プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小林敦美

2017-12-24 19:31:33 | 日記
1989年

なぜ一軍で活躍できないのか不思議な投手。ストレートは速く、得意のフォークも鋭い。入団1年目(84)の5月28日対日ハム戦に完封勝ちして以来、勝ち星に恵まれない。力に頼り過ぎるきらいがあり、冷静なピッチングを心掛けたい。羊の皮をかぶった狼になろう。
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関口朋幸

2017-12-24 19:27:35 | 日記
1989年

投手としての苦汁をすべて舐めた苦労人。昨年は気持が守りに入ったのか本来の調子が出せないまま終った。しかし、21試合19、2/3イニングを投げ、自責点4、防御率1.83と残した成績は立派なもの。これで2年連続防御率1点台をキープ。サイドからのシンカー、スライダーを駆使し、1点もやらないピッチングは今年も健在。
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山本和男

2017-12-24 19:21:56 | 日記
1989年

左の貴重な中継ぎとして広島カープから移籍してきたベテラン投手。プロ入り8年で通算8勝4敗防御率3.53をマーク、常に一軍で投げ続けてきた実績の持ち主。内外角にスライダー、シュートを巧みに投げ分ける投球術はまだまだ衰えを見せない。「優勝に中継ぎで貢献したい」とカズさんは意欲満々。新天地オリックスの水にすっかり慣れた。
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関清和

2017-12-24 19:18:34 | 日記
1989年

1年目、2年目と同期の西崎、阿波野におくれをとったが、今年こそ飛躍の年。速球と和製トムシーバーの異名もとった切れのいいスライダーを武器にローテーションの仲間入り。一気に2ケタ勝利も夢ではない。
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飯尾為男

2017-12-24 19:15:39 | 日記
1963年

阪神は飯尾為男投手(30)の整理を決めた。同投手は十二試合に登板して勝敗なし。前半戦はもっぱら負けている試合のリリーフ、後半戦はファーム落ちしていた。また飯尾投手以外の59選手全員の第一次保留名簿を15日セ・リーグに提出した。
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ホフマン

2017-12-24 19:04:22 | 日記
1989年

大リーグ通算17勝の実績を持つ、オリックス期待の左腕投手、カーブ、シュート、スライダー、チェンジアップと多彩な変化球に加え、140㌔台の重いストレートを武器に、一昨年レッズで9勝をマーク。外人としては小柄(178cm)ながら、下半身が安定しており、内外角へ投げ分けるコントロールは絶妙。先発組(佐藤、山沖、星野、古溝)にホフマンが加わり、これで5本柱が完成。「日本人向きのピッチャーだ。最低2ケタは期待できる。エエで」上田監督もまんざらでもなさそう。門田効果が打線に与えた影響は大きいが、ホフマン加入による投手陣のそれもまた大きい。大リーグ仕込みのチェンジ・アップを学ぼうと、エース佐藤自ら教えを受けた。「マスターできそうだ。今年は打たせて取る幅の広いピッチングをする」と佐藤も意欲満々。一見神経質そうだが、根はいたって陽気なジェントルマン。優勝のカギを握る男ホフマンはもうチームの空気にすっかり溶け込んだ。
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迫田七郎

2017-12-24 16:34:24 | 日記
1965年

「負けたくなかった。そう思って必死に投げた」きっぱりそういった。池永正を意識したか、の質問には口をつぐんだ。負けたくなかった、というのは、もちろん池永正をさしている。シーズン初めこういっていた。「ぼくはテスト生。高い契約金をもらってプロにはいった人には絶対負けたくない。テスト生あがりでこれだけやれるんだ、というところを見せてやりたい」相手はその高い契約金でプロ入りした池永正。闘志がわいたに違いない。きゃしゃなからだつき、子供っぽい顔。だが、からだの中には気の強い薩摩っぽの血が流れている。池永正と並んで6勝。新人王争いは激しくなってきた。「新人王?池永正?関係ない。ひとつでも多く勝てば、それでいいんです」新人王のライバル池永正のことにはふれたがらない。池永正の名前を聞くたびにふくれっつらをしてプイと横を向く。「はじめて池永正と顔合わせをしたんです。勝ったといったって・・・。この次はぼくが負けるかもしれません。池永正はきっときやしがっているでしょう。その気持ちを次はぼくが味わうことになるかもしれないですよ。そんなにいばれませんよ」池永正のことより、久しぶりに満足のいく投球ができたことの方がうれしいといった。「スライダーがよかった。五番までを警戒したんです。チームが負けつづけていたでしょう。また負けたらたいへんだと思っていた。よかったな、勝てて」最後にやっと笑顔を見せた。
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迫田七郎

