若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

クレーマー・クレーマー ~ 行政が全てを受け入れるわけじゃないんですよ ~

2019年05月31日 | 地方議会・地方政治
面白いニュースがありました。

「窓口対応お断り」50代男性に通告 佐賀・嬉野 - 毎日新聞
======【引用ここから】======
 窓口対応はお断り――。佐賀県嬉野市が市内に住む50代男性に対し、村上大祐市長名で一部を除く市役所での窓口対応を拒否する通知を出していたことが、弁護士などへの取材で判明した。識者は「行政が窓口対応を断る通知を出すのは異例で、通知に法的根拠は全くない。大人げない対応だ」と話している。

3月13日付の通知書で、市は男性に対して「貴殿の市に対する質問、意見などは、回数、所要時間、内容において、市の業務に著しい支障を与えてきた」と指摘。そのうえで▽市への質問は文書に限り、回答は文書で行う▽住民票や戸籍、保険、年金の窓口交付以外の対応は文書の受け取りだけに限る▽電話には一切応対しない――の3点を通知した。

======【引用ここまで】======


50代男性と嬉野市役所職員が電話で揉めて、役所窓口でも揉めて、カッとなった職員がとっさに
「もう来るな!!!」
と言ったのではありません。
「貴殿の市に対する質問、意見などは、回数、所要時間、内容において、市の業務に著しい支障を与えてきた」
と役所側から通知を出して「やりとりは文書で。窓口対応はしません」と伝えたのです。
口頭ではなくわざわざ文書通知という異例の対応だからこそ、こうして記事になったわけです。
ヘビーなクレーマーや何を言っても通じない人に対し、事実上の出禁対応をしている例は聞いたことがあるのですが、文書で通知したのは初耳です。

この通知文からは、嬉野市役所がこの50代男性一人に対し、窓口や電話での対応に相当な時間と人手を割いてきたんだろうと推測できます。
口頭でのやり取りでは埒が明かないと判断し、
「市への質問は文書に限り、回答は文書で行う」
という対応策を示したのでしょう。

【役所が間違えてるパターン】

さて。

住民と役所の職員が揉めた原因が、役所側のミスだったパターンは少なくありません。

法改正に沿った運用ができておらず旧法のままだった、とか、単純に集計を間違えてる、とか、システムエラーで印字されてる金額を間違えてる、とか。
そういう時は、さっと「お前じゃ話にならん、上を出せ」と言いましょう。

この場合なら、法改正未対応の経緯や金額の積算についての説明がありミスが分かるまでで30分、ミスを認めさせて訂正・謝罪させるのに30分、計1時間あれば話がつくんじゃないでしょうか。
もちろん、窓口対応お断りなんて通知は来ません。

【長時間かかるパターン】

次に、私がパッと思いついた「住民と職員が揉めて長時間かかるパターン」をいくつか挙げてみましょう。

1.都道府県庁や国の出先機関、あるいは国会議員に会って言うべき内容を、市町村役場の窓口で要求する。
2.自身の希望を通すため、住民が職員に対し違法な処理をするよう要求する。
3.引っ越してきた住民が、元自治体と現自治体との対応の違いを責め続ける。
4.住民の要求→職員の説明→「でも…」→「ですから…」→・・・の無限ループ。
5.弁護士に相談し裁判すべき民民の争いを「市役所が俺の側に立って解決しろ」とゴネる。
6.自分は何かしら公金からの補助を受けられると思い込んでいて、そういう補助メニューも何もない事を伝えると激昂する。
7.「みのもんたがそう言っていたからできるはずだ!」と言って職員の話を聞かない(『朝ズバッ!』全盛期)
8.天の声に導かれている。


・・・住民が役所に行った時に対峙する窓口職員は、基本的に、権限や裁量をほとんど持っていません(正規の職員ではなくパート職員や委託業者の可能性もあります)。そのため、住民が道理として正しいことを主張していても、現行の法律・政省令・条例・規則や、予算の制約を越えることはできません。

なので、
「○○ができないなんて、おかしいじゃないか!」
と何度言っても、最終的には
「法律でそうなっているので、それはできません」
「そういう事業は予算化されていません」
と言われます。役所が杓子定規と揶揄される所以でありますが、仕方のないこと。
役所の職員が内心「国の法律に問題があるよな~」と思っていたとしても、役所の職員ではどうしようもありません。

この場合、いくら粘っても要望は通りません。
1時間粘れば1時間の無駄、3日粘れば3日の無駄になります。
役所で長時間苦情を述べる時間と体力があるのなら、その時間と体力をもって地元選出国会議員の事務所に駆け込んで「法律がおかしい」と文句を言った方が、何らかの成果を得られる可能性は高くなるんじゃないでしょうか。

【何時間聞いたら努力と認められるのか】

さてさて。
冒頭の新聞記事には、識者コメントが掲載されています。

======【引用ここから】======
行政法に詳しい本田博利・元愛媛大法文学部教授は「行政機関として、窓口対応を断るのではなく、きちんと話を聞いて納得してもらう努力をすべきだ」と指摘している。【池田美欧、竹林静】
======【引用ここまで】======


