市場からの撤収 (内田樹の研究室)
=====【引用ここから】=====
=====【引用ここから】=====
通貨を使った市場取引を嫌悪し、貨幣を介在させない相互扶助のあり方を提唱し、自分の道場でこれを実践する内田氏。彼が、自分の道場でやる分には非常に結構なことだ。
しかし、この「道場方式」を社会一般のルールにしたり、「道場方式」を根拠に自由市場経済を批判したり、市場における取引のあり方を批判することが出来るだろうか。ちょっと難しい。というのも、この「道場方式」は、極めて限られた条件の下でしか成立しないからだ。
・200人程度であること。
・参加者全員の間で信頼関係があること。
・必要なものを必要な時には受け取れない可能性があることを受忍すること。
などの条件が揃って、初めて成立する。
また、この「道場方式」で、日常生活に必要な物、あるいは冠婚葬祭などのイベントで必要な物を全て揃えようとしたら、難しいだろう。「道場方式」に参加できる条件や、「道場方式」で不都合なく入手できる物は限られており、「道場方式」が市場を代替したり、市場を駆逐したりすることは出来ない。
今ふと思いついただけでも、
・米、パン、牛乳、バナナ、ゼリー飲料、トマト、納豆(今日要ります)
・1~2歳児用おむつ(今日要ります)
・怪我したので手術が必要(今直ぐです)
・初盆のお返し(かなりの個数が要ります)
・結婚式のウェディングケーキと引き菓子(日付と個数は絶対です)
・パソコンとネット環境(毎日使います)
などを、貨幣と市場を介さず、「道場方式」で入手できるとは思えない。
=====【引用ここから】=====
農家が、農協等に米を出さず、直接消費者に手渡している例はたくさんある。しかし、そうした場合でも、8割方、9割方は対価を受けている。
農家「(お米を渡して)はい、これ」
消費者「(受け取るだけで)あ、ありがとう」
で済むのは、定年を過ぎて稲作をしてる老夫婦が、都会で働く子供に米を贈る時くらいだ。
それ以外は、
農家「60kg○○円でどう?」
消費者「ちょっとまけて、△△円は無理?」
農家「うーん、あんたには敵わんなぁ。はいよ」
消費者「ありがと、助かるわー」
といった遣り取りがあるはずだ。
身内でもない赤の他人の消費者に、貨幣を介さず、貨幣以外の具体的な見返りも提示されず、
「はい、これ」
と米を渡すような農家を、私は見たことがない。
流通の中間過程を省略し、生産者と消費者が近づく傾向は、確かにある。しかし、あくまでも、貨幣を介してである。あるいは、(「いつか」「どこかで」「誰かから」といった抽象的な反対給付でなく)具体的な見返りや借りがあるから、米を渡そうという意思が生じるのだ。
貨幣を用いない「道場方式」は、人と人の美しいつながり、一見さんお断りな濃度の高い信頼関係を基礎にしている。それはそれで良いものだ。
しかし、「道場方式」は、貨幣を用いた市場経済の枠組みを基礎として、自発的な集まりとして成立しうるにすぎない。貨幣を用いた市場経済のネットワークの中にあって、部分的に、貨幣を用いないネットワークを任意で構築することはできる。ただ、貨幣を用いないネットワークに参加できる人の制限、その中で入手できる物や時期の制限がある。「道場方式」は市場経済に取って代わることは出来ないし、取って代わったら大変なことになる。「道場方式」が市場経済に取って代わった世界で、「道場方式」の人の輪の中に入れなかったらおしまいだ。
贈与と(具体的な対価とは異なる)反対給付で成り立つ「道場方式」。信頼関係の無い一見さんは、直ぐさま参入することは出来ない。
何のつながりも無い私が、内田氏に
「今は旅費も宿泊費も報酬も出せないけど、うちの近所の公民館で講演してくれませんか」
と頼んでも、引き受けてくれないのだ。
当たり前のことだけど。
=====【引用ここから】=====
しきりに、市場における諸分野を「道場方式」で代替しようとする内田氏。しかし、労働分野で「道場方式」が成り立つためには、口利きしてくれる、知り合いのおじさんやおばさんの存在が不可欠だ。そんな素敵な口利き、コネになるおじさんやおばさんが居れば、初めから労働市場に身を投じる必要はない。
無いものねだりも良いとこ。
内田氏が思っているような「市場からの撤収」は、実際のところ起きていない。あくまでも市場に軸足を置きつつ、適宜、自発的にネットワークを作っていける人が作っているだけだ。市場経済を非難したところで、結局は、必要な物は市場を通して貨幣で調達するのだから。
