いがけない秋本の右前安打で幸運が転り込み、バルボンの送りバントは野選、つづく本屋敷の巧い送りバントも三塁内野安打となって満塁の絶好機をつかんだ。ここで急いで代った植村には古川が四球押し出し、中田、川合の犠飛で2点を追加した。これで秋本は13連勝。

1959年

阪急の勝因は秋本の力投だ。三回一死遊ゴロの山下は半田の悪投で一挙二進、これをバルボンが中前適時打して先取点をあげた。しかしここで動揺した金彦から2死球を奪って退けながら代った皆川に対し青田の右犠飛で1点を追加しただけ。つづく中田の四球による再度の満塁も古川が凡退して最小限の得点しかあげられず攻撃力は依然低調だった。この打線とは対照的に秋本は一回広瀬に中前打、杉山に三遊間を破られ一、二塁の危機を招いたのみで、これを上手に乗り切ってからは回を追って調子をあげた。二、七回一死から寺田、長谷川に長短打を許しただけで外角へのスライダーを主にシュートも配合よく最後までさえて完封勝利を飾った。南海は一回の逸機が致命傷。なおこの試合で本屋敷遊撃手はパ・リーグタイの10捕殺を記録した。
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義原武敏

2017-12-09 22:40:17 | 日記
1956年

「いまままでの野球生活のうちで、いまが一番緊張している瞬間」という高橋。ロッ間神経痛という難病を克服した義原の両左腕投手は「安原さんをはじめ若い先輩投手たちはフォームからして基本に近づいている」と驚異の目を見張っている。「徐々に自信をつけさせてプロになじませ、私の持論である十人の投手団の一員に育てあげる。とくにこの二人は左だし、中尾の後継者として期待している」という水原監督の言葉も彼らの耳にはまだ入っていないようだ・・。高橋は夏の全国大会と秋の国体優勝という歓喜の絶頂で、義原は二ヶ月の闘病生活という失意のドン底でそれぞれ得難い人生の体験をつんだ。握手をすると掌がジットリと油じみるほど義原は油ぎってエネルギッシュだ。あらゆる治療をしたあと、万策つきで頭部に直接打った一本の注射で、全快したときのはればれとした気持は忘れられないという。五尺八寸、十八貫の身体は柔軟そのもの。大きなコセつかないフォームは水原、藤本監督らの目を細めさせている。武器はドロップ。

1957年

投手陣では義原がよくでてきている。紅白戦のピッチングをみても一回は球が浮いて5点も取られたが、二回からは左打者(紅軍は左が四人)を内角低めに沈むシュートと切れのよいカーブで押えすっかり立ち直っていた。今年は去年以上に働くことうけあいである。

1957年

六回から代った木戸はまだ球道の変化に欠け球速ももう一歩のところだが、先発した義原の切れのよいカーブとコントロールされた速球の威力はシュートの鋭さと相まって今シーズンの新威力であることを如実に示した。
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後藤修

2017-12-09 22:07:36 | 日記
1957年

松竹、東映、大映と転々としてきた後藤投手も恩師新田恭一氏のもとに帰って張切っている。内角低めにくい込む速球に威力を持ちナックル気味のカーブを交えるピッチングは水原監督の目にとまり「重いピッチャーだ。普通のカーブを投げられるようになるともっと変化が出てくるが、オープン戦に連れて行くからウンと投げさせておけよ」と藤本コーチに指示していた。
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外山義明

2017-12-09 21:42:56 | 日記
1970年

最後の打者ミラーが三ゴロに倒れて試合終了。ヤクルトのベンチから異様な歓声が上がり別所監督が大きなからだに喜びをいっぱい表して一目散に外山のところへ走り寄り背中をどやしつけながら初勝利を祝福した。インタビューでの外山は171㌢、70㌔という投手にしては小柄なからだつき。「プロ入り初勝利が初完封。もうなんにもいうことはありません」と汗だくの顔に笑顔。この日の決めダマはスライダー。「チームがこんな状態でしょう。新人でもなんでもいい、とにかくこの大幅な負け越しムードをだれかが打ち破らなければといピュンピュン投げました」という。天理高を卒業してノンプロの倉レ岡山からことし入団。別所監督は「本当はいい投手なんですよ。前半戦でも3試合ほどいい内容のピッチングがあったが勝ち運に恵まれなかっただけ。ピッチングコーチもあいつはスタミナがあるといっているしね。それにきのう連敗から抜け出し、ミーティングできょうから新しい力を盛り込んでいこうと話し合ったばかりですからね」と新人の出現に大喜び。一方、中日の水原監督は外山を打ち込めない味方打線にごうをにやし九回はコーチボックスを森下コーチに渡してベンチへ。ギブアップしない野球の水原監督をついにベンチに引っ込ませてしまうほどの外山の好投だった。
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寺沢高栄

2017-12-09 21:25:41 | 日記
1966年

レギュラーのうち三年生は二人だけの若いチーム。もろい半面、波に乗れば期待できる。エース寺沢は、上背もあり、投げおろす速球とカーブにかなりの威力がある。春は試合の後半にスタミナ不足から打ち込まれたが、夏はとりわけそれが心配だ。
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長島哲郎

