若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

規制緩和を嘆くより、緩和の足りなさを嘆くべし 〜 竹中氏 vs 東洋大4年生 〜

2019年01月25日 | 政治
東洋大学において、学生が教授を批判する立て看板を立て、批判ビラを配った学生のニュースが紹介された。
そのビラの内容が、↓こちら。

○東洋大学生の竹中平蔵氏批判の背景にある若者の貧困とワーキングプア
======【引用ここから】======
竹中氏の過悪、その一つは大規模な規制緩和である。特に2003年の労働者派遣法の改悪がこの国にもたらしたものは大きい。それまで限定されていた業種が大幅に拡大されることで、この国には非正規雇用者が増大したのである。「正社員をなくせばいい」や「若者には貧しくなる自由がある」といった発言は、当時の世論を騒がせた。
======【引用ここまで】======

竹中平蔵氏は規制緩和をしたとして責められているが、私に言わせてもらえば、「規制緩和をし足りなかった」から竹中氏はダメなのだ。
「正社員をなくせばいい」と主張したのであれば、その正社員の身分保障の根幹を為す解雇規制を撤廃し解雇ルールの明確化を図る必要があったのだが、竹中氏はここに手を付けられなかった。

「規制緩和によって竹中の会社が不当な利益を得た」
と叫べば一時的に気分が晴れるかもしれないが、だからといってその規制緩和を元に戻したところで派遣労働に従事している人が正社員になれる訳ではない。

これは、獣医学部新設騒動でも同じ構図が見られた。

獣医学部の新設を文科省の告示レベルで全面禁止していた規制運用について、特区制度によって約50年ぶりに1校の新設が認められた。
これに対し、野党やその支持者は
「首相がお友達を優遇した」
という非難を長期間にわたって行い、規制緩和を批判した。

強固な規制がかけられている分野においては、部分的に規制を緩和したことによって利益誘導の構図が生じる場合がある。

だからといって、
「規制緩和によって悪くなった。だから緩和前の規制は正しい」
ということにはならない。
一部分を規制緩和したことで生じた一部の者への利益誘導を解消するために最も有効なのは、規制の巻き戻しではなく、規制の全廃である。
規制緩和を否定して元の規制に戻したら、新規参入を防ぐことで以前からの既得権益層の地位の安泰が図られるという、いつもの構図が復活するだけである。

【雇用問題における既得権益と参入規制】

さて。
若者の貧困は、中高年正社員が居座っているために正社員の椅子が空かないことが原因の一つ。
中高年正社員という既得権益層が解雇規制で守られており、若年層労働者の新規参入の道が狭められている。
正社員になれなかった者が、不本意非正規労働者となっている。

大企業や官公庁においては特にそうなのだが、明らかな能力不足や適性の無さが認められても、正社員を解雇するのは大変な困難を伴う。

たとえば。
Aさんは派遣社員だったとしよう。
Aさんの仕事ぶりが大変高く評価され、派遣先の職場の課長が

「派遣社員A君は、若くてやる気もあって仕事の覚えも早い。他の正社員と比べて半分位の賃金でやってくれていた彼の働きに報いたい。機会があれば派遣から正社員にしたい。」

と考えている。
しかし、そこから先に話を進めるのは困難だ。
この課長は、同時に

「・・・でも、うちの職場には、50代半ばの正社員がゴロゴロいる。彼らのクビを切ることは事実上不可能に近い。さほど能力もないのに、年功賃金で単価ばかり上昇した彼らを抱えながら、並行して派遣社員A君を正社員にしたら、将来、不景気になった時に人件費で会社の経営を圧迫することになる。そうなれば、私の管理者としての責任を問われかねない。」

と考え、A君正社員化の案は課長の思い付きレベルで消えてしまう。

正社員化を阻んでいるのは、労働者派遣法ではない。
原因は、正社員を容易には解雇できないという、労働組合と裁判所が作り上げた雇用慣行にある。

【善意の規制強化は裏目に出る】

これは、派遣3年無期転換のルールにより正社員化が進むどころか、派遣契約が切られてしまうという現実により裏付けられている。

「3年ルール」期限迫り、派遣切りの相談続々 直接雇用に壁 - 産経ニュース
======【引用ここから】======
同会議の小野順子弁護士は「法改正で派遣労働者が次々と切られている実態がある。改正前より身分が不安定になり、雇用安定に全然つながっていない」と指摘する。
======【引用ここまで】======

派遣3年無期転換ルールが施行され、3年が経過した。
3年経過の直前になって、正社員になれるどころか、派遣先から切られてしまったのだ。
企業にとって、解雇規制に守られる正社員を抱えることは高いリスクになっている。

立法者の意図もむなしく、正社員化は進まなかった。
規制を強化して安定雇用を増やそうとした立法者の意図とは逆に、派遣社員を更なる不安定な環境に陥れてしまうという皮肉な結果になった。

立法者は、冒頭の東洋大生と同様、なぜ非正規雇用が増えたのかという原因を見誤っていた。
非正規雇用から正社員への転換を推し進めよう、という善意からの規制が、実際は非正規雇用の更なる不安定化を進めてしまう。
こうしたことは規制全般に言える。

まさに「地獄への道は善意で舗装されている」だ。

【数字を確認】

さてさて。
冒頭の東洋大生は、そのビラの中で、

2003年の労働者派遣法の改悪がこの国にもたらしたものは大きい。それまで限定されていた業種が大幅に拡大されることで、この国には非正規雇用者が増大したのである

と述べているが、この因果関係は本当だろうか?

冒頭の記事中にリンクの貼られている厚労省資料によると、

 ○平成14年(2002年)
   非正規労働者数 1451万人
   派遣労働者数    43万人

 ○平成29年(2017年)
   非正規労働者数 2036万人
    派遣労働者数  134万人


15年間で、非正規労働者数が約580万人増えているが、うち、派遣労働者数の増加は約90万人。
2003年の労働者派遣法改正だけでは、非正規労働者の増加は説明がつかない。
それ以前も以後も、非正規労働者の数は上昇し続けている。

もし労働者派遣法がなかったら、この間に派遣労働者になった90万人が正社員になれていたとは考えにくい。
それよりも、他の契約社員やアルバイト、パートになっていて、2036万人という非正規労働者総数に変わりは無かったのではないか。

