若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

市場の価格競争こそが適切な価格を導く ~ 公定価格で失敗した介護保険 ~

2019年04月27日 | 政治

【市場価格が適正価格】

政府当局は適切な価格を定めることはできません。
そのための手段も情報も持っていません。
適切な価格は、市場における価格競争を通じて発見されます。
市場の中で商品やサービスの取引・交換が積み重なり、他の類似する商品やサービス、代替可能な商品やサービスとの比較が繰り返されることで、手探り的に「だいたいこんなもんだ」という相場が出来上がります。

これ、私が一人で言ってるんじゃありません。

厚生労働省 介護保険における福祉用具
======【引用ここから】======
福祉用具の貸与及び購入は、市場の価格競争を通じて適切な価格による給付が行われるよう、保険給付における公定価格を定めず、現に要した費用の額により保険給付する仕組みとしている。
======【引用ここまで】======

厚生労働省の中にも、そう思っている人はいるんですよ。
(ただ、この話を全面的に認めてしまうと厚生労働省そのものが崩壊してしまうので、このまっとうな話をごく一部分にしか適用していませんが。)

【介護現場崩壊の原因は公定価格】

さて。

介護業界に携わる人々の低賃金が問題になっています。
その一方で、現役世代が減少するのと同時に高齢者が増えているため、介護業界は様々な職種が不足していて、様々な事業所で常に求人募集を出しているような状況です。

これは、市場原理で考えるとおかしな話です。
需要が増えれば価格は上がる、人手不足であれば賃金が上がるのが自然です。
人手不足なのに賃金は上がらない、そして人手不足を原因として閉鎖する事業所も増えています。
まさに、介護現場は崩壊の危機に瀕しています。

なぜこんな事態になってしまうかというと、サービス費用が保険点数で決まっているのと、サービス利用者数に対する必要職員数を政府が決めているためです。

事業所の収入面は、ケアプランを作ったら1つ幾ら、ヘルパーを派遣して身体介護50分提供したら幾ら、といった単位で決まっています。
他方、必要職員数については、ケアマネ1人が担当できる利用者は○人まで、グループホームでは利用者○人につき1人介護職員を配置せよ、といったルールが細かく決まっています。

事業所がサービスの単価を上げたり、職員一人あたりの対応する利用者人数を増やしたりすれば収入増が見込めますが、下手をすると事業所は不正請求や基準違反を問われることになり、営業停止等に追い込まれてしまいます。

必然的に、一人の職員に幾らまでなら払えるかが決まってきます。
いかに人手不足であろうとも、この一人の職員に払える賃金の上限を超えて求人募集を出すわけにはいきません。

このように、政府当局の定める単価設定と必要職員数の基準があるために、今日の介護業界における低賃金と人手不足という矛盾した現象が同時に発生しています。

【価格引き上げは解決策にあらず】

そこで、

「じゃあ政府当局が単価設定を上げればいいじゃん」

と考えたあなたは、ちょっと短絡的です。

報酬単価を上げれば事業所の収入は増えますが、利用者の自己負担と保険者(自治体)の給付費も増えます。
利用者の自己負担が増えても、高齢者である利用者は収入が増えるということはあまり無いので、自己負担が増えた分だけ生活は苦しくなります。
保険者(自治体)の給付費が増えれば、自治体で徴収する保険料を増やすか、国・都道府県・市町村の税投入を増やさなければなりません。
いずれにしても、最終的には国民負担が増えることになるのです。

この手の社会保障給付の増加が、国債発行残高の増加や消費増税への圧力となっています。

約20年前の介護保険制度開始時に、政府当局担当者が価格や必要職員数、サービス供給量などを設計しました。
適正価格を分かりようのない政府当局の設定したサービスの公定価格に基づき、需給のバランスが崩れたまま今日に至っています。