2017-12-24 16:03:30 | 日記
1963年

大毎は十六日、東京スタジアム内の球団事務所で静甲いすゞの須藤鉄男投手ら三選手の入団を発表した。

投手 須藤鉄男(19)藤枝北高ーノンプロ静甲いすゞ、1㍍76、72㌔、右投右打。
迫田七郎(18)照国商、1㍍76、76㌔、右投右打。
内野手 林孝彦(19)大谷高ー京都大丸、1㍍74、76㌔、右投右打。
三選手とも背番号は未定。研修期間は百試合。

1965年

「勝ちたい、勝利投手になれるなら少しぐらい打たれてもかなわない。ゆうべは下宿の寝床の中で神にそう祈りました」プロにはいってはじめて味わった勝利投手の喜び。しかも完封というおまけつき。一昨年テストで入団し、とうとうつかんだ勝利投手の実感。目だけをギラギラさせた。「うれしい。そういう以外にどういっていいかわかりません。低めにボールを集めたのがよかったようです」武器は落ちる球。意識しないでも自然に落ちてしまうという。「おもしろいピッチャーをみつけたぞ。ボールがみんな沈むんだ。ひょっとするとこれは大物になる」一昨年秋のテストのあと、青木スカウトが得意そうに迫田のことをいっていた。故郷は鹿児島。「鹿児島市からちょっとはずれた海辺の町で育ちました」子供のとき、海が大好きでよく舟をこいで沖まで出たそうだ。うすい胸板や細い手足からは想像もつかない下半身。とくに腰のバネはこんな少年時代の海の生活の結果だ。投手が一番スタミナをつかう落ちる球を連投してもちっともヘバらない秘密がこんなところにあるのかもしれない。「オープン戦で東映には完投勝ちしているので、ちょっと自信はあったんですけど・・・。安打を六本打たれたが、みんな高めにはいった球。低めのストライクは一本も打たれませんでした」はずかしそうに小さな声でそういった。「やっとひとつ勝ってすごく気が楽になったような気もする。でも、もっともっと勝ちたいな」ことしの二月に二十歳になったばかり。口調にもまだあどけなさが残っている。ことしキャンプからつきっきりで世話をやいていきた真田コーチは「性格もまじめで努力家だ。いい球を持っているし、いまのまま努力と研究を重ねていけば、新人王はとれる。オレがとらせてやるさ。いや、黙っていてもきっととるに違いない」という。「新人王?そんなこといわないでください。やっとひとつ勝てただけなのに・・・」迫田は赤くなって下を向いてしまった。1㍍71、70㌔、右投右打。

芦屋の竹園旅館から甲子園の屋内練習場へ向かうバス。迫田は若い選手が集まる一番あとの席にすわった。昨年イースタン・リーグで12勝した二軍のエースも、一軍ではまだ新人。ボール運びも進んでやることし二十歳の青年だ。二十五日の東映戦(東京)で水原監督自慢の5点とれる左打線をみごとに完封してプロ入り初白星をあげ、一躍小山、坂井につぐ第三の投手に名のり出た。投球練習を始めると真田、植村コーチとナインの視線が集まる。打席に立った大沢は、外角球のときはよかったが、迫田の武器のシュートになると逃げ出した。「この球はどうやって打ったらいいんだ。とても手が出んぜ」「ほんとうにいい球を持っているよ」と本堂監督も満足気にうなずいた。投手としては小柄(1㍍75)。スピードも西、牧には一歩ゆずる。だが、真田コーチは「投手には決め球が必要だ。サコにはそれがある。去年より技術的にとくに向上したわけではないが、データなどで打者のクセをよく覚えている。度胸もあるし、自信をつけたのも大きい」と研究熱心をほめる。迫田の成長をいちばん喜んでいるのが植村コーチだ。昨年春、ハワイに行けなかった残留組の川口キャンプ。残された四人の投手の中に迫田がいた。寒い北風の中、ディサのお古のユニホームを着た迫田に植村コーチはつきっきりだった。「自然に沈む独得の球がおもしろい。テスト生だしぶっこわしてもともと」5㍍ほど前においたボールめがけて投げつける。腰を入れるための投球練習が毎日続いた。背番号43がクルリと打者の方を向く鋭いフォームはこのときでき上がった。「ボクは野球が好きでテストを受けた。高い契約金ではいった選手にも絶対負けたくない。東映戦での1勝はほんとうにうれしかった。きのうにいさんの家(大阪市此花区)に行ったら喜んでくれた。そのときほんとうの勝利の実感がわいてきましたね」兄の賢蔵氏は、迫田が鹿児島・照国高を卒業したあと一時つとめた鉄工所で働いている。「サコに新人王をとらせるのがことしのワシの仕事のひとつ。それだけの力はある」と本人以上に意気込んでいる真田コーチ。この期待にこたえるための条件をコントロールをみがくことと真田コーチ、本堂監督は口をそろえた。
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中山孝一