【立て看板東洋大生の意図はどこにあったのか】

さてさてさて。
この東洋大学生は、純粋に竹中氏の経済政策を批判しようとして立て看板を立ててビラを撒いたのかというと、100%そうという訳でもなさそうだ。

竹中氏批判の東洋大学生語る「組織の問題を指摘」(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
船橋さんは授業前の21日午前9時に「竹中平蔵による授業反対!」と書いた立て看板を校内に立て、ビラを配るなどしたが、10分後に大学の関係者に撤去され、学生課の男性職員4、5人に2時間半にわたって事情聴取された。
  ~~~~~~(中略)~~~~~~
船橋さんは今回の行動を起こした要因として、国際化を進め14年に文部科学省からスーパーグローバル大学に認定され、竹中氏が教授に就任した16年以降、さらに国際化を加速した大学側が、1887年(明20)に「哲学館」として開学した際から専門分野にしてきた、哲学科を統合再編するなど縮小に向かったことへの疑問があったと語った。
======【引用ここまで】======

大学において、自分の専門とする哲学分野の予算や人員が圧迫されたという、私憤の方も大きいようだ。

その意図は非正規雇用の問題を訴えたかったところにあるのか、実は自分が属する哲学科縮小を嘆いたものだったのか。
いずれにせよ、校舎や敷地を所有する大学の財産権に抵触しない範囲において、大いに主張したらよい。

ただ残念なのは、その理解の浅さと、「竹中平蔵による授業反対!」という主張。
折角竹中氏の授業があるのだから、授業そのものに反対するのではなく、その講義を聴いた上で氏の経済政策や考え方について反論を展開すれば良かったのではないか。
これが学問というものだ。
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藤田孝典さんが知らないようで実は知っている、「だいたいこんなもんです」で決まる賃金の仕組み

2019年01月23日 | 労働組合
藤田さん、いつもネタ提供ありがとうございます。
今回は、藤田さんのツイートの問に対し、藤田さんのツイートでお答えするコーナー。

Q「どうして儲かっているんだから従業員に金払わないの?と、なんでこんな当たり前のことを繰り返し言わないと理解できないの?


A「障害者福祉事業、生活困窮者支援事業はだいたいこんなもんです。


そう、業種ごと、業務ごとに、だいたいこんなもんな賃金相場がある、ということです。

同じ事業、同じ業種、同じ業務に携わる人の賃金は、だいたい同じような額になります。これは一般に「同一労働同一賃金」と呼ばれます。
wikipediaによれば、「同一の仕事(職種)に従事する労働者は皆、同一水準の賃金が支払われるべきだという概念。」と定義されています。

ここで重要なのは、
1.雇用が流動的でないと、同一労働同一賃金は成立しない。
2.会社が儲かっているかどうかは関係がない。
の2点です。

【雇用が流動的でないと、同一労働同一賃金は成立しない】

wikipediaでは、同一労働同一賃金について、上記の定義の後で、
経済学的には一物一価の法則(自由市場では需要と供給の関係から、標準的な相場が形成される)を、労働市場に当てはめたものである。
との説明が続きます。

自由市場では需要と供給の関係から、標準的な相場が形成される
ここ大事、試験に出ます。

同じ労働条件なのに、賃金が低い企業にわざわざ就職しそこに留まり続ける人は多くないでしょう。

 就職 → 退職 → 再就職 → 退職 → 再々就職 → ・・・

が容易な環境であれば、労働者は、他と比べて賃金を低く設定している企業から去ってしまいます。
労働者が就職と退職を繰り返し、同時に、企業側が
「労働者を確保するために賃金を上げよう」
「求人者が多くて労働者を確保できそうなら、少し下げてみようか」
をといった判断をその都度繰り返す中で、「この業務なら、だいたいこんなもんだろう」という賃金の相場が形成されていきます。

就職と退職の回数が多いほど、企業の提示した金額が相場に照らして妥当かどうか判定される回数が増えることになります。相場と比べて著しく低い金額を提示した企業は、いずれ淘汰されることになります。

ここで、採用や解雇において過度の規制があると、新規採用が抑制され、再就職が困難になります。
すると、労働者は転職を控えるようになり、結果、企業の提示している金額と条件が相場に照らして妥当かどうかがを試す回数が減ってしまいます。
すると、市場の中に「実は相場よりも低い賃金を提示している企業」が淘汰されず残ってしまいます。

日本では、労働組合と裁判所で成立させた正社員の解雇規制があるため、

 1.新卒で正社員就職 → 定年までしがみつく
 2.新卒で正社員就職 → 退職 → 非正規で再就職
3.新卒で正社員の枠に入れない → 非正規で就職

という3択に迫られる人が少なくありません。
一度正社員で就職した後、
「事前に聞いていた話と実際の勤務が全然違う」
と憤慨しても、退職したら非正規しかないとなれば、転職に二の足を踏む人も多いかと。
正社員の解雇規制が、「正社員 → 非正規」の一方通行を生んでおり、同一労働同一賃金の成立を妨げています。
同じ業務をしていても、正社員の身分保障と年功賃金と、非正規の賃金や待遇で格差が生じているのは、この解雇規制に原因があります。
だからこそ、自由市場、雇用の流動性は重要なのです。

【会社が儲かっているかどうかは関係がない】

次に。
企業は契約に基づき労働者に賃金を払い、テナント料や電気代等を払い、取引先に原材料費等を払います。
その上で、残ったお金があれば儲かったということになります。

儲かったかどうかは、賃金を支払った後で初めて分かります。
儲かったかどうかが分かる前に、まずは、契約に定められたとおりに賃金を支払わなければなりません。
そして、契約した通りに賃金を払っていれば、義務は果たされているということになります。
性質上、賃金が先で、儲けは後。
後になって
「儲かってたんだから賃金上げろ」
は後出しジャンケンです。

「去年は儲かったから、契約に定める賃金とは別に臨時手当を払います」
といった措置は、あくまで経営者の任意によるものです。
そりゃ、貰った側は嬉しいでしょう。
あるいは、来年・再来年と今以上の利益が続くことが見込めるなら、臨時手当でなく賃金を上げて、より優秀な労働者を確保しようと判断するのも一つの方法でしょう。

しかし、これは法律で義務化したり、外部の第三者がどうこう主張する性質のものではありません。
あくまで経営判断です。

逆に、自由市場において、時給1500円で雇用契約を結んでいた企業が、赤字になったから時給900円に下げる、あるいは儲かって黒字になるまで無給で働かせる、なんてことは通常できませんし、倫理的に許されませんし、仮にそんな事態になっても長続きさせることはできません。
労働者がみんな逃げてしまうからです。

儲けも損失も、どちらも労働者のものではありません。
損失が出たときのリスクを労働者に背負わせるのは、酷ではありませんか?

賃金相場に照らして「だいたいこんなもんです」という水準の賃金を契約に基づいて支払っている限り、そこに倫理的な問題は生じませんし、経営上の問題も生じません。

【藤田さんも、大いに儲けよう】

だから、藤田孝典氏が、いくらNPO法人の活動を通して見聞きしたネタを本に書いて印税で儲けようが、NPO法人理事として講演に呼ばれて講演料で儲けようが、NPO法人の職員に対し

「障害者福祉事業、生活困窮者支援事業の職員はよそを見てもだいたい月20万円くらいだから、まぁこんなもんだろう。法人の利益や、貰った講演料や印税は職員には関係ない。職員には契約に基づき給料を払ってるんだからそれで良いんだ」

と自信を持って主張して良いと思います。
印税や講演料の総額を開示する必要もありませんし、その総額をNPO職員に均等に分配する必要もありません。
印税収入で活動家仲間たちとパーッと飲む打つ買うで遊んでも良いですし、講演料で家族旅行をしても良いですし、全額貯めて家のリフォーム代に当て込んでも良いのです。

相場に基づいて賃金を設定し、契約に基づき賃金を支払う、それで良いのです。
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再建させるつもりが、崩壊を早めてしまう1冊 ~ 井手英策・今野晴貴・藤田孝典『未来の再建』の感想 ~

2019年01月21日 | 政治
井手英策・今野晴貴・藤田孝典『未来の再建 暮らし・仕事・社会保障のグランドデザイン』(ちくま新書)を読んだ。以前の記事で感想文を予告してしまったので、今回この記事をアップ。


さて。
社会福祉や労働問題に携わる人たちの考え方を確認できたという点では良かったが、その内容は説得力に欠け、非常におぞましいものだった。

大雑把にまとめると、

「あの人は生活に困っています。この人も生活に困っています。既存の社会保障給付に加え、全ての人にベーシック・サービスをできるようにするため、消費税を中心に大増税しましょう」

というもの。

以下、気になった箇所を批判していこう。

【社会保障は信頼するに値するか】

======【引用ここから】======
15頁
日本社会は住みやすいように見えて、非常に住みにくい。なぜかといえば、貧困や生活困窮の問題が見えにくいだけでなく、住みやすくするための、市民の主体的な努力や工夫もまだ弱いからだ。
======【引用ここまで】======

社会福祉家を自称する人ですら、