今となってはどうしようもありませんが、せめて、せめて、市場競争の中で介護サービスの価格が成立し、無理のない適正なものとして根付いた後だったなら。
その価格を基準として介護保険制度を始めていれば、まだマシだったと思います。

しかし実際には、介護サービスの相場が市場競争の中で試されて根付く前に、公的サービス中心の老人福祉・老人医療の枠組みの延長線で介護保険制度を開始してしまいました。
市場に成立した相場に沿ってサービス単価や必要職員数を設定したのではなく、政府当局担当者の気分で設定してしまったのです。

その時に生じた歪みを、20年近く経過した今日まで是正できずに引きずっています。
歪みの原因を放置して官僚が思いつきで小手先の修正を繰り返したため、歪みは大きくなりました。

低い自己負担による需要の過剰な掘り起こし、
2倍に膨れ上がった保険料負担、
介護従事者の低賃金
人手不足 etc・・・

これらは全て、市場競争によらない公定価格・規制によって引き起こされたものです。
公定価格による歪みを直すには、単価設定や各種基準を一つずつ廃止していかなければなりません。
単価設定を上げるだけだと、新たな歪みが別の場所で生じることになってしまうでしょう。

寄付の使途にケチをつける黄色いベスト ~ 労働者の要求水準が高いのは有害 ~

2019年04月25日 | 労働組合

【私有財産と寄付】

災害や事故が生じて大きな被害が出た場合、多くの人が寄付をします。
人的・物的被害を受けた人々の惨状を見て嘆き、その境遇に共感し、何か自分にも出来ることはないかという自然発生的な感情に基づき、人々は自分の財布から出せる範囲で寄付を行います。

通常、寄付をした人は賞賛されます。

個人の財産の処分は所有者の意思に委ねられており、自分の趣味、願望、欲求を満たすために費やしても全然構わないものです。
にもかかわらず、他人の被害を救済するために私財を投じるのは非常に高尚な行為であると言えます。
自分の金を自分のために使うことができたにもかかわらず、他人のために使うという点が、道徳的な評価に繋がります。

これが強制的に寄付させられた場合、寄付を強いられた人は不満を募らせ、周りの人は憐憫を覚えることでしょう。
暴力と強制は、一部の人の正義感を満たすことしかできず、多くの人の満足を損ない自発的な繋がりを壊してしまいます。

また、仮に寄付の意図するところが露骨な売名であり、お世辞にも高尚とは言えないものだったとしても、原点に戻って「私財を売名のために使って何が悪い」で済む話です。

いずれにしても、私財を投じて寄付するか否かは所有者の意思に委ねられており、また、寄付金の使途は寄付を受けた側が判断することになります。

こうした私有財産に基づく「当たり前の話」を覆そうとする集団が出現しました。
フランスの黄色いベスト達です。

【寄付金をよこせ?!】


○寄付と再建方法で論争 ノートルダム火災、仏社会結束ならず
======【引用ここから】======
フランスでは15日夜に起きた火災を受け、各政党が欧州議会選に向けた選挙活動を停止した一方、大聖堂再建に向け集まった寄付をめぐる論争が17日までに勃発した。集まった寄付金8億5000万ユーロ(約1070億円)については、その一部が貧困層支援に使われるべきではないかとの声が上がっている。
( 中 略 )
 大聖堂の再建に対しては、フランソワ=アンリ・ピノー(Francois-Henri Pinault)氏やベルナール・アルノー(Bernard Arnault)氏をはじめとするフランスの大富豪や大企業がそれぞれ1億ユーロ(約130億円)を超える寄付を表明。しかし、「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト、gilets jaunes)」運動の抗議デモが5か月にわたり続くフランスでは、富の不平等と低所得者層の窮状に注目が集まっており、巨額の寄付は批判を呼んだ。
 寄付により大規模な税額控除を受けられることも反発の一因となっており、これを受けてピノー氏は、税額控除の権利を放棄すると表明。一方のアルノー氏は、18日の株主総会で寄付をめぐる論争について問われた際、「フランスでは(公益となる)何かをする時でさえ批判され、非常に悩ましい」と語った。

