プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

藤本和宏

2017-12-06 20:50:13 | 日記
投球フォーム・・・左オーバースローの本格派

球種・・・左腕特有の内角をえぐるストレートが最大の武器、大きなカーブ、シュート

1970年
「うちにも秘密兵器がある」と備前コーチがしきりにPRしているのが藤本和宏投手。ドラフトで指名した新人ではない、プロのメシを3年間も食ってきた男だ。その意味では新鮮さには欠けるが素質は「なんで西鉄が手放したのか分からん」とカープ首脳陣にいわせるほど。昨年の暮れ西鉄をクビになったところをカープが拾った。「左のワンポイント」を欲しがっていたカープには貴重な戦力である。175センチ・80キロの体つきが「炭酸」でふくらませた感じということから「タンサン」の愛称をつけられた。見た目には派手さはないがピッチングは「タンサン」どころか、タマはめっぽう速い。3月15日現在、オープン戦3試合に登板、15イニングで自責点3、三振14を奪っている。「走者を置いての投球もうまくなった。これで先発・完投の目算がついた」と根本監督の期待も大きい。

1971年・8月19日の中日戦ではノーヒット・ノーランを達成している。その2日後の8月21日には藤本の古巣・西鉄が
高橋善正投手「東映」にパーフェクトゲームをやられている。
Q・ノーヒットノーランを達成した時の気持ちは?

藤本・・・「まさか、ボクが達成できるなんて思っていなかったですからね。しかも最後のダブルプレーは相手走者のミスに助けられたので、あっけない幕切れでしたね」

Q・何回ころから意識したか?

藤本・・・「やっぱり7回頃からですね。打順も1番から始まるし、7,8回に気をつかいましたよ」



・1971年
広島の藤本が防御率1位に輝いた。10月5日の阪神戦で先発、9回を1点に抑え自責点は1.この結果2位の坂井「大洋」が
9回を完封しても藤本に及ばないことから、このタイトルをほぼ手中にした。野球からダメを押された男が、10勝、ノーヒット・ノーラン
、防御率1位と「自分の人生で、これほど感激に満ちた年が、これからもあるだろうか・・・」と藤本の表情は充実感でいっぱいだった。
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石塚雅二

2017-12-06 20:49:13 | 日記
1970年
・「ボクは野球が好きだ。どうしても、もう一度ユニフォームを着たい」
元グローバル・リーグ日本チームの石塚雅二捕手「22歳」は捨てがたい野球への情熱に燃えた。スポーツ新聞がプロ野球の自主トレーニングを伝え、球春の幕があいた1月中旬、「よしーーー」。決意すると行動は早い。
茨城県石岡市泉町で実家の商売を手伝っていた石塚は、単身ヤクルトのテストを受けに上京した。男ばかりの三人兄弟の次男という比較的、自由な環境にあったからだ。「グローバルで経験した苦しさを忘れなければ、絶対にやれると思っていた。ちょうどチームメイトだった辻もテストに参加していたし、二人でがんばろうと話し合ったものです」第一関門は通過した。「佐伯キャンプでしばらく様子をみて採否を決めよう」球団は費用も負担して佐伯行きを許したのである。佐伯ではブルペンで各投手のタマを受けた。加藤をはじめドラフト1位の八重樫など、ずらりと並んだ8人の捕手陣。このなかにまじって黙々と捕球ひとすじに専念した。
2月11日はキャンプ初の休日。その翌日から三日間、石塚はグローバルでいっしょだった同僚の辻と、ともに練習が終わったグラウンドでテストを受けた。バッティング、二塁送球・・。とくべつに目立つものはないが、そつなくこなした。
「あのときが一番不安だった。入試の発表を待つ受験生のような気持ちでした。これがユニフォームを着られるか、だめになるか一生で一度のチャンス、と思うと毎晩、眠れなかった」15日には、立場はちがうが、腰つい分離症の回復状態で現役復帰テストを受けていた西園寺のカムバックが決まった。しかし、石塚にはなんの通知もない。16日、不安な気持ちのままグラウンドにでたとき、朗報が待っていた。「石塚は採用する。辻はレントゲン検査の結果、第五腰つい分離症があり、不採用」。
石塚は内心、飛び上がりたいほどうれしかった。だが辻の心境を考えると、それはできなかった。お互いに佐伯までいっしょにやってきた友だちだった。ところが意外に辻はさばさばした顔をしていた。「自分では気がつかなかったが、レントゲンで悪いのがわかってよかった。知らずに野球をやっていたら、たいへんだった。むしろ、きっぱりあきらめがついた。石塚、お前はがんばってくれョ」
石塚は心の中で約束した。「きっとやってみせるぞ」。
日大三高に入学した2年生の39年、正捕手として春のセンバツ甲子園に出場、卒業後はノンプロの三菱重工川崎に籍を置いた。5番を打ったり、下位にさがったり、バッティングは安定しなかった。グローバル・リーグ、日本チームの結成に飛びこんだときには、4番を打っていた。「家が材木商をやっていなかったら、ずっとノンプロでサラリーマンをやっていたでしょう。さんざん苦労はしたけどアメリカの旅行もできたし、こんどはプロの一員になれた。レギュラーの道は遠いでしょうが、なんとかベンチにはいれるよう努力します」。
背番号は「74」。ずんぐりした、みるからに捕手タイプの石塚は、黒光りする顔の汗をぬぐうと、しっかと、マスクをかぶった。
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パームキスト

