新年明けましておめでとうございます。
年末から降る大雪で例年、気が気でなかった。
けれどもこの年末年始に降った雪は日本海側から
飛来した粉雪で、積もっても数センチ程度だった。
いつも大雪のせいで、元旦早々なにかしら
トラブルが起きバタバタと走り回っていた。
クリスマスの前あたりから不安が募り大晦日を迎える。
例年そうであったからどうやら今度は降らないと
わかってきても油断ならないと、いろいろと対策した。
豪雪地帯に住む人の大変さを爪の垢くらい体験したに
すぎないんだが、実際明けてみてとても安堵した。
それにしても雪下ろしで落下して亡くなるという
ニュースを聴かない冬はないこの国。
高齢者、高齢単身者に自力自助を強い続けている。
そのたびに悲しい、国とは何か、そうマジで思う。
そんなニュースが無くなる日が来るだろうか。
キツツキが軒天をつつくトントントン。
車のバッテリー故障。
除雪車が途中までしか来ない。
駅へ人を迎えに行けない。
来る方も迎える方もオロオロ。
一日じゅう降る雪を恨めしく見ている。
というような正月休みではなかったのであります!!!
で、ここへ行きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/b6/efe0598f1523f2de228947f14a9897d6.jpg)
スプーンが工具の形しててかわいい。
中古車に乗っているので点検してきた。
余裕、綽々、なんつって。
雪が少ないことがこんなに楽だとは!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/24/9766c7bdc925ca747bb1d1ea4d1b10df.jpg)
「真我(まことのわれ)。これは心の源の君である。」
年末の最終講義は、私我の濁りをなくして
自らの内なる悪を絶つという話であった。
秦河勝の問い「私我という悪」に対して
聖徳太子が教えられた話を先生が説明された。
自らの内にある真の我は、空っぽで果てしなく
広く深く透明で明るいのだ。
冲莫と空虚。
そこに人の我も私欲もない。
しかし悪の芽は人の我欲(四業)から生まれる。
「私我は貪欲より生ず、貪欲は四業より生ず。
一に利用、二に名聞、三に色婬、四に庶幾。
四業は互いに交わりて六情を生ず。」
そこから自ら離れ、断ち、絶てといわれる。
これは人含道(ひふみ)の祝詞の最後の六言
「悪攻絶 欲我削(あせゑほれけ)」
この神文言の教えと重なることに気づいた。
※神文言は「神文伝」にあります。
そうはいっても悪の本をなくすにはどうしたら
いいのでしょう、そういう河勝に「真我有り」と
太子が答えられたのだ。
本来ある真我に気づけと。
人の世にごまんと教えと名づけたものはある。
あるにはあるが、教えに気づく人は少ない。
けれども教えがなければ迷い彷徨うしかない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/a2/cf2e485f9838e2d2eb6bdd81dd1d0dec.jpg)
人は救われるようにできているのではないか、
切実に求める人を、率いるのが真我ではないか、
そう、むかし彷徨い続けた頃を顧みて思った。
切実さ、それに応えるひびき。
たどりつくまでの闇はとても長く感じた。
けれども実際には十数年だ。
明るい方へ歩み出てからの方がずっと長い。
三十数年が過ぎた。ホー
曲がらず逸れず螺旋状の一本道を来た。
自ら選択せよと先生は教えられた。
人の道とは、耳を澄まし
幽けき真我のひびきを断たない、
そういう生き方のことだと。
とても簡潔な「選択」の話で締めくくられた。
己を賭ける選択だ。
ということは‥‥
年末から降る大雪で例年、気が気でなかった。
けれどもこの年末年始に降った雪は日本海側から
飛来した粉雪で、積もっても数センチ程度だった。
いつも大雪のせいで、元旦早々なにかしら
トラブルが起きバタバタと走り回っていた。
クリスマスの前あたりから不安が募り大晦日を迎える。
例年そうであったからどうやら今度は降らないと
わかってきても油断ならないと、いろいろと対策した。
豪雪地帯に住む人の大変さを爪の垢くらい体験したに
すぎないんだが、実際明けてみてとても安堵した。
それにしても雪下ろしで落下して亡くなるという
ニュースを聴かない冬はないこの国。
高齢者、高齢単身者に自力自助を強い続けている。
そのたびに悲しい、国とは何か、そうマジで思う。
そんなニュースが無くなる日が来るだろうか。
キツツキが軒天をつつくトントントン。
車のバッテリー故障。
除雪車が途中までしか来ない。
駅へ人を迎えに行けない。
来る方も迎える方もオロオロ。
一日じゅう降る雪を恨めしく見ている。
というような正月休みではなかったのであります!!!
で、ここへ行きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/b6/efe0598f1523f2de228947f14a9897d6.jpg)
スプーンが工具の形しててかわいい。
中古車に乗っているので点検してきた。
余裕、綽々、なんつって。
雪が少ないことがこんなに楽だとは!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/24/9766c7bdc925ca747bb1d1ea4d1b10df.jpg)
「真我(まことのわれ)。これは心の源の君である。」
年末の最終講義は、私我の濁りをなくして
自らの内なる悪を絶つという話であった。
秦河勝の問い「私我という悪」に対して
聖徳太子が教えられた話を先生が説明された。
自らの内にある真の我は、空っぽで果てしなく
広く深く透明で明るいのだ。
冲莫と空虚。
そこに人の我も私欲もない。
しかし悪の芽は人の我欲(四業)から生まれる。
「私我は貪欲より生ず、貪欲は四業より生ず。
一に利用、二に名聞、三に色婬、四に庶幾。
四業は互いに交わりて六情を生ず。」
そこから自ら離れ、断ち、絶てといわれる。
これは人含道(ひふみ)の祝詞の最後の六言
「悪攻絶 欲我削(あせゑほれけ)」
この神文言の教えと重なることに気づいた。
※神文言は「神文伝」にあります。
そうはいっても悪の本をなくすにはどうしたら
いいのでしょう、そういう河勝に「真我有り」と
太子が答えられたのだ。
本来ある真我に気づけと。
人の世にごまんと教えと名づけたものはある。
あるにはあるが、教えに気づく人は少ない。
けれども教えがなければ迷い彷徨うしかない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/a2/cf2e485f9838e2d2eb6bdd81dd1d0dec.jpg)
人は救われるようにできているのではないか、
切実に求める人を、率いるのが真我ではないか、
そう、むかし彷徨い続けた頃を顧みて思った。
切実さ、それに応えるひびき。
たどりつくまでの闇はとても長く感じた。
けれども実際には十数年だ。
明るい方へ歩み出てからの方がずっと長い。
三十数年が過ぎた。ホー
曲がらず逸れず螺旋状の一本道を来た。
自ら選択せよと先生は教えられた。
人の道とは、耳を澄まし
幽けき真我のひびきを断たない、
そういう生き方のことだと。
とても簡潔な「選択」の話で締めくくられた。
己を賭ける選択だ。
ということは‥‥