======【引用ここまで】======

黄色いベスト達は、多くの人から集められた寄付金について

「一部は貧困層支援に使われるべきではないか」

という主張をしています。
貧困層、すなわち自分たちに金を寄越せと主張しているのです。
人間より石が優先されるのか
という主張もしている様子。
徒党を組み、投石や放火をしながらです。



片や自発的に寄せられた寄付金、
片や暴力を背景とした恐喝行為。

黄色いベストを擁護しようという気持ちがぜーんぜん湧きません。

【暴力を伴う要求は有害】

労働者集団の暴力を背景とした要求行為は、有害です。

労働者集団が要求をし、それが世間の生活水準、生産態様等々に照らして容易に実現可能なものであれば、労働者集団の要求があろうが無かろうがいずれ実現します。
労働者集団の要求行為は、実現可能な労働条件の現実化を若干早めることができるに過ぎません。
また、要求内容が容易に実現可能な水準のものであれば、暴力を伴う要求行為をする必要はありません。

暴力に訴えなければならないということは、要求内容・水準が実現困難であり、平穏な交渉の中で話がまとまらないということです。
暴力をもって相手に押し付けなければ成立しないような要求は、どこかで歪みを生じさせ、より弱い者の所にしわ寄せが行きます。

解雇規制がまさにそうです。
ストライキによって正社員労働組合が企業に押し付け、裁判所が追認した解雇規制は、成立当初の労働条件・水準や現代のそれと照らしても、労働者全員に保障できるようなものではありません。
このため、一部の正社員にのみ解雇規制が保障される一方で、労働需要の増減を非正規労働者の数で調整して対応するというしわ寄せが生じました。
また、正社員内部においても、一部界隈では人権侵害とまで言われている転勤システムという歪みが生じた原因もまた解雇規制にあります。

暴力による無理な水準の要求は、このようにしわ寄せや歪みを生じさせます。

月に行くよりノートルダム大聖堂修復の方が数百倍公益性があるが、それでもフランス労働者は激怒。労働者の要求水準の高さがうらやましい。

という社会運動家さんもいますが、彼の主張が愚かで危険であることは既に述べたとおりです。

藤田氏の「労働組合のおかげ」説を疑いの目で眺めてみる ~ 久々の『ヒューマン・アクション』から ~

2019年04月16日 | 労働組合

【藤田氏の労働組合信仰】

前回、藤田孝典氏の労働問題に関する主張は説得力を欠く、ということを述べました。
この人は私と同様自分に甘く、私と違って自身の理論を労働組合にとって都合の良い形に捻じ曲げてしまう傾向にあるからです。
そういう不信と懐疑の目で、次の文章をご覧ください。

「月に行くなら社員の給料を増やせ」は的外れ、というのも的外れー企業に対する労働者の要求は自由であるー
======【引用ここから】======
「子どもが生まれたら働き続けられないから退職」「時短勤務などでは企業に迷惑がかかるから辞めてほしい」が当たり前という慣習を打ち破ったのは先輩の労働者たちである。
子どもを育てながら働きたい。それは当時の企業社会において荒唐無稽な暴論と評価された要求だった。
もっと歴史を遡れば、1日13時間労働の短縮、労働組合など団体交渉権の確立、労働基準監督署の設置、週休2日制、有休休暇制度、残業代の支払い義務など、あらゆる労働者をめぐるシステムが労働者の要求によって確立してきたことを知ることが出来る。
どれもこれも当時の社会では存在しなかったり、禁止していないことが当たり前、当然とされてきた仕組みだった。
わたしたちは現在、先人が権利を主張して確立してくれて、その変化した仕組みのなかで恩恵を享受しているに過ぎない。
このように、先人の労働者が自由な要求を繰り返すことで、制度やシステムが整備されてきて、いまの私たちの働き方が確立している。
自由な要求なしには、働きやすい環境や処遇は得られないのである。