取材を受け識者コメントを求められた元教授は、記者から今回の件の内容や背景を詳しく聞いたのでしょうか。
私が知りたいのはこんな当たり前すぎる一般論ではなく、今回のようなイレギュラーな事態を踏まえた
「どのくらい対応したら窓口対応を断って良いのか」
の基準・目安なんですよ。

仮に、嬉野市役所の通知文にある

「貴殿の市に対する質問、意見などは、回数、所要時間、内容において、市の業務に著しい支障を与えてきた」

が事実だったとしましょう。
50代男性と役所側は、既に何時間も幾日にもまたがって、窓口や電話で対応してきたはずです。このせいでカウンターが埋まり、他の住民を長時間待たせる事態も多発したことでしょう。
この元教授は、何時間話を聞いたら「納得してもらう努力をした、窓口対応を断っても仕方ない」と認めてくれるのでしょうか。気になるところです。
(それとも、元教授が基準・目安となる考え方を述べていたのに、記者が取材内容を記事にする過程で省略してしまったのでしょうか。)

※追記 参考になる文献
○対策の核心は「交渉を長期化させないこと」 法的対応も躊躇しない姿勢が重要 表参道法律事務所・弁護士 横山 雅文
=====【引用ここから】=====
 不当要求行為者となった人物に対しては通常の住民対応ではなく法的対応をとらなければならない。
 ここにいう法的対応とは、「不当要求行為者の言動を業務妨害行為と客観的に評価し、それを回避するための必要な措置を躊躇なく取ること」である。
 業務妨害行為を回避する措置といっても何も難しいことではない。職員が適切な初期対応をし、説明を尽くしているのに納得できないとして、毎日のように長電話を掛けてくる、あるいは、来庁して窓口に長時間居座って帰ろうとしないというような場合は、電話を切る、あるいは退去させるということである。端的に言えば、「彼らとの交渉を打ち切る」ということである。

=====【引用ここまで】=====
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敢えて言おう、死ぬなら人を巻き込むな 〜 ほっとプラス藤田の安易な「社会」化 〜

2019年05月29日 | 政治

【殺人事件を利用して自説展開】

川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(藤田孝典) - 個人 - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
それを受けてネット上では早速、犯人らしき人物への非難が殺到しており、なかには「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」などの強い表現も多く見受けられる。
まず緊急で記事を配信している理由は、これらの言説をネット上で流布しないでいただきたいからだ。
次の凶行を生まないためでもある。

秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。
要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。

======【引用ここまで】======

事情はどうあれ、他者に対するセリフを
「死ぬべき」
「死ね」
で結ぶと、どぎつい印象を与えます。
「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」
「死ぬなら迷惑かけずに死ね」
等の表現から受ける印象は、確かに良くありません。

しかし、その前段にある
「人を巻き込まずに」
「迷惑かけずに」
の部分はどうでしょうか。
「凶行に自分は巻き込まれたくない、他人を巻き込んでほしくない、被害者が巻き込まれてしまった事が非常に残念だ」
という恐怖・願い・思いは、ほぼ全ての人に共通しているはずです。
殺人の被疑者に対する非難感情が上がるのも当然です。

こうした「他人を巻き込むな」という当然な意見に対し、ほっとプラス藤田は、次の凶行を招くものとして批判しています。
しかし、これを正しくありません。
正しいと判断するには、疑問を2つ解消する必要があります。

疑問の1つ目が、例として挙げている秋葉原無差別殺傷事件などの過去の殺傷事件の原因が、本当に「社会に対する怨恨」なのか?(秋葉原無差別殺傷事件の原因として、誰も手を差し伸べず、社会的に孤立していたことについて否定的な見解もあります。)

そして2つ目が、仮に過去の殺傷事件の原因が「社会に対する怨恨」だとしても、今回の事件が過去の殺傷事件と同一・類似の原因や背景を持つものなのか?

何も分かっていない時点で、今回の事件の原因や背景について
「社会が何もしてくれなかったから今回の犯行に及んだのだ」
と推測し、過去の無差別殺傷事件と類似の事件であると誘導し、憶測を元に
「『死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき』と言うべきでない」
とニュースとして流す。
そして「社会はあなたを大事にしている、というメッセージが予防につながる」と無根拠で自説を述べる神経が、私には理解できません。

【早すぎる安易な意見】

======【引用ここから】======
藤田孝典 | NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授  5/28(火) 13:10

報道の通り、5月28日(火)朝方、川崎市で多くの子どもが刺殺、刺傷される事件が発生した。
現時点では被害状況の一部しか判明していないため、事実関係は明らかではないが、犯人らしき人物が亡くなったことも報道されている。

======【引用ここまで】======

お分かりいただけるでしょうか。

5月28日の朝に事件が発生し、ここから数時間しか経過していない13時、事実関係も背景も何も分かっていない時点で、ほっとプラス藤田は憶測でニュース記事を配信しているのです。