欧州では企業に福祉を頼りすぎない福祉国家型の社会保障政策が進み、教育、医療、介護、保育、福祉などの生活必需品やサービスはなるべく無償でも利用できる領域を増やしています
などと、私的なサービスを公共事業に置き換えろと主張する国、日本。
そりゃ、政府への依存心を煽れば、市民による主体的な努力や工夫が後退するのは当然のことだ。

社会と政府は別物である。
そして、政府の領域が増えれば、個人の自発的活動は後退する。社会の中で政府が徴税権を背景に活動領域を増やせば、その分、個人の自発的な資金提供や活動は駆逐されてしまう。政府が税金を投じてやっている分野に、同じ領域で同じことをわざわざしようとする個人や企業はそうそう居ないだろう。

======【引用ここから】======
18頁
貧困や生活困窮に至った原因を問わずに、同じ社会を構成する仲間の一人として助け合えるようにしたいと僕は思っている。すべての人に優しい社会をどう実現するのか、真剣に考えていきたいと思っている。
======【引用ここまで】======

税や社会保険料を強制的に徴収し、公務員が中抜きし、分配する。
この方法を、仲間の助け合いとは呼べない。

税金や社会保険料は、苦労して稼いだ給料から勝手に天引きされている。支払いを拒否すれば、差押処分を受けて毟り取られる。まずこの時点で不満が生じる。

これを、納得のいく形で政府が生活困窮者に給付していればまだマシだが、実際には、生活保護や医療、介護の分野で多くの人が「不当な支出だ」と首を傾げるような支給方法・給付内容が横行している。
だからこそ、藤田氏が嘆くような

======【引用ここから】======
19頁~
「貧困に至るのは自己責任だ」
「自分の家族や親族を頼れ。何でも社会に頼るな」
「貯蓄をするなど準備をしておけばよかったはずだ。計画性がない」
「義務も果たさないのに権利ばかりを主張する」
「支援を受けるのであれば、受けるなりの態度があるだろう」

======【引用ここまで】======

といった声が上がるのだ。
納得いかない社会保障給付で典型的なのが、
「保護費の支給日に、パチンコ屋が賑わう」
という話。
多くの納税者はこれについて
「不当だ、我々の支払った税金がギャンブル代に化けている」
と感じているわけだが、社会福祉論者は
「生活保護法上、それは違法とは言えない。不正受給ではない」
で片付けてきた。これが納税者の不信感を余計に煽っている。

もし藤田氏らが、
「受給者のパチンコ通いを禁止しよう。発覚したら、役所が受給者に対し返還請求するよう法改正しよう」
と社会保障の給付適正化を強く訴えていれば、上記のような社会保障給付への批判の声はいくらか弱まっただろう。しかし、こうした主張を本書の中で見つけることは出来なかった。むしろ、社会保障バッシングをする側が悪い、君たちの理解が足りない、という論調だ。これでは話にならない。

なお、著者らは、現金給付について

======【引用ここから】======
231頁
ベーシック・インカムの最大の問題点は、受け取った現金を、たとえば飲酒やギャンブル、借金の返済で消費してしまった人びとの生存・生活は、完全な自己責任となるということだ。もらったお金を使ってしまった人たちに対して、さらに現金を給付することはとてもではないが正当化し得ない。
======【引用ここまで】======

と批判し、ベーシック・サービスという現物給付の新設を主張しているのだが、この批判は、基本的に現金給付である生活保護にもそのまま該当する。
既存の給付内容や給付方法が社会保障制度への信頼を損なっている一因なのだが、著者らは「社会保障が足りない、まだ足りない、全然足りない」と述べるだけ。

著者らは
「社会保障給付が一部の人にだけ支給されるから、対象外の人が不満を持つのだ。みんながベーシック・サービスの受給者になれば、社会保障制度への不満は解消される」
と考えているようだが、これは間違いだ。
著者らは、国民を朝三暮四の猿レベルとバカにしているのだろう。

社会保障は、順番として、まずは個人から強制的に金を徴収する。
次に、公務員がその金を中抜きする。
そして、残った金を給付する。

徴収税額を増やし、ベーシック・サービスを始めたところで、この
「強制徴収・中抜き・分配」
という不満を招く構図に変化はなく、
「 税額 > 受給額 」
になる人が減ることは無い。従って、社会保障制度への不信感が減ることもないだろう。

藤田氏は、本書の中で、外国でのアンケート結果をあげて
「日本以外では、国民の社会保障制度への信頼は高い」
と主張している。そして、日本人は無理解で冷たい、と。

欧米では、終末期医療の抑制をはじめ医療の必要性の判断がシビアであったり、かかりつけ医に診察を申し込んでも実際に受診できるのは1週間後、総合病院への受診は数か月後だったり、と、社会保障給付の無駄を省く取り組みが既になされている。同時に、経済的活動の自由度が日本よりも高く、全体として豊かで余裕のある人が多いため、社会保障制度の負担にまだ堪えられる状態である、ということも言えるだろう。

信頼回復のための取り組みとして、徹底した給付適正化を先行させるべきである。社会保障制度への不信感が強い状態で給付の種類や対象者を拡大させても、問題解決にはならずかえって不信を高めることになる。

一番良いのは、制度を説明し、給付を受ける条件や保険料額について同意を得た上で、制度に任意で加入してもらいお金を集めることだ。これなら、「貧困や生活困窮に至った原因を問わずに、同じ社会を構成する仲間の一人として助け合う」と呼んで差し支えない。

政府による強制的な税・社会保険料の徴収に対する不満と、政府が支給する方法や内容への不信感。この2点が、社会保障制度への信頼を決定的に損なっている。

さて。
藤田氏は、「相模原障害者施設殺傷事件」を優生思想の復活であると非難している。殺傷事件は非難されて当然である。では、この優生思想はどこから発したものだろうか。

ここで、社会保障制度を
「納税者から強制的に徴収した金を、一定の条件を満たしていると政府に認定された人に支出する仕組み」
とした時、社会保障制度に無理やり組み込まれた人はどう考えるだろうか。

参加者が納得の上で加入し、自発的に社会保障給付の費用を拠出している場合、参加者からの反感はさほど生じない。

しかし、実際には政府が強制力をもって
「Aの費用をBに負担させる」
という構図を作り出している。
Aの実情を知るBが「Aをそこまで助ける必要はない」と考えていたとしても、政府は強制力を持っており、Bはその構図から逃れることはできない。
そんなBは、多かれ少なかれ
「Aが少なければ負担が減る」
という発想に至る。ここから更に
「Aを殺してしまえ」
と考えてしまうのは大問題だが、Aと同じような人が増えることを歓迎するB側の人はそういないだろう。



これは、ヨーロッパで強まりつつある外国人排斥も同じである。移民、難民が増え、彼らへの社会保障給付が増えることで、今まで社会保障給付を受けていた人たちの取り分が減り、あるいは社会保険料や税の負担が増える。
「○○が増えたから生活が苦しくなった。あいつらは福祉にただ乗りしている」
という嫌悪感、批判が、排斥への流れにつながっている。デンマークのゲットープランに見られるように、ヨーロッパの一部の国では移民・難民の受け入れから隔離や排除に舵を切りつつある。

他人に助けを求めることが悪いとは思わない。しかし、そこに強制力が介入したら助け合いとは呼べない。強制は反発を生む。

社会の構成員による自発的な助け合いと、政府による「助け合え」という命令とは、似ているようで雲泥の差があることに、彼ら社会福祉論者は気付いていない。あるいは、自分がその命令を下す地位に就きたいと熱望しているのだろうか。

【豊かな国を貧しくする方法】

======【引用ここから】======
37頁~
まず人びとの生活が苦しいのは、生きていく上で必要なサービスや財が、その人や世帯において決定的に不足しているからである。
・・・さらに、今は不足していなくても、今後はその不足が予想されるからだ。生きていく上で必要なサービスや財が将来、不足するとの見通しがもたらす不安は、日本社会を覆わんばかりに広がっている。

======【引用ここまで】======

生きていく上で必要なサービスや財が不足しているのは、その人や世帯においてだけではない。
日本全体で不足している。
一部の富裕層を叩いてその財産を収奪しても、この不足は解消しない。
藤田氏が私怨で粘着しているZOZOの社長から全財産を没収しても、少子高齢社会で膨れ上がる社会保障負担の前では焼け石に水である。

※参考
○池田信夫 blog _ 「脱成長」は絶対的貧困への道


既存の社会保障給付を現行水準で続けるだけでも、国民負担率は将来的に跳ね上がる。
この状態で、既存の社会保障給付を削ることなく、ベーシック・サービスとして現物給付を増やそうというのは自殺行為である。
ベーシック・サービスで教育が自己負担ゼロになっても、可処分所得が激減し食料を買う金がなければ餓死するしかない。

さて。
日本は貧しくなっている。その点は著者らも認めている。

======【引用ここから】======
51頁~
次に、税や社会保険料を引いたあとの手取りである「可処分所得」を見てみよう。
・・・この1997年から2016年の約20年の間に、勤労者世帯の可処分所得は約13%も減っている。
・・・貧しくなったのは勤労者世帯だけではない。社会全体の地盤沈下も深刻だ。

======【引用ここまで】======

では、なぜ日本は貧しくなったのだろうか。
