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若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

買わなくて良かった『人新世の「資本論」』

2021年01月25日 | 政治
このブログで、買って読んだ本の感想を何度か取り上げてきました。
私が本を買う時、純粋に読みたい、勉強したい、知識を仕入れたいと思って買う場合と、自分と反対の意見を批判するために買って読む場合とがあります。
以前、批判のために買ったのがこの↓2冊。

井手英策・今野晴貴・藤田孝典共著『未来の再建』
宇沢弘文著『社会的共通資本』

統制を好む共産主義寄り論者の考え方を把握するという意味では一応の成果があったものの、「買わなきゃ良かった」と後悔しています。特に『未来の再建』はひどかった。

さて。
2020年、話題となった1冊があります。
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』という本です。

「『資本論』・・またマルクス信者の共産主義寄り論者か・・・どうせムダ金になってしまう・・・買わずに済ます方法はないものか」
と思い、最寄の図書館で蔵書検索かけてみてもヒットしない。
「こういう時にすら使えない公共の図書館は無駄な存在だなぁ」
と思いつつ、どうしたものかと考えていたところ、著者である斎藤氏のインタビュー記事がありました。

グローバル資本主義が招く災厄と、行き着く4つの未来像。〈コモン〉を重視する社会への転換を<『人新世の「資本論」』著者・斎藤幸平氏> | ハーバー・ビジネス・オンライン

これが著者自身による本書の要約だろうということで、今回は、このインタビュー記事から著者の考え方を探り、『人新世の「資本論」』を買う価値があるか否かを判断したいと思います。

【グルーバル資本主義が引き起こしたコロナ禍?】

グローバル資本主義が招く災厄と、行き着く4つの未来像。〈コモン〉を重視する社会への転換を<『人新世の「資本論」』著者・斎藤幸平氏> | ハーバー・ビジネス・オンライン
======【引用ここから】======
 新型コロナウイルスの感染拡大はこうした、「人新世」の矛盾が、顕在化したものです。言い換えれば、パンデミックは、グローバル資本主義の産物です。
======【引用ここまで】======

パンデミックという言葉を聞いて思い出されるのが、ペスト。ペストの大流行は過去何度も起きていますが、その初出はwikiによれば6世紀。6世紀ですよ、資本主義という経済体制とはほぼ無縁です。
人から人へ感染する感染症は、当然ながら人の動きや人と人の接点が多ければ感染者は増えるのですが、どのような経済体制をとっているかは関係ありません。

======【引用ここから】======
例えば、グローバル・アグリビジネスは大規模農場経営を行うため、次々に森林を伐採しています。その際、自然の奥深くまで入っていけば、当然、未知のウイルスと接触する機会は増えていく。しかし、人の手で切り開かれたモノカルチャー経済は、自然の複雑な生態系とは異なり、ウイルスの抑制ができません。
======【引用ここまで】======

人が未知の致死性ウイルスと接触し、感染したとしましょう。その時、ウイルスの感染拡大を抑制できるかどうかはモノカルチャー経済かどうかとは関係ありません。共産主義であれば森林伐採の誘因がないかと言えば、そんなことは全くありません。ペストの例からも分かるように、今日のように国際的な分業が進むはるか昔から、未知のウイルスによるパンデミックは起きています。

斎藤氏の主張は「グローバル資本主義を悪者にして叩きたい」という結論が先行しています。ウイルスのパンデミックや温暖化による食糧危機といった恐怖を煽り、その原因がグローバル資本主義だと根拠なく述べ、共産主義を布教して回る新たな宣教師・・・それが、私から見た斎藤幸平氏の印象です。『人新世の「資本論」』は、恐怖を煽って商売や布教を行う古典的手法を採用しているようです。
(なお、温暖化の恐怖を煽る斎藤氏ですが、私は、飢饉が頻発し餓死者が多数生じた江戸時代の寒冷期の方が恐ろしいイメージがあります。)

ところで、

======【引用ここから】======
新型コロナウイルスの場合は、ワクチンが開発されれば、ひとまず感染拡大を食い止められます。
======【引用ここまで】======

ワクチンの研究や開発、開発のための資材確保、研究者の食糧や生活必需品の確保、完成したワクチンの輸送や配布・・・等々、こうした諸々を、斎藤氏が言うところの資本主義、自由市場経済を抜きにしてどのように賄うのでしょうか。

ロールプレイングゲームのステ振りと違って、複雑に絡み合う社会の無数のパラメータを個人が思うとおりに割り振りするのは不可能です。ステータスを医療全振りにして餓死者が続出したら意味がないのです。どこの分野にどのくらい資源を配分したら良いか、について、市場と価格メカニズムに勝る政治体制はおそらく存在しないでしょう。

【権力の強弱?】

ここからが本題。前置きが長くなってしまいました。
ここでは、斎藤氏による珍妙な4分類が登場します。

======【引用ここから】======
下図は気候危機が避けられなかった場合に、予想される未来を分類したものですが、同じ分類はコロナ対応にもあてはまります。(縦軸は権力の強さ、横軸は平等性)。
======【引用ここまで】======


聞きなれない分類、名称が並んでいます。
斎藤氏の説明を読んでみましょう。

======【引用ここから】======
 まず、①気候ファシズムは、経済活動を最優先し、超富裕層だけが特権的な恩恵を独占する社会です。コロナ禍でいえば、感染抑制の行動制限を行わず、貧困層など社会的弱者がどうなろうと、それは自己責任だと突き放す。リモートワークで自己防衛でき、高額の医療費を支払える富裕層だけが救われれば良いという発想です。アメリカやブラジルは①に分類できるでしょう。現在の日本もこれに近づいています。
======【引用ここまで】======

分類図によると、この①は「権力―強い」に位置していたはずです。しかし、行動制限を行わない、医療資源の強制的配分を行わない等、この説明文からは「権力ー弱い」になるはずです。斎藤氏の「権力」の定義は曖昧でいいかげんです。

======【引用ここから】======
 それに対して、①よりも平等性の強い、③気候毛沢東主義は、コロナ禍でいえば中国や欧州諸国の対応に近いものです。つまり、国家権力を強力に発動することで、全国民の健康を重視する一方、ウイルス抑制を理由に、移動や集会の自由などを制限する。ただ、これは香港やハンガリーで顕著なように、政府への抗議活動を抑圧するための名目として悪用され、民主主義を危機に陥れています。
======【引用ここまで】======

この③の説明は、納得がいきます。中国や欧州諸国に見られる政府権力の発動が、「権力―強い」に属するのは当然です。③の説明が分かりやすいからこそ、余計に、①が「権力―強い」に属する理由が分かりません。

======【引用ここから】======
①や③の国家がコロナ禍や気候変動に対応できるという保証はどこにもありません。実際、安倍政権も、コロナ禍の二転三転する対応を批判され、退陣に追い込まれてしまいました。もし、このような統治に失敗した状態で、感染爆発が生じれば、人々は自分の身を守ろうと必死になり、社会は②野蛮状態に転落し、「万人の万人に対する闘争」が始まるでしょう。
 これは、決して誇張ではありません。日本でも、スーパーや薬局の買い溜めが生じ、店員に詰め寄る大勢の客がいました。アメリカでは、銃の売れ行きが伸び、ミシガン州では、ロックダウンに抗議する武装市民が州議会に押し寄せる騒動が起きました。さらに、危機が深まれば、生活をかけた闘争・競争はさらに増すでしょう。つまり、①の自己責任型競争社会は、秩序なき野蛮状態へと一気に転落していくのです。

======【引用ここまで】======

買い溜めが生じるのは、特定の商品について需要が高まり供給が逼迫すると多くの人が思っているから生じる現象であって、特段、異常なものではありません。品薄になって価格が上がれば、そこを好機と捉えて供給が増え、買い占めをしていた人が損をするのもまた市場の中でよく見られる光景です。

他方、ロックダウンに抗議して市民が武装して抗議するのは、ロックダウンという強権発動に伴う反作用であり、そもそも強権発動を避けていれば良かっただけのことです。これは①ではなく③の帰結であり、「①の自己責任型競争社会は、秩序なき野蛮状態へと一気に転落していくのです」という斎藤氏の主張は誤りです。

これも、先述の「グローバル資本主義を悪者にして叩きたい」と同様、①自己責任型競争社会を叩きたいという結論ありきの粗雑な議論です。

======【引用ここから】======
私たちが目指すべきは④脱成長コミュニズムです。強い国家に依存せず、人々が民主的な相互扶助の実践を展開する。コロナや気候変動を、奪い合う社会から分かち合う社会への転換点にすべきなのです。その際には、経済成長を追求することをやめ、公正で持続可能な社会を実現する。これが私たちの進むべき道です。
======【引用ここまで】======

強い国家を否定し、奪い合いを否定し、人々の相互扶助を主張する斎藤氏。斎藤氏は、それを「脱成長コミュニズム」と呼んでいます。呼び方はともかく、強い国家への依存を否定すること、奪い合いをやめて相互扶助に立脚すること自体は良い事です。

では、斎藤氏が描く「脱成長コミュニズム」とは具体的にどんなものなのでしょうか。

【〈コモン〉から生まれるコミュニズム?】


グローバル資本主義が招く災厄と、行き着く4つの未来像。〈コモン〉を重視する社会への転換を<『人新世の「資本論」』著者・斎藤幸平氏> | ハーバー・ビジネス・オンライン | ページ 2
======【引用ここから】======
 商品には、お金を持っている人しかアクセスできません。だから、あらゆる共有財産が解体され尽くした現代社会においては、実は人々の生活は不安定化し、欠乏が蔓延するようになっています。今後、気候変動によって、食糧や水、エネルギーの危機が起きる可能性が高いからこそ、もう一度脱商品化して、自分たちの手に取り戻そうというのが、〈コモン〉の発想です。
 電気、水、土地、住居、医療、インターネットなど、〈コモン〉の領域をどんどん広げていく。

======【引用ここまで】======

商品を脱商品化し、共有財産として自分たちの手に取り戻し、誰もがアクセスできるようにする。コモンの領域を広げていく、その先にあるのが「脱成長コミュニズム」だそうです。

コモンの領域を広げていく中で、避けて通れない過程があります。

商品の脱商品化をし共有財産にするためには、「誰か」が現在の所有者の手元にある財産権を否定するプロセスが必要となります。そして、共有財産とした食糧や水・エネルギー・電気・水・土地・住居・医療・インターネットetcについて、利用量や利用条件を、市場に委ねることなく、「誰か」が調整し配分しなければいけません。斎藤氏は安易に「アクセス」という言葉を使っていますが、みんなのもの、誰のものでもない状態にした後で、全ての人が無制限に無尽蔵にアクセスできるわけではありあません。希少な財を、たくさん利用できる人、少しだけ利用できる人、利用できない人を「誰が」「どのように」決めるのでしょうか。

ちなみに、宇沢弘文もこの問題に悩んだだろうというのが『社会的共通資本』を読んでの私の印象です。宇沢は苦しいながらも一応の回答として、社会的共通資本の運営や配分を「職業的専門家による管理」に委ねるべきだと提唱しました。しかし、これではソ連の官僚主義的統制とあまり大差ありません。

じゃあ斎藤氏はどうかというと、この問題を掘り下げるつもりがなさそうだ・・・というのが、このインタビューを読んでの私の印象です。この点、宇沢の方がまだ学者として誠実です。斎藤氏は「民主的に」「自主運営で」「コモンコモンコモン」と念仏を唱えるだけの宣教師でしかありません。

【電通もコンサルも政府もいらない】

斎藤氏は続けて、脱成長コミュニズムの例を紹介していますが、これが非常にお粗末です。

======【引用ここから】======
脱成長コミュニズムに向かう動きはコロナ禍以前から見られました。一例をあげると、2019年に世田谷区の保育園が突然倒産手続きを宣言し、閉園したのち、保育士たちの自主運営で再開にこぎつけた事例です。
 保育園の経営会社が利益を重視するあまり、経営状態の悪化を理由に、保育園を突然閉園してしまうということが各地で起こっていますが、それは子供たちやその保育者の生活を考えれば、突然の閉園など理不尽極まりないことです。そこで、世田谷区のこの園の保育士たちは介護・保育ユニオンの力を借りつつ、自主運営の道を選択したのです。これはまさに、先日急逝した人類学者デヴィッド・グレーバーの言う「ケア階級の叛逆」です。

======【引用ここまで】======

世田谷で突然閉鎖の保育施設は「マム・クラブ三軒茶屋」 自主運営した保育士らが会見「裏切られた気持ち」 | 子育て世代がつながる | 東京すくすく ― 東京新聞
集めた寄付は245万円、自主運営期間は12月2日~13日の12日間。

自主運営と言いながら、出来た事は利用園児の預け先が決まるまでの繋ぎ、残務整理だけでした。(本来なら預け先を決めた後で廃業してほしいところであり、預け先を決めるのも利用者にとって重要なことではあるのですが、それはさておき)自主運営を継続できた期間はわずか2週間弱。

事業を継続するためには、

A、長期的な利益がある。
B、長期的な寄付がある。
C、強制的徴税からの配分がある。

のいずれかが必要です。いずれかの方法により、運営に必要な費用を賄わなければいけません。

この中で、商品化と利益追求を否定し、強い国家に依存せず、相互扶助の実践を展開し、奪い合う社会から分かち合う社会への転換を訴える斎藤氏の脱成長コミュニズムですから、当然ながらBの寄付による運営になろうかと思います。ところが、寄付では長期間の運営費を賄うことができませんでした。

じゃあどうするか。

======【引用ここから】======
こうした自主運営は市場競争に弱いため、最終的には地方自治体や政府などの支援が必要です。
======【引用ここまで】======

結局、Cの強制的徴税からの配分に依存してしまう道を主張してしまう斎藤氏。政府は何もない所から富を生み出しているわけではなく、納税者から富を予め奪っています。言い換えれば、奪い合いを制度化したものが「政府」という事になります。奪い合う社会からの転換を掲げた斎藤氏は、あっさりと奪い合いの総本山たる政府に駆け込んでしまいました。

このことは、彼の言う脱成長コミュニズムが、実は、先述の表の「権力―弱い、平等」の④ではなく「権力―強い、平等」の③に該当することを意味しています。私有財産を否定し政府が所有者から財産を収奪し、政府による配分を受ける構図を肯定する限り、③の強い権力による平等の実現というソ連型コミュニズムの枠から逃れることはできません。

