若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

野球賭博が悪くて、サッカーくじが良い理由が分からない

2010年07月15日 | 政治
競馬・競輪・オートレースは良い。
宝くじは良い。
サッカーくじは良い。

一方、

野球賭博はダメ。
賭けマージャンはダメ。
カジノはダメ。

なぜダメなのか。

教科書的説明では、
「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に影響を及ぼすから」
という理由の下、ギャンブルは賭博罪として禁止されている。公序良俗を守る上でギャンブルはよろしくない、ギャンブルは反社会的行為である、という扱いになっている。

ただ、政府はギャンブル全般について賭博罪で禁止する一方、個別に法律を設けて一部のギャンブルのみ禁止を解除している。それが競馬だったり宝くじだったりする。

競馬や宝くじが「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損」っていないと、誰が言えるだろうか。

賭博罪を設けている理由が本当に正当なもので、賭博を刑法で禁止し真に公序良俗を守るべきというのであれば、競馬や競艇、サッカーくじなどの公営ギャンブルに対して禁止を解除して良いはずがない。政府は公序良俗を守るどころか、公営ギャンブルを設置して自らが胴元となり、積極的に「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損」っているではないか。

公営ギャンブルの存在は、「公序良俗を守る」という社会的法益がいかに空疎でいいかげんなものかを示している。大ヤクザたる日本国政府が、自分やその子分(地方公共団体や特殊法人など)だけ胴元になることを認める一方で、傘下にいないヤクザや個人が行う賭け事を徹底的に潰して回る。そんな構図になっている。

政府とヤクザが、賭博業におけるサービスの質・価格・種類の競争ではなく、強制力を持った取締りと、その網の目を潜り抜けるというイタチごっこを繰り返したことで、業界への新規参入は著しく制限されている。その結果、公営ギャンブルでは異様なほどの胴元の取り分が実現した。

○図録▽賭事・ギャンブルゲームの控除率(テラ銭の割合)

公営でも私営でも賭け事は賭け事。そこに質的・道徳的な差はない。逮捕されるかされないかという形式的・手続的な差でしかない。どちらも国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損う(と役人が言っている)ギャンブルである。政府が新規参入の制限でテラ銭を吊り上げるという観点からすれば、最も悪質なのは公営ギャンブルであるといえよう。

「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損う」というのは嘘っぱち。賭博罪の実態が政府によるギャンブルの独占と割高なテラ銭の押し付けであれば、賭博罪なんて廃止してしまえ。いっそのこと、ギャンブルを全面的に解禁してしまった方が良い。



なに?

「ギャンブルを解禁したら、多くの人が博打漬けになってしまう」

だって?

大丈夫、大丈夫。

ギャンブル解禁で博打漬けになってしまうような人は、とっくの昔に、公営ギャンブルや事実上のギャンブル(パチンコ・スロット)にのめり込んでいるだろう。



なになに?

「ギャンブルを解禁したら、ヤクザの資金源がますます増えてしまう」

だって?

私は、合法スレスレ、あるいは非合法な分野でこそヤクザの商売が成り立っていると思う。もし賭博が全面解禁されて普通の株式会社がカジノ等に参入し始めたら、ヤクザの懐に入るアガリは今よりも少なくなるのではないか。禁酒法があった頃、ギャングは酒の販売をひそかに行って利益をあげていたが、今はどうだ。まっとうな飲料メーカーが競争する中、ギャングが酒類販売で収益を得ているなんて話は無い。




公営ギャンブルと違法ギャンブルのねじれは、世間の反応もねじれさせている。

サッカーくじを所管する文部科学省が、野球賭博をした力士を非難する。
毎週のように競馬放送をしているテレビ局が、野球賭博をした理事を非難する。
「パチンコで10万勝った。先月は30万負けた」と言ってるおっさんが、「相撲界はけしからん」と言う。

賭博が道徳的に悪いのか、法律に反しているから悪いのか。
法律が道徳に反しているのか。

○バスティア著『法』きゅうり氏訳
どんな社会であっても、法がある程度尊重されなければ存続出来ない。最も安全に法を尊重させる方法は、法を尊重に値するものにすることだ。
法と道徳とが互いに相矛盾する場合、道徳観を失うか、法への尊重心を失うかの酷い選択肢しか市民には残されない。

弁護士報酬の怪

2010年07月15日 | Weblog
実は法学部卒だった私。

先日、知人から民法上のトラブルの相談を受け、ネットで同じような事例を探し、久しぶりに六法を引き、学生時代の参考書を引っ張り出して調べたり・・・ってことをしていた。そして先週、手続きについて知人と一緒に家裁などを尋ねてまわった。家裁の書記官が教えてくれたのは、