2017-12-23 23:51:44 | 日記
中山孝一投手
1980年「阪神時代」
・今春、米国テンピ・キャンプで中山は名をあげた。相手は地元の学生チームではあったが、3試合に登板し2勝。「あのときは、たまたまナックルを投げるというので珍しがられ新聞記事になっただけのこと。私の決め球はあくまでも速球。ナックルなんて添えものにすぎない」その速球が公式戦シーズンに入ると冴えをなくした。二軍戦、ここまでわずか4試合に登板したにすぎず、8月の近鉄戦では先発の遠藤をリリーフして5回からマウンドに上がったが四球、安打、四球と続きたちまち降板。いいところなしだった。「今年は自信があった。昨年のようなことは絶対にないと思っていた。だからタイガースのユニフォームを着たのだったが・・」
昨年はヤクルトにいた。南海時代に壊した肩が依然として悪く、二軍でも出番がない状態だった。1シーズンでヤクルトをクビになるが、南海時代世話になった野村克也氏が救いの手を差しのべてくれた。彼はテストを受けタイガース入りした。
「ウエスタンリーグのゲームは数えるほどしか残っていない。自分の存在をアピールする機会もないままシーズンが終わってしまうと思うと気が気ではない」ふっと口をつぐみ、それからぽつんといった。「プロのユニフォームを着れるのも、今年が最後かもしれない・・。」
かって彼には栄光の日々があった。南海時代の1974年から76年まで3年連続二けた勝利。この頃、速球派の変則モーションが特徴の中山はスポーツ紙を盛んに賑わせていたものだった。彼が入団したのが1969年。野村が南海の監督に就任した年だった。入団当時「素人みたいな投球モーションだ」と罵声を浴びたこともある。だが、野村監督は彼の良さを十分に引き出してくれた。監督自らマスクを被っているのだから当然かもしれないが、とにかく彼は野村と二人三脚で投手街道を歩んできた。が、1977年、春のオープン戦で思わぬアクシデントに見舞われた。彼は先発していた。その5回、突然肩がギクンッと鳴った。彼はそれに耐え、その後の2,3ゲームにも続けて登板した。その無理がたたった。ついにボールが1メートルも投げられなくなり当然、ファーム落ちする。翌年もファーム暮らしが続いた。やがて恩師・野村が南海を去り、彼もヤクルトへトレードされた。「ヤクルト時代は惨めだった。まるで投げさせてもらえなかった」。某コーチには「肩が痛むのは、そんな素人みたいなフォームで放っているからだ」といわれ投球フォームの矯正を迫られた。あげくには「こんな投手、誰が獲ってきたんだ」と大きな声でいってるのまで耳にした。やがてタイガース入りした彼は猛然とウエートリフティングをやりだした。「肩を壊して以来、ろくに投げていない。そのため筋肉が衰えている。なんとか肩の筋肉をつけたいと思いウエートリフティングをやり出した」その甲斐あって肩にも大分筋肉がついてきた。次は投げ込みだが、「ヤクルトではメニューが決まっており自主的なトレーニングが制限されたが、その点タイガースは有り難い。思う存分、自分の練習にあてられる」上には南海時代の彼をよく知る藤江投手コーチが変則モーションの復活を温かく見守ってくれている。
「今年クビになればすべてがパーだが、クビさえつながれば来シーズンこそは・・絶対に自信がある」
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西三雄

2017-12-23 18:06:28 | 日記
1961年

ノンプロ丸善石油の西三雄投手(24)の大毎入りがこのほどきまった。都市対抗野球準々決勝で日生(大阪市)に敗れた三日夜、大毎・青木チーフ・マネジャーと最終的な話し合いをした結果、入団を決意したもの。