======【引用ここから】======
今回のコロナ禍で明らかになったのは、保育や医療、介護など「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれる人たちが社会の繁栄にとってきわめて重要な存在だということです。それと同時に、電通のような広告会社やコンサルタント会社、投資銀行などが、社会にとって1ミリも役にも立たないことが露呈しました。
-----(中略)-----
現在の資本主義の世の中では、社会的に重要な仕事ほど低賃金・長時間労働で、社会的価値のない仕事ほど高賃金というねじれた状況が生まれています。今後、社会を立て直していく際には、この評価をひっくり返し、エッセンシャル・ワーカー中心の社会を作っていく必要がある。
 こうした転換は、市場に任せていては不可能です。繰り返せば、2050年の脱炭素社会に向けた転換も、市場原理では不可能です。

======【引用ここまで】======

グレーバーによるエッセンシャル・ワーカー/ブルシット・ジョブ論ですが、斎藤氏が述べるように、単純に資本主義・市場原理が原因なのでしょうか。斎藤氏は、日本におけるブルシット・ジョブについて、例として次のケースを挙げています。

======【引用ここから】======
この間、電通がやったことと言えば「Go To キャンペーン」の中抜きぐらいでしょう。オリンピック延期の埋め合わせをするために、人々がコロナ禍の中を旅行に出かけるなんて馬鹿げています。観光業不振で苦しむ人々を助ける方法は、ほかにもあるはずなのに、中抜きのための中抜きが行われる。そのような仕事は、社会にとって、無意味などころか、有害なのです。
======【引用ここまで】======

電通がやった「Go To キャンペーン」の中抜きですが、そもそも「Go To キャンペーン」は政府が実施した公共事業です。

市場原理に照らせば、感染症の流行により旅行需要が減少すれば、観光業界は損失を被るのが当然であり、そのまま倒産する企業が生じてもやむを得ない、となるはずです。

ところが、観光業界が政府要人に働きかけ、これを受けて政府は、市場原理により淘汰されるはずだった観光業界に対し税金を投じてテコ入れを図ろうとしたわけです。その過程で中抜きが生じたのです。無意味で有害な仕事の多くは、こうした市場原理によって生じた弊害の是正、資本主義の修正を名目にした公共事業や規制に端を発しています。

「ブルシット・ジョブがどこから生じているか」についてのグレーバー自身の見方は、下記リンク先↓の論説にて分かりやすく詳しく解説されていますので、是非ご覧あれ。

自由主義通信: ブルシット・ジョブの犯人

【じゃあどうすれば良いのか】

斎藤氏は、
保育や医療、介護など「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれる人たちが社会の繁栄にとってきわめて重要な存在
電通のような広告会社やコンサルタント会社、投資銀行などが、社会にとって1ミリも役にも立たない
と述べており、保育、医療、介護などのエッセンシャル・ワーカーを脱成長コミュニズムの象徴とし、広告会社、コンサル、投資銀行などを資本主義の典型例として扱っています。しかし、前述のとおり、電通の中抜きは政府の公共事業に端を発したものでした。

他方、保育や医療、介護はブルシット・ジョブと無縁なのかと言えば、そうではありません。

介護現場の仕事の約2割は書類の作成や記録|みんなの介護

保育、医療、介護の分野では、政府が料金表や職種ごとの従業員の人数などを事細かく定めています。政府が金を配分する基準を定め、その基準に則っているかどうかを書類で確認します。利用者側からすれば、
「その書類を作っている時間があるなら、別の中身のあるサービス提供してくれたら良いのに」
と思うところですが、そうはいきません。これをしないと政府からお金を貰えないからです。
この書類作成という何の役にも立たないブルシット・ジョブが、保育や医療、介護の分野を圧迫しています。

資本主義の権化のように思われていた電通のブルシット・ジョブは政府発注の公共事業であり、他方で、エッセンシャル・ワーカーを圧迫しているのも政府の規制や配分基準です。そう、政府の手による権力的な再配分機能そのものが社会のお荷物なのです。これを減らせば、問題は緩和されます。

そのために必要なのは、

======【引用ここから】======
こうした自主運営は市場競争に弱いため、最終的には地方自治体や政府などの支援が必要です。
======【引用ここまで】======

という安易な政府依存を排することです。

税負担が減少すればその分余裕が生じるため、相互扶助も容易になるかもしれません。斎藤氏の主張する「④権力―弱い、平等」を達成する唯一の道は、政府介入を排し、市場原理+相互扶助の混合社会を目指すことです。
少なくとも、政府介入を容認している限り、公共事業の中抜きによる格差拡大と、保育・医療・介護といった分野にブルシットな作業が蔓延した状態、この二つを改善することは難しいでしょう。

緊急事態宣言雑感

2021年01月07日 | 政治
「緊急事態宣言」菅首相が夕方宣言へ 1月8日から2月7日で | 新型コロナウイルス | NHKニュース2021年1月7日 5時09分

また、緊急事態宣言をやってしまうとのこと。
今の大勢の流れは、こんな感じですかね。

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昨年延期した「2020東京オリンピック」を、今年こそはどうしても開催したい。
そのためには「新型コロナウイルス感染症が完全に収束した」と宣言し、外国やIOCに向けて安全性をアピールしなきゃいけない。
収束宣言を出すためには、陽性者の数を減らすことが至上命題。
陽性者を減らすには、人々の活動を制限しなければならない。

よし、緊急事態宣言を出すぞ!

緊急事態宣言下において、政治的発言力の低い業種の営業を犠牲にして叩き、「政府はやってますよ」感をアピールしよう。その後で中国のように情報統制し、あるいは陽性者の定義を変え、公表数を抑えて、晴れて収束宣言を出そう。
オリンピックまであと7か月、去年の延期決定をした4月を最終決定の目安としたらあと3か月。やるなら今しかない!
8割おじさんよ、もう一度!

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この流れを、次のように改めることはできないでしょうか。

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新型コロナウイルスの感染力はそこそこ高いものの、致死率はそれほど高くありません。この感染症が流行り始めた当初は情報が少なく判断が付かなかったものの、今では、エボラ出血熱やSARSほど危険な感染症ではないことが分かってきました。これら一類、二類の感染症に準じた対応は過剰であり、五類感染症相当の対応で十分ではないでしょうか。

一類、二類相当の指定を解除すれば、無症状陽性者の入院・宿泊施設での隔離や、勤務先閉鎖・消毒といった事をしなくても良くなります。保健所の対応に余力ができますし、医療機関の受け入れハードルも下がることから、医療崩壊は十分に避けられます。「感染者の半分が死ぬ」という一類感染症の時に実施すべき対応を、今、新型コロナウイルス感染症で実施しているのは過剰です。

新型コロナウイルス感染症への対応を一類、二類相当にしているのは、ヒステリーや政治的配慮によるものであり、科学的根拠に基づくものではありません。一類、二類相当の指定をしている政府とこれを煽るマスコミによって、風評被害が生じています。

新型コロナウイルス感染症は、今後一定の期間を経ることで、季節性インフルエンザや風邪と同様、毎年それなりに流行る感染症として位置付けられるようになるでしょう。これが人々の意識に定着するまで数カ月から数年を要するでしょうから、その間、多人数の集まる大規模イベントを忌避する空気はしばらく残ります。そうなれば、今年の7月~8月に海外から選手や観客を大々的に招いての東京オリンピック開催は難しいかもしれませんが、もともと、経済・財政への負担が甚大な東京オリンピックですから、オリンピック中止はむしろ望ましい事と受け入れましょう。

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安倍前首相の退陣・菅首相の就任の時が、指定感染症の解除の良いタイミングだったのになぁ、と思うのですが、後の祭りですね。

さて。

「緊急事態宣言」菅首相が夕方宣言へ 1月8日から2月7日で | 新型コロナウイルス | NHKニュース2021年1月7日 5時09分
======【引用ここから】======
今回の宣言のもとで、政府は、経済への影響を最小限に抑えたいとして、飲食の場での感染リスクの軽減策など、限定的な措置を講じることにしています。

そして、実効性を高めるため、知事が行う営業時間の短縮要請に応じない飲食店の店名などを公表できるよう、政令を改正する一方、要請に応じた事業者への協力金を拡充し、店舗ごとに、1日あたり6万円とする方針です。

また、不要不急の外出の自粛を呼びかけるほか、イベントの開催制限について、収容人数の半分か、5000人の少ないほうを上限とすることにしています。

======【引用ここまで】======

雇用規制にしてもそうですが、叩きやすい業種、政治的発言力のない層、現時点で発言方法を持たない年代を生贄にし、調整弁として利用するのは避けられないのでしょうか。
本当に緊急性を要する非常事態であれば、飲食店への嫌がらせではなく、民間医療機関への新型コロナウイルス陽性者の受け入れ義務化や、鉄道の運休等が先にくるはず。また、人が長時間密集する大学共通テストなんて実施している場合ではないでしょう。
こうした対応をしないということは、今回の緊急事態宣言が全然差し迫ったものではない政治的ポーズにすぎないということに他なりません。

※参考
〇新政権はまず新型コロナ「指定感染症」の解除を | コロナ後を生き抜く | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 2020/9/14
〇保健所が厚労省に「2類指定を外して」 体制の見直しで医療逼迫は一気に解消へ(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース2020/12/27
〇大学共通テストは予定通り実施 緊急事態宣言発令でも 文科省 - 毎日新聞2021年1月4日

わしのかんがえたさいきょうの過疎地対策 ~内田樹の引きこもり歩哨論~

2020年11月26日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回のお題は、内田樹氏。
「内田樹のトンデモここに極まれり」
な記事を見つけたので、これをいじっていこうと思います。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン

内田樹氏の妄言が、文春オンラインという比較的影響力のありそうな会社のサイトで紹介され、この人の著作物が出版される。インタビュー形式になってますが、文春側の人はどういう気持ちでこの妄言を聞いていたんでしょうか。

たいていの人は「また内田樹かー」と聞き流していると思うのですが、たまに真に受けてしまう人がいるから困ります。つい先日も
それなりに筋が通ってる感じがしました
と言う人がいて驚いてしまいました。
内田樹氏の妄言、放置しようかと思ったのですが、当ブログで前回ネタにした宇沢弘文も登場するので、前回記事の関連記事としてアップしてみます。

※前回記事
『社会的共通資本』という駄作 ~看板が違うだけで、中身は社会主義~ - 若年寄の遺言

【根拠なき「住んでるだけで大丈夫」】

「妄言」とは、「出まかせで根拠の無い言葉」を指します。内田樹氏は、根拠のない出まかせに立脚して思い付きの施策を提言しています。

それが、「過疎地に引きこもりを住まわせよう」です。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
内田 自然の力は本当にすごいんです。廃屋って、外から見るとそれとわかるほど荒れ果てますよね。人が住まなくなると、すぐに壁がはげ落ち、瓦が落ち、柱まで歪んでしまう。前に東京で見かけた廃屋は、半年後に通りがかったら竹が屋根を突き破っていました。その家に人が住んでいる頃にも、庭には竹林があったんでしょうけれど、竹が家の下にまで根を伸ばして、床を突き破るというようなことはなかった。人間がそこに住んでいるというだけで、自然の繁殖力は抑制されるからだと思います。
======【引用ここまで】======

内田樹氏は、「人間がそこに住んでいるというだけで、自然の繁殖力は抑制される」という考えをもっており、この妄言を元に主張を展開しています。
これについては、内田樹氏の発言に理解を示す方から、
何にもしないで、ただ人が居るだけなら、そりゃ竹も生えてくるでしょうけど、人が住む以上、雑草抜いたり竹の子採ったりするでしょ…ていう前提の話だと思いますよ
という擁護発言があったのですが、前提としての軽作業の必要性について、内田樹氏本人が明確に否定しています。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
もう1つアイディアがあるんですけれど、それは「引きこもり」の人たちに「歩哨」をしてもらうというものです。

 一説によると、日本にはいま100万人の「引きこもり」がいるそうです。その人たちに過疎の里山に来てもらって、そこの無住の家に「引きこもって」もらう。里山だと「そこにいるだけで」、里山を自然の繁殖力に呑み込まれることから守ることができる。部屋にこもって1日中ゲームやっていても、ネットをしていても、それだけで役に立つ。

======【引用ここまで】======

わざわざ括弧付きで
過疎の里山に来てもらって、そこの無住の家に「引きこもって」もらう
里山だと「そこにいるだけで」、里山を自然の繁殖力に呑み込まれることから守ることができる
と述べています。さらに重ねて、「部屋にこもって1日中ゲームやっていても、ネットをしていても、それだけで役に立つ」と述べています。



・・・そんなわけがあるか(笑)

反例として↓をご覧ください。
自然が自宅に迫ってくる恐ろしさ、その対応の大変さが伝わってきます。

〇竹害ひどい、我が家の竹害問題と対策

竹林が範囲を広げてくると、そこに人が住んでいても関係ありません。住んでいる人が竹を切って掘って薬撒いて重機を入れて、やっと竹害を抑えることができます。住んでいるだけで竹の繁殖力が抑制される・・・なんてことはありません。庭に竹林があれば、根の伸びる方向によっては床の下にやってきます。それが竹になり、床を押し、ある日「あれ?床が盛り上がってる?」となって初めて、住んでいる人が気付くわけです。住んでいる人間としては、「床を突き破られたら大変!」と床下に潜って竹を切り、根を絶ち、竹林も伐採し、必要なら薬も撒いて、重機で掘り起こして、それでようやく床を突き破られるのを防ぐことができるのです。引きこもりが家でじっとして事足りる案件ではありません。ちょっとした軽作業のレベルでもありません。

人が住むことで、建物内部の換気が出来たり、部屋に虫が常駐するのをある程度防ぐことができ、その結果部屋の壁や天井はいくらか長持ちするかもしれません。しかし、引きこもりが部屋の中にいるだけでは、家周辺の植物の繁殖は抑えられません。自然の力は本当にすごいんです。引きこもりが部屋にいるだけでは、自然の繁殖力に飲み込まれます。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 昔はどんな神社仏閣でも「寺男」とか「堂守」といわれる人たちがいました。門の開け閉めをしたり、鐘を撞いたり、掃除をしたり、たいした仕事をするわけでもないのですが、広大な神域や境内に人が1人いるだけで大きな建物が維持されて、森に呑み込まれるということは起きなかった。
======【引用ここまで】======

おじいちゃん、住んでいるだけじゃダメなんですよー

おじいちゃんが知らないだけで堂守さんはいろんな仕事をしているんですよー

引きこもりを移住させても、家でずっとゲームしてたら家の周りは荒れ放題ですよー

内田おじいちゃんは自分とこの家や道場をどう管理してるのかなー?全部人任せかなー?