内田氏のように、「道場方式」の美しさに憧れ、市場経済の醜さを非難しても、どうしようもない。市場から軸足をはずす事はできない。それよりも、政府を社会保障分野から撤収させて、「道場方式」の自発的ネットワークが相互扶助の主役になるのが望ましい。
例えば、生活保護制度が200人程度の団体単位で運営されれば、顔見知りによる信頼関係、相互監視が作用する。高級車を乗り回し、マンションを所有し、朝からパチンコに行くような不正受給者をある程度抑制できるのではないか。
相互扶助は、顔の見える範囲で行う方が良い。1万人、10万人の単位だとお互いの顔が見えないのをいいことに、制度を悪用しようとする者が必ず出現する。
大規模な相互扶助制度では、
費用を負担する者、
費用を集める者、
分配方法や分配量を決める者、
これを許可する者、
分配先の決まった金を一時的に預かる者、
金を配る者、
金を受け取る者
・・・と多数の関係者が登場するが、お互いの顔が全く見えない。公助のシステムでは、費用を負担する者と金を受け取る者の間の信頼関係が醸成されず、ネットワークが形成されない。
公営社会保障の諸制度は、費用を負担する者と金を受け取る者の間に信頼関係がない。これを「連帯」と称するのは言葉の誤用である。自発性も無く、信頼関係を欠いた再分配は「収奪」でしかない。政府の強制的な社会保障制度は、負担側と受益側の不信感、敵対心を煽るものだ。
「道場方式」の自発的ネットワークの本当の敵は、市場ではない。
政府なのだ。
=====【引用ここから】=====
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
=====【引用ここまで】=====さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
=====【引用ここから】=====
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、多様な相互扶助的なサービスのやりとりを貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
=====【引用ここまで】=====今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
通貨を使った市場取引を嫌悪し、貨幣を介在させない相互扶助のあり方を提唱し、自分の道場でこれを実践する内田氏。彼が、自分の道場でやる分には非常に結構なことだ。
しかし、この「道場方式」を社会一般のルールにしたり、「道場方式」を根拠に自由市場経済を批判したり、市場における取引のあり方を批判することが出来るだろうか。ちょっと難しい。というのも、この「道場方式」は、極めて限られた条件の下でしか成立しないからだ。
・200人程度であること。
・参加者全員の間で信頼関係があること。
・必要なものを必要な時には受け取れない可能性があることを受忍すること。
などの条件が揃って、初めて成立する。
また、この「道場方式」で、日常生活に必要な物、あるいは冠婚葬祭などのイベントで必要な物を全て揃えようとしたら、難しいだろう。「道場方式」に参加できる条件や、「道場方式」で不都合なく入手できる物は限られており、「道場方式」が市場を代替したり、市場を駆逐したりすることは出来ない。
今ふと思いついただけでも、
・米、パン、牛乳、バナナ、ゼリー飲料、トマト、納豆(今日要ります)
・1~2歳児用おむつ(今日要ります)
・怪我したので手術が必要(今直ぐです)
・初盆のお返し(かなりの個数が要ります)
・結婚式のウェディングケーキと引き菓子(日付と個数は絶対です)
・パソコンとネット環境(毎日使います)
などを、貨幣と市場を介さず、「道場方式」で入手できるとは思えない。
=====【引用ここから】=====
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
=====【引用ここまで】=====それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
農家が、農協等に米を出さず、直接消費者に手渡している例はたくさんある。しかし、そうした場合でも、8割方、9割方は対価を受けている。
農家「(お米を渡して)はい、これ」
