冒頭、長ーい引用だけど…
〔対談〕社会保険方式の原理原則から考える(上)―基軸としての社会連帯 | 医療・介護・社会保障制度の将来設計 | 東京財団
=====【引用ここから】=====
堤:様々な使い方があってもいいですが、余り変に使うと、「お互い独立した人格同士が助け合う」という感じがなくなってしまう。アンドレ・コント=スポンヴィルは「寛大さから保険をかける人はいない」とし、「自分があの人のために」という意識じゃなく、「自分のためにやる。それが期せずして他の人のためになる」という意識を連帯と見なしており、その一つの典型例として保険契約を挙げています。つまり、保険制度とは保険料を自分のために出すけど、たまたま自分が病気になれば自分が給付を受けられ、幸運にも病気にならなければ、病気になった人の医療費に回るという形で、そのリスクをカバーし合います。それを可能にするのが連帯のシステムとしての保険契約です。従って、社会保険の基本は契約なのです。国民との約束を大事にし、皆保険の下で徴収した保険料を適切に使わなければならない。対価性や関係性を忘れたら社会保険ではなくなる。契約という理解を基礎に据えると、社会保険は市場経済や自由主義にフィットしやすい。このため、日本が社会保険方式を採っていることは非常に重要だと思っています。私は自由主義者ですが、多くの人は社会保障や社会保険を論じ始めると社会主義者になる。東京財団の提言も社会主義的と言うか、ハイエクの用語を使えば随分と「設計主義」、つまり「社会的形成物の大部分は人間による行為の結果であって設計の結果ではないにもかかわらず、“傲慢にも”人間は社会の仕組みを合理的に設計できる」とする発想に映ります。
三原:なるほど(苦笑)。提言の中身は今後議論するとして、連帯の意味を整理すると、個人の自由を前提にして横の繋がりを大事にする観点に立つことで、本来の意味で「連帯」が意味を持つということですね。ただ、社会保険の場合、国民に強制加入を課します。『政策原理』の表現に従えば、自由な個人の意思とは無関係に「連帯するよう加入強制する」という点で自由主義と矛盾しかねない。『政策原理』では社会保険の強制加入の根拠は憲法25条に求めるほかないと書かれています。
堤:第25条は憲法が許せる立法裁量の範囲内という形式的な根拠になります。しかし、それで国民が納得するかは別問題。強制加入を正当化する議論として、「逆選択を防ぐ」という議論もあるが、これは統治者の論理であり、自由な個人の立場に基づいた論理とは言えません。そうだとすれば、自由主義的な「保険」と、社会主義的な「保険」が矛盾する可能性があることを認識しつつ、制度の在り方を考えなければならない。つまり、「法的には強制加入だが、一般の国民なら保険契約を結ぶであろう」という感覚を持ち、注意深く設計しないといけない。役所の人達は「法律で書けば何でも保険料を取れる」と思っているかもしれないが、国民の納得を得られなくなる可能性がある緊張感を持ち、制度設計に臨むべきと思います。
=====【引用ここまで】=====
「私は自由主義者ですが、多くの人は社会保障や社会保険を論じ始めると社会主義者になる。」
と述べているが、発言している当の堤氏本人にそのまんま当てはまる。
引用の中では、
「『設計主義』、つまり『社会的形成物の大部分は人間による行為の結果であって設計の結果ではないにもかかわらず、“傲慢にも”人間は社会の仕組みを合理的に設計できる』とする発想」
として設計主義に批判的な立場を示し、
「強制加入を正当化する議論として、「逆選択を防ぐ」という議論もあるが、これは統治者の論理であり、自由な個人の立場に基づいた論理とは言えません。」
と述べて自由主義を擁護するポーズを一瞬だけ示すものの、直後に、
「自由主義的な『保険』と、社会主義的な『保険』が矛盾する可能性があることを認識しつつ、制度の在り方を考えなければならない。つまり、『法的には強制加入だが、一般の国民なら保険契約を結ぶであろう』という感覚を持ち、注意深く設計しないといけない。」
と述べる。「官僚が、対価性や関係性を忘れることなく注意深く設計したならば、国民の納得を得られる連帯のシステムとして、全国民を対象とした社会保険の仕組みを合理的に設計できるはずだ」という考え方は、設計主義そのものである。
一般の国民が自主的に締結するであろう内容の保険契約であれば、法的に強制加入とする必要はない。個人が加入するか否かの選択を行うことができる中で、個人が特定の契約を選択していくという積み重ねを続け「人間による行為の結果であって設計の結果ではない」社会の秩序が生成されていくのである。契約を強制加入とした時点で、この自生的秩序の枠外である。
