以前書いた記事(共産党推奨「住宅リフォーム助成制度」の問題点 ~ 美味しい話には裏がある ~ 若年寄の遺言 ~)
に対し、ツッコミをいただいた。肯定的な評価をしてもらった部分もあるが、気になった部分があったので、これをネタに久々に記事を書いてみよう。
反逆する武士 【再掲載】リフォーム補助金への批判を真剣に考えてみる
======【引用ここから】======
(注:若年寄)
>>Aさんが市から20万円の助成金を受け取り、自腹で180万円支出し、合計200万円で市内の工事業者に床の張替えと畳の交換を依頼した、とする。工事業者は床板や畳を発注する。発注を受けた業者は、床板を作るために木材を購入し・・・という具合に経済波及効果が生じる。これが共産党の説明。
>>ところが、Aさんの180万円が、例えば、自動車の購入資金として貯めていたものだったとしたらどうだろうか。Aさんは、市の助成制度をきっかけに床の張替えを思いつき、180万円をこれに充ててしまったため、自動車の購入は「まぁ、あと5年は今の車に乗れるだろう」と先送りされることになる。自動車の売り上げが減り、タイヤの発注が減り、ゴムの需要が落ち込む。こちらでは、マイナスの波及効果が生じることになる。
リフォームしたから、その他の出費に充てられるはずだったお金が振り分けられたので、マイナスの経済波及効果が存在するという指摘はちょっと無理筋なのではないかと。
もし、その他の出費に充てられるはずだったお金ではなく、特に支出予定のない貯金から出されたという可能性だってあるわけです。
これはリフォーム助成金を支給する際にアンケートを取って、実態を明らかにしないと批判できないと思います。
こんなことを気にしていたら、助成金制度と補助金制度を導入することはできません。
政府の助成金制度と補助金制度を全て目の敵にする極端な”小さな政府”主義者だからこのような批判が出たのでしょうか。
普通の日本人には受け入れられない気が・・・(>_<)
======【引用ここまで】======
一つ一つ見ていこう。
======【引用ここから】======
しかしながら、リフォームしたから、その他の出費に充てられるはずだったお金が振り分けられたので、マイナスの経済波及効果が存在するという指摘はちょっと無理筋なのではないかと。
======【引用ここまで】======
「Aに出費することで、Bに出費するはずだったお金が振り分けられる」というマイナスの経済波及効果については、別に無理筋というような特別な考え方ではない。例えば、
五輪「経済効果」報道は注意が必要 負の効果は無視されがち | マイナビニュース
======【引用ここから】======
オリンピックのような大きなイベントの際にマスメディアでよく使われる、この「経済効果」という言葉には注意が必要である。この言葉は、「資産効果」や「乗数効果」などを連想させて、その金額の分だけ「景気がよくなる」すなわち「GDPが押し上げられる」かのような響きを持つ。しかし、マスメディアにおける通常の語義は全く異なる。
たとえば、地方から東京にオリンピック観戦に訪れる一家は、恒例の温泉旅行を取りやめたり、日常の外食や買い物を控えたりすることによって、費用を捻出するかもしれない。
======【引用ここまで】======
とか、
教育と経済・社会を考える 第3回 教育の経済効果(その1)-産業連関分析、人的資本論の利用とその問題点-
======【引用ここから】======
門倉貴史氏は『本当は嘘つきな統計数字』(P.200-203)で、「経済効果」の推計ではマイナスの経済効果が考慮されていないことを指摘し、各種イベントの「経済効果」の試算では「個々の家庭の予算制約というものが全く考慮されていない。お土産代や宿泊費・交通費といったイベント関連の消費が増えたとしても、各家庭の収入そのものが増えていない場合には……、必ずイベント関連で散財した分を取り戻すため、ほかの消費を抑制するという流れが起こる。
======【引用ここまで】======
といったように、例を挙げればきりがない。
また、リバタリアンの視点を一旦離れ、「普通の日本人」でも理解しやすい視点から、マイナスの経済効果を説明することもできる。
予算に限りがある中での補助金の新設は、「普通の日本人」の大好きな既存の公共事業を縮小させてしまうのだ。
自治体が住宅リフォーム補助金を新設した場合、自治体の財政はどこも厳しいので、既存の事業の予算を削って捻出することになるだろう。
