プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山本桂

2021-01-18 12:47:47 | 日記

1977年


日本ハムからドラフト指名を受けていた谷村工高の山本桂選手は八日、同校で球団側と正式に契約を取り交わした。山本選手は来年六月ごろ、米大リーグ・ニューヨークヤンキースの野球留学候補の一人に挙げられ、将来、大型内野手に予定されている。

 

山本選手は、都留二中から本格的に野球を始め中学時代は投手で、一年生からレギュラー。谷村工高では投手とライトを守り、三、四番を打っていた。チームの球運に恵まれず全国大会などへの出場経験はないが、大物打者として早くから注目され、ことし六月ごろからプロ野球の全球団のスカウトが訪れていた。先のドラフト会議では、日本ハムが三位で指名、交渉権を得ていた。八日は午後二時から同校応接室で、契約を済ませた後、記者会見をした。嘉村春男校長、長田実野球部監督、丸尾千年次スカウト顧問、父親・貢さん(54)=建設業=に囲まれた山本選手は「ドラフト前からプロに行きたかった。中日の大島選手が好きで、入る限りは全力を尽くしてレギュラーを目指す」と緊張気味に語った。丸尾スカウト顧問は「大型内野手として、サードのコンバートを考える。六月ごろ予定しているニューヨークヤンキースへの留学候補の一人である」と将来の構想を話した。同選手は来年二月の春のキャンプに参加する予定。同選手の契約金は千五百万円、年棒百八十万円(いずれも推定)、ことしの県内高校球児のプロ入りは都留高・佐々木伸投手の広島入団に次いで二人目、日本ハムには都留高ー立大出身の矢頭高雄コーチがいる。

 

山本桂(やまもとかつら)選手 身長183㌢、体重78㌔、右投げ右打ち。高校時代の公式戦通算打率は約3割、本塁打は場外ホーマーを含む5本。都留市つる二丁目。

 

丸尾千年次・日本ハムスカウト顧問の話 すべてが未完成だが、俊足でバッティング、肩がよい。選手としてすべての面を備えている素材である。五、六位の指名が順当なのだが、三位指名にした。

 

長田実・谷村工監督の話 素質はある。甘い考えでなくピチッとした考えを持ち、レギュラーになって欲しい。谷村工の野球の発展につながる。

 

父親・山本貢さんの話 本人の希望通りにさせる考えだった。プロに入ってからは、一生懸命に練習してレギュラーになって欲しい。

 

嘉村春男校長の話 学校として初めてのことで喜んでいる。プロの世界は厳しいが、初心を固めて名前をあげて欲しい。

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サンギルベルト

2021-01-18 12:30:19 | 日記

1992年


広島は十二日、ドミニカ共和国の野球アカデミー出身で支配下選手登録していたロビンソン・チェコ投手(20)とルイス・ぺレス内野手(21)を任意引退とし、新たにマリオ・サンギルベルト投手(18)、フェリックス・ぺルドモ内野手(18)と入団契約を結んだ。年棒はともに四百万円。サンギルベルトは191㌢、78㌔、右投げ右打ち、制球力に難があるが、スピードボールには魅力がある。背番号は107。ぺルドモは173㌢、強肩が売り物の遊撃手。背番号は112。

 

「広島東洋カープ・アカデミー・オブ・ベースボール」出身のドミニカン投手、サンギルベルト投手が8日のダイエー戦(広島)で来日初勝利をあげた。この日、先発した西の後を受け、1点負けている6回からマウンドに登ったサンギルベルト。7回裏には味方打線が3点を奪って逆転し、8回二死満塁のピンチで降板をするまでの2回2/3を無失点に抑えた。後続を高橋が抑えて、サンギルベルトは勝ち投手となり「うれしい」を連発。アカデミー出身選手としても初勝利で、希望の光を見出した感じだ。