彼は、様々な事件や出来事に対し、短絡的に
「低所得が原因」
「企業が悪い」
「社会が悪い」
という持論に結びつける傾向にあります。
最近では、小学生の学力と世帯収入の表を見て相関関係と因果関係を誤認し
学歴とか成績は努力や頑張りではなく、親が金を出して買える商品になった日本。
と述べるなど、その安易さ、安直さに拍車がかかっています。

仮にも「聖学院大学人間福祉学部客員准教授」の肩書きを表に出している学者であるならば、
「何が起きたのか」
「何が目的だったのか」
「人間関係はどうだったのか」
「どういう心理状態だったのか」
を把握、分析した上でコメントを述べるのが筋でしょう。

しかし、被害状況の一部しか判明しておらず、事実関係も明らかになっていない(と自身でも認めている)段階であるにもかかわらず、憶測から主張を展開していつもの「社会に問題がある」との持論に着地させているのです。

彼は事実を調査し分析した上で結論を出す学者としての能力・姿勢を持ち合わせておらず、日ごろの持論を述べるために今回の事件を利用しているにすぎません。そういう意味で、彼は学者ではなく活動家・煽動者です。そういう論理性皆無の人物に、客員准教授の肩書きを与えている大学の見識を疑います。

【「社会」とは何か】

ところで、皆さんは、社会と聞いてどんなイメージや考えを持ってますか。
私は、社会とは、人と人の繋がり、人と人の関連性、人と人が交わる場、そういったイメージを持っていました。
ところが、ほっとプラス藤田は違います。

======【引用ここから】======
要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。

・・・(中略)・・・
そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
======【引用ここまで】======

社会は辛い自分に何もしてくれない
社会は手を差し伸べる
社会はあなたを大事にしている
社会はあなたの命を軽視していない

・・・まるで、「社会」が何らかの実体を持っており、「社会」が意思を持ち、「社会」が具体的に行為をする主体であるかのような言い回しがズラリと並んでいます。

しかし、物を考え、行為をするのは個々の人です。

今回の事件を起こしたのも個人。
残念ながら被害をうけたのも個人。
犯行まで被疑者に日々接していたのも個人。
あなたを大事に思うのも個人、あなたの命を軽視するのも個人。
あなたの辛い時に手を差し伸べたのも個人、差し伸べなかったのも個人。

今回の事件においても、被疑者、被害者、それぞれの家族や親族、近隣住民、そういった各個人の性質や経歴、個々人の関連性の有無を見ていった中で、犯行の原因や背景が見えてきます。仮に企業、団体が事件に影響していたとしても、その組織としての意思決定をするのも最終的には個人ですし、組織としての行為を実際に行うのも個人です。

個人の経歴、性質や個々人の関連性を検討し事件の背景を分析した中で、最終的に
「本件は社会の中における被疑者の居場所が~」
との結論に至ることはあり得るでしょう。
しかし、結論に至る前の検討・分析の過程で「社会」を持ち出すと、とたんに焦点がぼやけてしまい、事の真相にたどり着くのを妨げてしまいます。
分析段階において
「社会が手を差し伸べてくれなかったから犯行が起きた」
といった意見が出されると、対象が広く曖昧であるために雲を掴むような話になり、何も判明していないのに無理矢理納得させられた気分がしませんか。
「いやいやいや、具体的にどういうことよ。何か誤魔化そうとしてないか?」
と疑ってしまうのは私だけでしょうか。

ほっとプラス藤田は
次の凶行を生まないため
と言っていますが、事件の原因を安易に「社会への怨恨」と推測すると真相解明の妨げとなります。ほっとプラス藤田の主張は現実を踏まえたものではなく、これを再発防止につなげることは難しいでしょう。

※追記
久々に見たあの人

相変わらずで何より。
ほっとプラス藤田と同じ穴の狢。
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ホントに必要?今のフルセットな公教育

2019年05月25日 | 政治
twitterのTL上を賑わしていた公教育の必要性について、私なりに思ったところをつらつらと。

※ 公教育と一口に言ってもいろいろあるので、ここでは「公立の小学校・中学校を中心とした義務教育システム」を指して「公教育」と呼ぶことにします。

【画一的な「公教育」に切り捨てられる頭と尻尾】

「公教育」というのは無責任でいい加減なものです。県庁や役場が膨大な時間と予算と人員を突っ込んでいるのに、読み書きや簡単な計算すら漏れなく習得させることができていません。アルファベットすら書けず掛け算の九九を覚えていない中学3年生であっても卒業させてしまいます。

こうした生徒にとって、中学3年間、いや、小学6年間も合わせた9年間の授業時間はさぞや苦痛だったことでしょう。小学校の授業の7割以上、中学校の授業のほぼ全てにおいて、教員が何を言っているか分からないまま耐え忍ぶしか無かったのですから。

こうした生徒は中卒で就職先を探すか、地域で一番入学の簡単な高校に進学することが多い。すると、入った高校では、アルファベットの大文字と小文字を書き分けられ、筆算の掛け算ができる程度で
「お前、すげぇじゃん」
と秀才扱いされるという始末です。

