競馬・競輪・オートレースは良い。
宝くじは良い。
サッカーくじは良い。
一方、
野球賭博はダメ。
賭けマージャンはダメ。
カジノはダメ。
なぜダメなのか。
教科書的説明では、
「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に影響を及ぼすから」
という理由の下、ギャンブルは賭博罪として禁止されている。公序良俗を守る上でギャンブルはよろしくない、ギャンブルは反社会的行為である、という扱いになっている。
ただ、政府はギャンブル全般について賭博罪で禁止する一方、個別に法律を設けて一部のギャンブルのみ禁止を解除している。それが競馬だったり宝くじだったりする。
競馬や宝くじが「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損」っていないと、誰が言えるだろうか。
賭博罪を設けている理由が本当に正当なもので、賭博を刑法で禁止し真に公序良俗を守るべきというのであれば、競馬や競艇、サッカーくじなどの公営ギャンブルに対して禁止を解除して良いはずがない。政府は公序良俗を守るどころか、公営ギャンブルを設置して自らが胴元となり、積極的に「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損」っているではないか。
公営ギャンブルの存在は、「公序良俗を守る」という社会的法益がいかに空疎でいいかげんなものかを示している。大ヤクザたる日本国政府が、自分やその子分(地方公共団体や特殊法人など)だけ胴元になることを認める一方で、傘下にいないヤクザや個人が行う賭け事を徹底的に潰して回る。そんな構図になっている。
政府とヤクザが、賭博業におけるサービスの質・価格・種類の競争ではなく、強制力を持った取締りと、その網の目を潜り抜けるというイタチごっこを繰り返したことで、業界への新規参入は著しく制限されている。その結果、公営ギャンブルでは異様なほどの胴元の取り分が実現した。
○図録▽賭事・ギャンブルゲームの控除率(テラ銭の割合)
公営でも私営でも賭け事は賭け事。そこに質的・道徳的な差はない。逮捕されるかされないかという形式的・手続的な差でしかない。どちらも国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損う(と役人が言っている)ギャンブルである。政府が新規参入の制限でテラ銭を吊り上げるという観点からすれば、最も悪質なのは公営ギャンブルであるといえよう。
「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損う」というのは嘘っぱち。賭博罪の実態が政府によるギャンブルの独占と割高なテラ銭の押し付けであれば、賭博罪なんて廃止してしまえ。いっそのこと、ギャンブルを全面的に解禁してしまった方が良い。
なに?
「ギャンブルを解禁したら、多くの人が博打漬けになってしまう」
だって?
大丈夫、大丈夫。
ギャンブル解禁で博打漬けになってしまうような人は、とっくの昔に、公営ギャンブルや事実上のギャンブル(パチンコ・スロット)にのめり込んでいるだろう。
なになに?
「ギャンブルを解禁したら、ヤクザの資金源がますます増えてしまう」
だって?
私は、合法スレスレ、あるいは非合法な分野でこそヤクザの商売が成り立っていると思う。もし賭博が全面解禁されて普通の株式会社がカジノ等に参入し始めたら、ヤクザの懐に入るアガリは今よりも少なくなるのではないか。禁酒法があった頃、ギャングは酒の販売をひそかに行って利益をあげていたが、今はどうだ。まっとうな飲料メーカーが競争する中、ギャングが酒類販売で収益を得ているなんて話は無い。
公営ギャンブルと違法ギャンブルのねじれは、世間の反応もねじれさせている。
サッカーくじを所管する文部科学省が、野球賭博をした力士を非難する。
毎週のように競馬放送をしているテレビ局が、野球賭博をした理事を非難する。
「パチンコで10万勝った。先月は30万負けた」と言ってるおっさんが、「相撲界はけしからん」と言う。
賭博が道徳的に悪いのか、法律に反しているから悪いのか。
法律が道徳に反しているのか。
○バスティア著『法』きゅうり氏訳
どんな社会であっても、法がある程度尊重されなければ存続出来ない。最も安全に法を尊重させる方法は、法を尊重に値するものにすることだ。
法と道徳とが互いに相矛盾する場合、道徳観を失うか、法への尊重心を失うかの酷い選択肢しか市民には残されない。