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バウチスター

2021-01-18 12:16:18 | 日記

1992年

ついに、5人目のチャレンジャーが登場した。何のことかといえば、カープの外国人選手の戦略。6月26日に骨折したぺルドモ内野手に代えて、バウチスター投手(21歳)と入団契約を結び、支配下登録をしたわけだ。ブラウンだけの外国人1人制で臨んでいるようなものだが、実はこれほど外国人選手をとっ替えひっ替えしたのはカープが最多。昨年ドミニカ共和国に開校した「広島東洋カープ・アカデミーオブベースボール」から派遣して、戦力にしようとする特殊な事情があるにせよ、こうも成功しないと、野球学校経営の意味を問われてしまう。もちろん、カープはチョキ的展望に立った戦略として考えている。日本の野球に適応できる選手を育成するのは、並み大抵のことではない。それにしても、チェコ、ぺレスが失敗して、ぺルドモが思わぬ骨折。今季残った2人はサンギルベルト投手とバウチスター投手。バウチスター投手は140キロ台の速球が武器。でも制球難が解消されないと、ゲームでの登板はムリ。前途は多難だ。

広島は二十六日、ぺルドモ内野手に代わる新外国人として、ドミニカ野球アカデミー出身のアンヘル・バウチスター投手(21)=180㌢、82㌔、右投げ右打ち=を支配下選手登録、セ・リーグから公示された。背番号は「101」、推定年棒四百万円。ぺルドモ内野手は任意引退選手となった。

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ぺルドモ・コジャード・バウチスター

2021-01-18 10:27:20 | 日記

1992年


チェコ、サンギルベルト、ぺレス、ぺルドモ…。1年半前に中米・ドミニカ共和国に開校した広島カープの野球アカデミーからやって来た陽気なカリビアンたちは今、日本式ヤキュウを学ぼうと、異国の地で汗を流している真っ只中。まず、夢にまで見た日本での公式戦(二軍)出場第一号を果たしたのがぺレス内野手だった。4月3日の対オリックス戦(神戸第二)に二番・ショートでスタメン出場。エラーを記録しながらも初安打を放ち、関係者をホッとさせた。そして当時、もう一人支配下選手登録されていたのが、キャンプ地に話題となった145㌔右腕のチェコ。こちらは残念ながら体調不十分で1試合、2イニングを投げただけで、10試合に出場したぺレスと共にドミニカへ帰国した。年明けの来日から5カ月余り。少し短い日本滞在だったが、これにはファーム首脳陣の「10試合前後で大体の力量はつかむことができる」という考えと、「なるべく多くの選手に日本の野球のレベルを肌で感じとってもらいたい」という思惑が絡んでの措置だった。5月12日、新たに登録されたサンギルベルト投手とぺルドモ内野手も前の2人に負けず劣らずの好素材。ぺルドモがデビュー戦で三塁打を打てば、サンギルベルトも初登板で打者3人をピシャリと抑えて見せた。とはいえ、いきなり地球の裏側の国までやって来て、異国の習慣に慣れトレーニング法を短期間でマスターするのは至難のワザ。中には既婚者もいるが、ほとんどが20才前後だけに、初めて訪れた家電販売店で目を丸くして、母国の土産用に靴やカバンなど買い込む一幕もあった。そして一番ビックリしたのが新幹線の速さや、地下鉄などの交通機関の発達ぶりだった。肝心の練習では、暇をもて余すと仲間とおしゃべりを始めるドミニカ流が抜け切っていないが、それでも若さゆえか、物事の呑み込みは早い。日本の練習にも慣れたよ。食事もダイジョーブ!!」と口を揃える。しかし、好事魔多しー。セカンドに定着していたぺルドモが先頃、走者と工作して左スネの下部を骨折して入院。「せっかく、スイッチがモノになりかけていたのに…」と内田二軍打撃コーチを残念がらせた。だが、後ろに控える現在練習生のコジャードとバウチスターも推定400万円といわれる入団契約を目指して元気いっぱい。自分たちの頑張りが自分自身はもちろん後に続く後輩たちの命運を握っているとあって、陽気な男たちの真剣勝負の毎日はこれから続く。

 

フィリックス・ぺルドモ内野手 1973年7月24日生 173㌢67㌔、右投左右打、背番号112

 

ウーゴ・コジャード投手 1973年5月1日生 185㌢77㌔、右投右打、背番号111

 

