(2020年6月28日 冒頭部分で書いたものを一部省略)
青森市 市民の声 生活保護を見直ししてほしい 2017年11月6日
======【引用ここから】======
生活保護にも色々な形があるようですが、生活実態は毎日のように買い物に出掛けたり、宅配牛乳、水の購入など年金生活を送っているかたからは考えられないような事が多々あります。生活保護を受けているかたには灯油代、デイサービス利用料、病院代など、どうして全部支給されるのでしょうか。生活保護費より少ない年金生活のかたがたくさんいて、全部自分の年金から支払いをしています。体の不自由なかた、入院しているかたを除いて、その他のかたは保護費だけでその他の費用はその中から使うようにはできないでしょうか。私も3度ばかり生活福祉課に出向いた事がありますが国で決まっているからという回答でした。いくら保護生活でもパチンコをしてお金を使ってしまうかたなど、普通に一生懸命はたらいているかたは不満に思っていることをご存知なのでしょうか。本当に生活保護が必要なのか一度調べたらいかがでしょうか。ずるい人が多いんです。たくさんのかたがたの意見だと思ってください。生活保護全般の見直しを要望します。
======【引用ここまで】======
生活保護もそうですし、各種補助金制度もあります。
最近では、新型コロナ対策で二転三転した「10万円給付」なんかもあります。
こうした各種制度の条件に当てはまっている人が、利用し給付を受ける事自体は悪いことではありません。
使えるものは使おうとするのは人間の性ですから。
生活保護を受給しながらパチンコ台に1000円札を突っ込み続ける行為は制度上許容されており、受給者は制度を利用しているにすぎません。
問題は、そうした人々の反感を煽る行為を可能としている制度設計にあります。
生活保護制度への不満は根強いものがあります。
生保批判側「保護を貰いながらパチンコに行くなんてけしからん」
生保擁護側「パチンコは不正受給じゃありません。不正受給は件数で言うと全体の2%程度でしかありません」
という生保擁護側の返答は、制度上正しいのですが、制度そのものへの不満を募らせる結果を招きます。
納税者の多くは
「私の払った税金が生活に困っている人のために使われるなら納得できるが、その金をパチンコに突っ込むのは許せない。他に遊びにいくのを我慢して税金払ってるんだぞ」
と思っていることでしょう。
そうした人にとって、制度上、パチンコをはじめとするギャンブル(表向き「娯楽」)をすることが可能となっていることそのものが不満の原因であって、この制度上の抜け穴を放置しているから生活保護へのバッシングが強まるのです。
もし、生活保護の重要性を強調する擁護側が、せめて、
「保護受給者のパチンコ通いについて、支給する行政や支援するNPOによる監視を強めたり、支給方法・形態を見直し制度を改める必要性は認める」
くらいのスタンスを示していれば、バッシングはそれほど強まらなかったんじゃないかと思います。
ところが実際には、
「生活保護費等をパチンコや競輪、競馬などに浪費する受給者の情報提供を市民に求める、というひどい条例が兵庫県小野市で成立し、4月1日より施行されています。この条例は受給者の人権を侵害し、生活保護等に対する差別と偏見を助長するおそれがあります。直ちに廃止されるべきだと思います。」
といった形で、擁護側は制度の見直しや修正を妨げてきました。
火に油を注ぐようなものです。
こうした不満の蓄積が政府を通して保護基準の引き下げという形となって現れ、
擁護側が反発して引き下げの取消を求めた訴訟を起こし、
地裁では請求棄却され、
いつもの界隈が騒ぐ(いまここ
歴史上、政府は様々な形で個人に対し権力を行使してきたわけですが、こうした政府の権力行使に制限をかける一つの手段として誕生したのが憲法です。
課税、刑罰、身体拘束、検閲、規制、こうした政府の権力行使に制限をかけることで、個人の権利を守るというのが、本来的な意味での憲法、立憲主義的な憲法の考え方です。
生活保護は、こうした立憲主義的な憲法の考え方に馴染みません。
富は無から生じるわけではありませんので、
「政府がAに対し課税し、その金からBに対する保護費を捻出する」
という構図を経ることになります。
Bへの給付を拡充すればするほど、Aへの課税は強化されます。
Aへの課税は、すなわちAへの人権侵害(財産権制約)を意味します。
Bへの給付拡充は人権保障どころか、逆に、Aへの人権侵害の度合を強めるものとなります。
基本的人権は全ての人に生まれながら保障された権利ですが。
他方で、全ての人に一定額の給付を保障するためには相当な額の税を当然のものとして誰かに負担させなければなりません。