・補助額20万円×200件=4000万円
の補助金を新設するのであれば、予定していた農道の整備を見送ったり、予防接種の補助件数を減らしたり、高齢者の徘徊防止GPSを廃止したり、あるいはこれら複数の事業費を少しずつ削って予算編成するという処理が必要になる。
仮に、共産党が主張するように住宅リフォーム補助金でプラスの経済波及効果が発生するのであれば、似たような経路で、既存の公共事業の予算を削ったことによる受注の減少が連鎖的に生じることになるはずである。これでは、プラスマイナスゼロだ。住宅リフォーム補助金が、既存の他の公共事業より経済波及効果が高いという立証はされていない。
(共産党は「住宅リフォーム補助金は高い経済波及効果が~」と主張しているが、よくよく見ると、ただの「補助率の低めの補助金」でしかない。)
次に、
======【引用ここから】======
もし、その他の出費に充てられるはずだったお金ではなく、特に支出予定のない貯金から出されたという可能性だってあるわけです。
======【引用ここまで】======
今は特に支出予定のない預金だとしても、預金として利用可能な形で手元に残っていれば、将来別の何かの出費に充てることができるのは間違いない。車を買ったり、大学進学の費用に充てたり、入院に備えたり、マンションの頭金にしたりと、いろいろな消費や投資に充てることができる。住宅リフォーム補助金を20万円貰い、支出予定のない貯金から180万円を追加して200万円のリフォームを発注したとすれば、これによって将来の別の何かは中止・延期せざるを得なくなる。
(「今からドブ川に投げ捨てるつもりで180万円を手元に持っていた人が、住宅リフォーム補助金の話を聞いてドブ川に捨てるのを取りやめてリフォームしようと決心した」というのであれば話は別だが、これは相当なレアケースだから検討の必要はないだろう。)
さてここで。
20万円の補助金が呼び水となって、将来使えたはずの180万円を貯金から崩して住宅リフォームに投じることを考えてみる。
200万円でリフォームして家のバリアフリーをした場合、暮らしは便利になる。この便利になる度合いをAとしよう。
一方で、リフォームせずに180万円で燃費の良くない古い車から燃費の良い車に乗り換えた場合も、暮らしは便利になる。この便利になる度合いをBとしよう。
このAとBを比べて、Aの方が大きいというだけでは補助金制度は正当化されない。Aに20万円の補助金が投じられているので、この20万円を上回る追加の効用が求められる。
AとBを金額換算で比較してAの方が10万円分だけ上回っているとしたら、
補助金20万円 - 追加の効用10万円 = 無駄になった10万円
ということになる。こうした補助金は、継続すればするほど世の中全体の富が失われていく。少しずつ、だが確実にみんなが貧しくなっていく。
実際のところ、こうした効用を数字で差し引きして比較するのは非常に難しい。心理的な満足や利便性の向上を数値化するのが難しいからだ。
「補助金を交付することで、補助額を上回る効用を得ることができる」
という事を説明しなければ、補助金制度は正当化されない。政治家や公務員が
「補助金によってこのような生活の質の向上がもたらされました。補助金を投じなかった場合と比べて、人々はより有効な形で預金を使いました」
という説明を行うことでのみ補助金は正当化されるが、政治家や公務員はその努力すら放棄している。補助金の効用を評価しようとしたけど難しいからできなかった、のではなく、最初から評価しようとすらしていない。
じゃあなぜ、政治家や公務員は、効用があるかどうか疑わしい補助金制度を次から次へと作っているのか。
現実のところ、補助金は民主制における買収の手段として機能している。
ある事業への反対を抑えるために補助金を出し、地元のうるさい人を黙らせるために補助金を出し、選挙で票になりそうな業界へ補助金を出す。買収のための手段としては、たしかに補助金は非常に有効だ。
ある社会問題Xについて、役所として有効な解決策を持っていなかったとしても、その当事者やXの分野に携わる団体に補助金を出すことで、役所は
「我々はXの解決に全力を尽くしています」
というポーズを取ることができる。有権者は
「補助金導入に反対したY候補は無為無策であり、補助金導入を強く主張したZ候補はXの解決に熱心だ」として投票先を決めるであろう。当然ながら、補助金を受け取った団体は組織を挙げてZ候補を応援するであろう。