アンヘル・バウチスター投手 1970年9月15日生 181㌢82㌔、右投右打、背番号101

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西田隆広

2021-01-18 09:30:47 | 日記

1974年


太平洋がドラフトで2位に指名した協和酸酵・西田隆広二塁手(24)=1㍍77、70㌔、右投右打=の入団が濃厚となった。一日、城島スカウトが午後四時半、防府市牟礼今宿の同選手の義兄・福吉速夫さん宅を訪れ、高校時代の元監督・豊永忠臣氏と本人をまじえて話し合い、初の条件提示を行った。同選手は、契約金一千万円、年棒二百万円(いずれも推定)に対し「二日まで考えさせてほしい」と即答をさけたが、プロでやりたいともらしているため太平洋入りは間違いない。

城島スカウトは、二位指名の協和酸酵・西田隆広内野手(24)の自宅(下関市安岡横野町)に母親・セツエさん(57)を訪れ、指名のあいさつを行った。

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井上晃二

2021-01-17 12:28:51 | 日記

1978年


いったん別府鶴見丘高に入学したが、「本格的に野球をやりたい」と、二か月後に別府大付属高に転校。二年までは遊撃手、三年になってからは投手。練習試合を含む三年間の通算成績は打率3割7分3厘、本塁打30本。特に二年秋から三年夏にかけては4割7分2厘を打った。内野手としては守備範囲が広く、遠投百十㍍と強肩。ベース一周14秒で投攻守三拍子そろった選手と高く評価されていた。日本ハムは、内野手としてリストアップ。家庭は造園業で学校の成績もトップクラス。別府市青山中出身。

 

井上選手の話 プロ野球は小さい時からのあこがれだったので、本当にうれしい。日本ハムはいい球団だと思う。入団を前提に話を進めたい。当分は二軍だろうが、歯を食いしばって練習に耐え、四年後には一軍で活躍したい。高校出で活躍している阪神の掛布選手が目標です。

 

プロ野球・日本ハム球団が内野手としてドラフト三位で指名した別府大付属高野球部の井上晃二選手(17)=別府市荘園北町の園団地=の入団の発表があった。契約金千八百万円、年棒二百四十万円(いずれも推定)同校野球部ではすでにドラフト外で佐野浩一捕手(18)も同球団入りが決まっており、二人のプロ野球選手が誕生した。井上選手は身長176㌢、体重73㌔、右投げ、右打ち、二年秋から三年夏にかけての十九試合で、打率4割7分3厘、本塁打8本を記録、守備範囲が広く、ベース一周13秒8と俊足。攻走守三拍子そろった好選手と高く評価されていた。二年まで遊撃手、三年からは投手だった。瓜生勝同球団スカウトは「井上選手のプレーは二年生の時から見ていた。バッティングなど粗削りなところはあるが、プロ向きの好選手だ。将来、日本ハムの二遊間をつくる選手になってもらいたい」といっている。一方、佐野選手は178㌢、78㌔、右投げ、右打ち。強肩、好打の捕手で、井上選手とは青山中野球部時代からの同級生。この日、同校で行われた井上選手の入団発表にも同席し、「井上君と一緒に入団するのは心強い。レギュラーを目指して二人でがんばる」と話していた。

 

井上選手の話 プロ野球を志望していたので、高く評価してもらってうれしい。厳しい世界だろうが、努力すれば、それだけのものが得られると考え、入団を決めた。日本ハムの実情はくわしく聞いた。いい球団だと思う。目標は掛布選手(阪神)佐野君とも励まし合って、レギュラーを目指す。