このように誰かの負担を前提とした制度を、基本的人権と呼ぶのは相応しくありません。
「代表なければ課税なし」
という言葉がありますが、課税には少なくとも納税者が代表者を選び、代表者が課税額を決める必要があります。
生活保護は、課税という犠牲で得られた財源の範囲内で行使される給付制度の一つに過ぎません。
実際には、Aへの財産権制約で得られた税金を、Bへの生活保護費の他、
Cへの医療保険公費負担、
D地区の道路整備、
E地区のゴミ処理、
Fへの教育費
・・・といった形で山分けしています。
Bの権利性を強調することは、納税者への権利侵害を強め、あるいは他分野の予算を圧迫することになります。
このように課税や予算配分を考えた時、生活保護の根拠とされる憲法25条についてはそもそも人権と捉えず、ある種の指針と取り扱う考え方が妥当です。
あくまでも予算制約の下にある、無数にある制度の中の一つにすぎません。
政府は、税収の見込みを立て、この税収を様々な制度・事業に振り分けているのですが、この一連の作業は裁判所の権限外と言っても良いでしょう。
「日本国憲法
第25条 すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
という規定は、健康的で文化的な生活を営もうとする国民の幸福追求権と、これを政府は妨害してはならないという不作為義務、そして、予算制約の中で社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上に努めましょうという政府の方針を謳ったものと理解すべきです。
憲法第25条から給付水準を導き出すことはできませんし、私は「制度改悪は憲法違反の人権侵害」という主張には賛同できません。
こうした不満に対し
「生活保護は当然の権利なんだ!」
「保護費を削るなんてとんでもない!」
「パチンコに行っても制度上問題ない。不正受給じゃない!」
などと擁護すればするほど、生活保護制度への批判が高まり、制度を利用する人はかえって肩身の狭い思いを強いられることになります。
擁護派の左翼のみなさん、いつも自分で言ってるじゃありませんか。
「市民の声に耳を傾けろ」
ってね。
青森市 市民の声 生活保護を見直ししてほしい 2017年11月6日
======【引用ここから】======
生活保護にも色々な形があるようですが、生活実態は毎日のように買い物に出掛けたり、宅配牛乳、水の購入など年金生活を送っているかたからは考えられないような事が多々あります。生活保護を受けているかたには灯油代、デイサービス利用料、病院代など、どうして全部支給されるのでしょうか。生活保護費より少ない年金生活のかたがたくさんいて、全部自分の年金から支払いをしています。体の不自由なかた、入院しているかたを除いて、その他のかたは保護費だけでその他の費用はその中から使うようにはできないでしょうか。私も3度ばかり生活福祉課に出向いた事がありますが国で決まっているからという回答でした。いくら保護生活でもパチンコをしてお金を使ってしまうかたなど、普通に一生懸命はたらいているかたは不満に思っていることをご存知なのでしょうか。本当に生活保護が必要なのか一度調べたらいかがでしょうか。ずるい人が多いんです。たくさんのかたがたの意見だと思ってください。生活保護全般の見直しを要望します。
======【引用ここまで】======
〇制度を利用する事自体は悪いことではありません、が
世の中には、政府・地方自治体が設けている様々な制度があります。生活保護もそうですし、各種補助金制度もあります。
最近では、新型コロナ対策で二転三転した「10万円給付」なんかもあります。
こうした各種制度の条件に当てはまっている人が、利用し給付を受ける事自体は悪いことではありません。
使えるものは使おうとするのは人間の性ですから。
生活保護を受給しながらパチンコ台に1000円札を突っ込み続ける行為は制度上許容されており、受給者は制度を利用しているにすぎません。
問題は、そうした人々の反感を煽る行為を可能としている制度設計にあります。
生活保護制度への不満は根強いものがあります。
生保批判側「保護を貰いながらパチンコに行くなんてけしからん」
生保擁護側「パチンコは不正受給じゃありません。不正受給は件数で言うと全体の2%程度でしかありません」
という生保擁護側の返答は、制度上正しいのですが、制度そのものへの不満を募らせる結果を招きます。
納税者の多くは
「私の払った税金が生活に困っている人のために使われるなら納得できるが、その金をパチンコに突っ込むのは許せない。他に遊びにいくのを我慢して税金払ってるんだぞ」
と思っていることでしょう。