逆に、豊かになるというのはどういうことだろうか。

個人は、自分の生活を改善しようとして行動する。
生活に必要なものを自分で生産し、余りが出たら他の人の生産物と交換する。
また、生産したものを全て消費・交換してしまうのではなく、蓄えておくことによって、新たな生産方法を開発するまでの生活を支えることができるようになる。

この生産・交換・貯蓄・開発を繰り返すことによって、生活に必要な物をより少ない人手と時間で生産できるようになるとともに、より多くの物、より便利な物、より快適なサービスを利用できるようになった。こうした市場の機能を経て、参加者の生活は徐々に豊かになっていく。

この時、市場の参加者は、自分の生産した商品Aは幾らで何個売れるかというはっきりした情報を持っていない。売りに出してみて、はじめて売れるか売れないか、割高か割安かといった手応えを得ることになる。全ての財、サービスを交換の場に出すことで、はじめて適正な価格が見えてくる。
商品Aが概ね100円、商品Bが概ね500円という値段で売買されている時、市場では通貨を媒介としてA5個とB1個で交換するという取引が成立している。ただ、この交換比率は一定ではない。商品Aの原材料が高騰したり、商品Bをより効率的に生産できるようになったりすれば、この比率が逆転するということだってありうる。

ここで、政府が強制的にある特定の商品の値段をある時点の価格で固定してしまうと、他の商品と比べて割安になって過剰に消費されてしまったり、逆に割高になって全く売れなくなってしまうといったことが起きる。みんなが欲しがっているのに市場から消える商品がある一方で、比較的効率よく作っていたはずなのに割高感が出て売れずに廃棄される商品が出てくる。人々は必要なものを入手できず不満を募らせると同時に、不要な物を作って資源を浪費する。

そして、交換を繰り返す中で手探りで成立するはずの価格を固定してしまうと、本来なら価格に現れたはずの原材料の高騰や技術の進歩、販売経路といった様々な情報を活用できなくなる。

豊かな国を貧しくする方法は簡単である。
公定価格を設定し、本来の価格を見えなくしてしまえばいいのだ。

そういう視点で、次の文章を読んでほしい。

======【引用ここから】======
230頁~
現金給付の最大の問題点は、受益と負担の関係が可視化されることにある。自分より負担の少ない人たちが自分と同じ現金を得られることに対して、多くの人びとが反発することは想像に難くない。
他方、サービス給付の場合、自分の受益は可視化されない。子どもが幼稚園や保育園にいったとき、いくらの受益があったかをわかる親はいない。

======【引用ここまで】======

井手氏は「受益と負担の関係をわざと見えなくしてしまえ」と主張している。
本来の費用が見えなくなり、見かけの自己負担がゼロになったとき、そのサービスは浪費されてしまう。
「必要なサービスを自己負担ゼロで提供する」
というのは、社会を貧しくする最短距離である。
日本をここまで貧しくしたのは、彼ら社会福祉論者の思考法そのものである。

保育士や介護士が安月給で酷使されている、とか、
勤務医が日勤と宿直続きで休みがない、とか、
教員が授業と部活で疲弊している、とか、

これらは全て、公定価格を設定し、見かけの自己負担を税金で下げてしまい、本来の費用が見えなくなった結果、人という資源が浪費されている状態である。
著者らの主張するベーシック・サービスという考え方は、この浪費を加速させるものだ。

======【引用ここから】======
149頁
こうした努力の積み重ねによって、子どもの医療費無償化、老人医療の無償化が進んできた。かつては、すべての人に医療を提供すべきだとする機運が高まった時代もあった。老人医療の無償化は高齢社会を迎える中で挫折しているが、僕らが何を望んで行動するかで、政策のあり方も変わってくることは歴史が証明している。
======【引用ここまで】======

過去に、老人医療費無償化が実際に行われていた。
その結果、老人の不必要な受診を招いて「病院=老人のサロン化」が生じ、医療費が急上昇するというバカバカしい事態を招いたのだが、藤田氏の主張からは過去の愚かな施策への反省がどこにも見られない。

福祉元年のスローガンの下で老人医療費無償化を推進した田中角栄の墓を蹴り飛ばしたくなる衝動に駆られると同時に、これを礼賛する社会福祉論者の不勉強さと愚かさを嘆かざるを得ない。

さて。
本書のメインの主張は、おそらく次の2点であろう。

======【引用ここから】======
230頁
僕たちは、こうした弱者の切り捨てとは異なる方法で「既得権」をなくす方法を提案する。それが「ベーシック・サービス」だ。
子育て、教育、医療、介護などのベーシック・サービスについて、できる限り少ない自己負担、長期的に言えば無料でこれらのサービスを受給できるようにする。しかも、特定の人たちだけではなく、できるだけ多くの人たちを受益者にする。つまり、所得制限を段階的に緩和し、最終的には撤廃することによって、低所得層の「既得権」を解消するのだ。

======【引用ここまで】======

======【引用ここから】======
231頁
現在、毎年度における国民の自己負担分は、幼稚園・保育園で8000億円、大学教育で3兆円、医療で4.8兆円、介護で8000億円、障害者福祉で数百億円となっている。総額で9.3兆円である。
注意してほしいのは、この金額は1年度に発生する国民の自己負担額だということである。もし、完全無償化をめざすのであれば、サービスの利用者数が増え、施設やサービス提供者の不足が予想されるため、より多くの財源が必要となる。

======【引用ここまで】======

ベーシック・サービスの名の下、子育て、教育、医療、介護、障害者福祉を完全無償化するという井手氏。

高齢者が増え続け、現役世代が減少していくことが人口構成上わかっている中で、ベーシック・サービスに指定された特定の分野でヒト・モノ・カネが浪費される。この分野に携わる人の疲弊は今以上になるだろう。

そして、指定されなかった分野で人手不足が生じ、生産が滞る。
コンビニの陳列棚はガラガラ、
宅配便の遅配は日常茶飯事、
タクシーはどこも走ってない、
パソコンは20年前のものを使い続ける、
服は人民服・・・

本書は『未来の再建』というタイトルだが、どうも未来の地獄絵図しか想像できない。

【労働組合の成果が雇用問題の根源】

藤田氏は、雇用に関して次のように述べている。

======【引用ここから】======
17頁
終身雇用と年功賃金による日本型雇用の崩壊、非正規雇用の拡大、転職せざるを得ないブラック企業の台頭、労働分配率の低下など、働いている人びとの給与や処遇は劣化し続けている。
======【引用ここまで】======

======【引用ここから】======
29頁
実際、現在の雇用環境は、井手英策や今野晴貴が後述するように、これまでの給与水準や生活水準を維持するのが困難だ。僕の友人の多くは、年功賃金になっておらず、長時間労働に明け暮れている。それでも賃金が少ないため、生活が苦しいという。
ましてや終身雇用など夢のような話である。

======【引用ここまで】======

藤田氏は、日本型雇用が良かったと考えているのかそうではないのか。
彼の書いた他の部分を読んでもよくわからない。

彼は、派遣労働者の賃上げを派遣元企業に対してではなく派遣先企業に対してアピールする奇妙な思考回路の持ち主なので、労働問題に関しての記述はあまり当てにならない(他の分野でもそうだが)。

そこで、労働分野については今野氏の記述を読んでみよう。
今野氏は、日本型雇用の成立とその問題点について次のように述べている。

======【引用ここから】======
84頁
実は、日本型雇用は国が法律で定めた制度ではなく、労使の交渉によって作られた労使慣行であり、交渉で取り決められた労働協約によるものだ。裁判所はこの慣行を追認したに過ぎない。
1950年代、60年代には多くのストライキが敢行され、労組は年齢給を勝ち取り、雇用を守るために多くの血が流された。70年代には経営側もこれ以上の争いを望まず、むしろ、企業別組合との間で日本型雇用慣行の約束を守ることで、労働争議をなくそうと考えるようになった。ところが、こうして労働者が「勝ち取った」はずの日本型雇用には重大な欠陥が潜んでいたのだ。

======【引用ここまで】======

労働組合が、暴力によって正社員の終身雇用と年功賃金を得た。
そして、裁判所がこれを追認した。

正社員の終身雇用が保障されるということは、会社側から見ると、正社員を解雇することが非常に困難であるということになる。
この、労働組合と裁判所による合作である解雇規制が、海外から見て異例の労働環境を生んだ。

======【引用ここから】======
82頁~
終身雇用・年功賃金が保障される代わりに、一生涯、会社のなかで貢献度を競わされる。低成長時代に入ると、「貢献度」の測り方はいよいよ厳密になり、過酷な労働を生み出していった。
それでも、会社を辞めることはできない。それは将来にわたる生活保障を丸ごと失うことを意味するからだ。端的に言って、年功賃金を当て込んでローンを組んでいたら、辞めることなど不可能だろう。
だから、会社の中で、どんな過酷な命令にも従わざるを得ない。全国転勤の命令や、限度のない残業命令。このような、世界的に見て異例なほど理不尽な命令が慣例となっているのが、日本型雇用の特徴だ。海外ではあらかじめ契約をした仕事以外の労働に従事させることはできないが、日本型雇用では、企業に命令されれば、どんなことでも従事しなければならない。そうした契約慣行は「空白の石版」とまで呼ばれている(濱口桂一郎『新しい労働社会』)。