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坂巻明

2021-01-17 12:11:32 | 日記

1982年


「あの時は、おぼえたてのフォークがおもしろいように決まって、お蔭ですぐ一軍入りが決まりました」開幕間もない4月8日の後楽園。雨で近鉄戦が中止になった一塁側ブルペンで、首脳陣の見守るなかテストが行われた。それより先5日の西武戦で投の切り札・江夏が、バント処理を誤って右足首を負傷した。当面の戦力減を補うために急きょ、投手枠が10人から11人に広げられ、まず候補の1番手として坂巻に白羽の矢が立ったのだ。7日、多摩川での二軍の練習を終えて、合宿に戻ると岩下監督から「明日、後楽園でテストがある。思い切って投げてこい」と激励された。テストをいう条件付きだったが、「本当に?」と半信半疑だった。シーズンインして間もなかったからだ。今年はキャンプ、オープン戦と一軍候補としてそれなりに順調にやってきた。しかし、投手王国といわれるチーム事情もあって、結局は開幕を目前にして二軍に落とされてしまった。「よし、もう一度とことん自分を鍛え直して、次のチャンスをモノにしよう」そう覚悟を決めたばかりのところへ届いた朗報だった。プロ6年目。とっていもテスト入団だっただけに、約3年は半ば打撃投手としての生活が続いた。やっとイースタン戦で初先発できたのが55年7月29日の西武戦。それからメキメキ頭角を現した。それだけにけっして変な焦燥感や屈折感にとらわれることはなかったという。しかし、一方で、その55年オフに智子夫人とゴールイン、一国一城の主になって、「なんとか一軍入りして生活基盤をしっかりしたい」という思いもあった。そのハングリーさをムキ出しに放ったテスト・ピッチング。球速では一軍要員の中に入ってもピカ一といわれる坂巻は、あらためて首脳陣をうならせた。そして即、一軍入りが決まる。そしてさっそく9日から今季初の大阪遠征に参加、しかも11日大阪球場の南海戦に4番手の敗戦処理ながら、プロ入り初公式戦マウンドを踏むという幸運に恵まれた。2回投げて8打者に3安打1与四球で2失点。初めてついた防御率は9.00と、決して手放しで喜べるマウンドではなかったが「一つの大きな関門を突破したようななんともいえない充実感が残りました」もちろん、その後はほとんど敗戦処理のマウンドが続いた。しかし、回を重ねるごとに自分なりのピッチングができるようになった。一軍暮らしも工藤や岡部、川原とファームで共に苦労した仲間がいたので、思ったほど戸惑いもなかった。練習中にひたすら走り込んでいると、ある二軍経験のない選手に「そんなに走って大丈夫か?」と真顔できかれたことがある。常に臨戦態勢をとっている一軍投手の練習方法は、ただガムシャラにやればいいファームとは違っている。そんな学ぶことも多い毎日が続いた。そして5月16日、西宮球場の阪急戦では4番手として登板して、実にたった1回で7失点、4連続四球の押出し点もやらかす、メロメロピッチングをしてしまった。どうしようもない屈辱感にさいなまれた。「こんなことでは、また落とされてしまうかもしれない…」そして、翌17日の多摩川練習。青菜に塩の坂巻は、神様江夏に呼ばれた。そして、じゅんじゅんと説かれた。「野球人生にはいろいろある。きのうのことはもう忘れろ。お前はリーグでも投手王国といわれる日本ハムの一員、堂々と胸を張って投げるんだ」雲の上の人と決め込んでいた人間から身内以上の心配りをしてもらった。感激、そしてあらためて勇気と責任感が胸の内に高まってきた。「もう絶対に二軍には落ちまい。吸収できるだけのものをこの一軍生活で得るんだ」そう、ひたむきな敗戦処理人生を決意した坂巻は、ついに後期初登板の8月8日、仙台でのロッテ戦で公式戦初先発の大役をおおせつかる。残念ながら初白星は逃したものの、立派に一本立ちしたのである。

 

1987年

 

「思うような投球ができた」と胸をなでおろす坂巻。プロ入り九年目の一昨年秋に右ひじを手術し、昨シーズンを棒に振った。それだけに「ことしが勝負」と若手なみの練習を積んできた。六回から三回投げ、カーブと直球だけで1安打の無失点。スピード、切れはまだまだだが、打ち気をはずして打たせるうまさはさすが。「まだシュートを加えた球に切れがいまひとつ。でも投げこんでいけば大丈夫。いけるという感触もつかめた」