そうした人にとって、制度上、パチンコをはじめとするギャンブル(表向き「娯楽」)をすることが可能となっていることそのものが不満の原因であって、この制度上の抜け穴を放置しているから生活保護へのバッシングが強まるのです。
もし、生活保護の重要性を強調する擁護側が、せめて、
「保護受給者のパチンコ通いについて、支給する行政や支援するNPOによる監視を強めたり、支給方法・形態を見直し制度を改める必要性は認める」
くらいのスタンスを示していれば、バッシングはそれほど強まらなかったんじゃないかと思います。
ところが実際には、
「生活保護費等をパチンコや競輪、競馬などに浪費する受給者の情報提供を市民に求める、というひどい条例が兵庫県小野市で成立し、4月1日より施行されています。この条例は受給者の人権を侵害し、生活保護等に対する差別と偏見を助長するおそれがあります。直ちに廃止されるべきだと思います。」
といった形で、擁護側は制度の見直しや修正を妨げてきました。
火に油を注ぐようなものです。
こうした不満の蓄積が政府を通して保護基準の引き下げという形となって現れ、
擁護側が反発して引き下げの取消を求めた訴訟を起こし、
地裁では請求棄却され、
いつもの界隈が騒ぐ(いまここ
〇生活保護は基本的人権ではない
さて。歴史上、政府は様々な形で個人に対し権力を行使してきたわけですが、こうした政府の権力行使に制限をかける一つの手段として誕生したのが憲法です。
課税、刑罰、身体拘束、検閲、規制、こうした政府の権力行使に制限をかけることで、個人の権利を守るというのが、本来的な意味での憲法、立憲主義的な憲法の考え方です。
生活保護は、こうした立憲主義的な憲法の考え方に馴染みません。
富は無から生じるわけではありませんので、
「政府がAに対し課税し、その金からBに対する保護費を捻出する」
という構図を経ることになります。
Bへの給付を拡充すればするほど、Aへの課税は強化されます。
Aへの課税は、すなわちAへの人権侵害(財産権制約)を意味します。
Bへの給付拡充は人権保障どころか、逆に、Aへの人権侵害の度合を強めるものとなります。
基本的人権は全ての人に生まれながら保障された権利ですが。
他方で、全ての人に一定額の給付を保障するためには相当な額の税を当然のものとして誰かに負担させなければなりません。
このように誰かの負担を前提とした制度を、基本的人権と呼ぶのは相応しくありません。
「代表なければ課税なし」
という言葉がありますが、課税には少なくとも納税者が代表者を選び、代表者が課税額を決める必要があります。
生活保護は、課税という犠牲で得られた財源の範囲内で行使される給付制度の一つに過ぎません。
実際には、Aへの財産権制約で得られた税金を、Bへの生活保護費の他、
Cへの医療保険公費負担、
D地区の道路整備、
E地区のゴミ処理、
Fへの教育費
・・・といった形で山分けしています。
Bの権利性を強調することは、納税者への権利侵害を強め、あるいは他分野の予算を圧迫することになります。
このように課税や予算配分を考えた時、生活保護の根拠とされる憲法25条についてはそもそも人権と捉えず、ある種の指針と取り扱う考え方が妥当です。
あくまでも予算制約の下にある、無数にある制度の中の一つにすぎません。
政府は、税収の見込みを立て、この税収を様々な制度・事業に振り分けているのですが、この一連の作業は裁判所の権限外と言っても良いでしょう。
「日本国憲法
第25条 すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
という規定は、健康的で文化的な生活を営もうとする国民の幸福追求権と、これを政府は妨害してはならないという不作為義務、そして、予算制約の中で社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上に努めましょうという政府の方針を謳ったものと理解すべきです。
憲法第25条から給付水準を導き出すことはできませんし、私は「制度改悪は憲法違反の人権侵害」という主張には賛同できません。
〇生活保護制度擁護派こそ、市民の声に耳を傾けろ
上記の「青森市 市民の声」に見られるような生活保護制度への不満は、オンライン・オフラインを問わず様々な場面で耳にします。こうした不満に対し
「生活保護は当然の権利なんだ!」
「保護費を削るなんてとんでもない!」
「パチンコに行っても制度上問題ない。不正受給じゃない!」
などと擁護すればするほど、生活保護制度への批判が高まり、制度を利用する人はかえって肩身の狭い思いを強いられることになります。
擁護派の左翼のみなさん、いつも自分で言ってるじゃありませんか。
「市民の声に耳を傾けろ」
ってね。