2017-12-09 20:32:05 | 日記
1982年

まるで降ってわいたようなスターの座に、長島は戸惑いの表情を浮かべている。「ピンときませんね。ずい分プロのスカウトが見にきてくれているのは知っていましたけど・・・」無理もない。ほとんど実績もないのに、昨年秋の明治神宮大会でたった一試合の力投が認められて一躍、プロのスカウトからマークされたのだから・・・。仙台育英時代は、書道部に籍を置き、野球部には縁がなかった。その間、早朝野球に借り出されてマウンドを踏み、もっぱら腹の出たオッサン相手に投げていた。「小学校の時ジン臓を痛めてしまったんです。あれは一回ならいいが、二度もやると危ないんですってね。それで野球はダメとあきらめていた。おまけにからだが170㌢ないし、体力的にもついていけないと思った」が、早朝野球ではいつもヒーロー。一度など、相手がかすりもしないので頭にきてしまい、途中で棄権してしまったこともある。それでも、そのうち体がどんどん大きくなり、ようやく野球を本格的にやってみようと考えた時、はじめて自分の置かれている立場を認識した。進学しようにも早朝野球のおかげで勉強はほとんどせず、受験戦争にも乗り遅れてしまった。東北福祉大の野球部の門をたたいたのは一浪してからで、それも「野球のうまい子がいるのでぜひとって欲しい」と、友人の勧めで菅本監督に紹介された。「入学した当時はブクブクと太り、100㌔近くあって練習にはついてこれなかった。走ってもいつもビリで、続かないんですからね」と菅本監督。野球選手としての基本的な練習は一度も経験していないから当然だ。それでも度胸のよさでは、ひときわ目立った。部員のノド自慢ではいつも先陣を切る。「加山雄三の歌をがなりたてて歌い、次はソフトムードに一変して静かに歌う。これが結構ウケるんですよ」1年生の時、チームは明治神宮大会に出場したが、長島はスタンドから応援。それも応援団長となって、相手スタンドとエールの交換までやってのけた。そして3年目の昨秋は、一躍マウンドのエースとしての登場だ。相手は関西の強豪・近大、主砲の西浦などは関西きってのスラッガーで、全日本の代表打者。その近大をわずか2安打、1失点に抑えるのだからスカウト陣も色めきたつ。おまけに西浦を3球三振に討ちとった豪快なピッチングが、大きな決め手になったようだ。「どこを投げても打たれそうな感じでした。だから、なるべく相手の顔を見ないで投げた。西浦を三振させて自信がついた」183㌢、84㌔という、がっしりとした体格から投げおろすストレートは速い。しかも角度がある。大きく割れるカーブなどあまり使わなくても十分、大学球界では通用する。今秋はチームが10戦全勝。長島は5勝無敗で、うち3完封だ。しかも対仙台大戦では17奪三振をマークし、9連続を含めると二つの奪三振記録をぬり替えてしまった。通算では23勝4敗。全国レベルからいっても、長島の右腕は一級品と見ていいだろう。「相手はボールが速いというので短くバットを持ち、当ててくるだけ。カーブをほとんど使わなくても抑えられる」と、菅本監督は、長島の力量には自信たっぷりだ。東北球界では敵なしの存在でその名も全国的に広がりながら、長島の父親・正さん(58)は、いまだに一度も息子の晴れ姿を目にしたことはない。およそ野球に関しては無関心。「本当にいまどき珍しい人なんです。ウチの子がどうしてそんなに騒がれるのかよくわからないというんですからね」と菅本監督はニガ笑いするが、確かに異色の父子関係だ。最近グラウンドママやパパが多い中で、正さんだけは、練習どころか試合も見たことがないというのだから・・。プロ入りとなるとますます周囲が騒ぎ、長島の名もそれにつれていよいよクローズアップされる。東北福祉大にとっても、これほどのPRはないだろう。「ぼくはパイオニア。ウチの大学にはさんざんお世話になったし、ぼくの名前で役に立つのなら、それでいい」と、長島も割り切って、受けて立つ構えだ。しかし前途洋々とはいえ、多難でもある。練習を少しでも休めば、たちまち太る体質に加え、本格的に野球の練習をはじめてからまだ4年しか経っていない。プロ入りしてからもまず直面しなくてはならないのが、厳しいトレーニングだ。「確かに大変だと思っています。どうせ一年間は一から鍛えてもらわなくてはならないでしょう。デビューするのはそれからでいいんです」計算高さを指摘されるドラフト対象選手が多いといわれるなかで、雑草のようにスクスクと育ってきた長島には、往年のプロで試そうという心意気がある。
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佐々木勝利

2017-12-09 19:02:13 | 日記
1959年

宮古高

二十一年に野球部が創設された戦後派、苦節十三年でこんど甲子園出場権を得た。チームの主柱は佐々木投手で北奥羽の決勝でも打力の八戸高を巧みに押え優勝した。キレのよいドロップと伸びのあるシュートをおりまぜ、県大会、地区大会の両決勝で17三振を奪っている。圧倒的な力強さを持つというチームではないが、まとまりがあり、三番打者木村一塁手の攻守にわたる活躍は大いに期待されるところだ。
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長島哲郎

