プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中山孝一

2017-12-23 23:51:44 | 日記
中山孝一投手
1980年「阪神時代」
・今春、米国テンピ・キャンプで中山は名をあげた。相手は地元の学生チームではあったが、3試合に登板し2勝。「あのときは、たまたまナックルを投げるというので珍しがられ新聞記事になっただけのこと。私の決め球はあくまでも速球。ナックルなんて添えものにすぎない」その速球が公式戦シーズンに入ると冴えをなくした。二軍戦、ここまでわずか4試合に登板したにすぎず、8月の近鉄戦では先発の遠藤をリリーフして5回からマウンドに上がったが四球、安打、四球と続きたちまち降板。いいところなしだった。「今年は自信があった。昨年のようなことは絶対にないと思っていた。だからタイガースのユニフォームを着たのだったが・・」
昨年はヤクルトにいた。南海時代に壊した肩が依然として悪く、二軍でも出番がない状態だった。1シーズンでヤクルトをクビになるが、南海時代世話になった野村克也氏が救いの手を差しのべてくれた。彼はテストを受けタイガース入りした。
「ウエスタンリーグのゲームは数えるほどしか残っていない。自分の存在をアピールする機会もないままシーズンが終わってしまうと思うと気が気ではない」ふっと口をつぐみ、それからぽつんといった。「プロのユニフォームを着れるのも、今年が最後かもしれない・・。」
かって彼には栄光の日々があった。南海時代の1974年から76年まで3年連続二けた勝利。この頃、速球派の変則モーションが特徴の中山はスポーツ紙を盛んに賑わせていたものだった。彼が入団したのが1969年。野村が南海の監督に就任した年だった。入団当時「素人みたいな投球モーションだ」と罵声を浴びたこともある。だが、野村監督は彼の良さを十分に引き出してくれた。監督自らマスクを被っているのだから当然かもしれないが、とにかく彼は野村と二人三脚で投手街道を歩んできた。が、1977年、春のオープン戦で思わぬアクシデントに見舞われた。彼は先発していた。その5回、突然肩がギクンッと鳴った。彼はそれに耐え、その後の2,3ゲームにも続けて登板した。その無理がたたった。ついにボールが1メートルも投げられなくなり当然、ファーム落ちする。翌年もファーム暮らしが続いた。やがて恩師・野村が南海を去り、彼もヤクルトへトレードされた。「ヤクルト時代は惨めだった。まるで投げさせてもらえなかった」。某コーチには「肩が痛むのは、そんな素人みたいなフォームで放っているからだ」といわれ投球フォームの矯正を迫られた。あげくには「こんな投手、誰が獲ってきたんだ」と大きな声でいってるのまで耳にした。やがてタイガース入りした彼は猛然とウエートリフティングをやりだした。「肩を壊して以来、ろくに投げていない。そのため筋肉が衰えている。なんとか肩の筋肉をつけたいと思いウエートリフティングをやり出した」その甲斐あって肩にも大分筋肉がついてきた。次は投げ込みだが、「ヤクルトではメニューが決まっており自主的なトレーニングが制限されたが、その点タイガースは有り難い。思う存分、自分の練習にあてられる」上には南海時代の彼をよく知る藤江投手コーチが変則モーションの復活を温かく見守ってくれている。
「今年クビになればすべてがパーだが、クビさえつながれば来シーズンこそは・・絶対に自信がある」
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西三雄

2017-12-23 18:06:28 | 日記
1961年

ノンプロ丸善石油の西三雄投手(24)の大毎入りがこのほどきまった。都市対抗野球準々決勝で日生(大阪市)に敗れた三日夜、大毎・青木チーフ・マネジャーと最終的な話し合いをした結果、入団を決意したもの。

大毎は以前から西投手と交渉をもったが一時肩をこわしたため中断した。しかし一昨年はプロ入りする場合には大毎にいくという一礼をとっているほどで、有利な立場にあった。大洋も相当のところまで食いこんだが、球団の都合で一週間ほど前に手を引いた。他には広島、近鉄、阪急が交渉していた。

大毎・松浦代表「西は大映時代からウチが交渉をもってきた選手で去年も大毎ならいってもいいと本人がもらしていたそうだ。丸善の世話になっていた父親が定年で退職したのでプロ入りに踏みきったのだろう。ことしも六つの球団から誘われていたようだが、スカウトからの報告では大毎に内定の線が出た。

西三雄投手略歴 昭和三十二年大成高(和歌山県)から丸善石油入社。元阪神・西五十六投手の実弟。三十二年秋の産業対抗に優勝、三十回(三十四年)都市対抗でも優勝し橋戸賞、打撃賞を獲得している。スリークォーターの右腕をたたきつけるようなフォーム。クロスファイアー気味に外角を攻めるストレートに威力がある。1㍍70、66㌔、右投右打。
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田中辰次

2017-12-23 13:31:00 | 日記
1965年

大阪府堺市中田出井町三丁目七二番地出身。三国ヶ丘中から興国商へ進み、三十八年同校卒業後ノンプロ鷲宮製作所へ入社した。広島の雑賀は興国商の同期。興国商一年までは三塁手だったが、二年から遊撃に転向して通算3割2分を打っている。鷲宮製作所での通算打率はちょうど3割。今夏の都市対抗野球で立正佼成会の補強選手となった。堺市の実家には母芳江さん(50)がおり、父親は田中の三歳のとき死亡。「いままで母に苦労をかけたので親孝行したい」といっている。
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迫田七郎

2017-12-23 13:12:37 | 日記
1971年「中日時代」
・今シーズンの中途に、ロッテから移籍した迫田投手が、ウェスタンリーグの広島5回戦で初めて完投勝ちした。これで4試合に登板して2勝目。迫田といえば今季で8年目になる古参格の一人。移籍したとき「もうヒジの方は大丈夫。中日には同郷の川畑もいるので心強い」と語っていたが、即戦力としてすぐ一軍のゲームで使うのが目的で獲得したはずの投手である。ところが、まだ一軍戦には登板せず、もっぱらのファーム暮らしだ。これを見て、「すぐ公式戦で使えないピッチャーをどうして獲ったのだろう?」と不審がる人も多い。完投した、この広島戦も終盤に球速が目立った落ち、やっとの思いで逃げ込んだもの。ネット裏では「あの程度では一軍ではちょっとムリ」という見方が多かったようだが・・。球団首脳は、一体どう考えているのか・・・。
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