======【引用ここまで】======

「先輩労働者たちが労働運動(たたかい)で勝ち取った労働者としての権利があるから、お前たち今の労働者の生活があるんだ」
「労働者の要求によって週休二日制といったシステムが確立した」
という、労働組合の組合員向け政治パンフレットのような内容。

こうした意見はこの人に限らず様々なところで見られます。
例えば、

児童労働の原因と解決策ーNGOの役割ー

というレポートでも、児童労働の原因を述べる中で

======【引用ここから】======
なぜ子どもたちが労働者として容易に搾取の対象となるのだろうか。主な理由として,子どもたちが大人の何倍も安く使えることが挙げられる。これはほとんどの子どもたちが労働組合の援助を受けることができないためである。また,子どもたちは恐くて不満や文句を言わず,組織的に仕事の環境改善を要求することがほとんど不可能であるため,雇用者側にとっては使いたい放題である。
======【引用ここまで】======

と、子どもは労働組合の援助を受けられない、組織的に仕事の環境改善を要求できないという点を児童労働の問題点として挙げていますが、こうした見方は藤田氏と共通しています。
労働組合があるから今日の労働者の生活と権利があり、子どもは労働組合を作れないために搾取されるのだ、ということのようです。
こうした藤田氏らに見られるような「労働組合のおかげ」説は、果たして事実に基づいているのでしょうか。

【死と隣り合わせの貧しさの中で、労働組合にできることはあるか】

さて、上記レポートには、次のような文章が続きます。

======【引用ここから】======
 他にも多岐にわたる分野において,児童労働の原因となる背景がある。これからその5つについてあげたいと思う。
 児童労働の根本的な問題は貧困にあるといえる。特に農村が最もひどく,家族を養うために子どもたちが都会に出稼ぎに行く例が多い。そのため多くの貧しい家族は子どもの収入に依存しているといえる。

======【引用ここまで】======

児童労働の根底には貧困があります。

家庭が貧しくて、仕方なく働きに出ています。
あるいは、貧しさから子どもが親に売られてしまうという事態が生じています。
こうした貧しい農村で家族を養うために子どもたちが働いている状態(今でもそういう国・地域は存在します)において、藤田氏的発想に基づき

「児童労働は残酷だ。労働者は団結し児童労働禁止を勝ち取ろう」

と児童労働の禁止を労働組合が政治的に働きかけ、これが実現してしまったらどうなると思いますか。

日本の児童労働 ―歴史に見る児童労働の経済メカニズム―
======【引用ここから】======
実際、12世紀ごろから日本において、労働力の供給、取得を目的として、子どもの誘拐や子どもの売買が盛んに行われ、組織化されていた。人身取引(人身売買)は、日常茶飯事であったと見ることができる。不作や飢饉の難を逃れるため、親が子どもを売るというとこも少なくなかったようである。
======【引用ここまで】======

======【引用ここから】======
江戸時代後半、すなわち18世紀後半になると、度重なる飢饉などで、人々の生活が困窮していくと、堕胎や間引きや嬰児の遺棄が広まっていった。この時、女子が犠牲になることが多く、特に生活水準の低い東北地方においては顕著に出生比に偏りが見られる。つまり、女子よりも男子が多いのである。しかし、ある特定の地域、すなわち、遊女として娘を売ることが可能な地域にあっては、堕胎や間引きは少なかったとされる。
======【引用ここまで】======

貧しい状態で生活の糧を得る手段を禁止してしまうと、そこでは飢饉や遺棄による死が待っています。
洋の東西を問わず、時の権力者が禁制を繰り返しても児童労働の禁止がなかなか徹底されなかったのは、そういう背景があります。