2017-12-09 18:39:42 | 日記
1981年

ことし仙台六大学リーグで春、秋と連覇、その立役者となったのがエース長島。183㌢の長身から投げ下ろす直球と鋭いカーブが武器で、リーグを代表する本格派投手だ。全日本大学野球選手権への出場をかけた北部地区代表決定戦では富士大(岩手)に惜しくも敗れ、全国大会の夢を断たれたが、秋は秋田経済大(秋田)との代表決定戦に勝って二年ぶり二度目の出場を果たした。初出場の一昨年は1回戦で強豪明大と対戦、五回まで4-2とリードしながら6-15と逆転され、しかも屈辱のコールド負け。全国レベルとの違いを痛感した。このため当時の苦い経験を持つ選手が主力となり、全国でも通じるチーム作りを目指してきた。長島が本格的に野球に取り組んだのは大学に入ってから、まだ球種は少ないが直球にはスピードがあり、神宮大会でも十分通用しそう。ことし六月の早大招待試合では七回から登板、早大打線を相手に被安打1、3奪三振で3イニングを無失点に抑え、自信をつけた。現在、七分の調整段階ながら、ゆったりしたモーションから投げる直球は快い音をミットに響かせている。気懸かりなのはリーグ戦終盤から代表決定戦にかけての連投で、頼みの右腕に疲れが出ていること。しかし千葉幸喜コーチは「マッサージ治療で疲れを取っており、本番には十分間に合う」と快速球復活を信じ、むしろ「代表決定後一ヶ月のブランクで実戦の勘が鈍るのでは・・・」と心配している。課題はこの長島を援護する攻撃陣がもう一つ力不足なこと。リーグ戦ではコツコツと当てて粘り強く得点してきたが、好投手が出そろう神宮大会でもそれが通用するかどうか。リーグ首位打者の大竹、盗塁王の井上の一、二番コンビは出塁率が高いだけに、菅本監督は調子の良い瀬戸、菅野に佐々木を加えたクリーンアップの奮起を期待。機動力を生かそうと代表決定後はバント、エンドランの練習に時間を多く割いている。俊足強肩の外野手をはじめ、内野手も手堅い守りを見せ、不安はない。中央大会では強打者が目白押しで、一昨年の経験から長打対策として内外野のカットプレーを重視している。「うちのチームは先行逃げ切りのパターンで、勝つとすれば小差。失点を最小限に食い止めたい」と菅本監督。そのためにも守りを一層強化しようと特訓を重ねている。「長島はある程度計算できるので、神宮出場経験のあるオレたちが打って援護できれば勝機はある」と岩淵主将はじめナインは悲願の初戦突破に闘志を燃やしている。

東北福祉大のエース長島が強打の近大を2安打に抑えながら1点に泣いた。四回まで無安打にかわし、五回、二死を取って「油断した」ところをつかれ高比羅、西川の八、九番に連続長短打された。「試合前までは神宮で投ばるのが夢だったけど、内容がよかったので勝ちたかった」としきりに悔しがった。仙台育英高時代は書道部に属し、野球を始めたのが大学に入ってからという変り種。183㌢、82㌔と体にも恵まれ、重い球質とナチュラルに変化するシュートを武器に、仙台六大学リーグでは今季7勝無敗と大活躍。「大学生活を充実させようと野球を始めたんですが、勝てば勝つほど面白くなりました。まだ三年ですし、来年の大学選手権にもぜひ出場したい」と目を輝かせた。
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尾西和夫

2017-12-09 17:33:45 | 日記
1970年

中津工

ベスト4に入るチーム。エース尾西はことし春の大会から出場しており、スリークォーターからのシュート、カーブは切れがよく安定してきた。これまでの試合は全部が3点以内に押えている。
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城間盛雅

2017-12-09 17:25:38 | 日記
1973年

阪急はドラフト会議5位指名の城間盛雅投手(20)=名護高出、174㌢、68㌔、右投げ、右打ち=の入団を発表した。城間投手は昭和四十五年、名護高卒、駒沢大中退(二年)。一昨年、阪急のテストを受け、それ以来ずっとテスト生として阪急で練習を続けていた。名護高校時代はあまりパッとした活躍はなく当時監督をしていた宮城鉄夫さん(若夏スポーツ店)の話によると「四十四年から四十五年にかけてエースとして活躍中、ベスト8に進出したことはあるが、それほど目立つ選手ではなかった」という。ただタマは速く、からだもしなやかでバネは抜群だったようだ。異色選手として活躍が期待される。

1969年

城間の右腕がすべて、今大会は一回戦石川のあと二回戦で強豪沖縄ー普天間の勝者と対戦するので苦戦はまぬがれないが、城間が本領を発揮できればかなりの善戦が期待できる。エース城間は身長173㌢、体重66㌔。すばらしく速いタマの持ち主。相変わらず制球に難点はあるが、少しずつよくなっている。最近五試合の成績4勝1敗。平均2点に押えた。外角高めをつく速球、それにドロップの切れ味も鋭い。
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