他方で。

「公教育」で提供される教育内容のレベルが低く、学校の授業が終わった後でわざわざ塾や家庭教師で自分に合った内容を教えてもらう生徒がいます。こうした生徒からすれば、学校での授業の進みは遅く、内容も浅い。中には、中学2年の時点で中学3年までの内容を理解し終えて、高校の数学や物理・化学に取り組んでいる生徒もいる位です。

こうした生徒にとって、小中9年間の授業時間は退屈だったことでしょう。もっと知りたい・深く知りたいと思っている分野が他にあるのに、既に知っていることを浅く紹介する授業への出席を強いて時間を拘束するのは、まるで罰ゲームのよう。

このように、勉強のできる子とできない子を同じ教室に押し込めて、同じ内容の授業を提供しているのが「公教育」です。これほど非効率なことはありません。子供の多様性を無視し、飲み込みの遅い子供と出来る子供に同じ進度で授業を提供することで、頭と尻尾の生徒に苦役を強いています。

【「公教育」の主目的は管理】

この惨状は、「公教育」が学習機会の提供、子供の学力を向上させることが目的ではなく、管理することが目的だからまかり通る話です。

子供の学力向上が目的であれば、一定水準の学力を有しない生徒をそのまま卒業させることは許されないはずです。しかし、一定地域に住む子供を15歳までまとめて管理することが目的であるため、生徒が卒業時にどの程度までの学力を持っているかは重要ではなく、とりあえず9年間通うことで目的達成と判断され、晴れて卒業となります。

入学式、運動会、合唱コンクール、卒業式・・・これらは学力向上に寄与しませんし、ここに費やされる時間と人員の分だけ学習を受ける機会が減らされてしまいます。
式典や行事、その練習を繰り返し繰り返し実施することで、クラスのまとまり感、団結心が養成されます。これによって「公教育」の主目的たる15歳までの管理はしやすくなりますが、それだけのことです。

炎天下で運動会開会式の整列・散開練習をさせ、
「そこの二人、曲がってる!全員やり直し!」
と繰り返し走らせるのは、一体感養成と管理精度の向上を図る上では有効なのでしょう。そして、運動会当日に号令に従って整然と並ぶ生徒の列を見て、保護者は
「うわー凄い!」
と思うかもしれませんが、その凄さは全体主義的・北朝鮮的な凄さです。

こうした式典・行事及びその練習時間を廃止し、低所得で教育する意欲の低い家庭の子供に補修授業を提供し、そうでない並み以上の家庭の子供は早く帰宅させて時間的余裕を与えた方が良いと思うのですが、そうしないのは「公教育」の目的が管理だからです。

そして、こうした北朝鮮的な行事の無い所に通わせようとしても、歩きや自転車で通学できる距離にある小学校・中学校が1校しか無いということになると、事実上そこに通わせざるを得なくなります。田舎になればなるほど、選択の余地が無くなります。税金を支払うよう強制されて家計を圧迫され、北朝鮮的な行事を実施する義務教育に通うことを強いられるわけですよ。親や子供が教育内容を選択する自由は著しく制限されています。

【擁護するなら、せめて目的と手段を整理して】

「『親が子供を学校に行かせない、教育を受けさせない』とか『虐待している』とか、親に任せていてはどうにもならないケースもある。これはどうするのか。やはり『公教育』は必要なんだ。」

という意見もあります。

しかし、これは教育の機会を与えられていない子供をどうすべきかという議論であって、できる子供とそうでない子供とを一括りにして地域の子供ほぼ全員を同じ空間に押し込めて管理している現行の「公教育」を擁護する理由にはなりません。

不熱心な親の支配下にある子供に最低限の教育機会を提供するため、外部から家庭に介入することが必要な場合もあるでしょう。不熱心な親が自己の支配下にある子供に教育機会を提供しない場合の措置は考えても良いでしょう。だからといって、現行「公教育」の規模、枠組み、運営主体の在り方が肯定されるわけではありません。

子供に最低限の教育機会を提供することが目的なら、小中学校のように各科目の教員や設備をフルセットで揃えた大規模な施設は不要です。児童クラブ・学童保育のように、簡素な設備、そこまで専門性の高くないスタッフでも事足ります。全科目に対応可能である必要もなく、授業科目ごと、内容ごと、習熟度ごとに生徒が通う所を選ぶことができればよいでしょう。何なら、講義自体は大手学習塾で録画配信しているものを利用し、出来ないところだけを補習で対応する形でも良いはずです。運営主体が行政でなくとも可能です。

「公教育」という枠組みを外しても、教育は提供されます。現に「公教育」の枠外でも教育は提供されています。

現行の「公教育」の枠組みでは教育内容の選択の余地が少なく、出来る子供にとって退屈であり、飲み込みの遅い子供にとって苦痛になるだけでなく、怪我や病気で長期入院して遅れた子供のリカバリーが困難です。また、「公教育」の枠組みでは
「住んでいる地域の子供達=小学校・中学校・部活」
と人間関係が固定的であるため、一度いじめが発生すると逃げ場・居場所がなくなるという弊害も生じます。