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
内田 人間はフロンティアを開拓して、自然を後退させてきたわけですけれど、これからの人口減少時代では、自然の侵略を防いで都市文明を守ることがフロンティアの仕事になる。
======【引用ここまで】======

フロンティアの開拓には、そりゃあ大変な労力が必要です。無数の木を切り倒し、獣を追い払い、大岩を取り除き、飲み水を確保し、仮住まいをこしらえ、地面を均し、家を建て、土を耕し、植えた作物が実るまでの間の食糧を確保しなければいけません。
フロンティアの維持にも相当な労力が必要です。草刈を継続しなければすぐ荒れ地に戻りますし、耕し続けなければ田畑としての機能が著しく低下します。雨が降れば、排水路や道が川のようになり崩れることも考えられます。水が滞れば虫が湧きます。家も修繕しなければいけません。

自然災害、天候不良、凶作、野獣の襲撃、様々な理由により開拓途中で諦めた人、開拓後に維持管理できずに元の場所へ帰った人、そこで亡くなった人もいたことでしょう。

昔は、農業・林業によって得られる利益やメリットが、開拓・維持に伴う危険性や労力といったデメリットを上回っていたから、里山での生活が成り立ったのです。ある程度の自給自足の能力を備えた人が、「今のままでは生活が行き詰まるけど、あの山を切り拓けば今よりも飯が食えるかもしれない」というインセンティブに導かれて開拓に従事したことで、人間の生活する範囲は広がっていきました。その当時の技術・生活様式等々に照らして、里山を開拓し維持することでその当事者が以前よりも豊かになれたから、人の住む場所が広がったのです。

その後、技術革新や生活様式の変化によって、里山を開拓し維持するメリットが相対的に減少しました。米も野菜も、機械と肥料を使って平地で大規模に実施する方が、安くて大量に生産できます。人々は、不便な山間部よりも便利な平地の都市を選びました。昭和から平成、令和にかけて、人々は仕事や利便性を求めて里山から都市へ移住していきましたが、この移住した人々は里山に戻ることはほとんどなく、その子供達も都会に住み続けています。

【コスト無視した机上の空論】

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 いまの地方政策は、コンパクトシティ構想に見られるように、過疎地を積極的に無人化して、住人を地方の中核都市に集めて、行政コストを下げるという発想です。住人を1か所に集めてしまえば、交通網や通信網や社会的インフラの整備コストが一気に削減される。官僚たちはそういうことを机の上で電卓を叩いて計画しているのでしょうけれども、実際には里山が無人化すると、自然と文明の緩衝地帯がなくなる。そうなると、都市のすぐ外側にまで森林が迫り、野獣が徘徊するようになる。

 文明を守るためには、自然と都市の中間に里山が広がっていることが絶対に必要なんです。里山は自然の繁殖力を抑制し、それを人間にとって有用なものに変換する装置です。

======【引用ここまで】======

里山が無人化し、都市のすぐ外側まで森林が迫り、野生動物が徘徊するようになる。これは確かにリスクかもしれません。この野生動物に対し、都市住民が都市において直接的に対峙するコストと、都市から費用を出して緩衝材としての里山を維持し里山を盾として野生動物に対処するコストと、どちらが大きいのでしょうか。里山を維持するための労力を考慮せずに、

文明を守るためには里山が広がっていることが絶対に必要なんです

などと述べるのは、官僚もビックリな机上の空論です。

内田樹氏としては、
建前「自然と都市の中間に里山が広がっていることが絶対に必要なんです
本音(自分の生活圏が野生動物の生活圏と接するのが絶対に嫌なんです
という事なんでしょう。

人間の生活圏と野生動物の生活圏とは、どこかで接点を持っています。その接点を里山とするか、都市で直接接するかは、その地域や時代の技術や生活様式等によって異なります(海外では、ハイエナが城壁を越えて街へ入り込み、商店や民家の間を普通に歩いている光景も見られる、とか)。人間と野生動物とが接する部分では、どう接するかに知恵や工夫を施さなければいけません。リスクやコストを無視してはいけません。

【根拠なき「全人口の5分の1は里山に住むべき」】

内田樹氏の妄言は続きます。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 経済学者の宇沢弘文先生によると、全人口の20-25%くらいは農村に住まなくてはならないそうです。いま日本の農業従事者は人口の1.3%です。農村人口というのは別に農業従事者のことではありません。自然の過剰な繁殖力を抑制するために里山に住む人たちのことです。宇沢先生が出した20~25%の農村人口という数字にはそれほどきちんとした統計的な根拠はないんじゃないかと思います。割と直感的な数字だと思います。でも、この直感を僕は信じます。全人口の5分の1くらいは都市ではなく、里山エリアに住んだ方がいい。そこで年金生活をしてもいいし、作家活動をしてもいいし、音楽をやってもいいし、陶芸をしてもいい。とにかく里山に「人がいる」ということが大事なんです。
======【引用ここまで】======

はい出た、社会主義とほとんど見分けがつかない「社会的共通資本」でお馴染みの宇沢弘文です。

宇沢の信奉者曰く、数理経済学者としての業績はノーベル賞級らしいのですが、その後の「社会的共通資本」の提唱については哲学者・・・風のただの居酒屋談義のオジサンというのが、私の感想です。内田樹氏と同じ穴のムジナです。

そんな数理経済学者であったはずの宇沢の「全人口の20-25%くらいは農村に住まなくてはならない」という主張に、内田樹氏は賛同しています。ただ、宇沢も内田樹氏も、きちんとした統計的な根拠は持ち合わせていません。宇沢の著書『社会的共通資本』を読んでみても、その根拠は不明です。

全人口の5分の1くらいは都市ではなく、里山エリアに住んだ方がいい。

と述べる内田樹氏ですが、自身が館長を務める凱風館ってどこにあるの?
当然、どこかの山奥か限界集落だよね?


・・・と思っていたら・・・

・・・ええええっ、神戸市の市街地ですって!?!?!?


よし、凱風館をどこかの限界集落か消滅集落に移転させ、内田樹氏と道場に通う門下生達を歩哨として送り込もう。門下生全員が難しいなら、まずは内田樹氏ひとりでもいい。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
そういうミクロな求人とミクロな求職をマッチングする仕組みができれば、かなりの数の「引きこもり」が里山の「歩哨」として暮らして、かつて西部開拓者が経験したような達成感や全能感を経験して、メンタル的に回復するというようなことが起きるんじゃないか。そんなことをぼんやり夢想しています。

――やりたがる人、意外に多いと思います(笑)。

内田 フロンティアを守るのに実はそんなに頭数は要らないんです。大伽藍を守るのに「寺男」が1人いて、寝起きしているだけで十分だという話をしましたけれど、西部開拓でもそうなんです。

======【引用ここまで】======

フロンティアを守るのに、そんなに頭数は要らない。大伽藍を守るのに寺男が一人いて寝起きしているだけで十分なんです・・・よね?

インタビューの聞き手をしている文春オンライン側の人も、
やりたがる人、意外に多いと思います(笑)。
と悠長な事を言ってますが、真夏に草刈りを3時間した次の日にまた草刈りをしなきゃいけないとなったら、(笑)とか出てこないでしょうね。
凱風館移転に合わせて一緒に限界集落に住んだらいいと思います。

【「逆ホームステッド法」?】

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 僕が提案する「逆ホームステッド」法は、放置された私有地や無住の家屋を自治体が接収して、コモンにして、そこに住んで5年間生業を営んだ人に無償に近いかたちで払い下げるというアイディアです。
======【引用ここまで】======

70年ほど前、日本で似たような事をやりました。政府が地主から土地を接収し、小作人に無償に近い形で払い下げる「農地改革」です。

農地改革の結果、小作人は喜びました。しかしその後、農地が農家一軒ごとに細切れにされたため、農業の規模拡大・効率化は阻害され、非効率な三ちゃん農業を細々と続けています。そうした兼業農家が、農業従事者のかなりの割合を占めています。農業は家業であって就職先にはならない、というイメージが固定化され、若者は就職先のある都会に出ていく・・・農村の衰退、過疎化の原因を辿っていくと、平等主義的な農地改革の失敗があります。

放置された土地・建物について、
「この土地を買おうと思ったのに、名義人は20年近く前に死んでいる。相続人が全部で数十人いる。誰が所有者か分からない。相続人を追いかけるのは事実上不可能だ」
といった事態は実際に生じています。これに対処するため、民法等を改正し、所有関係を整理する手段を定めるのは良いかもしれません。

しかし、所有者は分かっているがその所有者が放置している場合に、自治体が接収するのは、単なる財産権の侵害であり正当化できません。欲しいと思った人が、対価を払って所有者から買えば済む話です。内田樹氏や故宇沢弘文といった老人の思い付き妄言を実現するために、自由の基礎である私有財産制を犠牲にするなんて以てのほか。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
もともと土地というのは私有すべきものではないと僕は思っています。一時的に公共のものを借りて使用しているだけで、使用しなくなったら、再び公共に戻すということでよい。
======【引用ここまで】======

宇沢弘文を信奉する社会主義者が、馬脚を露しましたよ。

「人口の20%程度は里山に住むべきだ。引きこもりが里山に住んだらいい」
という妄言は、個人の自由や個人の選択を蔑ろにし、コストやリスクの度外視に基づくものですが、この根底には社会主義・全体主義的な考え方があるのです。

何もしない引きこもりは過疎地へ送り込め、そうすれば社会全体の役に立つ・・・これって、杉田水脈氏の「生産性」発言と同じレベルの問題発言だと思うのです。少子化対策にならないからLGBTへの税金投入は正当化されないという杉田氏と、里山を維持するために自治体が引きこもりを里山に住まわせろという内田氏、この両者は一定の社会目標を達成するため個人の生き方に政府が介入しようとする点で共通しています。

「LGBTには生産性がない」? JobRainbowが改めて解説 | LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」
======【引用ここから】======
このように、「社会に役立つ」「社会に役立たない」という基準で人の価値を判断するのは、いずれ「役立たない人は生きている価値がない/他の人よりも価値が低い」という考え方(優生思想)に結びついてしまいます。
======【引用ここまで】======

ということで、前回は宇沢弘文の『社会的共通資本』を買って読んで批判したのですが、今回の文春オンラインで宣伝されている内田樹氏の『コモンの再生』は、絶対に買いません(笑)。もう、おじいちゃんの妄言にお金を出したくありません。

『社会的共通資本』という駄作 ~看板が違うだけで、中身は社会主義~

2020年11月14日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回は、批判のためにわざわざ買ったけど、あまりにも面白くなくてためにならないので途中で積読になっていた、宇沢弘文著『社会的共通資本』を読んでの素人感想文です。

【社会的共通資本とは】

宇沢弘文は、本書の中で、そのタイトルでもある「社会的共通資本」という概念について

======【引用ここから】======
社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。(『社会的共通資本』はしがきⅱ頁)
======【引用ここまで】======

と説明しています(もう冒頭から妄想お花畑感が漂っていて吐き気がします)。この社会的共通資本の具体例として、河川、森林、道路、交通機関、医療、教育、さらには都市や農村等々を挙げています。こうした社会的共通資本は、

======【引用ここから】======
国家の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。(『社会的共通資本』5頁)
======【引用ここまで】======

と述べています。
資本主義における私有に委ねて企業が利益をむさぼることを排除しなければならず、同時に、社会主義における国有も否定して官僚統制に陥ることも防止しよう、ということのようです。そのために、信託・共有といった形態をとって、各分野の専門家の職業的規範に従い管理運営することで、

======【引用ここから】======
資本主義と社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限享受できるような経済体制(『社会的共通資本』はしがきⅰ頁)
======【引用ここまで】======

を実現しよう、それが社会的共通資本の理念だ、と主張しています。
こうして見てみると、宇沢は、資本主義と社会主義の両方を批判して、第三の道として「社会的共通資本」を提唱している・・・ように見えます。しかし、その内実はちょっと違います。

「ソ連が方法を間違えただけで、社会主義自身は正しい考え方なんだ」という左派リベラルの方を見かけたことがありますが、その元祖は宇沢かもしれません。

======【引用ここから】======
1917年のロシア革命を経て、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦が正式に成立したとき、経済学の理論的、思想的考え方が、一つの政治体制として現実に存在しうるようになったことに対して、世界の多くの人々は心から祝福し、その将来に大きな期待をもった。また、第二次世界大戦を契機として、かつての帝国主義的植民地であった国々が独立し、その多くが社会主義を建国の理念として新しい国づくりの作業を始めたとき、私たちは、新しい時代の到来を心からよろこんだのであった。しかし、その後の社会主義諸国の経済的、社会的展望は必ずしもこのような楽天主義に応えるものではなかった。とくに、スターリンによって東欧諸国が社会主義に組み込まれていったプロセスについては、その暴力的、強権的手段に対してつよい批判と反感をもつことになった。(『社会的共通資本』13頁)
======【引用ここまで】======

社会主義国に組み込むプロセスや手段が暴力的であったり強権的であったのが悪かったけれど、戦後に社会主義諸国が出来た当初はその理念に賛同し心からよろこんだ事が窺えます。強権的で官僚的な統制が悪いのであって、そこさえ改善できれば社会主義の当初の理念を達成できる、というニュアンスは、本書の至る所にちりばめられています。社会主義国成立前から社会主義を批判していたミーゼスと比べると、だいぶ格が落ちますね。

宇沢弘文を評した著作に『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』といったタイトルが付くように、宇沢の社会的共通資本の考え方は、社会主義に親和的で、資本主義批判に軸足が置かれています。