裁判所も、「人事権」の名のもとに、企業の広範な命令権限を認めてきた。終身雇用を継続するためには、リストラではなく、配置転換や残業によって労働需要の調整をおこなう必要がある。そのためには、どんな命令でも許されるのだ、と。
つまり、日本型雇用は終身雇用、年功賃金、そして「無限の指揮命令権」を使用者に与える雇用慣行だった。

======【引用ここまで】======

正社員の労働環境については、

 労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った。
   ↓
 会社は正社員を容易にリストラできない。
   ↓
 労働需要の調整を全国転勤や限度のない残業命令でおこなう。
   ↓
 会社に「無限の指揮命令権」が認められ、正社員は会社に貢献することが求められる。


という流れが成立している。
他方、非正規労働者については、

 労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った。
   ↓
 会社は閑散期でも業績悪化時でも正社員を容易には解雇できない。
   ↓
 正社員の雇用数は抑え目にして、非正規労働者を増減させて業務量の変動に対応する。
   ↓
 身分保障のある正社員と、正社員の身分保障枠からはみ出た非正規労働者という身分格差が発生する。


という流れになっている。
こう眺めてみると、終身雇用は、労働組合のたたかいの成果というよりも、労働組合が現代に持ち込んだ害悪と評した方が適切である。

======【引用ここから】======
82頁
このように、日本型雇用の中にいれば、生きていける。だが、その外に一歩でも出てしまえば、生活の保障はない。だから、日本では何とかこの日本型雇用の中に入ろう、なるべくなら保障の大きい大企業に入ろうと考える社会意識が生まれた。
逆に言えば、非正規雇用の労働者は、まさにそこから放り出されているために、生きていくことができないのだ。

======【引用ここまで】======

では、どうしたらこの問題を解消できるだろうか。

今野氏らは、解決策として最低賃金のアップや、企業別組合からユニオンへの転換を掲げているが、これらは本質的な問題解決にはつながらない。
特に、最低賃金アップについては、韓国で無理な引き上げをしたことによって若年層の失業率が跳ね上がったという実験結果が示されたばかりであり、全くの逆効果になる。

この正社員・非正規労働者の身分制は、
「労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った」
ということが根底にある。
ここを変えなければどうにもならない。
藤田氏のように、労働組合の主催する講演会やシンポジウムに呼ばれて、助成金や講演料を受け取って労働組合におべっかを使っている場合ではないのだ。

労働組合の暴力から始まり裁判官の心証に左右される曖昧な慣行を否定し、金銭解雇ルール等の導入によって解雇条件を明確化し、正社員を解雇できるようにする。
正社員の身分保障を削ることで、正社員を雇用することのハードルを下げ、雇用数を増やせるようになる。
雇用を流動化させることで、会社への貢献度で賃金の決まる属人給から、職務内容ごとに賃金の決まる職務給へと転換させることができる。

会社にとって「とりあえず雇ってみようか」ということが可能な環境が必要だ。

正社員が
「転勤?会社にそこまで尽くす義理はありません」
ということを今よりも言いやすくするためには、転職しやすい環境=とりあえず雇ってみようと言える環境がなければならない。

同様に、今まで時間給で働いていたパート従業員が、会社に対し
「私を正規で雇ってください」
という主張を通しやすくするために必要なことも、会社が「とりあえず雇ってみよう」と言える環境である。

ツイッターで最近知った「えらいてんちょう」氏は、『しょぼい起業で生きていく』という本の中で、何度か
「起業しても雇用するな」
という主張をしている。
これは、しょぼい起業という本書の趣旨に雇用契約が沿わないということだと思うが、同時に、現状の労働法制下において、雇用することがいかにリスクの高い行為であるかを物語っているとも言えるだろう。

【まとめ】

本書の中で、井手氏、及び今野氏の書いた現状分析については、まぁ妥当であろうと受け取った。ただ、彼らの提示する処方箋は間違いであり危険だと思う。
(他方、藤田氏の書いている部分については・・・もう察してください。)

未来の再建を、政府を通した社会保障給付の拡大で成し遂げるのは無理だ。
再建どころか崩壊、地獄絵図である。


日本には、政府による規制や介入が多すぎる。

教育、保育、介護に見られるような、施設基準、人員基準、価格設定。
雇用分野に見られるような、最低賃金、解雇規制。
また、今回は触れなかったが、アベノミクスに見られるような金融緩和もまた、市場に介入し市場の機能を歪めるものとして忘れることはできない。

こうした貧困化政策を一つずつ止めていき、自発的な生産と交換を地道に重ね、満足を少しずつ取り戻し、助け合うことのできる物質的な余裕と心の余裕を持てるようにしよう。
再建は一日にして成らず、である。
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政府機関が閉鎖するアメリカと、議会どこ吹く風の日本

2019年01月17日 | 地方議会・地方政治
議会が制度としてきちんと機能している例がこちら。

○米政府機関の閉鎖 過去最長21日間に 給与支払いも滞る | NHKニュース2019年1月12日
======【引用ここから】======
アメリカでは国境沿いの壁の建設をめぐるトランプ大統領と野党・民主党の対立で政府機関の一部閉鎖が続いています。閉鎖期間はこれまでで最も長かった記録に並び、職員への給与の支払いも滞っていて、今後、政権への反発が広がる可能性もあります。
アメリカでは、トランプ大統領が主張するメキシコとの国境沿いの壁の建設費を野党・民主党が認めず予算を成立させられないため、政府機関の一部の閉鎖が続いています。

======【引用ここまで】======

議会が予算案を可決しなければ、予算が成立しない。
予算が成立しなければ予算を執行できず、職員給与も支払えない。
結果、政府機関は閉鎖ということになる。

これは当然の姿。
予算が成立せず住民生活に支障が出れば
「否決した議会に責任がある」
ということになるし、住民生活に支障が出なければ
「閉鎖してる政府機関はそもそも不要だったのでは?」
ということになる。
そして、議会が否決しても予算の執行をすることができるということになれば
「じゃあ議会は何のためにある?」
という話になる。

では次は、異常な国の例を見てみよう。

【予算は否決、されど執行?】

○宮崎氏解釈を疑問視 法専門家「予算執行は義務」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース2019年1月16日
======【引用ここから】======
 資料の中で宮崎氏は、議会で予算が否決された場合に市町村長は「経費を支出することができる」という地方自治法177条の規定に触れている。この規定で市町村長は原案を執行することが「できる」のであって「議会で予算案が否決された事実を前に、これに反して市町村長が予算案を執行することは議会軽視であり、不適切である」としている。
 この見解について行政法が専門の井上禎男琉球大学法科大学院教授は「地方自治法177条の枠だけで、市町村長の判断を正当化することはできない」と指摘する。
 井上教授は「県民投票条例13条や地方自治法252条17の2を踏まえると、177条の解釈としては予算は義務的な執行と解釈せざるを得ない」と述べ、宮崎氏の解釈を否定した。「ほとんどの法学者は同様の意見だろう」とも指摘した。

======【引用ここまで】======

行政法の学者様が
「議会で予算が否決されても、予算の執行は義務だ。ほとんどの法学者は同様の意見だろう」
って言っちゃうお粗末さ。
この国では本当に議会制が採用されているのだろうか?

ちなみに、条文は、

============
地方自治法

第百七十七条 普通地方公共団体の議会において次に掲げる経費を削除し又は減額する議決をしたときは、その経費及びこれに伴う収入について、当該普通地方公共団体の長は、理由を示してこれを再議に付さなければならない
 一 法令により負担する経費、法律の規定に基づき当該行政庁の職権により命ずる経費その他の普通地方公共団体の義務に属する経費
 二 (略)
2 前項第一号の場合において、議会の議決がなお同号に掲げる経費を削除し又は減額したときは、当該普通地方公共団体の長は、その経費及びこれに伴う収入を予算に計上してその経費を支出することができる
============

予算案の中に自治体の義務的な経費があり、市議会はこれを否決した。
この時、市長は理由を述べて再度市議会に予算案を提出しなければならない、というのが地方自治法第177条第1項。
そして、再提出した予算案が否決されたとしても、市長は義務的な経費なら執行できるとしたのが第177条第2項。

【「できる」をどう読むか】

地方自治法の立法者は、アメリカのように議会が予算案を否決して役所が止まる事態を極度に恐れ、この条文を作ったのだろう。