大毎は以前から西投手と交渉をもったが一時肩をこわしたため中断した。しかし一昨年はプロ入りする場合には大毎にいくという一礼をとっているほどで、有利な立場にあった。大洋も相当のところまで食いこんだが、球団の都合で一週間ほど前に手を引いた。他には広島、近鉄、阪急が交渉していた。

大毎・松浦代表「西は大映時代からウチが交渉をもってきた選手で去年も大毎ならいってもいいと本人がもらしていたそうだ。丸善の世話になっていた父親が定年で退職したのでプロ入りに踏みきったのだろう。ことしも六つの球団から誘われていたようだが、スカウトからの報告では大毎に内定の線が出た。

西三雄投手略歴 昭和三十二年大成高(和歌山県)から丸善石油入社。元阪神・西五十六投手の実弟。三十二年秋の産業対抗に優勝、三十回(三十四年)都市対抗でも優勝し橋戸賞、打撃賞を獲得している。スリークォーターの右腕をたたきつけるようなフォーム。クロスファイアー気味に外角を攻めるストレートに威力がある。1㍍70、66㌔、右投右打。
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田中辰次

2017-12-23 13:31:00 | 日記
1965年

大阪府堺市中田出井町三丁目七二番地出身。三国ヶ丘中から興国商へ進み、三十八年同校卒業後ノンプロ鷲宮製作所へ入社した。広島の雑賀は興国商の同期。興国商一年までは三塁手だったが、二年から遊撃に転向して通算3割2分を打っている。鷲宮製作所での通算打率はちょうど3割。今夏の都市対抗野球で立正佼成会の補強選手となった。堺市の実家には母芳江さん(50)がおり、父親は田中の三歳のとき死亡。「いままで母に苦労をかけたので親孝行したい」といっている。
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迫田七郎

2017-12-23 13:12:37 | 日記
1971年「中日時代」
・今シーズンの中途に、ロッテから移籍した迫田投手が、ウェスタンリーグの広島5回戦で初めて完投勝ちした。これで4試合に登板して2勝目。迫田といえば今季で8年目になる古参格の一人。移籍したとき「もうヒジの方は大丈夫。中日には同郷の川畑もいるので心強い」と語っていたが、即戦力としてすぐ一軍のゲームで使うのが目的で獲得したはずの投手である。ところが、まだ一軍戦には登板せず、もっぱらのファーム暮らしだ。これを見て、「すぐ公式戦で使えないピッチャーをどうして獲ったのだろう?」と不審がる人も多い。完投した、この広島戦も終盤に球速が目立った落ち、やっとの思いで逃げ込んだもの。ネット裏では「あの程度では一軍ではちょっとムリ」という見方が多かったようだが・・。球団首脳は、一体どう考えているのか・・・。
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半沢士郎

2017-12-22 23:13:57 | 日記
1963年

鎌倉学園の半沢士郎投手(18)=1㍍84、81㌔、右投右打=は、巨人、国鉄、中日、大洋、大毎、東映の六球団から誘われていたが六日国鉄入りがきまり、近日中に契約する。同投手は高校野球神奈川県予選準決勝で、同地区の代表になった横浜高に敗れたが昨年大毎入りした先輩の永田投手より大物といわれている。予選をみた国鉄・西垣球団重役はさっそく横須賀市馬堀1の9の実家に父親定吉さんをたずね交渉を始めた。他球団も前後して誘いはじめたが「別所君(元巨人、評論家)ぐらいに育ててみせる」という西垣重役の熱意に父親定吉さんも半沢投手も国鉄へ大きく傾いた。いつかの親族会議では進学の意見も強かったが、本人のプロ入りの希望が強く、国鉄入りにふみきったもの。巨人は青木スカウトが五日実家をたずねて巻き返しにでたが断られた。

父親定吉さん「とにかく末の子供ですから金銭的なことよりも、信頼できる人のところへ士郎をあずけたいと思う。その点、国鉄の西垣さんならだいじょうぶと信じています。ほかのスカウトの方もいろいろみえましたが、国鉄以外のところは考えていません」

半沢投手「プロへはいるようなら国鉄以外ありません。西垣さんのようなりっぱな方に誘っていただいたのは光栄です。きょうからでも国鉄の大倉グラウンドで練習したい気持ちになっています」
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縄田洋海