いや、一応は社会主義も批判してはいます。

======【引用ここから】======
過去70年にわたる社会主義諸国の経験が明白に示すように、計画経済は、中央集権的な性格をもつものはいうまでもなく、かなり分権的な性格をもつものについても、例外なく失敗した。その原因は、一部分、計画経済の技術的欠陥にあったが、より根元的には、計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾するということにあった。(『社会的共通資本』18頁)
======【引用ここまで】======

ただ、この社会主義についての反省が、社会的共通資本には活かされていません。

【専門家の官僚化】

冒頭挙げたように、宇沢は

======【引用ここから】======
国家の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。(『社会的共通資本』5頁)
======【引用ここまで】======

と述べています。このくだりに、宇沢自身による「計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾する」という社会主義批判が全く活かされていません。社会主義官僚を専門家に置き換えただけなんですよ。なぜ社会主義国では独裁的な政治権力が生じ、官僚が力を振るい、そして官僚による計画経済の運営が行き詰まったのかの考察がほとんど無く、管理人を官僚ではなく職業的専門家に置き換えただけなので、同じ轍を踏むんだろうとしか思えません。職業的専門家も官僚も同じ人間なのだから、作り手が替わったところで、多数の市民に適用される制度、基準は、人の数だけ存在する個々人の内発的動機と矛盾・衝突するに決まっています。

社会主義国においては、私有は否定され国有となりました。その国有となった資源・財産の使用・分配状況や人事を記録する役職に過ぎなかったはずの「書記」、その取りまとめ役の「書記長」が、社会主義国においては絶対的な権限を持つ肩書となりました。

本書には、社会的共通資本における信託・共有財産について、その管理運営を行う専門家の代表が権力を持って「書記長」化するのを防ぐ手立てや専門家管理の危険性についてすらほとんど言及がありません。宇沢は、医師や学者といった専門家に対し、過ちを犯すな、強権を振るうな、官僚のように杓子定規に統制するなと求めてはいますが、それを実現するために提唱している方法が甘々の激甘です。

======【引用ここから】======
病院をはじめとするさまざまな医療施設・設備をどこに、どのようにつくるか、医師を始めとする医療に従事する職業的専門家を何人養成し、どこに、どのようにして配分するか、またどのようにして、実際の診療行為をおこなうか、さらに、診療にかかわる費用、とくに検査・医薬品のコストをだれが、どのような基準で負担するか、などにかんして、なんらかの意味で、社会的な基準にしたがって、希少資源の配分がおこなわれる。
 しかし、この、社会的基準は決して官僚的に管理されるものであってはならないし、また市場的基準によって配分されるものであってはならない。それはあくまでも、医療にかかわる職業的専門家が中心になり、医学に関する学問的知見にもとづき、医療にかかわる職業的規律・倫理に反するものであってはならない。そのためには、同僚医師相互による批判・点検を行う ピアーズ・レヴュー(Peers' Review)などを通して、医療専門家の職業的能力・パフォーマンス、人格的な資質などが常にチェックされるような制度的条件が整備されていて、社会的に認められているということが前提となる。
(『社会的共通資本』169頁)
======【引用ここまで】======

専門家の相互チェックで多少の不正は防げるかもしれませんが、それで効率的かつ公正な分配ルールが作れるのか。分配を行い基準を作成する人の相互による批判・点検等で能力や人格をチェックするだけでOKなら、社会主義は失敗していません。

社会主義においては、管理と分配を行う官僚が優秀で道徳的であると考えていたはずです。同様に、社会的共通資本においても、管理と分配を行う職業的専門家が優秀で道徳的であることが求められます。社会主義において優秀で道徳的である人だけが官僚になるわけではないのと同様に、社会的共通資本において優秀で道徳的である人だけがその分野の専門家になるわけでもありません。しかも、どちらにおいても、優秀で道徳的な人が管理と分配を行う地位に就いたとしても、効率的で公正な資源分配なんて誰にも分からないのです。

社会主義の弊害として、まず、私有を否定し国有としたことにより、国民は一生懸命に働く動機を見失い、働くよりも配分権限を持つ官僚に接近することが生活向上への近道となってしまう点があります。また、計画経済ではどこに資源を投じる事が効率的でどこでどういったヒト・モノ・カネが必要なのか、そういった判断を全て官僚が行いますが、判断を行うための能力や情報を官僚が持っていないという点、も挙げられます。国民のインセンティブの歪みと、官僚の情報把握・処理能力の限界です。

【金は出せ、口は出すな】

社会的共通資本を管理運営するためにも、ヒト・モノ・カネが必要です。社会的共通資本としての河川、森林、農村、道路、交通機関、医療、教育等々を維持し運営するための費用を、宇沢はどこから捻出しようとしていたのでしょうか。

「社会的共通資本!
  社会的共通資本!
   社・会・的・共・通・資・本!!!!」

と念仏を唱えることで、ヒト・モノ・カネが宙から湧いてくる・・・なんてわけはありません。
仮に、社会的共通資本の運営費用を税金で賄うのであれば、税金を徴収し、これを分配する作業が必要不可欠となります。

宇沢は、大学運営を例に挙げて、

======【引用ここから】======
イギリスの大学では、かつて「政府は金は出すが、口は出さない」というモットーが、大学のあり方を象徴していた時代もあった。(『社会的共通資本』154頁)
-----(中略)-----
私がいたケムブリッジ大学のカレッジは、ほとんど大学の理想像に近いものであった。それからずっとのちになって、社会的共通資本としての大学のあり方を考えるとき、私が心のなかに描いていたのはいつも、このカレッジのイメージであった。(『社会的共通資本』159頁)
======【引用ここまで】======

政府は金は出すが、口は出さない」という態度こそが、社会的共通資本の分野に対する政府のあるべき姿勢であると述べています。

しかし、税収は有限です。そうである以上は、税金を徴収し分配する権限を持つ者に対し、分配要求額を伝え、その金額が必要な理由を説明し納得させなければなりません。税金に依存する限り、徴収と分配の実務を取り仕切る官僚の意向は無視できません。

 社会的共通資本としての河川を維持管理するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての農村を管理運営するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての道路を維持管理するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての医療を管理運営するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての・・・

・・・この金額を、各分野からの言い値で全額支払うことはできません。もし、金庫番が単年度だけでも各分野からの言い値で支払ってしまったら、翌年度から、各分野の中の人は
「言い値で政府は払ってくれるなら多めに要求しちゃえ」
となり、その瞬間に財政はパンクします。実際にパンクしそうになって行き詰ったのが、「ゆりかごから墓場まで」でお馴染みの当時のイギリスでした。

各分野からの要求額そのままでは支払えない、じゃあどうするかということで、金庫番役の官僚と各分野の交渉責任者が折衝し、金庫番が各分野における個別の事業の中身を聴いて必要性を判断し、聴き取った中での優先順位をつけて、税収とにらめっこしながら予算を配分していくことになります。その過程で、
「その業務、必要?」
「それを実施するためにこの金額は高くない?」
「今年しなきゃダメ?」
「それをやるならこういう形で管理してね」
といった形で、金庫番から各分野の事業に対し口が出されることになります。

予算折衝が、

 財務省 vs 各省庁

であれ、

 財務省 vs 社会的共通資本の各分野の代表

であれ、税金の配分である以上はやる事はそう変わらないでしょう。

【補助金分配のブラックボックス】

各分野の交渉担当者が、金庫番から予算を勝ち取ったとします。すると、この各分野の交渉責任者が、今度はそれぞれの分野の中で予算を分配することになります。予算配分権限を持つ交渉責任者が、分野の中の構成員や団体、事業者からの要求を聴き取り、それぞれに予算を配ることになります。

この交渉責任者が、公正に分配するとは限りません。交渉責任者との縁故で分配が決まるかもしれません。また、個別の事業者や団体への分配額の多寡を他の事業者や団体に説明できるようにするため
「▲▲の条件を満たし、◆◆について毎年報告すること」
といった分配基準を設ける、なんてことも想定されます。

財政民主主義の観点からは、予算配分の必要性をきちんと説明し、配分された予算は使途を明確にできることが重要となります。こうした財政民主主義と、「政府は金は出せ、口は出すな」と要求する社会的共通資本の理念とは相性が悪いと言わざるを得ません。社会的共通資本の議論は、使途不明金が発生するのを黙認し、むしろ推奨しているようなものです。納税者に対し、必要性が説明されていない事業、必要性を説明できない事業に金を使われるのを、黙って許可しろと求めるのは理不尽だと言うほかありません。

宇沢が理想の例として挙げたイギリスのUGC(大学補助金委員会)にしても、UGCが政府から予算を獲得し、これを各大学に分配する際に「不透明な分配だ」「ブラックボックスだ」といった批判が出されています。

この頃、UGCを介して補助金の配分を受ける大学が増えるのと同時進行で、他の社会福祉経費をはじめ各支出項目も膨れ上がり、国民の勤労意欲が失われるイギリスの社会主義化・英国病が蔓延しています。これに対処するため、社会福祉の見直しや補助金の削減、国営企業の民営化等々が行われ、1989年にはUGCも廃止されたわけですが、この前後の流れについて宇沢は、

======【引用ここから】======
1968年、UGCは大蔵省から教育・科学省に移管されることになって、イギリスの大学はまったく新しい環境に置かれることになった。教育・科学省が、大学における予算配分の過程に対して細部にわたって監督するようになり、同時に、大学における研究、教育の内容にまで、専門的な立場から容喙するようになった。とくにサッチャー政権となって、大学関係の予算を大幅に削減するという暴挙に出てから、大きく変質しはじめ、かつての、自由で、闊達な雰囲気が失われてしまった大学が多くなったという。(『社会的共通資本』161頁)
======【引用ここまで】======

と、政府による大学への介入や大学予算削減を「暴挙」とだけ評し、ではなぜこうした措置が取られたのかについての考察、言及がほとんどありません。宇沢にとって不都合だったのでしょう。
経済学の根本にある希少性を軽視し、財政民主主義や公金支出の説明責任をそっちのけで「政府は金は出す、口は出さない」を推奨する宇沢は、不誠実だなぁと思わずにはいられません。宇沢の数理経済学者としての実績は門外漢なのでよくわかりませんが、日本に戻ってからの「社会的共通資本」の主張は、居酒屋談義として聞き流して良いレベルだと思います。

社会主義に傾倒する人は、善意の人が多い。宇沢も、資本主義下で生じた分配の不公正や格差を嘆く善意の人でした。しかし、善意で分析をゆがめてはいけません。
宇沢は、本書の冒頭で新古典派経済学を

======【引用ここから】======
資源配分の効率性のみを問題として、所得分配の公正性については問わない(『社会的共通資本』30頁)
======【引用ここまで】======

学問であると批判し、経済学とは本来、

======【引用ここから】======
分配の公正、貧困の解消という経済学の本来の立場(『社会的共通資本』41頁)
======【引用ここまで】======

であると述べています。
これって、宇沢個人の願望ですよね?
私は、経済の仕組みや経済活動に見られる法則を分析・研究するのが経済学だと思っていたものですから、本書のこの記述を見て
「分析に願望が入っちゃってない?」
と残念に思ったものです。

資本主義批判、市場原理批判からスタートし、社会主義批判については「社会主義は官僚統制が悪い。専門家の管理にしたらきっと上手くいく」程度でお茶を濁して済ましている宇沢。そもそも、本当に資本主義における分配は不公正なのでしょうか。公正な分配とは一体何なのでしょうか。相対的貧困、格差は資本主義を否定しなければならないほどの問題なのでしょうか。

【社会的共通資本の極めて小さな可能性】

もし、社会的共通資本の理念が上手くいく場面・分野があるとしたら、特定の社会的共通資本を共同所有とし、その所有者・利害関係者・ステークスホルダーがある程度狭い範囲で限定可能な場合であって、かつ、管理運営費用が所有者・利害関係者・ステークスホルダーの任意の負担によって賄われている場合、位でしょうか。

本書で登場した「三里塚農社」構想は、その範囲が狭い範囲に限定されていることから、もし関係者の土地集約や関係者からの運営費用徴収の仕組みができれば、上手くいったかもしれません。しかし、関係者からの賛同が得られず構想倒れに終わっているようです。

ゆるリバタリアン・蛭子さん

2020年10月26日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今日のお題は、私が好きなタレントの一人、蛭子さんのお話。

「蛭子さん」が語る認知症との闘い 襲い来る幻視、麻雀をやめた後悔、奥さんへの感謝(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

認知症であることを公表した蛭子さんのインタビュー記事。
基本的には意識がハッキリしていて会話も成立するけれど、ときどき、場所や持ち物の把握ができなくなったり幻視が見えたりといった、まだら模様な状態のようです。
そんな蛭子さんに対し、マネージャーが上手くスケジュール調整しつつキャラクターを活かしながら仕事を入れています。時間帯によって認知機能の良し悪しの波があって、マネージャーが状態を把握しつつ本人のしたい仕事、できる事を組み込むことで、蛭子さんの収入や生活が支えられています。そんな蛭子さんとマネージャーを交えたインタビューからは、高齢社会の一面を垣間見ることができます。

ぜひ記事全文をご覧ください。

【蛭子さんと麻雀】

さて。

おトボケ(キャラ?)な蛭子さんですが、彼にはもう一つの側面があります。

「ラーメン大好き小池さん」ならぬ「マージャン大好き蛭子さん」です。
自他ともに認める麻雀好き。

蛭子さんは記事中で、
麻雀に行く回数が減ったから認知症が進んだんじゃないか
そうですね、麻雀は好きですよ、本当に。回数が減ったのは世間体の悪さかな。麻雀をしている時は脳を使うから認知症予防にもなるはず。そういうことはやっぱり大事ですよ。
と述べていますが、これは蛭子さん一人が突飛な事を言っているわけではありません。蛭子さんと同じ発想で、認知症予防の観点から麻雀を取り入れている介護事業所も増えています。

麻雀の卓を囲みながら、雑談をしつつも手牌に目を配り、捨て牌に目を配り、他者の動向に気を配り、残り枚数や点数を数える、これが麻雀です。非常に頭を使います。頭にしろ筋肉にしろ、使わなければ衰えます。
「麻雀をする機会が減った事と認知症が進行した事とは繋がりがある」
と蛭子さんが思うのも無理ありません。

認知症予防の効果が期待される麻雀ですが、ネガティブな面もあります。
麻雀に伴うギャンブルという側面です。

蛭子さんは過去に賭け麻雀で現行犯逮捕され、罰金刑となったのみならず、仕事を失い収入が激減するという大変大きな社会的制裁を受けています。
蛭子さんへの扱いと対照的なのが、黒川弘務氏のケースです。蛭子さんと黒川氏とでは、現行犯逮捕かどうか、レートがテンリャンピンかテンピンかという違いはあれど、同じ事をしていて片方は刑罰を受け収入も激減、もう片方は不起訴・訓告のみ・退職金支給と、雲泥の差があります。

蛭子さんは
俺は麻雀の連載もやってたので理屈ばかり言って抵抗してたんですよ、警察に対して。「麻雀は頭に良いはずだ」とか、警察の考え方とは、全く逆の方向のことをどんどん言ってたら、ダメでした(笑)
と、警察に立てつきました。片や黒川弘務氏は、警察の身内である検察の上層部。蛭子さんと黒川弘務氏の取り扱いの差は、社会的秩序(という名の官僚機構の面子)なんでしょう。

【賭博罪の必要性は?】

賭博罪は、社会的法益に対する罪であると説明されます。
賭け麻雀で言えば、麻雀に参加しているプレイヤーが勝ち負けに応じてお金を払っても、参加者個人の権利侵害は生じません。その場のレートに同意して参加しているのですから。このため、個人の権利侵害ではなく、公序良俗という社会的な価値観を侵害しているという点を根拠に処罰しています。個人的法益に対する罪ではなく社会的法益に対する罪、具体的には「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」からギャンブルは悪い、だから処罰するんだ、という理屈です。

・・・蛭子さんがたまたま雀荘で賭け麻雀をしたのと、検察上層部の人が新聞記者と日常的に賭け麻雀をしていたのと、どちらが公序良俗に反しているでしょうか。さらには、蛭子-黒川問題から浮かび上がった、賭博罪を適用する対象者や摘発する場面に関する基準の曖昧さから「恣意的な運用がされているのではないか?」という疑いを招いた事の方が、よっぽど公の秩序に対する信用を揺るがしたんじゃないんですか?