労働者が政治活動によって権利を獲得しても、それに見合うだけの豊かさが確保されていないとかえって生活が行き詰まってしまうのです。

【社会より先行した労働組合はかえって有害】

こうした状態を、ミーゼスは次のように述べています。


ヒューマン・アクション―人間行為の経済学― ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (著), 村田 稔雄 (翻訳)2008
======【引用ここから】======
649頁
彼(賃金生活者)は毎日の労働時間を短縮し、妻や児童たちを勤め人の労苦にあわせないようにしようと必死である。しかし、労働時間を短縮し、工場から既婚婦人と児童たちを引き上げさせたのは、労働立法や労働組合の圧力ではない。賃金生活者が非常に豊かになり、彼自身や扶養家族のために、もっと余暇を買うことができるようになったのは、資本主義のお陰である。おおむね十九世紀の労働立法は、市場的要因の相互作用によって既に生じていた変化を法的に認めたものにすぎなかった。労働立法が産業の発達よりも先行したこともあったが、そのような場合には、富の急増によって、間もなく事態が正常に戻った。いわゆる労働者優遇的法律が、既に現れていた変化ないし直近未来に起こると思われる変化の予想を承認した措置の命令にとどまらなかった場合は、労働者の物質的利益を害した。
======【引用ここまで】======

ここで大事なのは2点。

まずは、労働者が豊かになり余暇を得ることができるようになり、児童が労働しなくて済むようになったのは、市場的要因の相互作用によって生じた産業の発達のお陰であり、労働立法や労働組合の圧力によるものではないという点があります。
貯蓄し、起業し、分業を進め、自発的な交換を繰り返し、各個人が主観的な満足を増やしていく一連の過程をミーゼスは重視しています。
この一見遠回りに見えるプロセスが豊かさを実現するのですが、労働立法や労働組合の要求は時として省力化を拒み非効率化を求め、規制をかけて起業や自発的な契約の成立を阻害する等、豊かさの実現を遅らせてしまう方向に作用します。

そして、労働立法や労働組合の圧力によって、近い未来に達成できるであろう産業の発達度合いを超えた高水準の労働者優遇措置を作ってしまった場合、そのことがかえって労働者の物質的利益を害してしまうという点も重要な指摘です。
実情に合わない労働者優遇措置を作ってしまったことによって、労働者の物質的利益を害してしまうというこのくだり、解雇規制や派遣3年ルールを作ってしまった人達にとっては耳の痛いことでしょう。
高すぎる最低賃金を設定して失業率を跳ね上げてしまった韓国の当局担当者は、一度、『ヒューマン・アクション』を読んでみるといいでしょう。


ということで、おさらいです。

「1日13時間労働の短縮、労働組合など団体交渉権の確立、労働基準監督署の設置、週休2日制、有休休暇制度、残業代の支払い義務など、あらゆる労働者をめぐるシステムが労働者の要求によって確立してきた」

という藤田氏の労働組合への評価は、事実に基づかない過大なものです。

労働者をめぐるシステムは資本主義のお陰です。
市場における貯蓄、起業、分業、交換を通して実現した豊かさがあるからこそ、労働者をめぐるシステムを定着させることができたのです。
他方、労働者が、市場において成立している(あるいは成立しつつある)豊かさの水準を超えた要求をし、これが制度化されてしまった場合、更なる生活の困窮を招きかえって労働者の利益を害することになります。

地に落ちた労働運動家 ~ 藤田孝典氏の信頼は皆無 ~

2019年04月14日 | 労働組合

【私は○○をする】

「私は○○をする」
とか
「私の会社では△△をする」
といった主張や宣言は、個人の自由です。
暴力を伴う強制力を行使して私の身体や財産を侵害しようとする主張でない限り、各個人がどのような理念や行動指針を掲げても構いません。

ここで、○○をしなかった、あるいは△△を出来なかったとしても、私としては
「そうなんだ」
「出来なかったのは残念だったね」
と思うだけです。そこに非難の要素はありません。