消費者「(受け取るだけで)あ、ありがとう」
で済むのは、定年を過ぎて稲作をしてる老夫婦が、都会で働く子供に米を贈る時くらいだ。
それ以外は、
農家「60kg○○円でどう?」
消費者「ちょっとまけて、△△円は無理?」
農家「うーん、あんたには敵わんなぁ。はいよ」
消費者「ありがと、助かるわー」
といった遣り取りがあるはずだ。
身内でもない赤の他人の消費者に、貨幣を介さず、貨幣以外の具体的な見返りも提示されず、
「はい、これ」
と米を渡すような農家を、私は見たことがない。
流通の中間過程を省略し、生産者と消費者が近づく傾向は、確かにある。しかし、あくまでも、貨幣を介してである。あるいは、(「いつか」「どこかで」「誰かから」といった抽象的な反対給付でなく)具体的な見返りや借りがあるから、米を渡そうという意思が生じるのだ。
貨幣を用いない「道場方式」は、人と人の美しいつながり、一見さんお断りな濃度の高い信頼関係を基礎にしている。それはそれで良いものだ。
しかし、「道場方式」は、貨幣を用いた市場経済の枠組みを基礎として、自発的な集まりとして成立しうるにすぎない。貨幣を用いた市場経済のネットワークの中にあって、部分的に、貨幣を用いないネットワークを任意で構築することはできる。ただ、貨幣を用いないネットワークに参加できる人の制限、その中で入手できる物や時期の制限がある。「道場方式」は市場経済に取って代わることは出来ないし、取って代わったら大変なことになる。「道場方式」が市場経済に取って代わった世界で、「道場方式」の人の輪の中に入れなかったらおしまいだ。
贈与と(具体的な対価とは異なる)反対給付で成り立つ「道場方式」。信頼関係の無い一見さんは、直ぐさま参入することは出来ない。
何のつながりも無い私が、内田氏に
「今は旅費も宿泊費も報酬も出せないけど、うちの近所の公民館で講演してくれませんか」
と頼んでも、引き受けてくれないのだ。
当たり前のことだけど。
=====【引用ここから】=====
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
=====【引用ここまで】=====それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
しきりに、市場における諸分野を「道場方式」で代替しようとする内田氏。しかし、労働分野で「道場方式」が成り立つためには、口利きしてくれる、知り合いのおじさんやおばさんの存在が不可欠だ。そんな素敵な口利き、コネになるおじさんやおばさんが居れば、初めから労働市場に身を投じる必要はない。
無いものねだりも良いとこ。
内田氏が思っているような「市場からの撤収」は、実際のところ起きていない。あくまでも市場に軸足を置きつつ、適宜、自発的にネットワークを作っていける人が作っているだけだ。市場経済を非難したところで、結局は、必要な物は市場を通して貨幣で調達するのだから。
内田氏のように、「道場方式」の美しさに憧れ、市場経済の醜さを非難しても、どうしようもない。市場から軸足をはずす事はできない。それよりも、政府を社会保障分野から撤収させて、「道場方式」の自発的ネットワークが相互扶助の主役になるのが望ましい。
例えば、生活保護制度が200人程度の団体単位で運営されれば、顔見知りによる信頼関係、相互監視が作用する。高級車を乗り回し、マンションを所有し、朝からパチンコに行くような不正受給者をある程度抑制できるのではないか。
相互扶助は、顔の見える範囲で行う方が良い。1万人、10万人の単位だとお互いの顔が見えないのをいいことに、制度を悪用しようとする者が必ず出現する。
大規模な相互扶助制度では、
費用を負担する者、
費用を集める者、
分配方法や分配量を決める者、
これを許可する者、
分配先の決まった金を一時的に預かる者、
金を配る者、
金を受け取る者
・・・と多数の関係者が登場するが、お互いの顔が全く見えない。公助のシステムでは、費用を負担する者と金を受け取る者の間の信頼関係が醸成されず、ネットワークが形成されない。
公営社会保障の諸制度は、費用を負担する者と金を受け取る者の間に信頼関係がない。これを「連帯」と称するのは言葉の誤用である。自発性も無く、信頼関係を欠いた再分配は「収奪」でしかない。政府の強制的な社会保障制度は、負担側と受益側の不信感、敵対心を煽るものだ。
「道場方式」の自発的ネットワークの本当の敵は、市場ではない。
政府なのだ。