若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

直方市議会は要らない ~公契約条例がフリーパス~

2014年02月10日 | 地方議会・地方政治
自治労が諸手を挙げて大賛成!公契約条例が直方市で成立した。

直方市公契約条例制定 『自治労ふくおか』No.1285 2014.2.1
=====【引用ここから】=====
 直方市は、昨年12月議会で、西日本初となる公契約条例を全会一致で制定した。全国的に公共事業や委託事業に対する業者間の競争が激しくなり、それが労働者の賃金にしわ寄せされて「官製ワーキングプア」を生み出す構造がある。そのため、建設業では高齢化と若年層の激減という事態に直面しており、入札が不調に終わるケースも続出している。
    ~~~(中略)~~~
 公契約条例は労働者保護だけでなく、労働条件に底を設けて、それを下回る労働を禁止することで、事業者間の公正な競争の実現を目指すものである。人間らしい仕事(ディーセントワーク)を実現するために、労働者も事業者も住民も行政も全てにメリットがある関係づくりのための重要なツールと言える。
 直方市職労の谷口一富委員長は、「今年4月の条例施行に向けて、業者説明や行政内部の意思統一など山を越えなければならないが、直方市職労としても積極的に支援していく」と決意を述べた。今後の取り組みが注目される。

=====【引用ここまで】=====

 官製ワーキングプアと入札不調を結びつけるのは、どうなんだろう。官製ワーキングプアと呼ばれる問題は、財政難により減少した公共工事を何とか受注しようと企業が価格競争を繰り広げた結果、受注した企業の従業員の賃金が下がる、というもの。一方、ここ数年増加している入札不調の大きな要因は、震災復興に伴う工事の増加が引き金となって建築資材や人件費が高騰し、1年前、半年前の基準で自治体が設計した予定額では業者が赤字になることから、国や自治体が入札を実施するもどの企業も落札しない、というもの。
 官製ワーキングプアは何とか落札しようとすることで生じ、入札不調はどの企業も落札しようとしないことで生じる。そう、逆なのだ。

 さて本題。

 入札不調の大きな要因となったのは、復興事業に伴う公共工事の発注増という需要の増加に対し、供給、すなわち建築資材の確保や新たな労働者の育成が追いつかなかったことにある。長期的には、ものの価格は需要と供給で決まる。上がる時には上がるし、下がる時には下がる。こうした価格の自然な動きを規制や税制で歪めようとしても、そう上手くいくものではない。逆に意図しなかった別のところへシワ寄せがいくだけだろう。
 直方市が馬鹿みたいに食い付いた公契約条例(公共事業における最低賃金の上乗せ条例)は、こうした自然な価格の動きを妨げ、意図しなかったところへシワ寄せが生じる。賃金高騰で入札不調が続いている時に最低賃金の上乗せをして、何の意味があるのだろうか。

 直方市は筑豊地方に位置し、かつては石炭の産地として栄えたが、エネルギー革命からの石炭需要の縮小に合わせて活力を失った土地だ。そういうところで、どうにかして役所が地域経済の下支えをしたいと考えたのだろうが、賃金の形成過程にいつまでも介入し続けることはできない。また、介入したからといって活性化できるとは到底思えない。左から右にお金を移しただけなのだから。
 この公契約条例については、以前にブログで記事を書いている。

○公契約条例不要論 ~ 問題点だらけですよ ~ - 若年寄の遺言
○公共サービス基本法から公契約条例へ 公務員は喜び、工事業者は喜び、納税者は泣く - 若年寄の遺言

この中で、直方市議会に対して
==========
直方市では、パブリックコメントが終わっていることから、今後、議会へ条例案が提出されることと思われる。直方市議会でも、必要性と有効性が本当にあるかどうかをしっかり吟味してもらいたい。何ら議論がなされず、市長提出の条例案を丸呑みするだけであれば、地方議会なんて必要ない。
==========
と注文を付けさせてもらっていた。
ところが、結果は…最初の記事にあるように「全会一致で原案可決」である。問題点を指摘して否決、廃案、撤回とした議会もある中で、全員が賛成に回るという状況である。しかも、その審査内容たるや、