○○がその個人にとって重要であり続ければ再度挑戦すれば良いでしょうし、△△がその会社経営において重要性が失われたのであれば、△△をするという目標を取り下げても構わないでしょう。
やらなかった理由が単に「しんどいから」というだけでも、それは非難の対象とは思いません。
主張するのも、行動するのも、その人の判断次第です。

【お前は○○をすべきだ】

他方で、
「(自分以外の)お前は○○をすべきだ」
とか
「(自分以外が経営する)企業は△△をすべきだ」
といった主張の場合、ちょっと違ってきます。

○○や△△の内容によって、私が肯定的な評価をするか否定的な評価をするか分かれますが、いずれの場合においても、
「(自分以外の)お前は○○をすべきだ」
「(自分以外が経営する)企業は△△をすべきだ」
と主張した当人が、逆のことをした場合、強い反感を持つことになります。

「ふざけるな!まずはお前がやれよ!」

といった非難感情が湧き起こります。

【時には矛盾もあろうけど】

人は時に矛盾した主張をすることがあります。
また、年月を経ることで考え方や思想が変わることもあります。

私がこのブログを書き始めてから10年が経過しました。
その間、主張に矛盾やズレ、ブレがあることは否定できません。

しかし、短期間の間に主張の矛盾が生じたり、真逆のことを言ったりはしないよう気をつけているつもりです。
そういうことをしていては、主張の説得力を失うからです。

【藤田氏の言動】

さてここに、藤田孝典氏という人物がいます。

twitterのプロフィールを見ると、

ほっとプラス代表理事。聖学院大学人間福祉学部客員准教授。反貧困ネットワーク埼玉代表。ブラック企業対策プロジェクト共同代表。著書『貧困クライシス』『下流老人』『貧困世代』共著『未来の再建』『知りたい!ソーシャルワーカーの仕事』など。
とあります。

このプロフィールや著作から分かるとおり、この人は、非正規労働者の低賃金、不安定な雇用条件を厳しく批判し、インターネット上でも
「企業は残業代を払え!」
「労働者は労働組合に入ってたたかおう!」
過去の業績や政治スタンス、人間性などを理由にパワハラを擁護することは許されない
といった内容を幾度となく主張していました。

さらには、契約に基づく賃金を支払っており、その額も最低賃金を上回っていたzozoに対してまで、
賃金上げろ
広報担当者のtwitterを休止させろ
と数ヶ月にわたって粘着していました。
zozo以外にも、様々な企業を攻撃していました。

そんな彼のところに、とある知らせがやってきます。

〇労働組合が組合潰し!「ガイアの夜明け」「アリさんマークの引越社」で知られたプレカリアートユニオンで組織内労働組合 @dmu_in_pu が発足。ところが…… - Togetter

労働組合で働く職員に対する残業代不払い、さらには労組委員長による職員へのパワハラを指摘する声が内部から上がってきたのです。

藤田氏のこれまでの主張に照らせば、当然彼は

「残業代を払え!」
「パワハラはいかなる場合も許されない!」
「労働環境の改善を訴える労組が率先して職員の労働環境を改善していくべきだ!」

といった主張・要求の急先鋒になるだろう、と思っていました。

【地に落ちた藤田氏】

ところが、この件に対し藤田氏が発したコメントは、驚くべきものでした。



何のアナリストか知らんが、労働組合や繰り返される分派活動の歴史や経緯を知らないと軽々しく発言できるのだと思う。今できることは組織を信頼して見守ること。

これを見たとき、最初、アカウント乗っ取りだと思いました。
別人がアカウントを乗っ取り、今までの主張と真逆のコメントをわざと投稿したのだ、と。
そのくらい、今までの主張と整合性の取れないものです。