宝くじは良い。
サッカーくじは良い。
一方、
野球賭博はダメ。
賭けマージャンはダメ。
カジノはダメ。
なぜダメなのか。
教科書的説明では、
「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に影響を及ぼすから」
という理由の下、ギャンブルは賭博罪として禁止されている。公序良俗を守る上でギャンブルはよろしくない、ギャンブルは反社会的行為である、という扱いになっている。
ただ、政府はギャンブル全般について賭博罪で禁止する一方、個別に法律を設けて一部のギャンブルのみ禁止を解除している。それが競馬だったり宝くじだったりする。
競馬や宝くじが「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損」っていないと、誰が言えるだろうか。
賭博罪を設けている理由が本当に正当なもので、賭博を刑法で禁止し真に公序良俗を守るべきというのであれば、競馬や競艇、サッカーくじなどの公営ギャンブルに対して禁止を解除して良いはずがない。政府は公序良俗を守るどころか、公営ギャンブルを設置して自らが胴元となり、積極的に「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損」っているではないか。
公営ギャンブルの存在は、「公序良俗を守る」という社会的法益がいかに空疎でいいかげんなものかを示している。大ヤクザたる日本国政府が、自分やその子分(地方公共団体や特殊法人など)だけ胴元になることを認める一方で、傘下にいないヤクザや個人が行う賭け事を徹底的に潰して回る。そんな構図になっている。
政府とヤクザが、賭博業におけるサービスの質・価格・種類の競争ではなく、強制力を持った取締りと、その網の目を潜り抜けるというイタチごっこを繰り返したことで、業界への新規参入は著しく制限されている。その結果、公営ギャンブルでは異様なほどの胴元の取り分が実現した。
○図録▽賭事・ギャンブルゲームの控除率(テラ銭の割合)
公営でも私営でも賭け事は賭け事。そこに質的・道徳的な差はない。逮捕されるかされないかという形式的・手続的な差でしかない。どちらも国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損う(と役人が言っている)ギャンブルである。政府が新規参入の制限でテラ銭を吊り上げるという観点からすれば、最も悪質なのは公営ギャンブルであるといえよう。
「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損う」というのは嘘っぱち。賭博罪の実態が政府によるギャンブルの独占と割高なテラ銭の押し付けであれば、賭博罪なんて廃止してしまえ。いっそのこと、ギャンブルを全面的に解禁してしまった方が良い。
なに?
「ギャンブルを解禁したら、多くの人が博打漬けになってしまう」
だって?
大丈夫、大丈夫。
ギャンブル解禁で博打漬けになってしまうような人は、とっくの昔に、公営ギャンブルや事実上のギャンブル(パチンコ・スロット)にのめり込んでいるだろう。
なになに?
「ギャンブルを解禁したら、ヤクザの資金源がますます増えてしまう」
だって?
私は、合法スレスレ、あるいは非合法な分野でこそヤクザの商売が成り立っていると思う。もし賭博が全面解禁されて普通の株式会社がカジノ等に参入し始めたら、ヤクザの懐に入るアガリは今よりも少なくなるのではないか。禁酒法があった頃、ギャングは酒の販売をひそかに行って利益をあげていたが、今はどうだ。まっとうな飲料メーカーが競争する中、ギャングが酒類販売で収益を得ているなんて話は無い。
公営ギャンブルと違法ギャンブルのねじれは、世間の反応もねじれさせている。
サッカーくじを所管する文部科学省が、野球賭博をした力士を非難する。
毎週のように競馬放送をしているテレビ局が、野球賭博をした理事を非難する。
「パチンコで10万勝った。先月は30万負けた」と言ってるおっさんが、「相撲界はけしからん」と言う。
賭博が道徳的に悪いのか、法律に反しているから悪いのか。
法律が道徳に反しているのか。
○バスティア著『法』きゅうり氏訳
どんな社会であっても、法がある程度尊重されなければ存続出来ない。最も安全に法を尊重させる方法は、法を尊重に値するものにすることだ。
法と道徳とが互いに相矛盾する場合、道徳観を失うか、法への尊重心を失うかの酷い選択肢しか市民には残されない。