「これだけ注意深く設計したんだ、きっとみんな納得して買ってくれるだろう」という売り手の意図に反して、消費者に見向きもされず消えていった物、サービス、保険商品は世の中に山ほどある。市場に並べて個人の選択に委ねることで、消えるものと残るものとが出てきて、社会の秩序を形成していく。消費者のふるいに掛けることなく、「注意深く設計」したということをもって「一般の国民なら保険契約を結ぶであろう」と評価し強制加入を正当化するのは、設計主義者の傲慢である。
社会保険に連帯という言葉を冠するのは勝手だが、強制加入とした時点で自由主義の要素は消え去り、社会主義化のための道具でしかなくなる。強制加入の社会保険が市場経済や自由主義にフィットするなんて、寝言もいいところだ。
「なんでこんな高額な保険料を払わないといけないのか」
「費用の支払は10割自己負担でいいから、社会保険から脱退させろ」
という声は、毎日のように耳にする。国民健康保険や介護保険における普通徴収では、1割以上の人が実際に納付していない。制度趣旨やサービスを受ける際のメリットを説明しても、納得することはない。不満な人は30分でも1時間でも粘る。
場合によっては、現在進行形でサービスを受けている人ですら不満を言う。
「いろいろ言われましても、社会保険は法律上、強制加入となっていますから」
と告げるまで粘り続ける。法律上の強制加入となっている旨を伝えると、不満を持っている人も諦める。納得ではなく、諦めるのだ。
政府の設計した社会保険の内容に納得していない、不満を持っている人は非常に多い。社会保険は、こうした国民の不満を跳ね除ける政府の強制力があって初めて成立する。任意加入にした瞬間に社会保険制度は崩れ去るだろう。社会保険の最大の欠点は、このように国民が不満を持っていても、法律によって強制加入となっているため、欠陥制度であっても存続できてしまう点にある。
脱退を認めたうえで、強制力を行使することなくなお存続できるものが、自由主義的な保険だ。法律によって加入を強制し、個人の同意に基づかない保険料の支払を強制する一方、約束どおりの将来の給付が見込めない社会保険が、世代間格差論争に代表されるように、個人間の連帯の意識を損なっている。
今の社会保険はどうしたら良くなるかをあれこれ論じるよりも、任意加入にして個人の選択に委ねることが必要だ。堤氏が言うように、「多くの人は、(強制加入を前提とした)社会保障や社会保険を論じ始めると社会主義者になってしまう」のだから。
〔対談〕社会保険方式の原理原則から考える(上)―基軸としての社会連帯 | 医療・介護・社会保障制度の将来設計 | 東京財団
=====【引用ここから】=====
堤:様々な使い方があってもいいですが、余り変に使うと、「お互い独立した人格同士が助け合う」という感じがなくなってしまう。アンドレ・コント=スポンヴィルは「寛大さから保険をかける人はいない」とし、「自分があの人のために」という意識じゃなく、「自分のためにやる。それが期せずして他の人のためになる」という意識を連帯と見なしており、その一つの典型例として保険契約を挙げています。つまり、保険制度とは保険料を自分のために出すけど、たまたま自分が病気になれば自分が給付を受けられ、幸運にも病気にならなければ、病気になった人の医療費に回るという形で、そのリスクをカバーし合います。それを可能にするのが連帯のシステムとしての保険契約です。従って、社会保険の基本は契約なのです。国民との約束を大事にし、皆保険の下で徴収した保険料を適切に使わなければならない。対価性や関係性を忘れたら社会保険ではなくなる。契約という理解を基礎に据えると、社会保険は市場経済や自由主義にフィットしやすい。このため、日本が社会保険方式を採っていることは非常に重要だと思っています。私は自由主義者ですが、多くの人は社会保障や社会保険を論じ始めると社会主義者になる。東京財団の提言も社会主義的と言うか、ハイエクの用語を使えば随分と「設計主義」、つまり「社会的形成物の大部分は人間による行為の結果であって設計の結果ではないにもかかわらず、“傲慢にも”人間は社会の仕組みを合理的に設計できる」とする発想に映ります。
三原:なるほど(苦笑)。提言の中身は今後議論するとして、連帯の意味を整理すると、個人の自由を前提にして横の繋がりを大事にする観点に立つことで、本来の意味で「連帯」が意味を持つということですね。ただ、社会保険の場合、国民に強制加入を課します。『政策原理』の表現に従えば、自由な個人の意思とは無関係に「連帯するよう加入強制する」という点で自由主義と矛盾しかねない。『政策原理』では社会保険の強制加入の根拠は憲法25条に求めるほかないと書かれています。
