若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

表現の自由の論証に一言モノ申す ~ 民主主義よりも財産権 ~

2018年01月29日 | 政治

【表現の自由の説明へのモヤモヤ】

まず、表現の自由に関する一般的・教科書的な説明をご紹介しよう。

表現の自由(21条)はなぜ大事なの? | 日本国憲法の基礎知識 -憲法の試験対策などにも-
======【引用ここから】======
ひとつは自己実現の価値。
自己実現の価値とは、表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値といわれていますが、人間的成長のために表現活動が大事であるという価値観であるといえます。

もうひとつは自己統治の価値。
表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主主義と密接不可分な、社会的な価値をいいます。

  ------(中略)------
表現の自由とは、
こういった非常に重要な価値に奉仕するものであり、
だからこそ、国家の干渉を排除するというものです。

======【引用ここまで】======

「人格の発展、人間的成長のために表現活動は欠かせない。そして、表現活動は民主主義における政治的意思決定に密接に関わっている。だから表現の自由を保障しなければならないのだ」
という説明。

「尊厳」と並んで憲法学が好んで使う「人格」というキーワード、そして「民主主義」を最高の理念とする考え方。憲法の基本書でこの手の説明に接してから数十年が経とうとしているが、どうも腑に落ちないまま今日まで過ごしてきた。
モヤモヤする。

【モヤモヤその1 高尚なものとくだらないもの】

腑に落ちない一つ目が、
「人格の発展、人間的成長に資する表現、いわば高尚な内容を備えた表現活動が表現の自由の対象になる」
という論理を推し進めると、くだらない内容の表現活動は表現の自由として保障されなくなるのではないか?という点。

そして、人格的成長に資する高尚な表現活動とくだらない表現活動とで保障の程度が異なるということになれば、誰かが「高尚」と「くだらない」の線引きをしなければならなくなるが、それを誰がするのか?政府が表現内容を基準とした線引きをすることになれば、最終的には検閲の肯定になりはしないか?

【モヤモヤその2 政治と民主主義の過信】

腑に落ちない二つ目が、政治と民主主義を至上の理念として過信していないか?という点。

デモクラシー(民主政)は政治の一形態、すなわち、分配方法を決定するための意思決定方法に過ぎない。君主政治、専制政治、共和政、貴族政、一党独裁、直接民主制、間接民主制のいずれにしろ、政治の枠組みで全国民に共通の解を出すという点では同じである。社会における特定の問題を政治のまな板に乗せ、全国民に適用される単一解を出す民主主義的手法よりも、政治の領域を制限し、問題に接した個人レベル(広くても集落・地域レベル)でそれぞれの解を導く手法の方が過ちが少ないのではないか。

民主政の下、1億人を巻き込んだ賦課方式ネズミ講が少子高齢化で行き詰まりつつある(支給年齢の先延ばしを繰返して実質的には制度破綻してる)現状を鑑みると、民主政で誤った解を全国民に適用するというのは非常に恐ろしい。親亀がこけると皆こけてしまう。

また、
「財産権や経済的自由が侵害されても民主政によって回復できるが、表現の自由は民主政の過程に関わっているので、表現の自由が侵害されると民主政によって回復することは望めない」
という議論もよく見られるが、これも眉唾ものだ。増税や社会保険料負担増、国債発行によるインフレ誘導で財産権は侵害され続けてきたが、民主政による回復のきざしは見えない。

政治は課税によって原資を得る分配システムであり、これは民主政も同じ。民主政も常に財産権侵害の誘惑に駆られており、いかに主権者である国民が討論をしようとも、一旦なされた財産権侵害を民主政によって事後に回復できる見込みは薄い。民主政の中でも特に普通選挙制を採用している場合は、「格差是正」「所得再分配」のスローガンが無産階級の嫉妬を後押しして一大政治勢力を形成するため、財産権侵害への流れは一層強力なものとなる。