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坂巻明

2021-01-17 10:57:58 | 日記

1984年

高代が左足ヒザ故障、新外人ブラントがファーム落ち、おまけに工藤、間柴が調整遅れ、苦戦が予想された植村監督が、なんとか、やり繰り算段やっている裏には、ニュー・ウェーブの活躍なくては考えられないころだ。その№1は、8年目を迎えた坂巻(二松学舎ー青山学院)だろう。4月17日現在でチーム15試合中、早くも6試合に登板。昨シーズンは、わずか9試合だから、新生日本ハムの期待度がどれだけ高いかがわかろうというもの。投球回数も、チームでトップの26回2/3を記録し、自責4の防御率1・35(19日現在)は、防御率争いのトップを占めている。なかでも圧巻だったのは、12日の西武3回戦(後楽園)だった。先発・工藤が1回に一死を取っただけで4失点のあとを受け、8回2/3の準完封で、プロ入り2勝目をマークしたのだ。52年に、バッティング投手として入団し、8年目で花開いた坂巻が、投手陣の代表だ。

遅まきながら、わたくしヒゲの坂巻と申します。8年前に日本牛豚食肉混合加工組合に、テストという臨時願いで酒盃をもらった29歳の弱輩者でござんす。身分は直訳すれば打たれ役。つまりバッティング投手とでも申しましょうか…。年貢?ハイ、1年間、精出しても1両3分(130万円)いただきました。証言その①同じ打たれ役から救援班(リリーフ)のリーダーになった川原「ヒゲの坂巻は、出てくるのが遅まきだったほど、イヤ、笑ってください。それほど、あいつの、シュートはエゲツなかったんです」証言その②55年暮れに華燭の典もあげず、ずるずると同棲生活から世間一般のおかみさんと呼ばれるようになった智子夫人「野球選手というと、ONを代表する千両も、万両も稼ぐ職業と思っていたのでビックリしました。でも、私も、日本生命の事務員を命を賭けてやったんです…」証言③遅まきの、イヤ、坂巻のフトコロをエグル。鋭いアイ口(シュート)を見抜いた先代の大沢親分「あいつは、打ち手にすりゃあ、いや~な、クセ(球=シュート)があったんで、モノになると思ってたんだ。野郎が逃げずに、敵に立ち向かっていけば大判、小判やるのに‥」そんな、中途半端ながらも、ファームでは、テスト生のバッティング投手が、チームの救世主になろうとは。6月6日のロッテ10回戦で、三度目の先発で、なんと8連勝と勢いにのる稲尾・鉄腕を急停車させるばかりか、日ハム部隊の連敗を8でストップさせる初完封。12日の南海・エリ巻きトカゲの穴吹集団に対しては、遅咲きでは、先輩の川原にリリーフを仰いで3勝目をマーク。ファームでは、人にいえない苦労もあったが、遅まきながら、ハイ。

ようやく連敗がストップした。じつに3分をはさんで14連敗。パ・リーグ記録(15連敗)日本記録(16連敗)は目前だった。それに並んだり更新しなかったとはいえ、チームのワーストレコードを塗り替えた不名誉は変わるものではない。11日の弘前での南海戦。6対1としながら、最後のアウトを取るまでナインは「イヤな感じばかりしてた」(島田誠)という。7月7日に勝ったのを最後に、白星を忘れて34日。もし相手が5連敗と元気のない南海でなかったら、と思うとゾッとする連敗脱出劇でもあった。ストッパーとなったのは坂巻だった。6月も8連敗を止めている。1失点の完投勝利は、選手だけの自主ミーティングのおかげだという。10日の練習のとき、キャプテン柏原が「選手集合」の号令をかけた。「何としても勝とう」屈辱の記録を前にして、ようやくナインに盛り上がりがみえた。だが、追い詰められて初めてみせたナインの自覚。もっと早く目覚めれば、こんなにも転落することはなかったと思えるのだが。ある時期は四無主義が、はびこっていた。無気力、無関心、無感動、無抵抗。口では「きょうこそ」といいながら、試合が終わってみれば「明日、明日」の連続。「うまいビールを飲みたい」というものの、負けて苦いはずのビールが、いつしかうまくなっていた。負けグセがしみついた、といっていい。連敗を脱したとはいえ、来季をにらんだ場合、これからが大変である。親分の述懐にも、それは現れていた。「こんなに負けたのは球団にとって初めての経験。なぜ負けるのか、球団も選手も監督、コーチもよく考えるチャンスだった。学んだものは少なくない。これを生かさんといかん」そうそう、しっかり反省してください。