考えてみてください。
全ての企業、団体において、それぞれの組織が出来上がり今日に至るまでの歴史があるわけです。
市場環境の変化、経営状況、職員との契約、創業者の理念、役員間の人間関係・・・などなど、様々な経緯や条件の中で、賃金、休暇、残業、そういったものが決まります。

藤田氏は今まで、そういった各企業の内部事情を全て無視して、外野から

「企業は賃金を上げるべきだ」
「労働者は逃げずに労働組合に入って企業と戦うべきだ」
「残業代や休暇は法律どおり運用すべきだ」

と主張してきました。
その彼が、
「歴史や経緯を知らずに軽々しく発言するな。(労働者側でなく)組織を信頼して見守ろう」
という180度反対のことを言ってのけたのです。
にわかには信じられませんでした。
その後、アカウント乗っ取りでなさそうだと分かると、物凄い嫌悪感、不快感が湧き上がりました。

「自分に甘く身内に甘く、主張の一貫性を保とうという発想を持ち合わせていない」

と。

彼の労働問題や貧困問題に関する様々な主張とその論拠は、組織内部の分派活動の経緯に劣後する程度のものでしかない、ということになります。
貧困者やパワハラの被害者よりも労働組合を優先するのは、労働組合から助成金や講演依頼を貰っているからでしょうか。

【藤田氏の発言の説得力は皆無】

従来の藤田氏の主張も納得のいくものは少なかったのですが、今後、藤田氏がいかに綺麗事を並べ立てても説得力あるものとは受け取れないでしょう。
彼が労働問題で何かペラペラ喋っていても、
〇〇事業や△△事業の賃金や労働条件はだいたいこんなもんです。
「個々の企業の歴史や経緯を知らずに発言するな。今出来ることは組織を信頼して見守ること」
でたいていは反論可能です。

そう、言論人としての彼は死んだも同然です。

応召義務と法治国家と残業ゼロ

2019年04月04日 | 労働組合

【医者の応召義務】

医者には、法律で「応召義務」というものが定められています。
医者は患者を選べません。患者から診察してくれと言われたら、医者が拒むことは法律上認められていません。
○参考 医師の応召義務について
============
医師法
 第19条 診療に従事する医師は、診療治療の求めがあつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。

============

ここに、「正当な事由」という文言があります。
これに該当すれば医者も診療を拒むことができるようになります。

ただ、この「正当な事由」の意味内容はあいまいであり、法律の中だけでこれを明確にすることはできません。
このため、所管官庁から解釈のための通知が幾つも出されているわけですが、その中には、

「医業報酬が不払であっても直ちにこれを理由として診療を拒むことはできない」
「診療時間を制限している場合であっても、これを理由として急施を要する患者の診療を拒むことは許されない」
「『正当な事由』のある場合とは、医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られる」

等々、医者自身が病気になるまで患者の求めに応じて診察しろと言わんばかりの恐ろしい内容が書かれています。
この応召義務に反して患者への診療を拒否し、その結果損害が生じた場合に、医者に対し賠償責任を認めた裁判例もあります。

理不尽だなぁ、曖昧だなぁ、複雑だなぁ。
そんなルールであっても、法律が法律である以上はこれに従え、というのが法治国家というものです。

この法治国家の理念がさらに過激になると、

「法治国家なんだから法律は守れ。法律を守れない事業者は廃業してしまえ」

といった主張につながります。

【医療費無償化の弊害】

さて他方で、患者側の事情を見てみますと、健康保険法や国民健康保険法に基づき原則として自己負担3割で受診することができるようになっています。
さらに、高齢者であれば、高齢者の医療の確保に関する法律に基づき原則として自己負担1割で受診することができます。
おまけに、生活保護法に基づき生活保護受給者であれば自己負担無しで受診することができますし、自治体の条例に基づき子どもも自己負担無しで受診することができます。

