中山孝一投手
1980年「阪神時代」
・今春、米国テンピ・キャンプで中山は名をあげた。相手は地元の学生チームではあったが、3試合に登板し2勝。「あのときは、たまたまナックルを投げるというので珍しがられ新聞記事になっただけのこと。私の決め球はあくまでも速球。ナックルなんて添えものにすぎない」その速球が公式戦シーズンに入ると冴えをなくした。二軍戦、ここまでわずか4試合に登板したにすぎず、8月の近鉄戦では先発の遠藤をリリーフして5回からマウンドに上がったが四球、安打、四球と続きたちまち降板。いいところなしだった。「今年は自信があった。昨年のようなことは絶対にないと思っていた。だからタイガースのユニフォームを着たのだったが・・」
昨年はヤクルトにいた。南海時代に壊した肩が依然として悪く、二軍でも出番がない状態だった。1シーズンでヤクルトをクビになるが、南海時代世話になった野村克也氏が救いの手を差しのべてくれた。彼はテストを受けタイガース入りした。
「ウエスタンリーグのゲームは数えるほどしか残っていない。自分の存在をアピールする機会もないままシーズンが終わってしまうと思うと気が気ではない」ふっと口をつぐみ、それからぽつんといった。「プロのユニフォームを着れるのも、今年が最後かもしれない・・。」
かって彼には栄光の日々があった。南海時代の1974年から76年まで3年連続二けた勝利。この頃、速球派の変則モーションが特徴の中山はスポーツ紙を盛んに賑わせていたものだった。彼が入団したのが1969年。野村が南海の監督に就任した年だった。入団当時「素人みたいな投球モーションだ」と罵声を浴びたこともある。だが、野村監督は彼の良さを十分に引き出してくれた。監督自らマスクを被っているのだから当然かもしれないが、とにかく彼は野村と二人三脚で投手街道を歩んできた。が、1977年、春のオープン戦で思わぬアクシデントに見舞われた。彼は先発していた。その5回、突然肩がギクンッと鳴った。彼はそれに耐え、その後の2,3ゲームにも続けて登板した。その無理がたたった。ついにボールが1メートルも投げられなくなり当然、ファーム落ちする。翌年もファーム暮らしが続いた。やがて恩師・野村が南海を去り、彼もヤクルトへトレードされた。「ヤクルト時代は惨めだった。まるで投げさせてもらえなかった」。某コーチには「肩が痛むのは、そんな素人みたいなフォームで放っているからだ」といわれ投球フォームの矯正を迫られた。あげくには「こんな投手、誰が獲ってきたんだ」と大きな声でいってるのまで耳にした。やがてタイガース入りした彼は猛然とウエートリフティングをやりだした。「肩を壊して以来、ろくに投げていない。そのため筋肉が衰えている。なんとか肩の筋肉をつけたいと思いウエートリフティングをやり出した」その甲斐あって肩にも大分筋肉がついてきた。次は投げ込みだが、「ヤクルトではメニューが決まっており自主的なトレーニングが制限されたが、その点タイガースは有り難い。思う存分、自分の練習にあてられる」上には南海時代の彼をよく知る藤江投手コーチが変則モーションの復活を温かく見守ってくれている。
「今年クビになればすべてがパーだが、クビさえつながれば来シーズンこそは・・絶対に自信がある」
1980年「阪神時代」
・今春、米国テンピ・キャンプで中山は名をあげた。相手は地元の学生チームではあったが、3試合に登板し2勝。「あのときは、たまたまナックルを投げるというので珍しがられ新聞記事になっただけのこと。私の決め球はあくまでも速球。ナックルなんて添えものにすぎない」その速球が公式戦シーズンに入ると冴えをなくした。二軍戦、ここまでわずか4試合に登板したにすぎず、8月の近鉄戦では先発の遠藤をリリーフして5回からマウンドに上がったが四球、安打、四球と続きたちまち降板。いいところなしだった。「今年は自信があった。昨年のようなことは絶対にないと思っていた。だからタイガースのユニフォームを着たのだったが・・」
昨年はヤクルトにいた。南海時代に壊した肩が依然として悪く、二軍でも出番がない状態だった。1シーズンでヤクルトをクビになるが、南海時代世話になった野村克也氏が救いの手を差しのべてくれた。彼はテストを受けタイガース入りした。
「ウエスタンリーグのゲームは数えるほどしか残っていない。自分の存在をアピールする機会もないままシーズンが終わってしまうと思うと気が気ではない」ふっと口をつぐみ、それからぽつんといった。「プロのユニフォームを着れるのも、今年が最後かもしれない・・。」
かって彼には栄光の日々があった。南海時代の1974年から76年まで3年連続二けた勝利。この頃、速球派の変則モーションが特徴の中山はスポーツ紙を盛んに賑わせていたものだった。彼が入団したのが1969年。野村が南海の監督に就任した年だった。入団当時「素人みたいな投球モーションだ」と罵声を浴びたこともある。だが、野村監督は彼の良さを十分に引き出してくれた。監督自らマスクを被っているのだから当然かもしれないが、とにかく彼は野村と二人三脚で投手街道を歩んできた。が、1977年、春のオープン戦で思わぬアクシデントに見舞われた。彼は先発していた。その5回、突然肩がギクンッと鳴った。彼はそれに耐え、その後の2,3ゲームにも続けて登板した。その無理がたたった。ついにボールが1メートルも投げられなくなり当然、ファーム落ちする。翌年もファーム暮らしが続いた。やがて恩師・野村が南海を去り、彼もヤクルトへトレードされた。「ヤクルト時代は惨めだった。まるで投げさせてもらえなかった」。某コーチには「肩が痛むのは、そんな素人みたいなフォームで放っているからだ」といわれ投球フォームの矯正を迫られた。あげくには「こんな投手、誰が獲ってきたんだ」と大きな声でいってるのまで耳にした。やがてタイガース入りした彼は猛然とウエートリフティングをやりだした。「肩を壊して以来、ろくに投げていない。そのため筋肉が衰えている。なんとか肩の筋肉をつけたいと思いウエートリフティングをやり出した」その甲斐あって肩にも大分筋肉がついてきた。次は投げ込みだが、「ヤクルトではメニューが決まっており自主的なトレーニングが制限されたが、その点タイガースは有り難い。思う存分、自分の練習にあてられる」上には南海時代の彼をよく知る藤江投手コーチが変則モーションの復活を温かく見守ってくれている。
「今年クビになればすべてがパーだが、クビさえつながれば来シーズンこそは・・絶対に自信がある」