【政治的言論を頂点とする序列化】

人格の発展を強調し、民主主義を過信する。その結末は「政治的言論が表現の自由の中で最も重要」という形で現れる。

第7回 表現の自由の重要性がとくに強調されるのはなぜか?
======【引用ここから】======
 第3は、民主主義の基礎として表現の自由は絶対不可欠だ、ということである。国民主権原理に立つ政治的民主主義にとって、主権者である国民が自由に意見を表明し討論することによって政策決定を行っていくことが、その本質的要素であることは言うまでもない。この民主政治にとって不可欠な自由な意見発表と討論を保障するものとして、表現の自由はきわめて重要な意義をもつ。こうした観点からいえば、とりわけ「政治的な」言論が自由に交わされることこそが、憲法における表現の自由の保障の中核をなすものとして位置づけられなければならないこととなるはずである。
======【引用ここまで】======

「表現の自由は財産権や経済的自由に対し優越的な地位にある」
という憲法学の議論と、上記の議論を合わせると、

  政治的言論の自由>その他表現の自由>>>経済的自由・財産権

という位置付けになっていることが見て取れる。そして、公共の福祉を理由として経済的自由や財産権の制限を容易にしている(「合理性の基準」など)。しかしこの状況は、財産権のみならず、表現の自由にとっても極めて危うい。

【財産権が弱ければ表現の自由も危うくなる】

財産権の保障が脆弱であるために政府介入を招き、そこから表現内容の制限を受ける。その例として、放送法・電波法が挙げられよう。

足立康史氏の誤解している電波オークション --- 池田 信夫 (アゴラ) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
総務省は「放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」(高市総務相の答弁)。もちろん実際に発動されたことはないが、電波法76条が発動されそうになったことがある。
 ------(中略)------
オークションは電波に不可侵の財産権を設定し、足立氏のような無知な政治家の介入から表現の自由を守るのだ。
======【引用ここまで】======

表現の自由だけを切り取って保障していても、表現行為をする際に必要となる土地、建物、印刷機、通信機器、電波等が私有ではなく政府当局の割り当てなっていたり、政府の規制の下にあれば、これをテコにして表現行為への介入が可能になる。

表現行為をするために必要な物を所有しており、これが私有財産として強固に保障されていれば、
「これは私の物だ、これを使って私がどんな放送をしようが政府が口出しをするな!」
と強く言えるが、政府からの配給や割り当て、許認可に依存するものであれば、
「今は私が電波を使用しているけど、次の免許更新の際に政府からどんな苦情がきて留保されるか分からない・・・放送に先立って政府の意向を把握しておこうか・・・」
という判断、いわゆる忖度が生じる。「表現の自由は傷つきやすく繊細である」なんて言われるが、表現行為が拠って立つ財産権が危うければ、表現の自由の保障は形だけのものとなる。

公共の福祉を理由とした財産権の制限が容易であれば、出版、放送、通信等、表現行為のための道具や媒体を所有する会社や個人に対し、公共の福祉を口実とした介入が可能になる。
(この辺りについては、ハイエクの『隷属への道』を読んでもらうのが早いだろう。)

【大切な根本は財産権】

表現の自由をはじめ精神的自由の保障に力点を置き、経済的自由や財産権に対する法律上の制限を安易に認めてきた既存の憲法学は、いわば「表現規制への裏口入学」を公認してきたようなものだ。

一方、財産権の保障が強固であれば、「人格の発展」「民主主義」という高尚だがフワフワとした理念を持ち出さずとも、所有物の使用、収益、処分の一環として表現の自由は保障される。

テレビ局がどんなニュースを放送するか、
新聞局がどんな内容の記事を書くか、
出版社がどんな本を出版するか、
コンビニがどんな本を販売するか、
映画館がどんな映画を上映するか、
いずれも、私有財産が保障され、私有財産に対する政府介入が許されていなければ自由にできるものである。

所有者の判断に基づく放送、記事、出版、販売、上映等が気に入らない個人がいたならば、直接苦情を言ってもいい。不買運動でもいい。自分で別媒体を調達して、そこで批判を展開してもいい。暴力や脅迫を伴わず、相手の所有権を侵害しない態様で不満をぶつける分には、大いにやればいい。

民主主義と人格の発展を強調するよりも先に、財産権の重要さを強調しよう。私有財産の保障が確実なものとなれば、自ずと表現の自由も保障される。