そもそも、賭博罪における「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」という価値観は、政府の強制力を発動する理由として相応しいものなのでしょうか。公営ギャンブルやパチンコといった「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損なう」ものが氾濫している中で、賭け麻雀を違法とする賭博罪を維持する合理性がどれほどあるのでしょうか。

私は、賭博罪をはじめとする社会的法益に関する罪全般について、「当事者が同意して実施している行為を政府が禁止し罰する必要性があるのだろうか」という疑問を抱いています。

蛭子さんの
そんなに悪いことじゃないのになぁ、って思いますけど、でも、捕まるものは捕まるわけですから、しょうがないですね
というぼやきに、私は親近感を持っています。

そんなに悪いことじゃないのになぁ。

【蛭子さんのコロナ禍観】

さてさて。

蛭子さんは、新型コロナで騒がしい世間を眺めて、こうぼやきます。
コロナはめんどくさいなって思いますね。怖いってこともあるけど、なんでこんなに人が騒ぐのか。これに関してはよくわかんないな。

蛭子さんは著書『ひとりぼっちを笑うな』からも窺えるように、デモや政治運動が嫌いで、人に干渉せず、人から干渉されるのを避けようとするタイプの人です。

そんな彼から見れば、新型コロナを理由に政府が国民に対し新しい生活様式を示し、マスコミが声高に自粛営業の積極的実施を叫び、相互監視を強める中から自粛警察が発生し、国民の側からロックダウン等の政府の強制的な措置を求める様子は、「なんでこんなに騒ぐのか」と奇異に映るのでしょう。

蛭子さんは、個人の自由を尊重する人です。そして、政府がルールを定める事自体は仕方ないとしても、取り締まるのか取り締まらないのか曖昧で恣意的なルールを嫌います。


ひとりぼっちを笑うな』130頁
======【引用ここから】======
ルールは、”はっきりしたもの”、そして"現実に即したもの"であってほしいという願望があります。そう考えると、この日本という国には、ひどく曖昧なルールが多い気がしてなりません。
 たとえば、クルマやバイクのスピード違反。制限速度が60キロの道路を60キロで走っている人なんて、ほとんどいないですよね?みんな10キロくらいオーバーしているんじゃないかなあ。もし、みんなが60キロで走っていたら、どの道路も大渋滞ですよ。だからこれは、現実に即したルールだとは思えない。普通の道路でも、見通しのいいところだったら、70キロくらいでいいと思うんですよね。その代わり、全員にそのルールをしっかり守らせる。「道が空いていたから」とか「誰も見てなかったから」という言い訳はもちろん一切なしです。
 あとは、ソープランドもそう。売春防止法があるにもかかわらず、売春は依然として存在しているし、ソープランドも繁華街で普通に営業しています。"自由恋愛"という大義名分を理由にして、法律があるのにそれをかいくぐるように公然と営業している。つまり、それって社会的にも黙認されているわけですよね(僕の所属事務所がある渋谷なんて交番の後ろがソープランドなんていう場所すらあるくらいです)。人間の欲望というものがあって、需要と供給が成立している。大昔のように、無理矢理ソープで働かされているような人なんて、ほとんどいないですよ。だから、これもあまり現実に即したルールとは思えない。
 そして、やっぱりギャンブル。一応、「公営競技」という名のもとに、競馬、競輪、競艇、オートレースは認められていますが、パチンコや麻雀はグレーゾーンです。
 そうやってみんなが好んでやっているようなことに関しては、もう一回ルールをちゃんと見直してほしいというのが、僕の切なる願い。グレーゾーンが多いのはダメ。白黒はっきりつけて欲しいんです。
 そうでないと、どこか不安で自由に遊べないじゃないですか。”大人の遊び”みたいなものを、胸を張って自由にやらせてくれないところに、どうも僕は、日本の法律の矛盾を感じるんですよね。

======【引用ここまで】======

そんな蛭子さんにとって、何をして良くて何をしたらダメなのかがハッキリしない新型コロナ自粛要請は、苦手なんじゃないかなと思います。
東日本大震災の時に「絆」が強調された世情に違和感を感じていたのと、似たような感覚を抱いています。

ひとりぼっちを笑うな』18頁
======【引用ここから】======
あくまでもその人それぞれがやれることをすればよいのであって、「絆」や「がんばろう」というような言葉を、むやみやたらに強調しなくてもいいのではないかと考えているんです。あくまでも人は自由だから、絆の外にいる人、がんばらない人がいてもいいし、それを「間違った考えをするな!間違ったことをするな!」「それでもお前は日本人か!」「人でなし!」と説教や強要をするのは好ましくない。
======【引用ここまで】======

うん、蛭子さんが親戚のおじさんと言われても全然違和感ありません(笑)

社会のゴミは小泉進次郎環境相だけじゃない ~ 原田義昭の廃棄も有料ですか? ~

2020年10月02日 | 政治
スーパーで、レジ係員に
「ええと・・じゃあ・・LLサイズを2枚」
と告げたおじさん。
支払いを済ませた後で、レジ袋に買ったものが入りきらず、
おじ「もう1枚くれ」
係員「3円です」
おじ「1円、2円、3円がないから・・・100円で」
という不毛なやり取りをし、その間にレジに並ぶ行列が長くなる。
行列の中で、
「迷惑だわー、マイバッグ持ってくればいいのねー」
というおばさんが持っているマイバッグは、明らかに臭い。
数か月分の肉や魚の汁が染みているであろうその自前の袋は、すでに生ゴミ。

そんな経験、ありませんか?
どうもこんばんは、若年寄です。

本当に迷惑なレジ袋有料化ですが、世間では
「小泉進次郎が始めた世紀の悪法」
という声が強く、
進次郎大臣こそ社会のゴミだ
という批判が上がるほど。

全国民に膨大な時間・費用・手間をかけさせる実害を生じさせておきながら、
目的が違うんです。目的は、レジ袋有料化をきっかけに、世界的な課題になっているプラスチックに問題意識を持ってもらうこと
などと悠長な物言いを続ける小泉進次郎環境相は、「役立たずの世襲議員」を通り越して「社会のゴミ」だと思わずにはいられません。

私は、この「社会のゴミ」枠にもう一人追加したい。

それがこいつ。



「レジ袋の有料化」と私の決意 - 衆議院議員 原田義昭オフィシャルサイト
======【引用ここから】======
なお、敢えて言うなら、「レジ袋有料化」は、この私が大臣主導で決定したものです。
-----(中略)-----
大臣というのは非常に強い権限を持っており、政治的責任を取る覚悟さえあれば、ほぼ何でも決断できる強い立場にあります。強い決意で臨んだこと、それ故にその後もしっかりフォローする責任を持つことを感じたものです。
======【引用ここまで】======

「レジ袋の有料化」、7月1日から施行 - 衆議院議員 原田義昭オフィシャルサイト
======【引用ここから】======
昨年6月4日、私は環境大臣として「レジ袋有料化」の方針を発表した。長年に亘る社会的懸案であったのだが、有料化することで、国民全てにプラスチック使用の抑制とその意識付けになることを狙ったもの。
======【引用ここまで】======

前環境相にして、レジ袋有料化の導入を決めた張本人、原田義昭です。
小泉進次郎の悠長な啓発発言も、元を辿ればこの原田義昭の考え方に行き着くわけです。小泉進次郎は有料化開始時の大臣としてその責任は免れませんが、見方によっては、小泉進次郎はこの原田義昭が作ったレールの上を走る御輿でしかない、とも言えるわけです。

生ける老害、原田義昭。

レジ袋でまごまごするおじさんを見つけたら、
「原田義昭というまれに見る愚かな政治家のせいで、今、あなたは手間を取られてんですよ」
と教えてあげましょう。

久々の「フリードマン 予測の公式」を引用して、今回は終わりたいと思います。

○ミルトン・フリードマン著『政府からの自由』(中公文庫)152頁
======【引用ここから】======
価値ある目的のための社会政策の数々、その実施結果やいかに。その疑問をもつ方々に、絶対間違いのない予測方法をお教えしよう。何でもいい、ある政策を強く推している公共心旺盛な善意の人のもとを訪れ、政策に何を期待しているかを尋ねるのである。そして、その人の期待と反対のことを言ってみる。実際の結果とピタリと一致することは、驚くばかりである。
======【引用ここまで】======

自称・弱者の代弁者 vs 当事者 ~浅い左翼の性産業廃止論と搾取の話~

2020年09月29日 | 政治
「性産業に関わったらダメだよ~」と説教する気持ち悪いおじさんを、逆に叱る女の子。



どうもこんばんは、若年寄です。
今回は、AMEBAの番組のまとめ記事

性産業は廃止すべき?給付金対象外は職業差別? 賛成派と反対派、紗倉まなが激論(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

を読んでの感想です。

【論点整理】

まず、このタイトルからも分かるかと思いますが、この番組での議論には論点が少なくとも2つは有ります。

1.性産業を廃止すべきか否か?
2.性風俗店も持続化給付金の支給対象にすべきか否か?


です。
論点の組合せとしては、


1.性産業を廃止する必要はない。
2.性風俗店も持続化給付金の支給対象とすべき。


1.性産業を廃止する必要はない。
2.性風俗店は持続化給付金の支給対象とすべきでない。


1.性産業を廃止すべき。
2.廃止すべき業種を持続化給付金の支給対象とすべきでない。

( ④
1.性産業を廃止すべき。
2.現在存在する業種なので持続化給付金を支給すべき。

 も考えられるのですが、この論者は居なかったように思われるので除外 )

記事冒頭で
まさにコロナ禍が浮き彫りにした職業差別であると思う。国民感情みたいな非常に曖昧な理由で差別をしてよいのかということに、しっかりと司法は向き合って答えを出すべきだと思う
と主張する、訴訟を起こしたデリヘル経営者の代理人弁護士・亀石倫子氏や、番組に出演したSWASH代表の要氏は、①の論者に位置付けられます。

他方、ひろゆき氏は
性風俗産業自体は“ご自由にやってください”と思う
と述べつつ、新型コロナ感染症対策の観点から
“肉体的接触をすることが商売だ”というビジネスを持続化するために税金を払うのはどうかと思っている。性風俗では必ず接触が伴うわけで、それに国がお金を払って続けてもらうのはおかしいのではないか
と述べており、②の論者であることが分かります。

藤田孝典氏は、言うまでもなく、
性暴力、性搾取を蔓延させている産業が調子に乗って、休業補償しろ、とか恥を知れ
性産業はなくなった方がいい、という認識の広がりが大事
というガチガチの③論者。

私は、①に近い考え方を持っています。
以下、①の立場からまずは②を眺め、③を批判的に見ていきます。
そして最後は、途中で登場する「搾取」の論点についても見ていきましょう。

【性風俗店も持続化給付金の支給対象にすべきか否か?】

②の論者であるひろゆき氏のコメントから、給付金の対象とすべきか、外すべきかを見てみましょう。

今回のコロナに関していうと“肉体的接触をすることが商売だ”というビジネスを持続化するために税金を払うのはどうかと思っている。性風俗では必ず接触が伴うわけで、それに国がお金を払って続けてもらうのはおかしいのではないか。コロナが収まった後で栄えるのはいいと思うが、コロナの最中は止めた方がいいと思う
業種として、体液の交換がある業種はやはり感染リスクが高いので、現時点では国として進めるべき産業とは思っていない

新型コロナウイルス感染症に関して出てきた給付金を、感染リスクの高い業種に交付するのは止めよう、という②論者の主張。

これは一見正しそうですが、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

肉体的接触を伴う業種は、性風俗に限りません。理容師・美容師もそうですし、鍼灸・按摩・マッサージ店などもそうでしょう。また、肉体的接触だけでなく排泄物処理も行う介護職もいます。利用者客との接触を伴う業種は多数存在します。こうした業種が給付対象となっている中、性風俗産業を除外するのは、本当にリスクの度合いを判断しただけと言えるでしょうか。そこに職業蔑視が入っていないでしょうか。接触を伴う感染リスクの高い業種を給付金対象から外すべきという主張に従うならば、性産業のみならず多くの業種が除外されるはずです。売り上げの減少に加え、感染症対策で他業種以上に神経を使い経費も使ったであろう、という点ではいずれも共通しています。