買収したければ、補助金制度を大いに導入すべきだ。
に対し、ツッコミをいただいた。肯定的な評価をしてもらった部分もあるが、気になった部分があったので、これをネタに久々に記事を書いてみよう。
反逆する武士 【再掲載】リフォーム補助金への批判を真剣に考えてみる
======【引用ここから】======
(注:若年寄)
>>Aさんが市から20万円の助成金を受け取り、自腹で180万円支出し、合計200万円で市内の工事業者に床の張替えと畳の交換を依頼した、とする。工事業者は床板や畳を発注する。発注を受けた業者は、床板を作るために木材を購入し・・・という具合に経済波及効果が生じる。これが共産党の説明。
>>ところが、Aさんの180万円が、例えば、自動車の購入資金として貯めていたものだったとしたらどうだろうか。Aさんは、市の助成制度をきっかけに床の張替えを思いつき、180万円をこれに充ててしまったため、自動車の購入は「まぁ、あと5年は今の車に乗れるだろう」と先送りされることになる。自動車の売り上げが減り、タイヤの発注が減り、ゴムの需要が落ち込む。こちらでは、マイナスの波及効果が生じることになる。
リフォームしたから、その他の出費に充てられるはずだったお金が振り分けられたので、マイナスの経済波及効果が存在するという指摘はちょっと無理筋なのではないかと。
もし、その他の出費に充てられるはずだったお金ではなく、特に支出予定のない貯金から出されたという可能性だってあるわけです。
これはリフォーム助成金を支給する際にアンケートを取って、実態を明らかにしないと批判できないと思います。
こんなことを気にしていたら、助成金制度と補助金制度を導入することはできません。
政府の助成金制度と補助金制度を全て目の敵にする極端な”小さな政府”主義者だからこのような批判が出たのでしょうか。
普通の日本人には受け入れられない気が・・・(>_<)
======【引用ここまで】======
一つ一つ見ていこう。
======【引用ここから】======
しかしながら、リフォームしたから、その他の出費に充てられるはずだったお金が振り分けられたので、マイナスの経済波及効果が存在するという指摘はちょっと無理筋なのではないかと。
======【引用ここまで】======
「Aに出費することで、Bに出費するはずだったお金が振り分けられる」というマイナスの経済波及効果については、別に無理筋というような特別な考え方ではない。例えば、
五輪「経済効果」報道は注意が必要 負の効果は無視されがち | マイナビニュース
======【引用ここから】======
オリンピックのような大きなイベントの際にマスメディアでよく使われる、この「経済効果」という言葉には注意が必要である。この言葉は、「資産効果」や「乗数効果」などを連想させて、その金額の分だけ「景気がよくなる」すなわち「GDPが押し上げられる」かのような響きを持つ。しかし、マスメディアにおける通常の語義は全く異なる。
たとえば、地方から東京にオリンピック観戦に訪れる一家は、恒例の温泉旅行を取りやめたり、日常の外食や買い物を控えたりすることによって、費用を捻出するかもしれない。
======【引用ここまで】======
とか、
教育と経済・社会を考える 第3回 教育の経済効果(その1)-産業連関分析、人的資本論の利用とその問題点-
======【引用ここから】======
門倉貴史氏は『本当は嘘つきな統計数字』(P.200-203)で、「経済効果」の推計ではマイナスの経済効果が考慮されていないことを指摘し、各種イベントの「経済効果」の試算では「個々の家庭の予算制約というものが全く考慮されていない。お土産代や宿泊費・交通費といったイベント関連の消費が増えたとしても、各家庭の収入そのものが増えていない場合には……、必ずイベント関連で散財した分を取り戻すため、ほかの消費を抑制するという流れが起こる。
======【引用ここまで】======
といったように、例を挙げればきりがない。
また、リバタリアンの視点を一旦離れ、「普通の日本人」でも理解しやすい視点から、マイナスの経済効果を説明することもできる。
予算に限りがある中での補助金の新設は、「普通の日本人」の大好きな既存の公共事業を縮小させてしまうのだ。
自治体が住宅リフォーム補助金を新設した場合、自治体の財政はどこも厳しいので、既存の事業の予算を削って捻出することになるだろう。
・補助額20万円×200件=4000万円