「管轄はうちじゃなく○○地裁△△支部と思い・・・いや□□出張所・・・?」
「うちで使用している書式はこれになりますので、一応参考にどうぞ」
「期間は、1ヶ月では済まないですね・・・3ヶ月とか4ヶ月とか・・・」
「本人だけで今回の手続きを行うのは難しいでしょうから、弁護士を立てたら?」
「法テラスに聞いてみた方が良いケースだと思いますよ」

などなど。裁判所は当事者の一方のみに肩入れできない立場にあり、突っ込んだ内容を説明できないというのは理解できるのだが、それにしても要領を得ない。肝心な所は

「弁護士に・・・」

と言われてしまう。
んで、紹介された法テラスに電話で聞いてみたところ、

「そのケースでしたら、当センターで弁護士による無料の法律相談を実施していますので、そこでお話をされてみてはいかがでしょうか」

とのこと。ここでも結局

「弁護士に・・・」

だった。そうだそうだ、法テラスとはトラブルの解決方法を指南してくれるところではない。解決方法を指南してくれるところを紹介してくれるだけ。法テラスが発足した時に資料を貰って読んでいたはずなのだが、そのあたりをすっかり忘れている。自分の記憶力は全くあてにならない。

そして、続けて電話で話をしていたら、突如、

「当事者の月収はいくらですか?当事者の家族や同居人に公務員はいませんか?」

などと尋ねられる。法テラスが紹介してくれる無料法律相談には、所得制限が設けられているのだ。知人の情報を伝えると、電話の向こうから、

「知人の方と同居人の所得を加味すると所得制限に引っかかります」

と告げられる。仮に所得制限をクリア出来たとしても、無料になるのは相談だけで、あとの報酬金やらについては本人負担となる(民事法律扶助制度で一時的な立替えはしてくれるようだが)。

家に帰り、いろんな弁護士事務所のHPを覗いてみたところ、今回のケースでは着手金が10万~20万円。報酬金も同じくらいで、あれやこれやで総額40万円くらいかかるのが相場のようだ。ただ、実際に地元の弁護士に頼んだ時の費用がいくらになるのかは不明。

結局、出費の大きさが障壁となり、知人は弁護士に相談・依頼する道を諦めてしまった。


法的トラブルは世の中にたくさんある。法的知識を持つ人に解決してほしいと願う人は大勢いる。しかし、情報の不足と費用の高さという二重のハードルが、法的トラブルを抱える人々を追い返している。追い返された人々は、自力で手続きをして解決を図るか、ヤクザに頼むか、事態が悪化してどうにもならなくなるまで泣き寝入りするか、といった選択肢しか残されていない。

だいたい、高すぎるのだ。一見すると役場の住民票・戸籍の係で済みそうな手続きに、何ヶ月もの期間と数十万円の費用を必要とする。しかも、相談するだけで1時間5000円~1万円ときたもんだ。

もし40万円払うとなると、私なら3カ月も飲まず食わずを強いられることになる。この弁護士費用が、自由市場における価格ならまだ納得がいく。しかし、この弁護士費用の高さは、

  法科大学院 + 司法試験 + 司法修習制度 + 弁護士法第72条

といった、幾重にも張り巡らされた参入規制によってもたらされたのだから腹が立つ。

相談料や報酬金など込み込みで5万円くらいでやってくれる、お手軽な弁護士がいたら良いのに、と思う。もし弁護士法第72条がなければ、副業として特定の紛争処理のみ引き受けて小遣いを稼ぐような人も出てくるだろう。利用者としては、そうなった方が選択肢が増えて好ましい。

1人の弁護士が憲・民・刑・商・民訴・刑訴・行政・租税・労働法などを一通り網羅しておく必要なんてない。1人で全部をカバーする必要はない。必要に応じて、特定の分野の知識・技能を持つ人が集まって事にあたれば良い。分業ってそういうものだと思う。

パソコンで例えるなら、CPU、メモリ、マウス、ディスプレイ、グラフィックカード、冷却クーラーの製造・組立てや、OSのプログラミングなど、様々な分野の職人や専門家の手を経ることで、初めてお手頃な価格で購入できるようになる。もし「1人で全ての部品の製造、組立てからプログラミングまでできなければ、パソコン製造業に携わってはならない」なんてルールができたら、私はおそらくパソコンを買えないだろう。

弁護士の中には「弁護士を増やすと司法サービスの質が低下する」と主張している人もいるが、司法サービスの質の議論の前に、そもそも司法サービスにたどり着けないまま放置されている人が大勢いることの方が問題だ。

いたちごっこ

2010年07月15日 | 政治
2000年に、出資法の上限金利が年40.004%から年29.2%に引き下げられた。出資法に違反した場合、刑事罰が科される。2010年6月には、出資法の上限が利息制限法の上限(15%~20%)に引き下げられ、いわゆるグレーゾーン金利が撤廃される。また、その人の収入の3分の1までしか貸付できないという総量規制も設けられた。