もし仮に、最初から
「業種Aを対象としたA業持続化給付金」
という制度であったならば、
「A業でない性風俗産業は対象外ですよ」
という対応は適切だったと思います。

しかし実際には、
基本的に全ての業種が対象です。ただ、国・地方公共団体、政治団体、宗教団体、性風俗産業は対象外
という運営基準になっています。税法の関係を見たとき、実質的には性風俗産業だけを除外したものと言っていいでしょう。他業種と分けた基準は何なのか、感染するリスクと感染した際のリスクを考慮した上で設定した基準なのか、訴訟において政府当局担当者がどのように説明するのか見ものです。

以上、②論者に対する反論、疑問でした。
次に、③論者、すなわち性産業廃止論者の主張を見ていきましょう。

【性産業を廃止すべきか否か?】

ここからがメインです。

③論者である藤田氏は、廃止すべき理由として、
女性の弱い立場の性を利用しながら、公序良俗に違反するような形で経営がされてきているので、そこに公金を支給するというのは、社会的にその産業を認めることに繋がってしまうのでやめていただきたいと思う。そもそも性は売ってはいけない
と述べています。
そもそも論として、
「女性は弱い」
「性を売ってはいけない」
という藤田氏の好悪が先行しています。藤田氏のパターナリスティックなおじさん感情に照らして女性全般を一括りに保護の対象とし、藤田氏の正義感に合致しない業種を否定する、という流れになっています。

藤田氏の頭の中には
「女性は弱者であり、主体的に職業選択できず、性産業に従事する人はやむにやまれずそこで働いているのだ」
という固定観念があります。藤田氏は、社会福祉士の業務を通して接した中から、
性暴力、中には年齢を隠して児童が性風俗店で働いているというケースもある。知的障害、精神障害でやむにやまれずそこで働いていて、なかなか自分で判断がつかない方もいる
という、自己のストーリーに合致する事例をピックアップして紹介しています。

通常なら、これで押し通すことができるのでしょう。
弱者である当事者の声を代弁するスタイルで自説を補強する、というのが藤田氏の手法です。

ところが、スタジオにいるのは、主体的に性産業で働く当事者、紗倉まな氏。紗倉氏は、次のようにツッコミます。
藤田さんが仰っている扱われ方が不当だとか劣悪な環境という話は、一部のケースではないか。一部が法を犯しているからといって、全ての性風俗産業に当てはまるわけではないと思う
潰すか潰さないかと言われるとすごく極論だし、暴論だなと思う。例えば職業適性として、自分が主体的にやりたいと思って、自らの意思で選択して入っていく人たちもいると思う。少ない時間で効率よくお金を稼ぎたいとか、目標のためにお金を稼ぎたいとか、多様な意思で働いている方がいらっしゃる中で、なぜ潰すという結論に至らなくてはいけないのか。無理やりやらされている方がいるのであれば、もちろんそういった環境は是正されるべきだと思う。しかし、私のような主体的に働いている人間と無理やりやらされている人間の割合もわからない中で、負の側面だけを誇張して潰すという風に結び付けられることに違和感がある

もう、この議論は終了したようなものです。紗倉氏の完封勝ちです。
「自称・弱者の代弁者」と「当事者」とでは説得力が違いますし、述べている内容も雲泥の差。
藤田氏の主張は、個別に支援や保護を必要とするケースが存在する事を示しているのみで、業種全体を廃止する理由にはなりません。その業種に主体的に、任意に参入している人が一人でも居る限り、その活動を妨げる根拠たり得ません。

藤田氏はこれに対し尚も食い下がり、
社会保障や社会福祉の制度をきちんと充実させて、『本当に選んでいるんだ』と言えるような環境を作らないといけないと思っている。大学生が『授業料のために行かざるを得ない』、シングルマザーのお母さんが『子供を育てるためにセックスを売らないといけない』というような証言ばかりだ
と、「主体的に選んでいる人はいない」という印象操作を試みるものの、主体的に選んでいる人が反証として目の前にいるわけです。藤田氏は、この番組ではいつもの手法が通用しないというのを事前に勉強してくるべきでした。

【主体的な職業選択を妨げる社会福祉士】

ありとあらゆる業種において、
「自分に向いていると思って、好きでこの仕事を選んだ」
という人と、
「その時の人間関係や経済状況では、この仕事しか選びようがなかった」
という人とが存在します。
この中間的な
「いくつかの職業候補がある中で、この仕事が収入面や内容、強度の面で割が良かった」
「遊ぶ金が欲しくて、遊びにいく時間帯と仕事の時間帯とがちょうど良い」
という人もいて、それぞれの要素がグラデーションの濃淡を構成しています。

絶対的貧困の中で生きるためにやむを得ずその仕事を選ぶしかなかったという人に対して、社会福祉士が公営・民間の支援サービスに繋ぐのは良いことだと思います。また、借金の質として親に売られた人、暴力で連れ去られてその仕事に従事させられた人のケースについて、警察が介入し保護するのは有りだと思います。
こうした、貧困や暴力によって強いられる事例は、性産業に限ったものではありません。個別事例に対し支援や保護をするのは結構ですが、業種そのものを廃止する理由にはなりません。絶対的貧困の中で生きる人への支援や暴力で強制された人の保護と、その業種を主体的に選んだ人の職業選択を尊重することとは、矛盾せず両立します。「支援や保護を要する労働者が居るから、その業種を廃止すべきだ」という主張は、全ての業種にブーメランとして飛んでくる可能性がある危うい意見です。

藤田氏が、児童やシングルマザー、障害のある人から支援を求められた事は、その人達を支援する理由にはなりますが、しかし、目の前にいる、主体的に職業を選んでいる紗倉氏の仕事を廃止しろと主張する理由にはなりません。
社会福祉士が性産業従事者から「風俗を強要されている、辞めて生活保護を受けたい」と相談を受けたら、その相談に応じたら良いでしょう。しかし、社会福祉士が性産業従事者から「仕事は問題ないが、子供の預け先を悩んでいる」と相談を受けた時に、保育園やベビーシッターの利用方法を教えることなく「性産業は廃止されるべきです。風俗の仕事を辞めて生活保護を受けなさい」と指導するのは大きなお世話であり、その人の主体性や尊厳を踏みにじる高圧的・強権的・パターナリズム的な行為です。

①論者の要氏が
藤田さんはネガティブな事情を背景に働く人たちが多いということをもって、風俗が無くなるべきということをよく言われるが、風俗に限らず一般的な仕事でも『本当はやりたくないけど生活のために』という事情でやっている人は多い。だからといってその産業は否定されないし、廃止論は出てこない。ネガティブな理由でやっている、仕事を選んでいるというのは別におかしい話ではない
と述べているとおりです。
結局のところ、最初に戻るのですが、藤田氏の性産業廃止論の根拠としては、
そもそも性は売ってはいけない
という藤田氏の価値観、嫌悪感、偏見に過ぎません。

私は仕事柄、社会福祉士に接する機会が結構あるのですが、個別の支援ケースを検討している中で嫌悪感剥き出しに「あなたが就いている仕事はまともな仕事じゃありません。調子に乗るな、恥を知れ」なんて言い出す社会福祉士が居たら、その場から追い出しますね。
藤田氏が、社会福祉士の肩書を付けて公の場でこうした発言を発信し続けることで、
「社会福祉士ってこんな偏見を持つ人ばかりなの?相談して大丈夫なの?」
と思う人が増えてしまうのではないでしょうか。

もし、紗倉氏やその他の性産業従事者が、
「仕事の面で困ったことがあります」
と相談に来たのであれば、社会福祉士として藤田氏が応じればよいでしょう。しかし、
「私は自分の意思で仕事をやっています」
という成人に対し、その職業を否定するということは大きなお世話であり、それを公言して回るのは営業妨害であり、ひいては社会福祉士に対する信用失墜行為です。

【搾取?】

最後に、性産業従事者は搾取されている(だから性産業は廃止すべきだ)という流れで、「搾取」の論点が生じます。

性産業は廃止すべき?給付金対象外は職業差別? 賛成派と反対派、紗倉まなが激論(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
要氏の「他の労働も搾取があるのは一緒ではないか」との指摘には、「本人がやりたくないけどお金のためにやっているという状況は、お金がない人の状況を利用してやりたくないことをやらせているので、僕は搾取だと思う」と述べた。
======【引用ここまで】======

労働者が搾取されているのは、性産業だけなのでしょうか。
労働者が搾取されていることが、業種を廃止する理由になるのでしょうか。

いや待てよ。そもそも、搾取とはどういう状態なのでしょうか。
これについて、紗倉氏のコメントがこちら。
搾取というのは、主体と客体を曖昧にする安易なマジックワードだと思う部分がある。一般的に第三者から見て搾取だと思っても、本人が搾取だと思わない限り搾取ではない

搾取」を「安易なマジックワード」と指摘する紗倉氏は鋭いと思います。

これに対し藤田氏は場外戦で

藤田孝典さんのツイート
======【引用ここから】======
セックスワークに限らず、賃労働全般が資本による労働搾取。
搾取とは「階級社会において、生産手段の所有者が、直接生産者からその労働の成果を取得すること」(広辞苑2018)
性労働も例外なく、性風俗事業者の搾取対象。
「本人が搾取だと思わない限り搾取ではない」は根本的に誤り。

======【引用ここまで】======


セックスワークに限らず、賃労働全般が資本による労働搾取
と述べ、反論した・・・つもりになっていますが、これは完全に墓穴を掘っています。

性産業廃止論者である藤田氏は、その廃止すべき根拠として性産業における搾取を挙げていました。ところが、紗倉氏の指摘に狼狽したのか、ろくに考えず反射的に「賃労働全般が搾取なんだ」と述べてしまったのです。しかも、本人が搾取と思っているかどうかは関係ないんだ、というおまけ付き。

さぁ大変。
自発的に契約を締結して賃金を受け取り労働力を提供する労働者の従事する産業全般が、廃業すべきということになります。

藤田氏の主張は根本から間違っています。指摘を受けてもまともな反論ができず、ごまかしと嘘を重ねることに。

藤田孝典さんのツイート
======【引用ここから】======
廃業、廃止を促すのは性風俗産業だけではないですよ。
過去には人材派遣業、外国人技能実習制度、劣悪な無料低額宿泊所、個別にはワタミ、電通、以前のZOZOなどにも、改善不可能なら廃業すべきでは、と意見表明してきました。

======【引用ここまで】======


搾取を理由に業種そのものの廃止を主張し、賃労働全般を搾取と位置付けたのだから、(NPOを含む)賃労働を行う全業種に対して廃業を求めるのが筋です。自分が嫌いな特定の業種・業者に対し廃業を求めたとしても、だからどうしたという話です。

これが、藤田氏のごまかし。

次に、ZOZOについてですが、ネット番組や新習志野駅での街宣活動を通して、派遣社員や非正規従業員の賃上げを要求してはいました。また、ユニオンへの加入を勧めていました。しかし、「ZOZOは廃業すべき」と述べたものがあったでしょうか。

これが、藤田氏の嘘。
(新習志野駅で出勤途中のZOZO従業員に対し
「ZOZOは廃業すべきだ」
なんて主張をして、実際に廃業されたら困るのは従業員でしょうよ。)

支援を求めてきた人の情報をネタにメディアや講演会で喋り、知名度を上げ、気に食わない知名人・業種・企業を「搾取だ」とつるし上げ、社会保障の拡充を求める。マルクス主義華やかなりし頃はこれでいっぱしの社会派学者・活動家になれたのでしょうが、今では「それが搾取なの?」と多くの人が言えるようになったわけでして。

【搾取構造を擁護しているのは藤田孝典氏】

なお、現代日本における最大の搾取構造は、正規・非正規労働者の身分格差にあります。

その職業への適性や能力が無くとも、一旦採用されればろくな働きや成果を出さずとも給料を貰い続けることのできる大企業正社員・公務員と、その正社員の一時的欠員や時期的な過不足を調整するために利用される有期・低賃金の非正規労働者。正社員の地位が非正規労働者の存在によって保障されていて、非正規労働者よりも高給を得ている現状は、身分制度と呼ぶことができます。この身分制度・階級社会の中で、非正規労働者は正社員に搾取されているのです。

藤田氏は非正規労働者の低賃金を批判しているものの、正社員の解雇規制緩和・撤廃に反対しています。搾取側の正社員労組から資金援助を受け、仕事を貰う等、身分制度を擁護する側の広告塔として活動しているのが実態です。

マルクス主義と偏見の同居する藤田孝典氏。彼の職業差別問題については、これからも追及しようと思います。

税の徴収と配分にまつわる官僚制の非効率を、市場のせいにしようとする不条理 ~グレーバー(酒井隆史)の新自由主義批判~

2020年09月26日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

ブルシットジョブ(くそどうでもいい仕事)でお馴染みデビット・グレーバーの翻訳者に、酒井隆史氏という人がいます。
今回のお題は、酒井氏のネオリベラリズム(新自由主義)批判について、です。
定義のあいまいなままの新自由主義批判は、中身が・・・といういつものお話。

ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
小泉改革のあたりからだろうか、公務員がムダの元凶、不効率の砦として、攻撃の槍玉にあげられるようになった。マスコミをあげての総攻撃の結果、郵政を筆頭に、それまで公的領域にあったものが続々と「民営化」されていった(民営化はprivatizationの訳語であり、本来、私有化とか私営化といった含意をもつはずだが、日本語の語感はそれがあたかも「民衆」を主体とするものであるかのようなニュアンスをかもしだしてしまい、この訳語自体が、ネオリベラリズムのイデオロギー効果を増幅させてしまうことに注意してほしい)。
======【引用ここまで】======

酒井氏の文章の中で、冒頭のこの箇所は、唯一といっていい有用な内容を含んでいます。

「privatization」は、直訳である「私有化・私営化」のニュアンスで徹底されていません。「民営化」という日本語訳に含まれる「民衆」の語感から、民主主義のイデオロギーに引きずられています。

ネオリベラリズムに基づき市場原理を導入しようとしたものの、市場原理が徹底されず民主政の介入を大きく受けている、そんな公共事業は多い。市場原理の不徹底と民主的介入の余地を残したことが、非効率を生み出す元となっています。その典型が、酒井氏が例として挙げる大学運営です。