2017-12-06 19:57:04 | 日記
1963年

大毎・永田会長は米大リーグ、ドジャースのオマリー会長に内野手と投手のあっせんを依頼していたが、このほど、同会長から連絡がありことしワシントン・セネタースの自由契約選手となったエドウィン・パームキスト投手(29)の来日が確定的となった。同投手のことしの成績は不明だが、昨年はツインズで27試合に登板して1勝1敗、中途で移籍したドジャースで5試合1敗。防御率6.00の成績だった。また内野手については元セネタースのオコンネル遊撃手をねらっていたが、家庭の都合で来日が不可能となったため、オマリー会長は別に適当な選手をあっせんすることを約束した。最悪の場合にド軍のファームから二年間借りることになる模様。

本堂監督「アメリカからは内野手がほしいが、投手もとれれば都合がいい。パームキストはのぼり調子でド軍のスカウトも一年ファームにいれば大リーグ入りは確実とみてるそうだから、来てくれれば大きな戦力になるだろう」

松浦代表「オマリー会長の話だとパームキストは一年間なら日本にいっていいといってるそうだ。というのは二年間大リーグにいて不調だったが、最近調子をあげており、来年一年ファームにいればその翌年は確実に大リーグにカムバックできる状態らしい。ファームにいるくらいなら日本にきて実績をあげて帰ろうという気持ちなので、多分来てくれるだろう。内野手の方はまだ名前はでていない。オコンネルが来てくれれば一番よかったのだが・・・」

大毎入りした元大リーグ、ツインズのエド・パームキスト投手は十二日空路九州入り午後一時半島原に到着した。宿舎についたパームキストは「日本は寒い」と部屋にとじこもっていたが、ナインが練習を終え帰ってくると「みなさん、どうぞよろしく」と覚えたての日本語であいさつ、あいきょうをふりまいた。和服姿の本堂監督と握手。本堂監督に「日本の野球をなめたらダメだ。オレは大リーガーだという気持ちを捨て、新しく出発してほしい」とハッパをかけられ「日本のレベルが高いことは友だちのミケンズから聞いてよく知っている。一生懸命やる」と真剣な表情。「キャンプの間に体重はベストの95㌔にする」といっていた。植村コーチは「十三日からシート・バッティングに投げさせる」といっている。
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