○のおがた市議会だより第232号 平成26年1月15日
=====【引用ここから】=====
我々委員会としては、適用範囲の拡大や、労働者への賃金支払いの確認など、本条例が実効性のあるものになるよう、また、今後も十分に検証していくよう要望しました。
=====【引用ここまで】=====

問題点を一つも挙げられていない。出されたのは「適用範囲を拡大しろ」「条例を実効性あるものにしろ」と、追認する意見だけである。執行部の議案に対し追認するだけの議会なら、審査時間の無駄、議員に払う報酬の無駄。直方市民は、市長の愚かな提案を丸呑みするだけの議員を飼うために、毎年1億2200万円も費やしている。
 「地方議会・地方議員は、住民の多様な意見を反映させることを使命としています」「地方自治は民主主義の学校です」なんて言われるが、実際のところは首長にぶら下がって金を分捕るために各地域から派遣された強請り集団でしかないのだろう。残念ながら、これが議員の圧倒的多数なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公務員の権限・裁量・ルール

2014年02月06日 | 政治
一家言 公務員の裁量と責任 『地方行政』2014年02月03日 第10454号
=====【引用ここから】=====
 一方、近年ストリート・レベル・ビューロクラシー論が盛んに論じられている。この議論は警察官、福祉関係職員などの現場の公務員は、法令、首長の指示に忠実に従うべきで、自らの裁量で判断してはいけないのが建前であるが、具体的な現場では、弾力的な裁量的判断が要求されるという主張である。
  ~~~(中略)~~~
 こうしたことは、現場の公務員に限らず、専門的知識が不可欠になっている現代行政一般にも言えることである。複雑化し情報が錯綜する行政の第一線では、担当者の裁量的判断が求められる。政治家が政策を決定し、公務員が忠実に実行するという建前は通用しないのである。
 選挙された政治家の政策決定・政策実施責任と、公務員の裁量権の関係を整理することは大変難しい。ただ今後の方向性としては、公務員は法令あるいは政治家の指示を忠実に実行するだけという「観念的な政治主導」の建前をやめ、公務員には一定の裁量権の行使とそれに伴う責任があることを制度論として明確にすべきではないだろうか。許された裁量とはどのようなものか、どう行使すべきかをそれぞれの職場で十分に議論し研修させることが必要であろう。
 行政の現実から遊離した抽象的な建前論は、結果的に「責任の真空地帯」を生じさせかねない。政治、行政責任が曖昧となっている今日、決定した人が責任を持つという当たり前のことを再度確認すべきであろう。(葦)

=====【引用ここまで】=====

 なんだろう、この既視感。

 裁量権の必要性については、具体的場面を例示して
「担当者の裁量的判断が求められる」
と強く主張する一方で、責任については、何ら具体的な責任のあり方が提示されていない。結びに「決定した人が責任を持つという当たり前のことを再度確認すべき」とは言っているが、じゃあその責任の中身はどういったものなのかと記事を読み返してみても何も書いてないのだ。「(裁量権を)どう行使すべきかをそれぞれの職場で十分に議論し研修させることが必要」なのではない。裁量権行使に伴いどのような責任が発生するかを明示することが必要なのである。
 この論理展開は、自治労や日教組の主張によく見かけたパターンである。
 「公共サービスや公教育の質の維持、向上を図るため、現場における権限の強化と賃金向上が必要である」と主張する一方、裁量権行使の結果に伴うべき責任のあり方は論じない。人事考課や勤務評定に反対し、制度の問題点は指摘するが、具体的な対案は出さない。こうした構造と、上記の記事はよく似ているように思える。
 また、公務員が積極的に裁量を行使して住民生活の向上を図れという主張は、過去に私が批判してきた「スーパー公務員」論でも見受けられたものである。