すると、

「子どもがちょっと風邪気味だから病院連れて行って薬貰ってこよう。無料だし」
「婆さんが血圧上がったとうるさいから病院に連れていこう。自分もちょっと腰痛だからついでに受診してこよう。自己負担1割だし」

みたいな安易な発想による病院通いが増えます。
(老人医療費が無料だった頃、病院が高齢者のたまり場と化していたのは有名な話です。)

法律に基づく国民皆保険と各種医療費助成制度によって、見かけの負担が減って医療への需要が膨れ上がり、その結果病院へ通う人数が膨れ上がりました。

法律による規制や助成制度に沿って、人々は自分に都合の良い方向に行動します。その結果、特定の商品やサービスに対する需要が異常に増えたり減ったりすることがあります。
これも法治国家の1側面と言えるでしょう。

【法治国家が医師の過重労働を生んでいる】

このように、法律によって医師の応召義務が定められており、同時に、法律によって医療費自己負担を低額または免除とすることで膨大な需要を喚起しました。

このため、医者は、その膨大な数の患者を拒むこともできず、自分が病気で倒れるまでひたすら義務として診療しなければなりません。

この法律や解釈通知には問題や矛盾点が多々あると思うのですが、これが廃止されるまでは従わざるを得ません。
日本が法治国家だからです。

こうした法律上の義務がなければ、

「あの患者は代金を払わないから、次回から診療拒否しよう」
「この患者は暴力をふるってくるので、次回からそもそも出禁にしよう」

といった対応をすることができます。
しかし、医療分野ではこれができません。
法治国家だからです。

このように、医療分野においては、

残業禁止にするために顧客を選ぶ
残業ゼロにするために理不尽な要求を断る

といった方法を採用することはできません。
法治国家だからです。

【悪法もまた法律、をわざわざ強調する必要はない】

上記リンク先の残業ゼロの話は、私が大変尊敬している経営者が書いているブログのものです。

残業ゼロにするために様々な努力をし、工夫をし、結果、従業員の労働環境を改善しています。
非常に素晴らしい内容です。

その素晴らしいのは、「法律を守っている」からではありません。
従業員の労働環境を改善するために、他の多くの企業では諦めていることに挑戦し、実現し、さらには収益まで改善させたからこそ、素晴らしいのです。

そして、改善された労働環境に優秀な労働者が集まり、この企業がさらに伸びていく。
これに対抗すべく、人材確保のために他社も労働環境の改善に着手せざるを得なくなる・・・
という好循環を期待しています。

さて。

そんな尊敬する経営者が携わるIT業界に、医療業界で適用されているような応召義務が法制化されたとしましょう。

同時に、

「IT分野の製品やサービスを、法律・政令・省令を通して網羅的かつ詳細に規定します」

という規制が敷かれたとしましょう。
きっとIT業界に携わる多くの方が

「政府は余計なことをするな!」

と言うことでしょう。

こうなった時に、残業ゼロを貫くことができるのでしょうか。
顧客を選ぶことはできません。理不尽な要求でも断れません。
それでもなお、

「法治国家なんだから法律は守れよ。法律を守れない企業は潰れた方がいい」

という声が多く上がるのでしょうか。
「法治国家なんだから法律を守れよ」
という主張は、悪法のせいで困っている人にとってはなんとも嫌なものです。
(記憶に新しいところでは、障害者強制不妊手術も悪法に基づくものでした)

繰り返しになりますが、法律を守っているから素晴らしいのではありません。
従業員の労働環境を改善しようと努力し、工夫し、これを実現し、さらに収益を上げ続けて雇用を維持し続けているから素晴らしいのです。

世の中には悪法がたくさんあり、また、一見良さそうだけど副作用の大きい法律もあります。
全国一律に馴染まない分野に法律で網をかけてしまっているものもあります。
作った側がそもそも漏れなく適用出来ると思っていない法律もあります。
そんな無数の法律がある中で、個人の側が
「法治国家なんだから法律を守れ」
と強調する必要はありません。