私は、現行のフルセット「公教育」の枠組みを解体・分割し、運営主体も自治体でなく学習塾や進学予備校、家庭教師、通信教育、フリースクール、地元住民主催の寺子屋などなど多様な選択肢の中からその子供に合った中から選択できる形が良いと考えています。部活動も、学校単位の強制加入とする必要は皆無で、地域のクラブという位置づけの中から各自好きな所に所属すれば良いんじゃないないでしょうか。

「公教育」が必要だと擁護するのであれば、擁護側から「公教育」の目的を明示し「この目的のためにはこの範囲まで必要」という説明をしてほしい、そう思います。現行のフルセット「公教育」は、飲み込みの遅い子供にとっても出来る子供にとっても非効率な形態であり、いじめが起きる温床となっています。さらには、授業・生活指導・部活動・進路指導、政府の指示に基づく書類仕事の全てをしなければならない教員の過重労働の原因となっています。様々な弊害を無視して「公教育は必要なんだ」と言われても、全然説得力がありません。

いきなりゼロにしろ、とは言いません。出来るとも思っていません。
でも、フルセットで大きすぎる「公教育」を小さくしていった方が、関係するいろんな人にとって良いと思うんですよ。
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ジョブ型雇用への転換を求めながらメンバーシップ型雇用的な賃金アップを求める謎

2019年05月19日 | 労働組合
ほっとプラス藤田は現状分析も処方箋も出鱈目ですが、その相方の今野晴貴氏の場合は現状分析は合っていても処方箋を間違えてしまう傾向にあります。

終身雇用をやめれば、雇用改革は進むのか? トヨタ社長、経団連会長の相次ぐ発言から(今野晴貴) - 個人 - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
 以上のように、トヨタをはじめとする大企業の利益は、非正規雇用と下請け社員の低賃金・過重労働によって成り立っているといっても過言ではない。
 同様に、「終身雇用」の慣行もまた、企業規模間格差構造や非正規労働者への差別の上に成り立ってきたし、そもそもその恩恵を受けてきたのは労働者のうちのごく一部であった。

======【引用ここまで】======

======【引用ここから】======
 企業にとって、終身雇用の第二のメリットは、終身雇用を保障することで可能となった「無限の指揮命令権」だ。長期雇用する代わりに使用者が広範な命令権限を持つというのが、日本型雇用システムの大きな特徴である。
======【引用ここまで】======

======【引用ここから】======
 (なぜブラック企業が存続可能かについて)第一に、日本型雇用への「期待」である。「正社員であれば安心」、「きつくても、頑張っていればいつか報われる」という幻想があることによって、なんとか正社員の座を失わないよう過酷な労働を受容するのだ。
======【引用ここまで】======

この辺りの記述は、概ね正しいでしょう。しかし、そこからの議論展開や解決策がどうもおかしいのです。

【規制では解決しない労働問題】

======【引用ここから】======
欧米では、職務を通じた企業横断的な共通規則が形成されている。職務や労働時間、勤務場所を限定される雇用を「ジョブ型雇用」というが、全世界を見渡しても、労働市場の競争を規制し、共通の規則を作るときには、職務を通じてルールを作る方法しかない。
「ジョブ型雇用」への移行によって、どの仕事をどのくらいの時間働けば、いくらの賃金になるかという明確な仕組みを構築していくことが重要なのだ。

======【引用ここまで】======

労働市場の競争を規制し、職務を通じた共通の規則を作り、どの仕事をどのくらいの時間働けばいくらの賃金になるかという明確な仕組みを構築すべし、という今野氏。

これは間違っています。

規制で適正な賃金水準は作れません。規制当局には、幾らが適正な賃金で、どのような労働条件なら適正なのかを知る術はありません。暴力によって強制されない状態において、当事者間で雇用契約が成立することで初めて、その時点でのその当事者における適正な賃金・労働条件が判明します。個人個人の無数の背景があるので、これを集計し事前に適正な水準を割り出すことは不可能です。
仮に、政府当局の担当者が既存の賃金水準や労働条件を観察して「このラインが適切だ」と判断出来たとしても、それを立案し、学識経験者に諮問し、関係部署の決裁を受け、国会で立法化された時にはもう状況が変わっていることでしょう。

======【引用ここから】======
 仮に、日本の労務管理が真にジョブ型へ移行していけば、裁判所もその「実態」を考慮して、解雇の基準を見直していくことだろう。その場合、進むのは「規制緩和」ではなく、「規制の組み替え」である。
 一部の特権的正社員が終身雇用、年功賃金を受け取り、その分非正規雇用を「調節弁」として使う仕組みから、平等な仕事に基づく規制が作られ、それに合わせた新しい解雇規制の手続きを作り出す。その起点が、「仕事の基準を作る」ところにある。
 要するに、「ジョブ型への移行」を実現するためには、解雇規制の緩和ではなくて、仕事の基準を作り出すための議論が必要なのであって、問題をすり替えてはならないということである。