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祓川正敏

2021-01-16 13:07:18 | 日記

1959年

南海の第二線投手といえ、今シーズン17勝をマークした祓川投手と、こんどの日本シリーズに正式登録された三浦投手は大の仲よし。この二人と、捕手の渡会は、揃って、三十二年春の入団組でプロ三年生だが、おなじ九州出身という郷土愛も手伝って、いたって仲がよい。特に祓川と三浦は投手として第一線に一日も早く立つことをつねに意識してはげんできた。この競走は、祓川が今シーズンの活躍で三浦は先手を打たれた格好だが、早く目をつけられたのは三浦の方だった。三十二年の春二月、折から中モズでキャンプを張っていた合宿に渡会と三人で、学生服に身を固めた坊主頭、石川スカウトに連れられてやってきたのがそもそものはじまり。合宿の応接室でチョコンと座った三人は、堅くるしそうにしていたが、ちょうどそこえ作家の五味康祐氏が現れて、合宿はひとさわぎとなった。だが、この無名の三人は、ただおろおろするばかりだった。ところで、この祓川は野球に熱心なことにかけては人一倍、一方の三浦も、それに劣らぬ野球の虫で、祓川とは好勝負。ただ違っているのは、祓川は記者団の一問一答にも、まだプロずれしないのか、いかにも朴とつな感じを与えるのに対し、三浦の方は完全にわり切った戦後派タイプ。チームの中でも、いい意味での心臓男といわれるほどはっきりしている。いわゆるぼうよう型と、明朗型の取組みだが、お互い友情の強いきずなに結ばれているだけ心強いものがある。

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祓川正敏

2021-01-16 12:56:06 | 日記

1959年
祓川は、シュートを武器とする投手だが、昨年あたりから伸びてきた。いわゆる真っ向からどのチームにもぶつけられるというタフな投手ではないが、中堅的投手としては、働く力を持っている。

 

報道陣にとりかこまれた祓川は、ホッとした表情だった。「連投は覚悟していましたけど別に苦しくはなかったですネ。西鉄がボールを打ってくれたので、ピッチングが助かりました」ひたいを流れる汗がとまらない。十五、六日、お盆シリーズと銘うった西鉄との3連戦に南海が勝ち越せば、いよいよペナントへの希望が濃くなってくるし、西鉄とすれば最後の望みをかけたといっていいシリーズだった。15日の第一戦、南海は祓川を先発させ、西鉄は山野本をマウンドに送ったが、意表とも思える山野本起用はまんまと図に当たり、南海打線はすっかり沈黙。「あんなピッチャーから点とれんで、どうするんや」ベンチにひびくのは鶴岡監督のダミ声だった。この第一戦、南海は0対1とシャット・アウトで敗退した。西鉄にとっては、この調子でつづく2試合をモノにして3タテをカマせたいところだったが、翌16日の21回戦は、予定どおり杉浦が快投をみせ、九分どおり勝負をきめたかにみえた。ところが、ドタン場の九回裏この日の当たり屋花井にタイムリーされて2対2、引き分けにされてしまったのだ。1勝1引分、しかし杉浦で引き分けとは、まさに誤算というほかはなかった。ダブル・ヘッダーの第二試合(第三戦)南海は前日にひきつづいて、またも祓川をマウンドに送った。「いまのウチのピッチング・スタッフで、杉浦のほかに頼れるのは祓川だけや」と鶴岡監督がいっていたが、その期待を裏書きするかのように、前日の疲れもみせず、立ちあがりから快調なピッチングをみせた。ピンチといえば、先取点をあげたあとの四回、二死後から豊田に外角球をうまくあわされた右翼線の二塁打だけ。あとは調子をとりもどした感のある西鉄打線をピタリとおさえこんで、よせつけなかった。八回代打の大下にライナーで2ランをブチ込まれたが、これは、「カウントをととのえようとして、ストレートを投げたのがねらわれた。まさかあの球をたたかれるとは…。きょうはスライダーがよかった」といっていたが、九回大事をとった鶴岡監督の杉浦起用にバトンを渡すまで、5安打の散発におさえたのはみごとだった。しかも前日、先発して7イニング投げていただけに、なおさら目立った。「ボクは、いつも八、九回ごろになると打たれる。スタミナには自信があるから、決して疲れるわけではないが、やはり気のゆるみがでてくるのかもしれない」ともいっていた。祓川は大分商出身で、西鉄の地盤がかたい九州地方にもファンが少なくない。こんどのお盆シリーズにも、三塁側の南海ファンからたくさんの声援がとんでいた。「これで14勝(5敗)ですが、勝星のことは気にしないで、とにかく投げまくりますよ。連投だって、やれといわれれば…」杉浦につづく西鉄キラーとして、今シーズンの祓川のみごとな連投でお盆シリーズをのりきった南海は、また一歩ペナントへ前進した。