役所が閉鎖しても住民生活に支障がなかったら、役所の面目丸潰れになってしまうから。

そんなお役所万歳な立法者でさえ、同じ条文の中に
「再議に付さなければならない」
という文言と、
「その経費を支出することができる」
という文言を並べている。
「~ならない」という義務を意味する表現と
「~できる」という裁量を認める表現をわざわざ使い分けているのだ。

自治体に課せられた義務を遂行するために必要な経費を予算案に盛り込んだが、議会で否決された。この時、義務的経費なんだから再度議会に提出して可決に持っていけるよう勝負しなさい、というのが第177条第1項。

ところが、議会は再度否決した。執行する予定だった予算は成立していないのだから、職員給与も何もかも支払いストップで役所閉鎖するのが本筋であるはず。
だが、地方自治法の立法者は「できる」という文言で義務的経費を支出する道を残した。これが第177条第2項。
お役所万歳な立法者ですら、議会による2度の予算案否決をそれなりに尊重すべきと考えたのだろう。最後は、議会制の尊重と義務の遂行とを天秤にかけた市長の政治的判断に委ねたと解すべきだ。

この「できる」という文言すら、新聞記事中の法学者が言う

「177条の解釈としては予算は義務的な執行と解釈せざるを得ない」

となると、じゃあ、議会による二度の予算案否決は何だったのか、議会による否決すら法律上拘束力が無く、義務的経費と名前がつけば議決の有無によらず支出しなければならないというのであれば、そもそも議会なんて要らないだろう、ということになる。
予算案を議会に提出せずに、
「あ、この予算?義務的経費ですよ?議会で否決されてもどうせ執行できるので、議会にかけても時間が無駄になるだけです。議会にかけることなく執行してますが何か文句でも?」
ということがまかり通るようになる。

これはさすがに乱暴だろうと思うんですけど、どうなんでしょうね琉球新報さん?
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藤田さんの考える「雇用と利益」を批判的に眺めてみる

2019年01月11日 | 労働組合
この数ヶ月、藤田端討論をはじめいろいろなネタを提供し続けてくれた藤田孝典氏。
藤田氏の主張をツイッター上で眺めてきた。
その藤田氏が、ZOZO社長の1億円お年玉イベントでついに不満を爆発させた。

○拝啓、ZOZO前澤友作様「1億円バラマキ、本当に下品です」『藤田孝典』 2019/01/09

個人が私財をどう処分しようとその個人の勝手であり、それを第三者が難癖つけるのはただの嫉妬でしかない。
この嫉妬に満ちた文章の中に、雇用や会社の利益、賃金についての藤田氏の考え方が随所に表れている。この中にある誤りや問題点、気になったところを指摘していこう。

【利益と賃金】

======【引用ここから】======
近年、東証に上場する企業、急成長する企業は、派遣労働者、非正規雇用を大量に利用して利益をあげてきた。彼らの富の源泉は、低賃金労働者への労働力搾取に起因している。その成長や利益の背後には、大量の派遣労働者が存在している。
======【引用ここまで】======

汗を流す、一生懸命働く、こうした努力は、それだけでは価値や利益を生じない。
真夏に穴を掘って埋める作業は大変な労力であり、これに従事する人は相当な汗を流すことになるだろう。しかし、ただ穴を掘って埋めても世の中に何の価値ももたらさないし、何ら利益を生じさせない。

労働には適切な方向付けが必要である。労働から利益を上げるために、事業主は、その労働によって何を生み出しどこへ提供するか企画しなければならない。この企画が的外れなものであれば、利益を上げることはできない。

ここで重要なのは、利益は後から生じるもの、ということだ。
商品を開発し、生産し、販売先を確保し、代金を回収して初めて利益が生じるわけだが、数か月で利益が出れば早い方。数年、10年以上かかることもあるだろう。

このため、利益と賃金を連動させて考えると問題が生じる。

【利益は後から生じる】

田舎の例えで恐縮だが、地主が事業主となって

「雑木林を開墾して田んぼを作り、米を作って売ろう」

と考えたとする。
作業員を募集する際には、労働時間、条件、内容を考慮して、似たような他の作業と同じ程度かそれ以上の額を支払うことを約束して募集することになる。

伐採や土壌改良に3年かかり、開墾後の春に田植え、夏に草刈り、秋に収穫、そして冬に米が売れて初めて利益になる、としよう。
この時、開墾2年目に作業員が地主に対し
「雇用されて開墾に従事して丸1年が経過したのに、一度も賃金が払われないのはどういうことか」
と苦情を述べた。地主から
「まだ利益が出てないんだから賃金なんて払えるわけないだろ。2年後の収穫を待っておくれ」
と言われて、納得する作業員はいないだろう。みんな辞めてしまう。
利益が出るまでの間であっても、作業員に賃金を支払うことを約束しなければ雇用契約は成立しない。この間の賃金は、地主が予め調達した資金の中から支払われることになる。

雇用契約が成立し、3年の開墾を終えて春の田植えを終えた後に、台風で稲が全滅し、あるいは洪水で開墾地そのものが流されてしまったとしよう。地主には利益どころか莫大な損失が生じる。それでも、地主は作業員に対し、作業してもらった期間に応じて契約に基づく賃金を支払わなければならない。払えなければ破産するしかない。

地主は、様々なリスクを負っている。

災害が起きるかもしれない、
稲が病気になって収穫ができないかもしれない、
逆に豊作で米価格が大暴落するかもしれない、
作付けした米の品種の人気が思ったより低くて高値で売れないかもしれない、
空前のパスタブーム到来で誰も米に見向きしなくなるかもしれない、

等、様々なリスクに晒されている。そうした将来の不確実なリスクの中、地主は作業員に対し雇用期間中の賃金を約束し、予め調達した資金の中から賃金の支払いを続けなければならない。

逆に言えば、契約に基づき賃金が支払われている限り、そこに倫理的な問題は生じない。利益が生じる前に、地主と作業員との間で金額や労働条件について同意しているからだ。また、最低賃金法(=「未熟練労働者切捨法」)に定める以上の金額を払っていれば、法的な問題も生じない。

さて。

4年間契約どおり賃金を払い続けて開墾を終え、作付けを済ませて無事に収穫を迎え、販売した結果、予想より大きな利益が出たとする。
この利益は、地主のものである。

地主がその利益の中から、
「作業員のみんな、今までありがとう!収穫祝いとして一時金を支給します!」
と配るのは、あくまで地主の任意によるものだ。

作業員の側から
「収穫の利益は俺たちのものだ。地主が独り占めにしてずるいなぁ」
と愚痴をこぼすのは勝手だが、外部から
「作業員の主張は当然であり、地主が利益を作業員に分配するのは義務である」
と強制するのであれば、災害や不作、販売不振によるリスクも作業員が分担して負うべきだろう。

作業員は、
「不作で予想利益の半分になったから、当面、賃金も半分ね」
と言われて、果たして納得するであろうか。
「利益が出る前に賃金を払う」という雇用の枠組みそのものが崩壊するのではないか。

「事業主と労働者で利益を山分け、損失も山分け」
という仕組みは、企業内の一体感を高める上で効果的かもしれない。
しかし、多くの労働者はこれを望んでいるのだろうか。
会社が倒産する寸前まで賃金が契約どおり支払われるのが良いか、それとも、会社の利益と損失に比例してその都度賃金が上下するのが良いか。

賃金が契約通り支払われているのに、企業の業績が良い時だけ
「事業主が大きな利益を得るのは不当だ」
と主張するのは、無責任な妬み、やっかみでしかない。

【正社員 対 非正規雇用】

======【引用ここから】======
彼らの言う社員や従業員のなかに派遣労働者は含まれていないばかりか、正社員との待遇差別も著しい。

派遣や非正規は好きでやっているのではないか、という意見もあるが、「不本意非正規の状況」(厚生労働省)によれば、正社員として働く機会がなく、非正規雇用で働いている者(不本意非正規)の割合は、非正規雇用労働者全体の14・3%(平成29年平均)である。相変わらず、不本意非正規の数も多い。

======【引用ここまで】======

日本では、正社員を一旦雇用すると、解雇するのが難しい。
雇用して勤務させてみて、
「この人はうちの会社に全然向いていない」
と気付いても、これを理由にすぐ解雇することはできない。

仮に解雇しても、訴訟になれば、裁判所が
「本当に向いてないのか、研修を受けさせたりして能力向上を試みたか、配置転換で対応できないか」
等と難癖をつけて解雇に待ったをかけてしまう。
これは正社員労組が、企業や世間に対し長く求めてきた主張でもある。

こうした裁判所や労組の動きは、企業側に
「正社員を一度雇うとクビにできないから、採用は控えよう」
と正社員の雇用数を抑制する方向に作用した。
正社員数を抑える一方で、繁忙期と閑散期の人員必要数の調整を非正規雇用や派遣労働者で行う仕組みが出来上がった。
その結果が、
正社員として働く機会がなく、非正規雇用で働いている者(不本意非正規)
の増加である。椅子取りゲームの椅子が中々空かないから、周りの人は早く座りたいのに延々と回り続けることになる。

解雇規制が雇用の流動性を阻害し、ここから正規・非正規の身分格差や年功賃金体系、新卒一括採用といった慣行が成立している。同一労働同一賃金を妨げているのが解雇規制だ。

正社員は、こうした解雇規制や年功賃金といった手厚い身分保障を持っているが、これは非正規雇用の犠牲の上に成り立つものである。