======【引用ここまで】======

今野氏は、解雇規制の緩和でなく規制の組み換え、仕事の基準を作り出すことを求めていますが、さて、誰がどうやって基準を作り出すのでしょうか。こうした話題になると、よく「議論が必要」となるわけですが、これだけでは、具体的にどこで誰が議論してどういうプロセスで決めるのかの具体性を欠いています。

最終的に「規制の組み替え」という形にするのであれば、「誰が作るのか」と言えば政府当局の担当者が作るということになるでしょう。
政府当局の担当者は、
「労働法学者、弁護士、労働組合、企業経営者、消費者団体等から何人ずつか代表的な人物を集めて審議会を作り、Aという分野の職種に関する基準作成について意見を求めま議論しました」
程度のことなら出来ます。しかし、こうしたプロセスでは全ての分野の全ての職種で適正な賃金水準・勤務条件を定めることはできません。各団体の代表者がそこに属する人の意見を全て汲み上げているわけではなく情報量が全く足りませんし、意見を反映できるかどうかはその意見の正しさではなく政治力や暴力によって左右されるため、適正なものとはなりません。

こうした政府が基準を定めるやり方では、全ての分野どころか、1分野ですら適正な基準も報酬体系も定めることができません。
介護保険分野では現にできていません。賃金は安く、勤務は重労働、しかも肉体労働だけでなく膨大な書類作成も求められ、必要な資格要件もコロコロ変わる中、担い手不足で廃業する事業所が後を絶たない状況です。
介護労働者の賃金はそれ単独で定まるものではありません。介護労働者賃金、介護報酬、加算、利用者負担、保険料、税金投入割合、運営基準、人員基準、など様々な要素が複雑に絡み合っており、これらのうちどこか一つを法律や規則で固定させると他のところに波及します。関係者の誰かを有利にするため、規制でどこか一つを不当に安く(高く)固定すれば、別のどこかにしわ寄せが行きます。今は介護労働者の低賃金という形でしわ寄せがいっていますが、じゃあ賃金を上げるために高齢者の保険料を上げますか?現役世代の保険料を上げますか?消費税を更に上げますか?
(このあちらを立てればこちらが立たず状態の中、政府当局の担当者としてはもはや介護分野に手の打ちようが無いんじゃないか・・・と思っています。アリバイとして加算を付けたりはしていますが、対応は場当たり的であり、それがかえって利用者のサービスに結びつかない書類仕事を増やすという悪循環に陥っています。)

ジョブ型雇用における仕事の基準を作るために必要なのは議論ではなく、取引の積み重ねです。流動的な労働市場における取引を通じて初めて賃金水準や労働条件は見えてきます。不当な雇用契約、詐欺的な雇用契約を是正するための完璧でないにしてもベターな方法は、雇用の流動化です。
政府が労働者の意見を反映して規則として決めるのではなく、市場においてある程度の相場がそれなりに定まるのです。

市場において無理のない水準の相場がそれなりに定まるのですが、その時に必要なのは、取引が自発的に繰り返し行われることです。売り手と買い手、労働者と雇用者の取引が繰り返されることで相場が徐々に形成されていくわけですが、政府の規制が存在することによって不当に安い値段や厳しい条件での取引を強いられたり、あるいは、規制によって取引成立数そのものが減少してしまいます。

「ジョブ型雇用」は「同一労働・同一賃金の原則」を前提としています。「同一労働・同一賃金の原則」とは、一物一価の法則を労働分野に当てはめたものです。労働市場において、同じような勤務内容、勤務条件の職務であれば同じような賃金が成立するというものであり、ほっとプラス藤田が苦し紛れに発した
○○の事業の賃金はだいたいこんなもんです
というセリフにも、この「一物一価の法則」「同一労働・同一賃金の原則」の考え方が反映されています。

労働市場において人々が就職と転職を繰り返す中で、
「この業界のこの業務の賃金はだいたいこんなもんです」
という賃金水準が成立します。

そして、今野氏の言うような「ブラック企業による求人詐欺」の被害にあったとしても、転職が容易な環境であればやり直しが可能です。
しかし、解雇規制が強く再就職先が少ない日本型雇用慣行・メンバーシップ型雇用の中で、
「たとえブラック企業であっても正社員の地位を手放すわけにはいかない。非正規になるよりはマシだ」
と考えてしまう労働者も出てきます。そう、労働者の安定を保障しようとした規制がかえって「ブラック企業による求人詐欺」の温床になっているのです。

【賃金が個々の企業の事情で定まらないのが「ジョブ型雇用」】

賃金水準や勤務条件が企業ごとに異なるのではなく、職務・職種ごとにある程度共通した内容になる「ジョブ型雇用」。企業横断的に職務・職種に共通したものとなるため、賃金水準を決めるのは個々の企業における業績の善し悪しではなく、その職種が労働市場においてどのくらいで評価されているかによります。
個々の企業における業績の善し悪しを反映させようとするのは、雇用の流動性が低く、個々の企業と労働者が親子のような関係になっている日本型雇用慣行・メンバーシップ型雇用における発想法です。この中で、企業は労働者の面倒をみるが、同時に、労働者は企業の言いなりから逃れることが難しくなります。