○続・反「スーパー公務員」論 ~ 役に立ちたいなら起業せよ ~ - 若年寄の遺言
○反「スーパー公務員」論 - 若年寄の遺言

 「杓子定規ではいけない」「現場の職員が裁量権を駆使して積極的に問題解決を図れ」
こうした主張に沿って成果を上げた「スーパー公務員」が賞賛される一方で、住民を振り回し、箱物の維持費を積み上げただけの「向こう見ずな公務員」は、何もお咎めを受けずに異動していくのがほとんど。「スーパー公務員」と「向こう見ずな公務員」は紙一重である。こうした「裁量権を積極的に行使しろ」という主張が先行し、責任論が並走しないから、「責任の真空地帯」を生み出しているのだ。
 ちなみに、古代中国の鯀(こん)という人物は、主人から治水工事を命ぜられて9年間かけて事業を行ったが失敗した。その結果、追放され、処刑されてしまった。権限行使には責任が伴う。大きな権限を持つ者には大きな責任が伴う。当たり前の姿である。権限行使の結果の功罪を計ることが必要である。これが会計である。功罪を計るための具体的提言が無いまま、現場の公務員に裁量権行使を求めるのは極めて無責任な主張である。

 また、裁量権の行使を称揚することで、憲法上の「法の下の平等」のうち、最も基本的で重要な「法適用の平等」が歪められてしまう。裁量権と言えば聞こえが良いが、本質は「場当たり的判断」ということだ。きめ細かな行政を希望するということは、その場その場の判断、現場担当者の気分一つで受給権の有無や受給金額が左右される状況を甘受しなければならないのだが、果たしてそれで良いのだろうか。

 行政が全ての住民の幸福を保障することはできない。できないことを無理にしようとするから、どこかにしわ寄せがいく。行政に実現不可能な「住民全ての幸福」を求め、これを実現するための権限を行政に持たせたことで、裁量権を有する職員に振り回され、あるいはそこに癒着・汚職が生じるのである。
 行政は杓子定規である。行政は法律や条例で決められたことを決められた通りにしか執行しない。住民は、これを当たり前のことと理解し、行政の杓子定規ではどうにもならないことは自分達でどうにかする。この姿勢に立てば、現場の職員にアンバランスな裁量権を求める必要はない。あれも行政、これも行政で処理して欲しいという住民の思いが、結果として住民の負担になるのである。あれも行政、これも行政で処理して欲しいという住民の思いに応えることは出来ないのに、応えようと無理をするから、行政は肥大化し行き詰るのである。
 ルールを事前に作り、これに沿って処理をする。処理方法を変えるのであれば、その場その場でルールを曲げるのではなく、所定の手続きに則ってルールを変更する。ルールを変えて良いのは、責任を持った者だけである。


『ヒューマン・アクション』L.v.ミーゼス著 村田稔雄訳 342頁
======【引用ここから】======
もし公務員たちの最高の長(それが主権者である国民であろうと、至上権をもつ独裁者であろうと問題でない)が、公務員たちに自由裁量を許すとすれば、彼らのために自己の至上権を放棄することになるであろう。これらの公務員は、無責任な役人となり、その権力は国民ないし独裁者の権力を上回り、彼らの長が要望していることではなく、自己の好きなことをするであろう。このような結果を防ぎ、公務員たちを長の意思に従わせるためには、あらゆる点について業務処理を定めた詳細な指示を与えておく必要がある。それによって、公務員は、これらの規則を厳守して、すべての業務を扱うことが義務となる。具体的問題のもっとも適切な解決と思われる方法へ、行為を適応させる自由は、これらの規則によって制限される。彼らは官僚、すなわち、あらゆる場面に所定の非弾力的な規則を守らなければならない人々である。
======【引用ここまで】======
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする