若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

タダより高いものはない ~ 他人の金でパトロン気取り ~

2016年07月15日 | 地方議会・地方政治
自ら美術館を運営しているのに、なぜか、展示施設の無い市役所に美術品を寄贈するという、理解不能な行動をとった美術館長のお話。

約60年間収集の美術品を 貴重な日本画など194点 行橋市に増田さん /福岡 毎日新聞2016年7月8日 地方版
=====【引用ここから】=====
 行橋市神田町の元建設会社社長で私設の増田美術館(同市行事)館長、増田博さん(93)が7日、約60年間にわたって収集してきた日本画や陶磁器など個人所有の194点(購入価格計約4億4600万円)を市に寄贈した。横山大観や東山魁夷ら著名作家の作品が多く、増田さんは「手放すのは寂しいが、高齢で子供がおらず、市で役立ててほしい」と話している。【荒木俊雄】
 増田さんらによると、30歳ぐらいのころに知り合った著名な美術品収集家の影響で絵画などの収集を始め、会社経営の傍ら、2005年に増田美術館を開設。展示・保管数は絵画や陶磁器、書など339点で、近代日本画のランクでは九州有数という。今回寄贈したのは会社や、美術館を管理する公益財団法人「増田美術・武道振興協会」(理事長=増田さん)が所有する計145点を除いた個人分。
 寄贈品には大観の掛け軸「暁山雲」や購入額2000万円超の橋本雅邦の日本画「龍虎図」、文化勲章を受章した二代浅蔵五十吉の陶磁器「和やかな四季の風情を飾る壺(つぼ)」など貴重な品ばかり。目録を受け取った田中純市長は「大変ありがたい申し入れ。広く市民に見ていただく機会を増やし、文化の機運を盛り上げたい」と話した。
 市には現在、美術品を展示・保管する施設がなく、当面は現状のまま増田美術館で管理してもらう。このため、美術館側と近く管理に関する契約を結ぶことになるという。
〔京築版〕

=====【引用ここまで】=====

美術館の館長が「手放すのは惜しい」と言いながら、自分が理事長を務める美術館の運営団体(公益財団法人)に所有権を移すのではなく、市に美術品を寄贈した。ところが、寄贈された市の側には美術品を展示・保管する施設がない。そこで、現状のまま美術館で管理を行うそうな。

リバタリアンとしては、私有財産として収集した美術品をわざわざ行政の手に委ねてしまうのは非常に残念。このリバタリアンとしての視点を外したとしても、この寄贈には疑問が残る。

美術館を運営する人が、展示・保管施設の無い市役所へ美術品の寄贈を思い付いたというのが、不思議でならない。
また、寄贈の申出を受けた市役所の側も、普通なら
「ありがたい申出なのですが、194点も保管する場所がないので」
と断るところじゃないだろうか。
・・・うーん、意味が分からない。節税対策だろうか?

美術品の所有権は、美術館の館長から市へ移る。従来、美術館長の所有する美術品を美術館で展示・保管していたが、今後、市の所有する美術品を美術館で展示・保管するようになる。管理形態は従来どおり。市長は「文化の機運を盛り上げたい」などと言っているが、市民の目に触れる機会は今までどおり。実態は何も変わらず、ただ、市と公益財団法人の間に管理契約が発生するということだけが変わる。

美術館で展示・保管するという実態や美術館側の手間は変わらないのだが、契約に基づき、市が公益財団法人に管理料を支払う。公益財団法人は濡れ手に粟で管理料を稼ぐことができる。逆に、市は、美術品の寄贈を受けたことによって、本来なら不要なはずの手間賃を払う羽目になる(この管理契約が無償なら話は別だが)。

もし、この寄贈に関する市側の交渉担当者が、市の負担で公益財団法人側に対し便宜を図ったとすれば、これは大変なことである。場合によっては背任である。仮に公益財団法人から市側の交渉担当者へ金品の授受があれば、贈収賄にもなりかねない。
そうした不正な意図がなかったとしても、この寄贈によって今後、追加の管理費用や展示施設の建設費用が生じる可能性を考えれば、市へのマイナスは大きい。パトロン気取りの交渉担当者が市に負わせたマイナスはすなわち交渉担当者の負担・・・ではなく、市民の負担となる。

この公益財団法人と市の間には、過去にも似たような出来事があった。

時の総務部長が交渉担当者となり、市は土地・建物(ミラモーレという元・宴会場)を公益財団法人から無償で借りることとなった。ところが、市が調査したところ建物には違法建築部分が含まれるということで、一時的に物置として使っただけで終わった。最終的には、建物は取り壊わされ、市がわざわざ補正予算を組んで土地を1億2千万円で買い取るようになった、というものである。
(現在、この土地に25億円かけてハコモノを作ろうとしているが、これについては今回触れません。)

使い道のないモノをタダで貰い、その後処理でお金がかかるというのは、非常に馬鹿馬鹿しい。タダより高いものは無いとは、よく言ったものだ。

共産党のご都合主義的解釈改憲 ~ 立憲主義はいずこへ ~

2016年07月08日 | 政治
参院選の前ということもあって、
「戦争法は憲法違反だ!解釈改憲は『政府の権力を憲法で規制する』立憲主義に反するものであり許されない!」
という主張を頻繁に見聞きする。

この主張に対しては、やっぱり違和感がある。集団的自衛権や安保法制うんぬんの前に、自衛隊の存在そのものが違憲ではなかろうか。少なくとも、普通の文章読解力をもって憲法第9条を文理解釈したとき、多くの人は自衛隊を憲法違反だと受け取るだろう。

日本国憲法には、自衛隊の設置、編成、活動に関する規定はない。それどころか、戦力の不保持を定めた第9条に違反する疑いがある。憲法学者の多くは、「戦争法は違憲」の前提として「自衛隊は違憲」と考えている。

ここで、

1:自衛隊は違憲 → 個別的自衛権は違憲 → 安保法制は違憲

か、あるいは

2:自衛隊は合憲 → 個別的自衛権は合憲 → 安保法制は合憲

なら一応理解できるが、

3:自衛隊は合憲 → 個別的自衛権は合憲 → 安保法制は違憲

という主張は、妥協と願望のごった煮でしかない。この「3:合憲・合憲・違憲」の論者の主張をいくつか読んでみたが、ご都合主義であり、とてもじゃないが法律論・憲法論と呼べるようなものではない。

自衛隊や個別的自衛権を合憲とする見解は、綱渡りとも言える解釈によって成り立っている。自衛隊合憲論こそが解釈改憲の典型例である。戦争法は解釈改憲であり立憲主義に反するものであるならば、自衛隊法も当然ながら立憲主義に反するということになる。

自衛隊合憲、個別的自衛権合憲の根拠を適用すれば、集団的自衛権も合憲になるであろう。逆に、集団的自衛権違憲の根拠を突き詰めて考えれば、個別的自衛権も自衛隊も違憲となるであろう。「3:合憲・合憲・違憲」は二本のロープの間を命綱無しで飛び移る曲芸であり、これを憲法第9条から導くのは相当な無理がある。

この点、従来の共産党は一貫していた。自衛隊は憲法違反だ、だから解体すべきだ、戦争法は当然憲法違反だ、と。これは理屈として成り立っていた。これなら、立憲主義にも適合しているといえよう。
ところが、野党4党で共闘するにあたり、共産党は他の野党と異なる曲芸を披露して自衛隊容認に転じた。「自衛隊は違憲だが活用できる」という、新たなご都合主義的解釈改憲である。

○語ろう共産党・野党共闘/自公の攻撃 すべてに答えます
=====【引用ここから】=====
自衛隊についていえば、戦力不保持を定めた憲法に違反していることは、大多数の憲法学者も認めている通りです。
しかし、自衛隊は創設以来62年、世界有数の軍事力に成長する一方で、災害救助にも出動しており、すぐになくすことはできません。そこで、日本共産党は、将来の課題として9条の完全実施に向けて、国民の合意で段階的に自衛隊の解消を図っていくことを提唱しているのです。
その間、大規模災害や急迫不正の主権侵害が発生した場合、国民の命と安全を守るために自衛隊を活用するのは当然のことです。

=====【引用ここまで】=====

世界有数の軍事力ということは、憲法第9条で禁じる戦力保持にあたる。自衛隊は違憲となる(少なくとも共産党はそう評価している)。

さてここで、野党4党が政権をとったとして、「急迫不正の主権侵害」すなわち他国の軍隊が侵略してきた場合に、違憲である戦力・軍事力としての自衛隊の指揮命令を執ることのできる人は誰だろう?

=====【引用ここから】=====
日本国憲法
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

=====【引用ここまで】=====

自衛隊が違憲であれば、自衛隊を設置する法律や、総理大臣・防衛大臣が発する命令は「その効力を有しない」ということになる。違憲な軍隊を指揮することは違憲であり無効である。違憲だが存在するものに対し政府が憲法の範囲内で為しうることは、廃止・解体しかないだろう。自衛隊に対する命令が違憲無効となれば、自衛隊の活動については自律に委ねられてしまう。

これを逆手にとって、自衛隊の側から
「我々自衛隊は違憲の軍隊である。総理や防衛大臣の我々に対する指揮命令権の行使は違憲無効である。故に、我々は国民のために自律的に判断し行動する。政府の指揮命令は受けない」
と言い出した時は、危険である。

「自衛隊がそんなことを言い出すわけが無い」って?

「内閣が作戦に介入するのは憲法違反だ!」といって政府の統制を阻み独走しようとしたのが、戦前の軍部である。そう、統帥権干犯論争である。一度あったことが、二度起きないという保障はどこにもない。日本国憲法の下の自衛隊というのは、総理大臣の指揮命令権が明文化されていないという点で、大日本帝国憲法と似た欠陥構造を持っている。日本国憲法は戦前の反省を生かせていないと言っていい。

共産党は、野党共闘によって論理一貫性を失った。自衛隊の活用という形で容認したことで、自らが解釈改憲を提唱し、護憲政党の立場から転落したといっていい。もはや、共産党・野党連合が立憲主義を語る資格はない。

○自衛隊違憲論と憲法9条と98条: 人と法と世の中:弁護士堀の随想
=====【引用ここから】=====
98条は立憲主義にとって重要な条文であって、「自衛隊は違憲だが、まったく無しにするのも当面難しいので、 日陰者扱いで所持していこう」というのは、平和主義の立場からはともかくとして、立憲主義の立場からはかなり異常な発想である。
=====【引用ここまで】=====

従来の理論や主張を維持しつつ、「国家には自衛権はありませんが、国民の自衛権は憲法上否定されていません!共産党は、国民の自衛権を保障するために銃刀法の廃止を目指します!」と言えば、少なくとも私は支持したのだが。これであれば、立憲主義の立場とも整合性を取ることができたはずだ。

なお、与党が主張する「1:合憲・合憲・合憲」については、「第9条の素直な文理解釈としての違憲論」とかけ離れているのは言うまでもない。集団的自衛権を新規に容認するのであれば改憲すべきであるし、逆に、解釈改憲で集団的自衛権を認めるなら9条改憲をする必要は無い。自民党の改憲案のような馬鹿馬鹿しく危険なものが提示されるくらいなら、第9条のみのなし崩し的解釈改憲を認めてしまった上で、「解釈改憲で集団的自衛権OKになったんだし、もう憲法改正は不要でしょ?」と改憲論議を封じてしまった方が良いのかもしれない。