労働者が会社に従属している状態を指して今野氏は「無限の指揮命令権」と呼んでいます。
「無限の指揮命令権」に限定をかけていくために「ジョブ型雇用」への移行が必要、という意見には賛成なのですが、ここに一つ問題があります。

ZOZOTOWNの賃上げ 問題は解決したのか?
======【引用ここから】======
 アパレルオンラインショップ・ZOZOTOWNを運営する株式会社スタートトゥデイが、アルバイトの時給を最大3割引き上げ1300円し、年2回1万円のボーナスを支給することを発表した。
 社長が「月にいく」ほど利益を上げてきたのだから、労働者側の賃上げも、ある意味「当然」だろう。

======【引用ここまで】======

社長が「月にいく」ほど利益を上げてきたからと言って、労働者側の賃上げは当然・・・ではありません。労働者の賃金と、社長の利益とは、それぞれ別のタイミングで別の決まり方をします。これから先に求められる形が「ジョブ型雇用」なのであれば、尚更です。
「労働者の賃金が企業ごとに定まるメンバーシップ型雇用では『無限の指揮命令権』から逃れられないから、企業横断的に職種・職務ごとに定まるジョブ型雇用に移行すべき」
と述べていた人物が
「特定企業の社長が月にいける程の金持ちだからその企業の従業員の賃金を上げて当然だ」
と主張するのは矛盾です。

「会社が儲かったのだから賃金アップせよ」というのは労働者にとって聞こえの良い意見ですが、よくよく考えると危険な主張です。「会社が儲かったのだから賃金アップせよ」という主張は「賃金は会社の儲けに連動すべき」という主張に繋がるものであり、裏返せば、「会社が赤字の時は従業員は無給でも構わない」ということになります。この考え方は会社と労働者の一体性を重視したメンバーシップ型雇用と親和性の強いものです。今野氏は金持ちへの嫉妬で目が曇ってしまい、「メンバーシップ型からジョブ型へ移行すべき」という本来の主張から逸れてしまっています。

企業は、儲かっている所だけではありません。経営が傾いている企業、個人経営から複数の支店を持つような規模へ転換中の企業、立ち上げたばかりで軌道に乗っていない企業、それぞれに様々な事情があります。良い企業、悪い企業、古い企業、始まったばかりの企業、そんな様々な企業の間を、労働者がその時々の状況に応じて就職・離職・転職を繰り返すことで、職種ごとに「だいたいこんなもんだろう」という賃金水準・勤務条件の相場が出来上がるわけです。この相場にそって、「私はこの職務をこの金額、この条件で遂行します。それ以外はしません」というのが「ジョブ型雇用」です。

ちょっと話は変わりますが。
もし、こうした自然発生的な賃金相場を無視し、

======【引用ここから】======
 時給1300円では、1日8時間、週40時間働いても年収264万円程度にしかならない。これでは大人1人が暮らしていくこともままならないだろう。
======【引用ここまで】======

という主張に沿って労働組合が暴力活動を繰り返し、政府がこれに押し切られる形で
「ではいっそのこと、時給を倍の2600円にしよう。そうすれば年収528万円になってそれなりの暮らしができるはずだ」
という最低賃金規制を定めたとしましょう。

これは、新規で企業しようとする人を尻込みさせ、中小企業や、ほっとプラスやPOSSEのようなNPOに事実上の営業禁止処分を突き付けることになりかねません。
最低賃金規制とは、この金額以下の賃金でしか雇用できない企業・団体を排除する規制であり、その金額以下の賃金でしか雇われようのない人を労働市場から排除し強制的に失業させるものです。
そうなれば、未熟練・若年層を中心に失業率が上がり、残った一部の大企業内部では従業員の会社へ従属せざるを得ない状況がさらに強まることでしょう。韓国では最低賃金を上げたことによって失業率が上がるとともに、財閥への経済力の集中が進んでいます。

今野氏は、こうした状況を望んでいるのでしょうか。
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労働運動家は正社員特権を擁護したいだけ? ~正社員ホッとぷらす~

2019年05月16日 | 労働組合
経団連会長やトヨタ社長らが、相次いで「終身雇用は限界だ」と発言し話題になっています。これに対する批判コメントにもやもやしたので、そのもやっと感を吐き出してみます。

【必要とされる労働者の数と質は一定でない】

「経済界は解雇規制をなくしたいだけ」 相次ぐ「終身雇用は限界」発言に労働弁護士が批判(弁護士ドットコム)
======【引用ここから】======
そもそも、現在の日本では、パートや派遣などの非正規雇用者の割合が、労働者全体の4割となっています。正社員であっても、決して良好な雇用環境でないことも多く、そもそも「終身雇用」は幻想のようなものにすぎません。