2017-12-18 21:32:46 | 日記
1970年

西鉄ライオンズはノンプロ八幡製鉄の縄田洋海投手(25)=右投げ右打ち、身長173㌢、体重70㌔=を獲得した。同投手は家庭の事情ですでに同社を円満退社している。西鉄ライオンズの城島渉外課長は同投手の入団希望もあって獲得交渉を行ってきたが、九日午前、同投手の同意を得た。同投手は福岡第一高から八幡大学へ進学、九州六大学野球リーグ戦では昭和四十一年春、同年秋、同四十二年の春と三回連続最優秀選手に選ばれ、同野球部の主力投手として活躍していた。なお、同選手は十日午後、福岡市天神の西鉄球団事務所で正式契約、十一日から西鉄の島原キャンプに参加する予定。縄田投手は九州六大学野球リーグからのプロ入り第一号選手。縄田投手の西鉄入りは突然だった。西鉄が勧誘に乗り出したのが一月三十一日。縄田投手が八幡製鉄を退職すると聞いて、さっそく城島渉外課長が乗り出した。このとき、同投手はすでに八幡製鉄野球部に退部を願い出ていた。八幡製鉄は極力慰留に努めたが、同投手の決意は堅かった。家庭の事情もあったが、プロで自分の力をためしたいという野球への情熱があったようだ。西鉄としては、八幡製鉄野球部に迷惑をかけてはいけないと慎重だったが、縄田投手は自分の意思で西鉄入りに踏み切った。「思いがけないスカウティングだった」城島渉外課長がこう語るのも無理はない。一昨年、同投手が九州六大学野球最後のシーズンを迎えたとき、すでに二、三のプロ球団が目をつけていた。だが、当時は体力的には恵まれず「素質はあるのだが、ここ二、三年間はノンプロでみがきをかけたほうがいい」と見送られている。この一年間、縄田投手の体格は見違えるほどたくましくなった。オーバーハンドからきれいなフォーム、得意の快速球が一段と威力を増している。西鉄としては「できれば、今秋のドラフト会議でリストアップする予定」だったそうである。

縄田投手の話 西鉄入りを決心しました。やる以上は死にもの狂いでやります。

城島渉外課長の話 突然プロでやりたいという話を聞いた。八幡製鉄に迷惑をかけてはと思って、円満退社するのを待っていた。十分期待してよいと思う。

稲尾監督の話 八幡にいい投手がいると聞いていた。素質のある投手ということだし、期待している。
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阿部八郎

2017-12-17 23:10:08 | 日記
1953年

七月十六日に彼としては一年半ぶりの一勝を毎日からあげ、十九日には近鉄にも勝って鮮やかなカムバックぶりを見せている。近鉄、大映につぎ阪急がパ・リーグの第三の旋風を巻きおこそうとしている。阿部の復調が浜崎監督をいよいよ強気にしているわけ。「去年の冬のトレーニング中全員がレントゲン写真を撮ったのだが、それに不合格で入院した別にどこといって悪くなく、寝たり起きたり今年のキャンプのときも早く球を握りたいので毎日のように球場へ通ったが、おやじ(浜崎監督)からお前は俺のいうことはきかないでいい先生のいうことさえきいておれば、といわれて悲しくなった」という。阪急入団が廿三年冬、それまでは福島日東紡におり、都市対抗に出場したこともある。「森さん(森弘太郎=元阪急投手)の勧めで入ったが、一年でお払い箱だろうと思っていた」そうだ。廿五年に14勝をあげてこの田舎者なかなかやるわいと注目され、廿六年にも阪急最多勝の12勝を稼いで忽ちエース。サウスポー独得のシュート一本槍で打者に立ち向かうが、技巧を持ち合わせていない。廿六年には監督と衝突、野球をやめようかと思ったこともあったが、やはり若気の至りと反省したという。その性格がピッチングに反映されているのかもしれない。一年半ぶりの阿部はカーブにこそまだ鋭さを欠いているが、低目をつく速球は往年の威力を再現している。浜崎監督は「病気はもうすっかり治っているようだが、この病気(胸部疾患)は梅雨のときが一番危険だ。梅雨があがれば本人も心配しないで投げられるようになるだろう。優勝チームには必ず優秀な左投手がいるもので、ウチの阿部がやってくれたならば、優勝も夢ではなくなる」とむろんすこぶる気が強い。今シーズンの目標は「天保、柴田、池田さんらを助けて六、七勝できればと思う。まだ若いんだからここ当分は生じっか技巧を非せず、真正面から打者とぶつかる。しかし中西、豊田らの若手の進出は凄いですね。あれでは素直な球ではいかれてしまうね」と不安そう。廿九歳。
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