堤:第25条は憲法が許せる立法裁量の範囲内という形式的な根拠になります。しかし、それで国民が納得するかは別問題。強制加入を正当化する議論として、「逆選択を防ぐ」という議論もあるが、これは統治者の論理であり、自由な個人の立場に基づいた論理とは言えません。そうだとすれば、自由主義的な「保険」と、社会主義的な「保険」が矛盾する可能性があることを認識しつつ、制度の在り方を考えなければならない。つまり、「法的には強制加入だが、一般の国民なら保険契約を結ぶであろう」という感覚を持ち、注意深く設計しないといけない。役所の人達は「法律で書けば何でも保険料を取れる」と思っているかもしれないが、国民の納得を得られなくなる可能性がある緊張感を持ち、制度設計に臨むべきと思います。
=====【引用ここまで】=====
「私は自由主義者ですが、多くの人は社会保障や社会保険を論じ始めると社会主義者になる。」
と述べているが、発言している当の堤氏本人にそのまんま当てはまる。
引用の中では、
「『設計主義』、つまり『社会的形成物の大部分は人間による行為の結果であって設計の結果ではないにもかかわらず、“傲慢にも”人間は社会の仕組みを合理的に設計できる』とする発想」
として設計主義に批判的な立場を示し、
「強制加入を正当化する議論として、「逆選択を防ぐ」という議論もあるが、これは統治者の論理であり、自由な個人の立場に基づいた論理とは言えません。」
と述べて自由主義を擁護するポーズを一瞬だけ示すものの、直後に、
「自由主義的な『保険』と、社会主義的な『保険』が矛盾する可能性があることを認識しつつ、制度の在り方を考えなければならない。つまり、『法的には強制加入だが、一般の国民なら保険契約を結ぶであろう』という感覚を持ち、注意深く設計しないといけない。」
と述べる。「官僚が、対価性や関係性を忘れることなく注意深く設計したならば、国民の納得を得られる連帯のシステムとして、全国民を対象とした社会保険の仕組みを合理的に設計できるはずだ」という考え方は、設計主義そのものである。
一般の国民が自主的に締結するであろう内容の保険契約であれば、法的に強制加入とする必要はない。個人が加入するか否かの選択を行うことができる中で、個人が特定の契約を選択していくという積み重ねを続け「人間による行為の結果であって設計の結果ではない」社会の秩序が生成されていくのである。契約を強制加入とした時点で、この自生的秩序の枠外である。
「これだけ注意深く設計したんだ、きっとみんな納得して買ってくれるだろう」という売り手の意図に反して、消費者に見向きもされず消えていった物、サービス、保険商品は世の中に山ほどある。市場に並べて個人の選択に委ねることで、消えるものと残るものとが出てきて、社会の秩序を形成していく。消費者のふるいに掛けることなく、「注意深く設計」したということをもって「一般の国民なら保険契約を結ぶであろう」と評価し強制加入を正当化するのは、設計主義者の傲慢である。
社会保険に連帯という言葉を冠するのは勝手だが、強制加入とした時点で自由主義の要素は消え去り、社会主義化のための道具でしかなくなる。強制加入の社会保険が市場経済や自由主義にフィットするなんて、寝言もいいところだ。
「なんでこんな高額な保険料を払わないといけないのか」
「費用の支払は10割自己負担でいいから、社会保険から脱退させろ」
という声は、毎日のように耳にする。国民健康保険や介護保険における普通徴収では、1割以上の人が実際に納付していない。制度趣旨やサービスを受ける際のメリットを説明しても、納得することはない。不満な人は30分でも1時間でも粘る。
場合によっては、現在進行形でサービスを受けている人ですら不満を言う。
「いろいろ言われましても、社会保険は法律上、強制加入となっていますから」
と告げるまで粘り続ける。法律上の強制加入となっている旨を伝えると、不満を持っている人も諦める。納得ではなく、諦めるのだ。
政府の設計した社会保険の内容に納得していない、不満を持っている人は非常に多い。社会保険は、こうした国民の不満を跳ね除ける政府の強制力があって初めて成立する。任意加入にした瞬間に社会保険制度は崩れ去るだろう。社会保険の最大の欠点は、このように国民が不満を持っていても、法律によって強制加入となっているため、欠陥制度であっても存続できてしまう点にある。
脱退を認めたうえで、強制力を行使することなくなお存続できるものが、自由主義的な保険だ。法律によって加入を強制し、個人の同意に基づかない保険料の支払を強制する一方、約束どおりの将来の給付が見込めない社会保険が、世代間格差論争に代表されるように、個人間の連帯の意識を損なっている。
今の社会保険はどうしたら良くなるかをあれこれ論じるよりも、任意加入にして個人の選択に委ねることが必要だ。堤氏が言うように、「多くの人は、(強制加入を前提とした)社会保障や社会保険を論じ始めると社会主義者になってしまう」のだから。