「年40%でなら貸し付けできるけど、20%・30%で貸せるほどの信用力はない」
と判断された人は、正規の金融機関からはお金を借りられなくなる。貸す方も商売なのだから、回収の見込と金利が見合わないとなれば、誰も貸さなくなってしまう。

すると・・・


“現金化”業者 一斉税務調査
貸し渋りや多重債務で融資を受けられなくなった人などに、クレジットカードを使った買い物の形をとることで、手軽に現金を融通する業者が急増し、返済できなくなった利用者が、さらに多額の借金を抱えるトラブルが起きていることが明らかになりました。こうした業者は、貸金業法の規制を受けず、国税当局は一斉に税務調査に乗りだし、詳しい実態の解明を進めています。

こうした業者は、利用者にビー玉や石けんなど、本来は100円程度で買える商品をクレジットカードで数十万円で購入させ、代金の一部を払い戻す「キャッシュバック」付きの商品という名目で、15%前後の手数料を差し引いて現金を提供します。利用者は、多重債務などで融資が受けられなくても、この業者にネットや電話で申し込むと、「ショッピング枠」と呼ばれるカードで買い物ができる限度額近くまで現金を手にすることができ、こうした業者は「ショッピング枠現金化業者」と呼ばれています。融資の審査がなく、現金が手軽に手に入ることから利用者が急増していますが、カード会社からの代金の請求に応じられず、多額の借金を抱えたり、カード会社が被害を受けたりするトラブルが相次いでいます。しかし貸金業には当たらないとして貸金業法などの規制を受けず、業界関係者によりますと、この1〜2年で業者の数は300を超えたということです。



銀行でも消費者金融でも融資を断られ、カードのキャッシング枠も使い切った。
そんな多重債務者が、業者からビー玉1個を100,000円で購入。
支払い方法は、カードで3回払い。業者から85,000円のキャッシュバックを受ける。

するとあら不思議、手元には85,000円の現金(と、ビー玉)が届く。

・・・というカラクリらしい。

これが、業者と利用者だけのやりとりになると、金銭消費貸借として貸金業法や出資法の規制におそらくひっかかる。ところが、業者が利用者にクレジットカードを使わせることによって、カード会社を巻き込んだ3者の構図となり、金銭消費貸借でないから出資法の規制を受けなくなる。

85,000円借りて、利息込みの総額100,000円を3ヶ月で返済する契約を業者と利用者の2者間で結ぶと、年計算で70.56%で出資法違反になる。ところが、実質的にはお金の貸し借りであっても、形式的には商品を購入してカード会社を利用して支払うという形をとっているため、出資法や貸金業法の規制を潜り抜けるのだ。

正義感の強い法律家は、こういうニュースを見ると
「クレジット枠現金化業者に新たな法規制をすべきだ」
「出資法や貸金業法の対象をクレジット枠現金化業者まで広げるべきだ」
と思うのだろう。

だが待ってほしい。

クレジット枠現金化業者という新手の商売を出現させたのは、利息引き下げやグレーゾーン金利撤廃を求めて運動してきた法律家の正義感なのだ。ここで新たな法規制を設けたところで、また新たな形態の金融業が出現するだけだろう。そして、今回はカード会社が巻き込まれたように、規制を増やす度に複雑化しそれまで関係なかった業種まで巻き込むようになってしまう。

建前・道徳からすれば禁止・規制されて当然だが、実際は相当な規模の需要が存在する業種がある。例えば、賭博、風俗、麻薬などだ。これらは一応禁止・規制されているが、実際は法の網をくぐり、あるいは地下に潜り、多くの人に提供されている。今回問題となった高利貸しも、規制が増えるたびにある者は地下に潜り、ある者は法の抜け穴をついた形態を模索してきた。規制とのいたちごっこは、規制コストを高め、複雑な法規制を形成し、結局のところ誰も得をしない。

人々が高利貸しで借りる現実を避けて、義憤にかられて
「多重債務者を救うために金利規制を」
と叫んだところで、何も解決しない。事態を複雑にするだけだ。規制をかけて地下に潜ることで、かえって犯罪の温床となる場合もあるだろう。


M&R・フリードマン著『選択の自由 自立社会への挑戦』冒頭
これまでの経験は、政府が掲げるいろいろな目的が有益なものであるときこそ、自由を守るためにわれわれはもっとも用心しなければならいことを、われわれに教えてくれる。自由に生まれた人びとというものは、悪意をもっている支配者たちによって自分たちの自由が侵害されることに対しては、これを撃退しようと生まれつき油断なく警戒しているものだ。しかし自由に対するもっと大きな危険は、熱意にあふれその動機は善意に基づいてはいるが理解力には欠けている人びとによって、われわれが気がつかないうちにもたらされ、われわれの自由を蚕食していくことだ。

ルイス・ブランダイス判事
アメリカ合衆国最高裁判所判決(オルムステッド対合衆国)
277合衆国479(1928年)