【「私営化」されなかった大学運営】

ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
シラバス作成にかんして、「非効率」なはずの伝統的大学では、大学職員から大学教員への通知ひとつでことはすんでいる。実に「スリム」なのである。ところが先端的経営による効率性をうたう大学では、管理チェックのプロセスなどがあいだにはさまって、複雑怪奇なものになっている。これが先端的経営理念による「効率化」の実態である。
======【引用ここまで】======


以前は、シラバスの作成に際し大学教員と大学職員の間で通知一本で済んでいた。それが、「民営化」や効率化の導入によって複雑なやりとり、報告、承認が必要となった・・・と嘆く酒井氏。

この図には、大学教員、大学職員、大学管理者の三者が描かれています。しかし、この図を幾ら眺めても
「なぜ大学管理者は教員や職員に対し詳細な指示を出し報告を求めるのか」
は見えてきません。なぜかと言うと、この図に、予算配分に携わる政府当局者が出てこないからです。

大学の運営は、税金の配分を受けることで成り立っています。文科省が予算を獲得し、運営費交付金その他の補助金といった形で大学に配っています。税金の配分をとおして、大学は文科省の定めた基準やマニュアルに従属させられています。税金で交付金や補助金をもらっているから政府の定める詳細な基準やマニュアルを無視できない、結果として膨大な書類仕事や報告が増えるという側面に、酒井氏は言及しません。

政府は、徴収した税金を社会保障費や公務員人件費、ダムや道路の整備、国防費、特定産業への補助金などに山分けしています。その中で、文科省は
「各大学はこういう事をやっていてそのための経費が幾ら必要だから、総額としてこのくらい予算を確保したい」
と主張するための材料として、大学からの報告を用いることになります。財務省への折衝や国会論議の中で、大学への予算配分の必要性を説明し説得できなければ、少子高齢化の中で膨張し続ける社会保障費の圧力に押されてどんどん削られることでしょう。予算折衝をとおして、大学は年金・医療・介護・生活保護・保育・警察といった他分野と税金獲得競争をしているのです。

「民営化」と言いつつ「私営化」が不徹底で、大学運営の大きな部分を税金の民主的配分に依存しているからこそ、大学教員は膨大な書類仕事に追われることになるのです。

「民営化」における「私営化」が徹底され、市場原理が浸透すれば、これとは違う状況が生じます。大学管理者の指示に沿って書類的に完璧なシラバスを作ったとしても、その授業を受講したいという学生を集められなければ授業料収入は減少するでしょう。逆に、どれだけ大雑把なシラバスを作ったとしても、学生の人気を得られれば授業料収入を確保できるでしょう。
また、多くの人から馬鹿にされる研究内容でも、ただ一人の資産家から
「あんたの研究は素晴らしい」
と評価され寄付を受けられれば、研究を続けることができます。
人は、お金を払う人の意向や動向を重視します。「私営化」が徹底されれば、授業料を払う学生の動向や、寄付をする資産家の意向が重要になります。おそらく、彼らは書類仕事を要求しません。

【書類仕事を要求するのは、税金配分に手続き的正当性が必要だから】

税金配分の必要性を満たしているかどうかを確認するために、法律・政令・省令で各種報告・届出・申請の制度を設けています。結果、現場は煩雑な手続きに追われることになるのです。
政府権力者と昵懇な者は、制度の枠を越えて税金の配分を受けることができるようにはなります。ですが、これは税金の私物化です。税金の私物化はいかん、予算配分の必要性・正当性を示すべきである、という要請は、民主制から生じます。

税収に余裕があり、社会保障費の膨張圧力が弱かった頃であれば、杜撰な手続きと安易なルールで税金から大学運営費を配分できたかもしれません。しかし、社会保障を始め他分野との税金配分競争が熾烈になれば、より厳格に、基準と手続きを適正にして正当性・必要性を示さなければならなくなります。それが、「民営化」における「民衆」の側面、民主的統制からの要請になります。

ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
このようなことは大学でだけ起きているわけではない。グレーバーがこの事例をあてたわけは、「実質のある仕事(リアル・ワーク)のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結」であることをわかりやすく示そうとしてのことである。

つまり、効率化を旗印にし、ムダの削減を呼号するような市場原理による改革がすすめばすすむほど、逆に、官僚制的手続きはややこしくなり、規則はやたらと増殖し、ムダな役職も増えていくことの背景には、このように、数量化しえないものを数量化しようとする「市場原理」の拡大があるということになる。

======【引用ここまで】======

商品やサービスの提供を行う、あるいはその質の向上に直接的に関わる「実質のある仕事(リアル・ワーク)」よりも、手続きや書類仕事の割合が高くなる「ブルシット化」は、「民営化」における「私営化」が不徹底で市場原理が貫徹されず、税金の配分を始めとする民主的統制が大きな割合を占めているからではないか、というのは先ほど述べたとおりです。

もし、税金投入の割合が減り、市場原理による改革がすすみムダの削減が至上命題となれば、
「ムダな書類仕事をする暇があったら、授業料収入を増やすため一人でも多くの学生を受け入れて講義を提供しろ」
となるはずです。講義時間を削ってでもシラバスを作成し報告しろという要請は、手続きに則って税金の配分を受ける必要性から生じるものです。文科省がシラバスの定義や評価基準を定めたとしても、文科省が運営費の配分権限や許認可権限を持っていなければ、誰が文科省のシラバス基準なんかに従うでしょうか。

人間は、お金をくれる人の方へ意識が向きます。利用者が自腹でサービスの対価を払うのであれば、サービス提供側は利用者の動向に注意を払い、満足を向上させる方向で努力するでしょう。しかし、税金の配分を受ける者は、税金の配分を決める政府当局の満足する書類作成に注力するようになるのです。

「民営化」の語感から導かれる「民衆」、そして民主的統制。ここから生じる手続きの煩雑さを、「私営化」のせいにしても解決はしないのです。

【「数量化」は市場原理に特有の問題ではない】

ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」は、もともと資本主義に内在するのだが、ネオリベラリズムはその欲望を全面的に解放するものなのである。

それはしかし、ナチュラルなプロセスとはほど遠い。というのも、人間生活の領域は、数量化しえない――市場原理になじまない――膨大な蓄積に根ざしているからである。たとえば、「福祉」と要約されるようなケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域などなどである。

したがって、その領域――これを経済人類学にならって「社会」の領域とひとまずしよう――にまで市場原理が拡張しようとするとき、かならず抵抗や摩擦が起きる。

======【引用ここまで】======

酒井氏は、数量化の問題を資本主義、市場原理特有の問題と考えている節がありますが、これは大きな間違いです。

ケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域・・・酒井氏の挙げる社会の領域は、介護、子育て、公教育、公園や公民館整備などの場面で行政と交差します。行政と交差するということは、どの分野に幾ら税金を配分するかという数量化と無縁ではいられません。

税収・予算が潤沢にあり、各領域からの要望が小さければ、厳密な数量化は必要無いかもしれません。どんぶり勘定でやっていけるうちは、数量化するための膨大な書類仕事に追われることはありません。しかし、税収は伸びない一方で、社会における様々な領域から「金をくれー」「金をくれー」という要望が高まっています。社会の様々な領域からの各要望の優先度を検討し、予算の割合、配分順位を考慮し、配分予算額の決定という数量化をしています。

数量化しえない社会の領域は、税金を配分するために民主的統制の観点から数量化の手続きを求められます。他方、数量化しえない社会の領域に市場原理を拡張することで、対価・利潤をとおして数量化されます。
民主的統制と市場原理とでは数量化の手法や考え方が異なることから、市場原理に軸足を移していく過程で今まで配分を受けられなかった人が配分を受けられるようになったり、あるいはその逆が生じます。民主的統制から市場原理に移行する際には当然ながら摩擦が生じます。

なお、民主的統制に基づく配分においては、説得するための膨大な手続きとルールが必要になり、これに伴って書類仕事が増えます。他方、市場原理においては、「この商品やサービスならこの金額を支払っても満足できる」という手法によって個人個人の主観を金額に変換する数量化が行われます。

「ブルシット化が進んでいる」
「手続きが煩雑になって実質のある仕事のウエイトが下がっている」
というのは、「市場原理」「民営化」と言いながらも「私営化」が進まず、民主的統制の削減に繋がらなかったという事を意味しています。民営化と言いながら運営費を税金で賄っていたり、政府が大株主だったり、法律で事業運営方法を事細かく定めたりしていれば、そりゃあ官僚向けの煩雑な手続きは減りませんよ。

【官僚制は税の徴収と配分の機構】

ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していたのみならず、その市場の維持と運営にはつねに国家のようなものが必要とされてきた。資本主義社会におけるその未曾有の拡大が、必然的に官僚制の拡大をともなうのはこのためである。

これをグレーバーは、「リベラリズムの鉄則」と呼んでいる。

「リベラリズムの鉄則とは、いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチヴも、最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上昇である」。

ネオリベラリズムは、そのようなリベラリズムの鉄則を極限まで拡張するものである。カフカ的悪夢は20世紀の遺物ではない。官僚制につねにつきまとってきた「非効率」「不合理」そして「不条理」は、未曾有のレベルにまで達しつつある。

======【引用ここまで】======

酒井氏のいう「商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していた」という部分は、貨幣の起源に関するかなり異端な(トンデモ?)考え方に依拠しているので、無視して構わないでしょう。
(「貨幣を兵士への給料として配ったことで市場が成立した」って、その前にその貨幣(かその貨幣に使った金属)を用いての交換が、ある程度慣習として存在していたから、給料として成り立ったと考えるのが自然ではないでしょうか。交換価値の確立していない貨幣を兵士に渡して「これで物資を調達しろ」と命令したところで、「これで何がどれくらい買えるんだ、ふざけるな」と逆に兵士の反乱を招きかねません。)

商業的市場は古くから存在し、そして、政府機構も様々な形で存在してきました。政府機構は、商業的市場から税を徴収してきました。ある時は暴力を背景に、またある時は大義名分を立てて、税を徴収し、配分する。これが官僚制の最大の業務です。グレーバーや酒井氏が非難するお役所仕事の増大、官僚総数の増加、官僚制の非効率や不合理は、税負担額の増加や税目の増加、支出項目、規制対象が多岐にわたることで引き起こされたものです。税の徴収や配分過程に一切触れることなく、官僚制が招く不条理さを嘆く酒井氏の本記事は、長いだけで中身が薄いと言わざるを得ません。

手続きの煩雑さを我慢して税金の配分を受けるか、自分で授業料や寄付を集めるか、先生ならどっちを選びます?あるいは、「社会の領域」という念仏を100回唱えたら、税金を私物化できるようになるのでしょうか。

共産党は既得権益擁護路線からいつ卒業するのか

2020年09月11日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

総務省統計局の発表によると、非正規雇用の減少が止まらないとのこと。

○令和2年9月1日 総務省統計局 労働力調査(基本集計) 2020年(令和2年)7月分
======【引用ここから】======
【就業者】
 ・就業者数は6655万人。前年同月に比べ76万人の
  減少。4か月連続の減少
 ・雇用者数は5942万人。前年同月に比べ92万人の
  減少。4か月連続の減少
 ・正規の職員・従業員数は3578万人。前年同月に
  比べ52万人の増加。2か月連続の増加。
  非正規の職員・従業員数は2043万人。前年同月
  に比べ131万人の減少。5か月連続の減少
 ・主な産業別就業者を前年同月と比べると,
  「宿泊業,飲食サービス業」,「建設業」,
  「生活関連サービス業,娯楽業」などが減少

======【引用ここまで】======

この発表を受けて、共産党は次のように論評しています。

○非正規雇用者131万人減 2020年9月3日 しんぶん赤旗

======【引用ここから】======
7月労働力調査
 総務省が1日発表した7月の労働力調査によると、非正規雇用者数が対前年同月比131万人減少しました。新型コロナウイルスの影響が顕在化してきた3月から5カ月連続の減少です。減少幅は、比較可能な2014年1月以降最大です。新型コロナによる経済活動の停滞が雇用環境を直撃し、雇用悪化のしわ寄せがとりわけ非正規労働者へ集中していることが分かりました。

 -----(中略)-----
雇用者数の増加を安倍政権は「アベノミクス」の成果だと自慢してきました。しかし、コロナ危機に直面した3月以降、非正規労働者が真っ先に切り捨てられています。安倍政権が拡大してきたのは、企業にとっての「雇用の調整弁」だったといえます。
======【引用ここまで】======

雇用悪化のしわ寄せが非正規労働者に集中している、非正規労働者が真っ先に切り捨てられている、非正規労働者は企業にとっての「雇用の調整弁」だ・・・という共産党の指摘は、全くもってそのとおり。

そのとおりなのですが、非正規労働者を「雇用の調整弁」にしたのは、正社員解雇規制を求め続けた労働組合、法律の運用面からこれを後押しした政府・裁判所、そして
「企業による不当解雇を許すな、正社員の雇用を守れ」
と正社員保護を要請し続けた共産党です。
労組や共産党らが、政府や裁判所に対し長年にわたり正社員保護を働きかけてきた結果、

 「正社員を解雇する前に新規採用をストップすべし」
 「正社員を解雇する前に転勤、異動で対応できないか検討すべし」
 「正社員を解雇する前にパートやアルバイトを先に解雇すべし」

といった慣行が成立したのです。

正社員保護が、若者や非正規労働者へしわ寄せが集中する原因となっています。
不況期に氷河期世代を生み出したのも、正社員保護による雇用の固定化が原因です。
正規/非正規の身分制を助長してきた側の共産党が、「雇用の調整弁」運用を非難するなんてちゃんちゃらおかしな話ですよ。

(ちなみに、調整弁運用を禁止して非正規労働者も解雇できないようになると、新規の非正規労働者の募集が大幅に減少し、今仕事を探している人の立場はますます悪くなるでしょう。規制の強化ではイタチごっこは終わりません。規制を緩和して、調整弁運用の根本原因たる正社員保護を改めなければいけません。)