の補助金を新設するのであれば、予定していた農道の整備を見送ったり、予防接種の補助件数を減らしたり、高齢者の徘徊防止GPSを廃止したり、あるいはこれら複数の事業費を少しずつ削って予算編成するという処理が必要になる。
仮に、共産党が主張するように住宅リフォーム補助金でプラスの経済波及効果が発生するのであれば、似たような経路で、既存の公共事業の予算を削ったことによる受注の減少が連鎖的に生じることになるはずである。これでは、プラスマイナスゼロだ。住宅リフォーム補助金が、既存の他の公共事業より経済波及効果が高いという立証はされていない。
(共産党は「住宅リフォーム補助金は高い経済波及効果が~」と主張しているが、よくよく見ると、ただの「補助率の低めの補助金」でしかない。)
次に、
======【引用ここから】======
もし、その他の出費に充てられるはずだったお金ではなく、特に支出予定のない貯金から出されたという可能性だってあるわけです。
======【引用ここまで】======
今は特に支出予定のない預金だとしても、預金として利用可能な形で手元に残っていれば、将来別の何かの出費に充てることができるのは間違いない。車を買ったり、大学進学の費用に充てたり、入院に備えたり、マンションの頭金にしたりと、いろいろな消費や投資に充てることができる。住宅リフォーム補助金を20万円貰い、支出予定のない貯金から180万円を追加して200万円のリフォームを発注したとすれば、これによって将来の別の何かは中止・延期せざるを得なくなる。
(「今からドブ川に投げ捨てるつもりで180万円を手元に持っていた人が、住宅リフォーム補助金の話を聞いてドブ川に捨てるのを取りやめてリフォームしようと決心した」というのであれば話は別だが、これは相当なレアケースだから検討の必要はないだろう。)
さてここで。
20万円の補助金が呼び水となって、将来使えたはずの180万円を貯金から崩して住宅リフォームに投じることを考えてみる。
200万円でリフォームして家のバリアフリーをした場合、暮らしは便利になる。この便利になる度合いをAとしよう。
一方で、リフォームせずに180万円で燃費の良くない古い車から燃費の良い車に乗り換えた場合も、暮らしは便利になる。この便利になる度合いをBとしよう。
このAとBを比べて、Aの方が大きいというだけでは補助金制度は正当化されない。Aに20万円の補助金が投じられているので、この20万円を上回る追加の効用が求められる。
AとBを金額換算で比較してAの方が10万円分だけ上回っているとしたら、
補助金20万円 - 追加の効用10万円 = 無駄になった10万円
ということになる。こうした補助金は、継続すればするほど世の中全体の富が失われていく。少しずつ、だが確実にみんなが貧しくなっていく。
実際のところ、こうした効用を数字で差し引きして比較するのは非常に難しい。心理的な満足や利便性の向上を数値化するのが難しいからだ。
「補助金を交付することで、補助額を上回る効用を得ることができる」
という事を説明しなければ、補助金制度は正当化されない。政治家や公務員が
「補助金によってこのような生活の質の向上がもたらされました。補助金を投じなかった場合と比べて、人々はより有効な形で預金を使いました」
という説明を行うことでのみ補助金は正当化されるが、政治家や公務員はその努力すら放棄している。補助金の効用を評価しようとしたけど難しいからできなかった、のではなく、最初から評価しようとすらしていない。
じゃあなぜ、政治家や公務員は、効用があるかどうか疑わしい補助金制度を次から次へと作っているのか。
現実のところ、補助金は民主制における買収の手段として機能している。
ある事業への反対を抑えるために補助金を出し、地元のうるさい人を黙らせるために補助金を出し、選挙で票になりそうな業界へ補助金を出す。買収のための手段としては、たしかに補助金は非常に有効だ。
ある社会問題Xについて、役所として有効な解決策を持っていなかったとしても、その当事者やXの分野に携わる団体に補助金を出すことで、役所は
「我々はXの解決に全力を尽くしています」
というポーズを取ることができる。有権者は
「補助金導入に反対したY候補は無為無策であり、補助金導入を強く主張したZ候補はXの解決に熱心だ」として投票先を決めるであろう。当然ながら、補助金を受け取った団体は組織を挙げてZ候補を応援するであろう。
買収したければ、補助金制度を大いに導入すべきだ。