正社員労組や自治労の主催するシンポジウムや講演会でひっぱりだこの藤田氏が、どの面下げて正社員と非正規労働者の格差を語るのだろうか。

もし、藤田氏がこうしたシンポジウムや講演会の中で
「正社員である組合員のみなさんの身分保障は、非正規雇用の方々がいるから可能なんですよ。あなた達への手厚すぎる身分保障が格差の原因です」
と説いて回っているのであれば別だが。

【相対的貧困率は要らない】

======【引用ここから】======
日本の相対的貧困率は15・7%(平成27年)と主要先進国の中でも高い。日本は貧困に苦しむ国民が多い国である。なかでも働く労働者の貧困であるワーキングプアは大きな社会問題となっている。

 子供の貧困も働く親の所得の低さに原因があり、その背景にはワーキングプア問題がある。特にシングルマザーの貧困は、先進諸国最悪の相対的貧困率を記録するほど深刻であり、女性のひとり親の多くが非正規雇用で働いている。

======【引用ここまで】======

相対的貧困率は、貧困層の多さではなく格差の度合いを示すものだ。
みんなが貧しくなれば相対的貧困率は改善する。みんな貧しくなることによって格差は是正されるが、果たしてこれは良い事だろうか。
また、相対的貧困率は貯蓄の有無を考慮しない数値であるため、高齢化が進めば相対的貧困率も上がる。相対的貧困率は実際の貧困の状況を表さない。

相対的貧困率と貧困の具体的内容とが入り混じっている文章を見かけた時は、相対的貧困率に関する部分を全部飛ばして読んでも全く問題ない。飛ばした方が、具体的にどういう状態にあって貧困に苦しんでいるかがスッキリして分かりやすくなる。

相対的貧困率が高いことを問題視する人は多いが、相対的貧困率が以前と比べて下がった場合にこれを素直に評価する人は少ない。湯浅誠氏くらいじゃなかろうか。

○子どもの貧困率が減った! 何がどう変わったのか 湯浅誠

他の人は、
「相対的貧困率が下がったとは言え、他の指標が~」
等と言って改善を認めない。
それなら、最初から相対的貧困率を貧困の指標として用いなければ良いではないか。

なお、女性のひとり親の多くが非正規雇用で働いている原因も、正社員の身分保障が手厚すぎる点にある。このことについては上述のとおり。

【はぁ、マルクスですか】

======【引用ここから】======
同社は、これら低賃金労働者の存在に甘えて、株価の高騰や企業の成長を維持しているにすぎない。どれだけ株価高騰、企業価値の向上は経営陣の手腕だと言おうが、現場の労働者がいなければ生産や流通を担えないし、富は絶対に発生しない。古くはカール・マルクスが19世紀に大著『資本論』において喝破した内容である。
======【引用ここまで】======

マルクスが唱えた内容は、20世紀前半にミーゼスやハイエクが「社会主義経済計算論争」で批判したものであり、この批判のとおりにソ連体制は行き詰まった。マルクスは「亡霊」であり、労働価値説を初めとする誤った言説とともに一刻も早く成仏してもらうのが良い。

労働者がいなければ富は発生しない、それはそうである。
しかし、経営者がいなければ雇用は発生しない。
労働者と経営者を繋ぐものが契約である。
そして、契約において賃金の額を定める最大の要素は、他の企業の類似の労務内容なら幾ら位になっているか、という賃金相場である。

労働者と経営者が任意の契約によって繋がっていて、その契約内容が守られている限り、そこに搾取という概念は生じない。

【個人情報を扱うにしては低すぎる?】

======【引用ここから】======
この街宣活動に至った理由は、私の元に派遣労働者から匿名で相談が寄せられたからでもある。相談は業務内容に比例して賃金があまりにも安いというものだ。正社員の賃金や待遇は一定程度担保されているが、派遣労働や非正規の現場は凄惨(せいさん)だというのである。

彼女の訴えによれば、時給は3年間働いても1000円のままであり、責任をもって顧客の配送先である住所や名前など個人情報を扱うにしては低すぎるというものだ。これらの信ぴょう性を確認するための行動だった。

新習志野で多くの派遣労働者と話をすることができた。前澤社長や田端氏は現場の倉庫には足を運んで派遣労働者の声を聞いていないことも理解できたし、匿名の彼女の訴えは真実だとも理解できた。実際に新習志野で話した20歳代前半男性の派遣労働者は「僕の時給は1000円です。個人情報を大量に管理していますし、この賃金では安いと思います。社長が1000億円もかけて月に行くというなら僕らの賃金を上げてもらいたいというのが正直なところです」と語った。

======【引用ここから】======

藤田氏は
「個人情報を扱っているから、時給1000円では安い」
という非正規労働者の声を紹介しているが、どこを読んでもその理由が伝わってこない。
個人情報を扱っていない他の業務は現状維持でも良いが、個人情報を扱う私の賃金は高くしろということなのだろうか。

藤田氏は
「誰にでも出来る仕事の給料は上がらない」
といった主張を
「上から目線で労働者を蔑視する」
ものとして批判している。
では、
「時給1000円は個人情報を扱うにしては低すぎる」
は良いのだろうか。暗に、個人情報を取り扱う業務と比べて、他の業務を上から目線で蔑視していないだろうか。

もし、他の企業で、個人情報を扱う類似の業務が時給1200円の所があれば、ZOZOの非正規雇用を離れて他の会社に行けば良い。離職が企業にとって最も有効な圧力である。そうなれば、雇用の流出を止めるため時給引き上げを検討せざるを得なくなる。

ところで、
======【引用ここから】======
彼の職務内容を聞けば、責任ある正社員が行うべき業務を派遣労働者が低賃金で担っている。
======【引用ここから】======

藤田氏に相談した派遣労働者は、自身が低賃金であることを憤っているようだ。
それって、派遣元企業に相談すべき内容ではなかろうか。

ホームページでZOZOのアルバイト採用を見ると時給1000円となっていたが、派遣元企業はZOZOへ派遣した派遣労働者の賃金を幾らで設定しているのだろうか。

【ここで最初に戻ります】

======【引用ここから】======
末端の労働者を重視しない企業であれば、株価にも影響するだろう。実際にZOZOの株価はピーク時(5000円弱)と比較して、直近では2000円程度まで下げている。
======【引用ここから】======

私は前半で
「事業主と労働者で利益を山分け、損失も山分けで良いのか?」
という疑問を投げかけた。

ZOZOもいつまでも上り調子というわけにはいかないだろう。
時には損失を出す時もあるだろう。
株価も業績も、上がる時もあれば下がる時もある。
そんな時に、
「去年までは時給1000円だったが、去年からは業績が良かったので1300円に上げました。でも今年は業績が悪いから最低賃金スレスレまで下げます。」
と言われて、藤田氏界隈は納得するのだろうか。

しないでしょ?絶対に納得しないでしょ?
「あらかじめ定められた契約内容に基づき1000円払うべきだ!」
って要求するでしょ?

(※ ところで。
ZOZOの株価がピーク時と比べて下がった理由を、
末端の労働者を重視していないから
と考える投資家は居るのだろうか?
多分、別の理由だと思うんだけどね。 )

======【引用ここから】======
私はブラック企業ユニオン、首都圏青年ユニオン、プレカリアートユニオン、エキタスなどの労働組合や市民団体と共に、「お年玉企画」といった煙幕に巻かれることなく、企業の利益の源泉を追求し、貧困や格差の原因にメスを入れていきたいと思っている。
======【引用ここまで】======

マルクスという度数の合っていない眼鏡を捨てて、ピントを合わせてから世の中を眺めてみましょう。
煙に巻かれるどころか、そもそもぼやけて前がハッキリ見えてないでしょ?

【追記 ~ 次回予告】

いつも藤田氏をネタにしてばかりで何か申し訳なくなってしまったので、買いました。


読んでて気分の悪くなる一冊ですが、感想文を近日アップ予定。
(と自分を追い込んでみる)
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ふるさと納税によるゾンビ企業の延命

2019年01月09日 | 地方議会・地方政治

【ふるさと納税がゾンビ企業を生んだ】

消えるはずだった商店がゾンビとなって生きながらえる、という恐ろしい話。

○ふるさと納税の裏側 その4 ガソリンスタンドがお礼の品で「売上1億円超」の“異常事態”(東海テレビ) - Yahoo!ニュース
======【引用ここから】======
(記者リポート)
「東海3県で2番目に多い寄付を集めた岐阜県・七宗町のページです。洗剤やジュースなど、七宗町と関係がなさそうなお礼の品が並んでいます」
 昨年度、18億円あまりを集めた、ふるさと納税「勝ち組」の七宗町。しかし、お礼の品は、日用品やスポーツ用品など、国が問題視しているような地元と関係のない品物がほとんどです。
 岐阜県七宗町で何が起きているのか…。早速、その現場を確かめに向かいました。

 七宗町は、岐阜県中部の山あいにある人口4000人の小さな町。まず訪ねたのは、サイトに名前が出ていた「お礼の品」の提供元の一つ。そこにあったのは、昔ながらの衣料品店。

Q.商売はやっているんですか?

衣料品店の女性:
「もう全然だめなもんで、もうやめようかなとなったんですが、こういうの(ふるさと納税)であれだもんで…」