【画竜点睛を欠くアベノミクス】

さて。

上記のしんぶん赤旗の記事は、アベノミクスに言及しています。
アベノミクスは、三部構成になっていました。いわゆる「三本の矢」です。

 第一の矢:金融緩和
 第二の矢:財政出動
 第三の矢:規制緩和

でした。
安倍政権は、アベノミクスで挙げた金融緩和や財政出動を実施したものの、本命本丸の規制緩和にほとんど切り込むことなく終わりました。

アベノミクス第三の矢の対象として名指しされた農林水産業や医療、労働市場における岩盤規制改革は、規制に守られていた特権の否定という側面を有します。特権を奪われる側から見たら、これは痛みとなります。
第一の金融緩和や第二の財政出動といった麻薬を鎮痛剤として使用し、一時的に痛みを和らげている間に痛みを伴う第三の規制緩和という外科手術を実施する・・・というのが、私の「アベノミクス」のイメージでした。

しかし、安倍政権は麻薬を注入し続けたものの、手術は行いませんでした。病巣はそのままで、患者は薬物依存に。もうボロボロです。
早く薬をやめた方がいいのに、禁断症状が出るからやめるにやめられない。金融緩和と財政出動でどっぷり薬漬けになっていて、日本経済は自律回復できるのかどうか。

【既得権益擁護の共産党】

この間、共産党が力を入れていたのがモリカケ騒動への追及でした。

共産党が
「獣医学部新設は加計学園ありきではないか?加計学園が新設を認められたのは、官僚が、理事長と総理の友人関係に配慮した結果なのではないか?」
と指摘したのは良いことです。
加計学園だけでなく、獣医学部を新設しようと考える事業者に対し、広く門戸が開かれるべきです。

ところが、共産党は
「文科省の獣医学部新設制限は、既得権を守ろうとする政官業の癒着ではないか?今治の特区に限定せず、他の法人からの申請も許可して新設数を増やしていこう」
とは言いませんでした。

それどころか、共産党は、既得権の象徴たる獣医師会の声をそのまま紹介し、「新設はせめて1校だけにして」という獣医師会の立場に寄り添ってきました。
首相と業者の癒着疑惑を非難しつつ、同時に、長年にわたる政官業癒着構造を擁護していたのです。

獣医学部の新設を非難し参入制限を擁護する共産党。
冒頭で挙げた、正社員保護を求め解雇規制の存続強化を訴える共産党。
いずれも、既に獣医になっている人、既に正社員になっている人の権益を守るものです。

共産党は、しんぶん赤旗で自ら「共産党の論理 保守論客も注目」と紹介するくらいの、既得権益保守政党に堕してしまいました。
もう自由民主党と日本共産党が合併して、「日本国家社会主義党」って名乗ればいいのに。

国家社会主義雇用保障計画(Job Guarantee Program)

2020年09月10日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

【議員連盟】日本の未来を考える勉強会
という議員集団があります。


彼らは、減税を掲げつつも歳出の大幅な拡大を求めるという、理解しがたい路線を採っています。
この勉強会では、藤井聡氏、中野剛志氏、三橋孝明氏といった( )方々を理論的な支柱とするだけでは物足りず、あの差別主義者・社会主義運動家の藤田孝典氏を講師に招くほど、道に迷っています。
民族主義的で、公権力による再分配を全面肯定し、どこまでも大きな政府を求める、そんな彼らは何と呼ぶべきでしょうか。国家社会主義・・・でしょうか。

その構成員の一人が、JGPなる聞き慣れない政策を提言しています。

MMTによる究極の経済政策「JGP」を日本に導入せよ=今枝 宗一郎(自民党衆議院議員)(サンデー毎日×週刊エコノミストOnline) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
ベーシックジョブは現代的貨幣理論(Modern Money Theory, MMT)によって提案されている雇用保障計画(Job Guarantee Program, JGP)の改良版です。まずは、JGPについて簡単に説明しましょう。
政府による最後の雇い手(Employer of Last Resort, ELR)とも呼ばれるJGPは、働く能力と意思のある全ての人に政府が一定の賃金・社会保障の権利による仕事を提供するものです。JGPの財源は税金ではなく、政府の赤字支出で賄われます。

   -----(中略)-----
具体的には政府の赤字支出によって働きたい人全てに仕事を提供しつつ、キャリアアップのための資格取得の機会を保障し、賃金の継続的な上昇につなげる仕組みまで整備するというものです。人々の生活の可能性を引き出すキャリアラダーを内蔵したベーシックジョブを政府が構築していくことは、これまでの雇用や仕事観を大きく変容させ、より個々人が積極的に社会に貢献できるものとなるでしょう。
======【引用ここまで】======

JGP(Job Guarantee Program)の日本版・ベーシックジョブを導入せよ、という今枝氏。政府が最後の雇い手となって、働く能力と意思のある全ての人に一定の賃金と仕事を提供するなどと供述しています。

人々の生活の可能性を引き出すキャリアラダーを内蔵
キャリアアップのための資格取得の機会を保障
個々人が積極的に社会に貢献できる

等々、必要以上にキラキラしたワードが並んでいて、まるでブラック企業の求人広告のよう。

この日本版JGP・ベーシックジョブでは、具体的にどのような内容・強度の仕事が、どの程度の賃金で提供されるようになるのでしょうか。「具体的には」と言いながら、氏の記事全般を通して具体性がありません。

【利潤はどこから生まれるか】

MMTによる究極の経済政策「JGP」を日本に導入せよ=今枝 宗一郎(自民党衆議院議員)(サンデー毎日×週刊エコノミストOnline) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
ベーシックジョブは、景気の安定化を実現するだけでなく、その設計次第では経済全体の生産性を高めることになるため、今までの公共政策にありがちだった「お金を使う」政策から、より積極的な「お金を生み出す」政策になるポテンシャルを持っているのです。
======【引用ここまで】======

とのことですが、「お金を生み出す」という事実をどのように確認するのでしょうか。
今枝氏自身も、
政府が雇用を作ると聞くと、社会主義的なものを思い浮かべる人も多いかもしれません。
と述べているように、政府による雇用創出は極めて社会主義的です。
氏は、「お金を使う」のと「お金を生み出す」の分岐点はどこにあると考えているのでしょうか。

ラーメン屋の出店で考えてみましょう。

人口20万人の都市の駅近くという立地で、原価を75万円、家賃を25万円、光熱費やその他もろもろ30万円とします。
一日何人の来客があるでしょうか。一杯800円のラーメン、セット1,000円の設定で良いでしょうか。営業日は月23日にしましょうか。ランチタイム中心の営業にしましょうか、それとも夕方から深夜帯にしましょうか。
この地域におけるこの業種の人件費は、幾らが相場でしょうか。調理、接客、皿洗い、何人雇えばお店を回せるでしょうか。

お客の側から見てみましょう。
お客は、自分でもラーメンを作れないことはありません。自宅で調理すれば、一杯あたり300円で作れる人もいるかもしれない。
でも、
「外出先の駅前で、この時間帯に、この味のラーメンを食べられるのであれば、一杯800円払っても十分に満足できる」
となれば、ラーメン屋に通うようになるわけです。

お客の側にこうした主観的な効用をもたらしつつ、そのラーメンの代金から経費を支払って営業を継続し、相場並みかそれ以上の賃金を支払う雇用を生む。
利潤は、こういうミクロの計算の積み重ねの中から生まれます。
この積み重ねの中で、お客の側の満足、従業員の雇用、事業主の利潤、コスト、こうしたものが調整され改善されていくのが経済成長だと私は考えています。

さて。

利潤が生じ事業を継続できるということは、その料金でのサービス提供に需要があり、そのサービスが無い場合と比べて利用者の生活が向上しているということです。また、そのサービスをある程度効率的に提供できているということです。
逆に、利潤が出ないということは、そのサービスをその料金で提供することが人々の生活向上に寄与していないということか、サービスを効率的に提供できていないか、あるいはその両方ということになります。

こういった事は、市場で試すことで初めてわかります。
そして、新たな事業展開、商品開発、見た事のないサービスの提供などは、ここで生じた利潤を再度投資することで可能になります。

【役所は原理的に無能】

公務員にはこうした能力はありません。能力というか、原理的・仕組み的に無理です。

公務員に求められているのは、予算の配り方を決めてそのとおり使うことです。役所は、予算案を作り、議決を得て、執行する各段階における手続きさえ遵守していれば、継続的に支出できてしまう組織です。
利用者の満足や事業のコストとの関係の中で、利潤は成立します。他方、税金は利用者の満足や事業のコストとは無関係に、お金を持っている人から徴収するだけです。手続きさえ整えば、いかなる無駄で非効率な事業であっても継続することができます。

役所の中に「この料金でこのサービスなら利用したい」という需要を見つけるプロセスや動機は存在しません。むしろ、役所が定める公定価格や補助金の存在は、こうした市場の機能を歪めてしまいます。

【お金を生むのか、ただ使っているのか】

最後の雇い手として役所が具体的に賃金幾らで人を雇って、具体的に何を供給でき、幾らのコストをかけ、どういう状態を実現できたら、旧来型の「お金を使う」政策ではなく、利潤をもたらす「お金を生み出す」政策であると評価できるのか。マクロのふわっとした論議ではなく、具体的な中身を伴った基準の提示が求められます。

MMTによる究極の経済政策「JGP」を日本に導入せよ=今枝 宗一郎(自民党衆議院議員)(サンデー毎日×週刊エコノミストOnline) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
一般的なマクロ経済学では失業をゼロにする完全雇用を実現することはできないと考えられています。財政赤字を増大させると完全雇用に達する前にインフレが激しくなってしまうからです。しかし、JGPは働けていない人に仕事を提供し、供給力を強化するため財政赤字を出してもインフレにはならないとされています。
======【引用ここまで】======

政府が国民を雇用し、生産性を高め、供給力を強化するというのは、まさに社会主義国で挑戦し失敗した内容です。

不要な商品や非効率なサービスを提供する供給力を強化しても、需要を満たすことはできません。また、それなりの質の商品やサービスであっても、高いコストをかけて割高に提供しても社会的には損失です。この損失を、税金や国債で穴埋めするようでは、「お金を生み出す」事業とは言えず、ただ単に「お金を使う」旧来型の公共政策をやったにすぎません。

【ベーシックジョブは社会主義】



新型コロナ・パニック:現金給付よりも消費減税よりも財政拡大よりもベーシックインカムよりも「ベーシックジョブ」が優れているのはなぜか | 週刊エコノミスト Online
======【引用ここから】======
ベーシックジョブで提供される仕事はどのようなものがあるでしょうか。
原則的には、それぞれの地域で必要な仕事であればどのようなものであっても良いのです。
例えば、過疎化が進む地域において人手不足で困っているような分野が真っ先に考えられます。
医療・介護・福祉・保育など、こういった仕事がとても大きな価値を持っているのは間違いありません。
農林水産業や地域で重要な役割を果たしている商店やものづくりの中小企業も大切です。当然これは、ベーシックジョブの支援対象となり得ます。
文化財の補修などの希少性の高い技術職を支援することは日本文化の継承の問題です。郷土の歴史研究の仕事を支援することで、地方創生のためのコンテンツ作りに貢献できるかもしれません。
JGPの提唱者であるオーストラリアのビル・ミッチェル氏などはミュージシャンやサーファーなどを上げています。
文化的活動は豊かさに直結しますし、サーファーが多いことは海岸の安全性を高めます。
いかにもオーストラリアらしい提案だなと思いますが、それぞれの地域に必要な仕事を考えていけばいいわけです。

======【引用ここまで】======

「〇〇の仕事は価値があります。」
「□□の仕事は大切です。」
「△△の仕事は必要です。」

・・・・・・それで?
今枝氏のこの文章は、小学生の作文並みです。

ある商品やサービスに対し、幾らまでなら対価を支払おうと思えるか。その利用者の判断が、仕事の必要性の度合を決めています。

Aさんにとって、農業は重要です。
Bさんにとって、音楽は大切です。
Cさんにとって、介護は必要です。
それぞれの業種で提供される商品やサービスには、味、色、重さ、大きさ、時間、丁寧さ、快適さといった無数の組み合わせがあり、これに対し、無数のAさん、Bさん、Cさんがいて、それぞれが幾らまでなら対価を支払えるという自分の中の基準を持っています。

実際に対価を支払う利用者を切り離して、
「社会にとって必要」
「地域にとって重要」
といった謳い文句を幾ら並べてみても、そこから、妥当な対価の基準は導かれません。

ベーシックジョブが実施されることで、政治力の強い業種では、

  業界団体 ⇒ 政治家 ⇒ 行政

と圧力をかけて要請運動をすることで、高い料金が設定され厚遇されることでしょう。
それだけです。

JGPが蔓延する社会では、
「我々の仕事は大事なんだー!」
「いやいや、私たちの仕事は社会的価値があってー」
と主張する団体がベーシックジョブの認定を受けます。そして、ベーシックジョブ従事者は、画一的な、あるいは非効率な方法で商品を提供し、あるいは自己満足のサービスを提供するようになります。
利用者の間で
「別の方法でやってくれたら良いのに」
「彼らのやっている事の意味が分からない」
「もっと違う曲が聴きたい」
といった不満が募っていても、ベーシックジョブ従事者は一定額の賃金を得ることができます。賃金を支払う胴元が政府だからです。
ベーシックジョブ従事者への賃金設定は、利用者の満足や商品・サービスの質、希少性とは無関係に、団体の政治力で政府にどのくらい圧力をかけられるかによって決まります。

商品やサービスの効率化、質の向上は遅くなり、本来であればそこに向けられていたはずのエネルギーが行政や政治家への働きかけに注がれます。

今枝氏は
ベーシックジョブは個人の自由を尊重した、社会主義の仕組みとは全く異なった国家による雇用政策です
と述べていますが、中央政府や地方自治体が適切な賃金を提供し、必要に応じて分野ごとにキャリアアップと賃金アップの仕組みを準備できるという氏の発想は社会主義そのものです。

医療、保育、介護、教育といった分野で、ある場面では賃金が低いと問題になり、ある場面ではブラックな労働が問題になり、ある時は担い手不足が問題となり、またある時は政府の補助によって過大な需要が生じ配給を求める列を生じさせています。これらはいずれも、政府が価格や供給をコントロールしようとして生じた失敗です。
これらを反省せず、
それぞれの地域で必要な仕事であればどのようなものであっても良い
とあらゆる分野・業種で役所によるコントロールを適用しようとするベーシックジョブ論は、始める前から既に
「政府の失敗」
が見えている社会主義政策なのです。