過去を振り返っても「終身雇用」と言われるものは、大企業の男性労働者の一部にはあったといえるものの、労働者みんなが「終身雇用」だった時代など一度もありません。

======【引用ここまで】======

景気の動向や経営方針、季節的なもの、様々な要因によって業務量は増減します。また、その時々によって必要とされる労働者の能力、適正も異なります。

必要な労働者の数や質は常に変化します。雇ってみたものの、会社で求めている能力・適性を有していないことが事後的に分かることもあるでしょう。数年経って、事業規模を大きく縮小せざるを得なくなることもあるでしょう。
このように状況が常に変化する中で、正社員で現時点における必要数全てを揃えようとする経営者はそうそういないはずです。正社員には「会社が続く限り一度雇用したらよほどのことが無い限り定年まで解雇してはならない」という条件が適用されるからです。一度正社員として雇ってしまうと、ちょっと人手余りになった位じゃ裁判所は解雇させてくれません。

たとえば。

ある弁護士事務所において、大きな訴訟案件を受けたとします。
その訴訟案件が継続する間は資料の収集、作成、整理で一時的に多く人手が必要になることが考えられるが、その訴訟が終結してしまえば、そこまでの人手は要らなくなる・・・
・・・という事態が想定される時、この弁護士事務所では、事務員の不足分を正社員として雇用するでしょうか。おそらくしないでしょう。パートや臨時職員として有期で雇い入れるか、既存の事務員の残業を増やして対応することになるでしょう。
(弁護士事務所だから解雇に伴う訴訟リスクを恐れない、というのはナシで)

【終身雇用の問題は身分制の問題】

上記コラムでは、
労働者みんなが『終身雇用』だった時代など一度もありません。
と述べられていますが、それは当たり前のこと。
労働者全員を、身分保障の整備された正社員にすることは不可能なのですから。

全員に保障することのできない権利を、特権と呼びます。この「特権」を労働者全体の6割にだけ与え、そこから生じる弊害や不都合を残り4割の非正規雇用者に押し付けている、というのが現状です。
一方では不祥事を起こさない限りダラダラしていても解雇されない人がいて、他方で期間を区切った短期の繋ぎとして利用される人がいる。解雇規制・終身雇用というのはこういった身分制の根本原因となっています。

「経済界は解雇規制をなくしたいだけ」 相次ぐ「終身雇用は限界」発言に労働弁護士が批判(弁護士ドットコム)
======【引用ここから】======
いずれにしても、現状でも不合理な解雇は多くなされているのですから、これ以上、経営者が自由に解雇ができる社会を作ってしまえば、安定した持続的な社会を作っていくのは難しくなるのではないでしょうか。
======【引用ここまで】======

安定した持続的な社会
とは、
「一度、大企業正社員になれれば安泰かもしれないが、正社員のレールから外れてしまうと不安定で待遇の悪い状態を強いられる」
という、固定的な身分制社会を指します。
固定的な身分制社会は安定した持続的な社会です。非正規雇用を犠牲にし続けることができる限り、ですが。

【終身雇用批判批判は正社員をホッとさせるだけ】

解雇規制の強い国では有期契約の割合が多くなる、という調査があります。

解雇規制の強い国では無期雇用での雇用を控えるために有期雇用が増えるが、解雇規制が緩ければ比較的容易に無期雇用で雇うことができる…というのは当然のこと。
「解雇規制が強いから非正規雇用での対応を求められる場面が増える」
「解雇規制が強化されれば正社員雇用を避ける流れが強くなる」
というのは容易に想像できるところです。
逆に、正社員をある程度簡素な要件・手続きの下で解雇できるようになれば、その空いた正社員ポストに非正規労働者を採用できる機会が増えます。

「よほどのことが無い限り定年までは解雇されない」
という解雇規制・終身雇用慣行が、かえって非正規雇用の割合を増やし、
「正社員を解雇する前に非正規をまず解雇しろ」
といった裁判所公認の非正規差別・身分格差を生んでいます。この問題意識を、上記コラムの労働弁護士のような方々や労働問題に携わる社会運動家・NPOと共有できないものでしょうか。

仮に、労働弁護士の大口顧客に正社員中心の労働組合がいる、とか、社会運動家が頻繁に労組主催シンポジウムに招かれて講演料を受け取っている、としたら、私の主張を受け入れてもらう余地は少ないでしょう。もし理解はしてもらえたとしても、彼らが表立って解雇規制撤廃を主張することはありません。「正社員の地位は非正規雇用を犠牲にすることで成り立っている」ということを言ってしまうと、正社員中心の労組から嫌われてしまいます。仕事を貰えなくなってしまいます。立場上、仕方の無いことです。

労組から仕事を貰う労働弁護士や社会運動家が
「終身雇用を廃止するな!安定した雇用を保障しろ!」
と主張するのは立場上そうなんでしょうけど、彼らがそう主張したところで、正社員枠が増えて、現在非正規雇用で働く人や失業中の人が安定した仕事を得られるようになることはまずありません。既に正社員の地位を得ている人がホッとするだけです。
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