若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

結局、財源論と自己責任が全て

2009年02月15日 | 政治
公務員のためいき: 『反貧困』と自己責任論

このエントリーの末尾に、湯浅誠「派遣村」村長の著書の文章が引用されている。

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』
誰かに自己責任を押し付け、それで何か答えが出たような気分になるのは、もうやめよう。お金がない、財源がないなどという言い訳を真に受けるのは、もうやめよう。そんなことよりも、人間が人間らしく再生産される社会を目指すほうが、はるかに重要である。社会がそこにきちんとプライオリティ(優先順位)を設定すれば、自己責任だの財源論だのといったことは、すぐに誰も言い出せなくなる。

もう、どうしようもない。本当にどうしようもない。

ゆすり・たかりを旨とする人なら、こういった発言は仕方ない。
「貧困ビジネスの成功者」と揶揄される湯浅氏らしい放言だ。

しかし、「公務員のためいき」の主・OTSU氏は、ブログタイトルのとおり、公務員。
公金を預かる公務員が、こういった無責任な立場にある人間の発言を褒めたたえる。
こういうのは、私の感覚に合わない。

公務員にとって、財源論が全て。
無い袖は振れない。
予算化されていない金は出してはならない。
たとえ、目の前に餓死しそうな人がいても、
「予算がないから食費は出せない」
と言わなければならない。

憲法14条は「法の下の平等」を保障している。
その意味内容は論者によって分かれるが、必ず含まれるのが「法適用の平等」だ。
同じような状況の人がやってきて、片方には
「あなたは可哀相だから、予算が無いけど食費を出します」
と言い、もう片方には
「予算が無いんだから、あなたには食費を出しません」
・・・そういうことは許されない。

これが、法律を適用し執行する行政に求められる「法適用の平等」だ。
目の前の餓死しそうな1人に対して、予算にない食費を出すのであれば、
同じような状況の人が100人来ても出さなければならなくなる。

可哀相だと思うことがあっても、最後は杓子定規に突っぱねる。
そんなことも、時には必要なのだ。
支出するのであれば、予算化されなければならない。
予算を超えた支出はしてはならないし、することはできない。

公金は財源論が全て。
そして、財源は無制限ではない。
誰かが必ず負担している。

フレデリック バスティア著『法』きゅうり氏訳
人は「お金を全くもっていない人がいる。」と言い、法に救いを求める。
しかし、法はミルクを湛えた乳房ではない。それどころか、法におけるミルクを作り出す乳腺は、社会の外にその源があるのだ。
ある市民や階級にとって有益な公共財源には、別のある市民や階級がお金を入れるように強制されないかぎり、そこにお金が入ることはありえない。


公共財源にお金を入れているのは、
消費者のニーズを満たした労働者や企業家などだ。
「自分は人付き合いが苦手だが、家族を養うためにサービス業で頑張っている」
という人から所得税をとり、
「求人はあるが、自分がやりたい仕事を見つけられない」
という人へ公金が支出されるのでは、どう考えても不公平だ。

公共財源にお金を入れていない人が、公共財源から救いを求めるのは、
ゆすり・たかりと同じ。
湯浅氏のような左派が、財源論や自己責任論を嫌うのは、
これらの論がゆすり・たかりに対する制約となるからだ。

「派遣切りは理不尽だ。可哀相じゃないか。見過ごしてはならない」
と思う人がいるのは、当然だと思う。
しかし、この解決を第三者の払った金に頼っては、
ただのゆすり・たかりだ。

湯浅氏なり、OTSU氏なり、あるいは小倉弁護士なり、
そうした問題意識を持つ人達が起業し、
労働関係諸法を遵守し、内部留保0で、
安定した雇用を生み出せば良いのだ。
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木村剛 vs 小倉秀夫 ~ 経済学と法学 ~

2009年02月04日 | 政治
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大学で法学をかじり、独学で経済学をかじる者としては、
この著名な二人のやりとりは面白かった。


以下、やりとりを眺めていて思いついたことの書き殴り。


法学では、見えている問題に対し、法律の運用や解釈・立法を通じて、
その解消を図ろうとする。
政府は目の前にいる弱者に救いの手を差し伸べる守護者となるべきであり、
法律はそのために企業を掣肘する刃であり鎖であるべきだ、と考える。

小倉氏が、
企業が派遣労働者を簡単に切り捨て政府もこれを見捨てる政策に変更を迫るためには水元公園では不十分であって、マスメディアの目に触れやすい地を選ぶ必要があった
と述べたのは、見えている問題しか対処できない法学の一側面を表している。

見えている問題を解決するには、コストがかかる。
コストは、パッと見では分からないことが多い。
政府が税金で問題を解決するとなれば、
発生するコストを、誰が、いくら負担するのか?等がうやむやになり、
ますます見えにくくなる。
見えにくいこのコストを見えるようにする必要があるが、
法学はそのための手法を持ち合わせていない。

誰がいくら負担し、誰がいくら利益を得るのかが曖昧な領域では、
そこに官僚の利権・天下り・渡りやらの入り込む余地が生まれる。
政府の経済的規制、再配分といった手法を認めることは、
官僚に付け入る隙を与えるのと同義だ。
これに対し、法学は
「精神的自由が保障されていれば、政府の問題は民主的過程において解決できる」
と極めて楽観的に回答するだろう。

こうした精神的自由の偏重が、法学において「二重の基準」を生み出した。
精神的自由と経済的自由という自由の両輪のうち、精神的自由を偏重し、
経済的自由に対する規制については政府に大きな裁量を認めている。
「明白性の原則」なんて、政府に白紙委任状を与えたようなもの。
片手落ちもいいところだ。

経済的自由は精神的自由と同等に重要だ。
当事者間で契約内容を決める自由があればこそ、
初回30分5000円。30分で終わらない場合は、30分ごとに1万円を加算。
という相談料をとることができるのだ。
「単位時間当たりの収入格差の是正」という趣旨の下、
「相談料は1時間1500円を超えてはならない」なんて規制をかけられたら、
おそらく小倉氏は反対するだろう。

こうした経済的自由への規制は、契約相手の能力をどう評価するかという
精神的活動に対する制約となるのだ。
精神的自由と経済的自由とは、ともに人間の本質的な部分に深く根ざしている。
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