~~~~~~(中略)~~~~~~
同・女性:
「ここらへんのものはなにもないから(岐阜県)高山市のハムとか、飛騨(牛)カレーとか。ハチミツは(愛知県の)安城市のものですし」

Q.七宗町のものは?

同・女性:
「七宗は物産何もないんです。お米くらいですね」

 この店では、町役場からの誘いを受けて「お礼の品」の提供をスタート。もともと衣料品以外にも、贈答品を扱っていたことから、食品や家具など幅広い商品をお礼の品にしています。
 廃業を考えていた店に突如飛び込んだ、ふるさと納税の恩恵。
 年末のピークには、北海道から沖縄まで1週間に200個ほどの商品を発送すると言います。

======【引用ここまで】======

ふるさと納税が、本来なら廃業するはずだった店を生きながらえさせてしまった。
補助金や公的融資によって「ゾンビ企業」が生み出されることは知られているが、ふるさと納税でも同様のことが起きている好例と言えよう。
ふるさと納税は形を変えた悪しき補助金行政の一種である。

【税金の非効率さを加速するふるさと納税】

都会の住民が、住所地の自治体に住民税を払う。

その税金は、くだらない事業や非効率な事業、民業圧迫となる事業に費やされる可能性が大きい。行政は市場と比べるとはるかに非効率だ。
しかし、時には、こうしたダメ事業にではなく、現状では自治体にしかできないインフラ整備(渋滞する公道の整備・拡幅や老朽水道管の交換等)に投じられ、自分達の生活水準の維持・向上につながることもある。

(※ 道路や上下水道が民営化され個人や企業の所有になるのが望ましいが、現状、自治体が道路や上下水道を所有しているため、所有者として為すべき維持管理として自治体が税金を投じるのはやむを得ない面もあろう。)

ここで、ふるさと納税によってその税金は都会から田舎の自治体へ移ったとする。

ふるさと納税の一部は、旧態依然で経営の傾いていた田舎の衣料品店の延命に投じられ、残りの部分が田舎の自治体の収入となる。そして、都会の自治体と似たような比率で、田舎のダメ事業と有用な事業に分配される。

ふるさと納税をしなかった場合、都会の住民が払った住民税は、都会の自治体のダメ事業と有用な事業に投じられる。
他方、ふるさと納税をした場合、ふるさと納税に係る手数料、配送料や職員人件費といった本来なら不要だった経費を発生させ、田舎のゾンビ企業を生み出した後、その残りが田舎の自治体のダメ事業とインフラ整備に分配される。ゾンビ延命分だけ無駄が増えることになる。

【有用な事業が目減りする】

仮に、自治体の事業のうち、
「 ダメ事業 : 有用な事業 = 8 : 2 」
となっていて、ふるさと納税の返礼率が3割だったとしよう。

都会のA市住民が田舎のB町へ合計20億円分のふるさと納税をした場合、まず、A市から20億円の税収が消え、ダメ事業16億円分と有用な事業4億円分が消える。
そして、田舎のB町に入った20億円のうち、6億円が田舎の衣料品店に支払われてゾンビ化する。非効率な衣料品店が補助金によって延命されることになる。
残り14億円のうち、11億2千万円がダメ事業に投じられ、2億8千万円だけが有用な事業に投じられる。

 ダメ事業16億 + 有用な事業4億 
⇒ ゾンビ延命6億 + ダメ事業11億2千万 + 有用な事業2億8千万

ということになる。
実際には、B町職員の人件費やサイト運営会社への委託料等も支払わなければならないため、有用な事業に投じられるお金は更に目減りする。

【ふるさと納税をする際の注意】

元々行政は市場よりも資源分配が非効率であるのに、ふるさと納税はゾンビ企業の延命の分だけ行政の非効率さを増してしまう。
民間分野が行政分野よりも優れている点として、
「失敗した事業者が市場から退場することで、効率性を保つ」
という点が挙げられるが、ふるさと納税によるゾンビ企業の延命はこの利点を後退させてしまう。

田舎では旧態依然とした衣料品店がゾンビとして温存され、市場による効率化が阻まれる。
一方、都会では税収が消えてしまい、開かずの踏み切りや慢性的な渋滞などの解消が遠のいていく。

あぁ、早くこの制度が終わってほしい。


もしあなたが、ふるさと納税をするのであれば、

1.寄付金の使途を指定できる自治体を選ぶ。
2.事業の目的や方法が明確で詳細になっている。
3.事業の目的が適正で、事業の方法が効率的かどうかをきちんと見極める。

の3点に十分気を付けよう。
事業の指定をしないと、税金の持つ非効率さを増してしまうことになる。
また、「子育て応援」のようなフワッとした美辞麗句に惑わされないよう気を付けてほしい。

事業の中身を見極めた上で寄付金の使途を指定して、ダメ事業と有用な事業の割合が8:2から7:3位になれば、ふるさと納税の弊害を緩和することができる。


・・・って言っても、みんな、返礼品目当てだけでふるさと納税をするんでしょ?
事業を見極めるって言うほど簡単じゃないしね。
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