若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

思いやりの行政?思いつきの間違いでしょ ~ ヒューマン・アクション 政府と市場 ~

2009年10月03日 | 政治
『ヒューマン・アクション』L.v.ミーゼス著 村田稔雄訳
何が公正で何が不公正であるかに関する永続的な基準のようなものはない。(762頁)

 自然法の概念から、生産手段の私有財産制度が正しいことを演繹する人々もあれば、生産手段における私有財産廃止を正当化するために、自然法に訴える人々もある。自然法の概念は、全く恣意的であるから、このような議論には決着がつかない。(762頁)

 絶対的正義という虚構的・恣意的観念の立場から、干渉主義を正当化ないし拒否することはナンセンスである。永続的価値観という先入観による基準から、政府の任務を公正に限界設定しようと熟考しても、無益である。政府・国家・法律および正義という概念から、政府の正当な任務を演繹することも、同様に不可能である。(764頁)



公正や正義といったものに明確な基準はない。自然法の概念もその基準たりえない。もし誰かがその基準を見つけたとしても、そんなものは恣意的観念、言ってみればただの思い込みに過ぎない・・・と、ミーゼスは公正や正義といったものに対して冷淡だ。

ミーゼスの人間行為学は、あくまでも人間が対象であって、神のような全知全能の存在や宇宙のはじまる前といった人間の認識を越えるものは考慮しない。人間はあるがままを認識しているのではなく、人間に備わった感覚や論理的思考力というフィルターを通してのみ外界を認識できる。そんな限界のある人間が、安易に普遍的・絶対的な道徳的基準を発見できるわけがないし、発見できたとする主張はただの思い込み・思いつきでしかない。

ところが、世の中にはちょっとした思い込み・思いつきを、絶対的な基準として取り上げる著作家・評論家・政治家がちょくちょく存在する。


この温情主義的統治者とは、彼の個人的価値判断を、このトリックによって絶対的な永遠の価値という普遍的に妥当な規準の高位にまで引き上げる経済学者の別名にすぎない。著者は、自己を完全な国王と同一視し、国王の権力を与えられたとしたら、彼自身が選ぶはずの目的を、福祉や一般福利や国民経済的生産力と呼んでいるが、それは利己的な個人が追求している目的とは異なるものである。彼は非常にナイーブであるから、国家の想像上の首長は彼の恣意的価値判断を具体化したものにすぎないことに気付かないで、軽率にも、善悪に関する明白な規準を発見したと考えている。情け深い慈悲深く温情的な独裁者の仮面をかぶった著者自身のエゴが、絶対的な道徳律の声として祭り上げられている。(730頁)


(ここで言う『ナイーブな著者』には、想像するに、ルソー等が当てはまるのではなかろうか。)

正義や公正、福祉、公共の利益、こういったものに明確な基準はない。ある政策を実行しようと、政治家や公務員が「○○をすることが社会的正義に適う。公共の利益を増進する。」といった言葉を発するとき、それはただのエゴ、思いつき、個人的価値観の表明でしかない。本当にそれが社会的正義に適うものかどうか、公共の利益を増進するかどうかを証明することはできないだろう。

課税・規制・補助金・公共工事など行政の取りうる手段で実現できるのは、Aからお金を奪ってBに渡すことだけである。おそらく、お金を奪われたAは「行政の活動は公正でない」と考えるであろうし、利益を得たBは「行政の活動は社会的正義に適うものだ」と受け止めるであろう。

公務員向けの研修では、「公務員は全体の奉仕者であって、公共の福祉を増進させるために活動しなければならない」とよく言われる。しかし、ある施策が本当に公共の福祉を増進させるかどうかなんて、誰にも分からない。公共の福祉が増進したかどうかを判定する基準がない。

公共の福祉が増進したかどうかを判定する基準がないということは、ある政策の実施、見直し、廃止をする基準がないということだ。ダム建設、ダム建設の見直し、後期高齢者医療制度の新設、後期高齢者医療制度の廃止、年金制度の見直しなど、どんな制度の実施、見直し、廃止であっても、これによって利益を得る人と損をする人が出てくる。傍から見れば無駄でしかないと思われる事業であっても、利益を得る人の存在を強調すれば「○○は公共の福祉の増進につながります」という起案が書けるであろうし、逆に、他人から見て必要そうに見えるものであっても、損をする人の存在を強調すれば「○○は公共の福祉を損なうものです」という意見書が書けるであろう。

このような行政とは異なり、企業の場合は基準が明白だ。


企業家や資本家は、彼らの計画が、生産要素を産業の諸部門へ配分するために最も適切な解決であるか否かについて、あらかじめ確信は持っていない。事業や投資において、彼らが正しかったか間違っていたかは、事後的に経験して初めて分かることである。彼らが用いる方法は、試行錯誤法である。(743頁)

 企業家の行為は、試行錯誤法の適用であると言いたいならば、正しい解決は、その正しさを容易に認識できることを忘れてはならない。それは、費用よりも多い収益の発生である。利潤は、消費者が彼の事業を承認していることを、損失は、否認していることを物語っている。(744頁)



企業が、公共の福祉の増進に資する「社会的」使命を果たしているかどうかなんてことは、誰にも分からない。企業に「社会的」使命を要求するのはナンセンスだ。それよりも、継続的に利潤をあげることのみを企業は考えるべきだ。行政の試行錯誤の結果を判定する基準は残念ながら存在しないが、企業の試行錯誤の結果は利潤で容易に判定できる。そして、利潤を与えられるのは消費者の要求に応えた企業だけだ。


市場は、毎日企業化を新たに試し、テストに合格できない者を排除する。それは、消費者の最も緊急な欲望を満たすことに成功した人々に、事業の遂行を託す傾向がある。これこそ、市場経済を試行錯誤のシステムと呼べる唯一の重要な点である。(745頁)


他より悪い商品を提供する者、他より効率の悪いサービスを提供する者、嘘をついて消費者をだました者、こうした者が一時的に利潤をあげることがあっても、長期的には市場から排除される。

市場は完全ではない。人間が完全ではないのだから、その人間の行為で成り立つ市場が完全になるはずがない。ただ、同じ問題に何十年も答えを出せない政府よりはずっとましだ。市場は、その時代の技術とその時代の人間の能力で達成できる最善の状態を実現する。

・・・政府が干渉しなければ、ね。
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