 

八月十五、十六両日の平和台における対西鉄戦はまさに死闘だった。西鉄が稲尾を温存して、山野本、畑、若生をそれぞれ先発させれば、南海もまた祓川、杉浦、祓川と一歩もゆるさじと迫った。結果は1勝1敗1分と完全に星を分けてしまったが、第一戦にほとんど完投に近い量を投げていながら、第三戦にこれまた八回を投げて勝利投手になった祓川はまさに西鉄キラーの面目躍如たるものがあった。「西鉄ってべつにこわいとも思わないなあ。疲れているはずなのに、あとの試合の方が投げ易かったくらいだ。ただちょっと八、九回くらいになると自分のピッチングにスキが出て来て打たれるので、それが気にかかる程度です」通称デンスケこと祓川投手は淡々たる表情でこう語るのである。「元来がヌーボーの九州人だけに話をしていてもつかみどころがないが、ピッチングでも一見そうだというのが好投のポイントではないか」と西鉄選手はいっているが、ともかく西鉄キラーという名前ははっきり立証されたわけだ。ところでこの三日あと、杉浦はとんでもない好投をやってのけた。大阪での対東映戦のこと。「はじめっかた調子が良かったので、何とかノーヒットゲームをやってみようと思っていた。五回、二死からはじめて西園寺に打たれたが、やはり大記録というものは容易に作れないものですね」と笑っていた。

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1959年 大毎 退団選手

2021-01-16 11:23:54 | 日記

1959年


シーズン終了とともに、球団内部では、数々の色模様が現れるが、今シーズンかぎりで大毎から去る六選手がこのほど判明した。滝良彦、太田正男、山本格也、新井茂、橋本力の五選手が、まず第一陣。すでに、山本はいすゞ自動車、橋本は浅草の工業会社に就職が決定している。ところで、もう一つ大毎の話題の主も今シーズンかぎりで野球に見切りをつけた。鉢村錦吾投手であるが、三十二年の春の大島キャンプで別当監督に独力で泣きついた挙げ句の果に、それならやってみろというわけで大毎に入団した異色選手であったが、二年間連日連日三度の飯より好きだといわれる野球をやってみたが、けっきょく自分の力がプロではとうていおぼつかないものと知って、このたび、やめることを決心したという。

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竹下光郎

2021-01-16 11:09:05 | 日記

1967年


漫才師秋田Vスケに似ているところから、ビーちゃんの愛称で親しまれている竹下は一昨年末選手契約されず、昨年はバッティング・キャッチャーをつとめていたが、今シーズンからスコアラーをつとめることになった。チーフ・スコアラーは江渡で、竹下はチームの先回りのサブ・スコアラーだが、巨人から近鉄へ移籍、長いキャリアがあるだけに、その肥えた目は陰の力として大いに期待される。「昨年も試合前のバッティング・ピッチャーをつとめたあと、試合がはじまるとスコアラーのお手伝いなんかもしてきただけに、一年生といっても大体要領はわかっています。この仕事はこれからのベースボールでさらに比重が重くなってくると思うので責任重大ですが、小玉野球に少しでもプラスになるように努力したい」といっていた。

