若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

「消費増税で教育・社会保障」という貧窮の論理

2017年09月23日 | 政治
あなたの親が、介護が必要な状態になったとします。
あなたの親が「病院に行きたい」と言っていますが、あなたはその日の仕事を休めません。


自由な社会の場合。

あなたはヘルパーさんに「時給○○円払うから、病院へ連れていって、診察に付き添って、連れて帰ってほしい」と頼み、ヘルパーさんはこれを引き受けてくれました。


一方、そうでない社会ではどうか。


18万の給料から税金や保険料その他諸々のの名目で8万円を天引きされており、あなたは自費でヘルパーさんに依頼するような余裕はありません。
そこで、公的介護保険を使って親を病院に連れていってもらおうとしました。

ところが、ヘルパーさんは「ケアマネさんに相談しないと・・・」と言って、直ぐには引き受けてくれません。
ケアマネさんに相談すると、ケアマネさんは「保険者に聞いてみないと・・・」と言って、直ぐには了承してくれません。
埒があかないので保険者である町役場に行って尋ねてみると、町役場の担当者は
訪問介護における通院介助及び院内介助の取扱い
という資料を読み始め、そして、何やらブツブツと言っています。

「介護報酬の対象にできるのは・・・待ち時間は算定対象外か・・・院内は入らせない方が・・・院内は病院スタッフに引き継・・・道路運送法に引っかからないことを確認して・・・事前に確認シートの提出・・・事後に記録表を・・・いや、これで万が一間違えたら、会計検査が入ったときに指摘されて介護給付費国庫負担金の返還・・・念のため県に一度確認しておこうか・・・いや、直で厚労省に・・・」

そして、役場の担当者から告げられたのは

「確認に時間を要するので、追って連絡します」

という先送り。

ここから先、あなたが希望する介護保険サービスを受けることができるかどうかは、国や地方の公務員の気分、決断に左右されます。また、仮にサービスの利用が可能となっても、様々な所に複雑な事務処理や不要な手間が発生します。



公営社会保障や政府の補助が蔓延る社会では、自由が失われます。
簡単に見えることでも、現場の判断だけではどうにもならない部分がたくさんあり、中央政府の示した基準に従わなければなりません。迷ったときは、中央政府にお伺いを立てなければなりません。その過程で、不要な事務や作業が増え、人手をとられ、また、中央政府の示した基準に合わせるために本来なら一人で出来るようなことを二人、三人でしなければならなくなります。その分だけ不要な費用が発生し、非効率になり、富が失われます。

国政選挙が近づいてきました。
与野党とも、
「消費増税で全世代型の社会保障の充実を」
「教育無償化を実現します」
といったスローガンを掲げ、政府の手による国民生活の拡充を推し進める主張を繰り広げています。

しかし、この主張の通り実現すればするほど、政府が国民の生活のあり方に介入するようになり、国民の生活は貧しくなります。個人や事業者が新しい方法、より効率的な方法を思いついたとしても、政府が定める基準に沿った方法でなければ社会保障給付を受けることはできません。

政府が無駄・非効率なことを強要すれば、確かに一時的な雇用は増えます。しかし、国民の生活は豊かにはなりません。社会保障・社会福祉の名目で政府による国民生活に介入する場面が増えれば増えるほど、生活の質は低下します。

そして、税金や社会保険料が増えることによって、政府に頼らず自力で問題を解決しようとする意欲と能力を削がれることになり、政府への依存が深まります。「消費増税で教育・社会保障」という施策は、国民を貧困と窮乏へ追い込む最短ルートでしょう。