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飯田敏光

2021-01-16 09:57:21 | 日記

1974年


外人を除けば日本一のノッポ選手として話題を集めていた大洋の飯田敏光投手(25)=1㍍92、92㌔、右投右打、静岡・清水中出=が、太平洋に移籍してさらに腕をみがくことになった。大洋は十一日、同投手を自由契約にしたが、太平洋の江藤新監督がその重い速球に注目、即座に太平洋入りが決まった。このノッポ君、実はテストで大洋にはいる前、プロレスラーも経験し、大相撲から誘われたこともある変わりダネだ。

 

「もう野球とおさらばだ」とすっかり観念していたところに江藤監督からの誘いがきた。「大洋をクビになったらワシが面倒をみる」-。だからこの日の自由契約の知らせは、むしろ男出発のスタートラインとして飯田は受けとめた。大洋での二シーズンは、一軍どころかイースタンリーグにも登場せずに過ぎてしまった。「もうクビになる」と信じ込んだのも無理はない。が、江藤監督はバッティング練習で毎日投げる飯田の重い球に何度もびっくりしたという。「若い打者がボキボキとバットを折るんだ。投手のことはわからんが、打者の立場からこいつの球は、もしかしたら真剣勝負に使えるんじゃないかと思った」その江藤が太平洋の監督になり、飯田は予想通りにクビの宣告を受け、二人は九州でめぐり合うことになったのだ。「こんなにうれしいことはありません」と飯田は、その長身を折り曲げて江藤監督に最敬礼。「母さん、人間一度は死ぬんだよ。好きなことをやらせてください」と五年間、二十歳の飯田は母親・春江さん(48)に頭をさげ波乱の人生に飛び込んでいった。「中学を出るとき、横綱・若乃花さん(現二子山親方)が相撲をやれ、と誘いにいらっしゃいました。そんな世界に送り出すのがこわくて絶対反対といったんです。でも、成人した敏光にこんどはプロレスラーになるから認めてくれといわれたときは、もう好きなようにしなさい、としかいえませんでした」と春江さん。ジャイアント馬場の門下生になったが、ヒザを痛めてダウン。中学卒業と同時に努めた三島市の会社で草野球のエースだったことから次はプロ野球のテストを受けてまわった。巨人、東映(現日本ハム)西鉄(現太平洋)にふられ四十七年秋、やっと大洋が拾ってくれた。また来年も野球が出来る喜びだけではない。これまでのバッティング投手専門ではなく「出来たら戦力に」と監督が期待する第三の人生だ。「両親にも随分心配をかけたけど、冒険人生もこれがおしまいです。太平洋でダメならサラリーマンに戻ります」とキッパリ。「あれはあれでいいと思いますよ」とニッコリ笑っていうのは、契約金二千五百万円でヤクルト入りが決まった横浜・永川ら金の卵のこと。契約金なし、月給十万円で飯田は再びプロのカベに挑戦していく。

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須崎正明

2021-01-16 09:39:59 | 日記

1966年


サンケイアトムズは九日、岡嶋博治、麻生実男両内野手を自由契約選手に、また、須崎正明外野手はトレード要員にすると発表した。

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小山恒三

2021-01-16 09:32:16 | 日記

1952年


低調の極をゆく松竹には全然精彩がなく攻めては今シーズン初登板の小山(小諸実高、廿歳)の快速球に手がでず、守ってはピカ一小林恒に安定性なく完全に国鉄に押しまくられ七連敗し最下位と決定。国鉄の小山は初登板とはいえスピード豊かなカーブ、ドロップには一応の威力があり、試合度胸も十分で、松竹打者を二安打の散発に抑え込んだ力投は見事だった。この若い投手をバックがよく援護して打線また大いにふるいチャンスは必ずものにするソツのない攻撃をみせた。二回小山のタイムリーでまず優位にたち六回井上親のタイムリーで加点、さらに八回は無死藤田、杉浦の連安打につづく森谷四球で満塁にし井上親と初岡のタイムリーが続いて三点をあげ、完ぷなきまでに小林恒を打ちのめして勝利を握った。

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