最近、
「『自分の意志で公務員になったんだから思想・良心の自由なんか主張するな!強制されても文句いうな!』なんてのは現在ではおよそ通用しない考え方」
といった意見が一部で横行している。
この見解によれば、勤務時間内であっても、命令が自分の思想良心に反するものである場合、その命令は違憲無効だから従う必要がない・・・らしい。
おかしい。
どうも納得がいかない。
ということで、以下、考察。
一般職の地方公務員(以下、職員という)は、講学上、補助機関と呼ばれている。職員は、首長の一部権限の委任を受け、また臨時にその職務を代理し、首長の意思遂行を補助する存在として設置されている。
補助機関たる職員は、首長の指揮監督の下、統一して職務を遂行することが求められる。このことの憲法上の根拠として、私は、憲法第15条第1項を挙げる。
この規定により選定罷免される公務員は、選挙を通じて住民に対し責任を負っている。選挙を通じて責任を負う公務員とは首長であり、職員は選挙を通じた対外的・一次的な責任を負っていない(国家賠償における求償権はあるが、これはあくまで内部の話である)。
住民は選挙を通じて首長を落選させることができるが、職員がどんなことをしても、住民が職員を直接辞めさせることはできない。責任を負うことのない職員が勝手に行動して、責任を負う首長の意思の遂行を妨げてはならない。首長と職員が内部で意見交換や議論を行うことはあるが、最終的な意思決定をするのは首長である。職員はあくまで補助機関であり、決定された方針・命令を覆して統一性を失わせることは職員としての立場、裁量を逸している。
ここで、憲法第19条の思想・良心の自由は、内心に留まる限り、保障は絶対的だ。しかし、これが外部的な行為・不作為を伴う場合、制約を受ける。そして、職員は上記のように補助機関として設置されており、上意下達の中で強制・命令を受けることを前提としている存在だ。よって、職員への命令の合憲性を判断するにあたっては、国民対国家における厳格な違憲審査基準は妥当しない。国民は政府から強制を受けないのが原則であるが、職員は首長から強制を受けるのが前提であり、そこには大きな差がある。
私は、職員が命令違反で処分を受けた場合に、司法審査による救済を求めること自体は否定しない。その意味で、いわゆる特別権力関係論をそのまま採用するものではない。しかし、国民一般における場合と異なり、職員に対しては強制・命令がなされること自体は当然予定されていることであるから、命令が著しく不合理であることが明白でなく、かつ、命令違反行為と処分内容を比較し、命令違反行為に比べて処分が著しく重すぎるといったことがなければ、違憲・違法の問題は生じないと判断して良いだろう。
「公立校の教員に、国歌斉唱の際に起立させる命令自体が、憲法第19条に違反し無効」
という主張をするのは勝手だが、こうした主張がまかり通った場合には、公権力のあり方、組織のあり方が根底から覆ることになる。辛うじて成立していた、行政への民主的コントロールが及ばなくなる。
組織のルールと、市民社会のルールは違う。
市民社会は自由を基礎に成り立っているが、組織は命令・強制を前提として成り立っている。
性質が全く異なっており、これを混同してはならない。
さてここで。
「日の丸・君が代はんたーい」
な人たちの拠り所となっている、藤田裁判官の反対意見を見てみよう。
○日野「君が代」伴奏拒否訴訟 最高裁判決 反対意見より引用
======【引用ここから】======
本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。
======【引用ここまで】======
「公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」
「本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。」
「公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得る」
教員へのピアノ伴奏命令
↓
ピアノ伴奏は参加者(児童・保護者)への国歌斉唱の強制
↓
ピアノを伴奏して参加者に国歌斉唱を強制することは信念・信条に反する
↓
ピアノ伴奏命令は教員の信念・信条そのものに対する直接的抑圧
↓
教員「伴奏拒否!」 藤田「保護に値する」
というのが、藤田裁判官の話の流れだ。
しかし、これはおかしい。
本件では、「公的機関」の内部では命令が出されているが、「参加者」たる児童・保護者に向けて「その意思に反してでも一律に行動すべく強制」はされていない。ピアノを伴奏する行為に、参加者(児童・保護者)の意思に反して一律に行動させるほどの強制力はない。ピアノの伴奏が流れたところで、参加者は「え?なんか曲が流れてる?俺は歌わないよ」と無視することもできるのだから。
このように、通常、ピアノ伴奏をしたところで、参加者に国歌斉唱を強制することにはならない。ピアノ伴奏を参加者への国歌斉唱の強制と捉えるのは、信念・信条の問題ではなく、単なる事実誤認、妄想である。
もし、「公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制すること」が行われていたのであれば、これは教員へのピアノ伴奏命令とは比較にならない大問題である。参加者への強制となれば、これは公的機関内部の話、組織のルールの話ではない。
参加者に対し、その意思に反してでも一律に国歌を斉唱をするよう強制する処分は、違憲となるであろう(例えば、参加者全員が国歌斉唱の際に起立するまで式を進行しない、とか、参加者全員が起立するまで体育館の鍵を開けない、とか、座ったままの参加者の所へ鞭を持った教員がやってくる、とか)。そして、この一環としてピアノ伴奏命令が教員に出されたのであれば、この教員への命令も違憲となるであろう。しかしこれは、参加者の自由(思想・良心の自由、身体の自由、一般的行為の自由etc)を侵害したから違憲となるのであって、教員の思想・良心の自由を侵害したから違憲なのではない。
藤田裁判官のように、教員の思想・良心の自由の制約かどうかを分析する際に、外部の参加者への強制を持ち出すと、そこに組織のルールと市民社会のルールが混在してしまう。そうなれば、行政末端への民主制によるコントロールが及びにくくなり、かえって市民社会の自由は脅かされることになる。
○第154回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第3号(平成14年4月11日(木曜日))
======【引用ここから】======
○武山小委員 世間一般に、人権人権と言って、本当に権利を主張している人が大勢いるわけです。最近の新聞の中で、公立の学校の音楽の先生が、卒業式に国歌斉唱の伴奏をしなかったというわけです。それで、教育委員会も処分をしない、県も処分をしない。ここ数年そういう状態が続いた。その先生は、私は、国旗掲揚、国歌斉唱に、人権を無視して反対だということで、音楽の先生としてピアノを弾かなかったということが新聞記事に出ておるんですけれども、こういう場合の人権と、先ほどお話しの公法という意味、国家、市民社会という意味では、どう先生は位置づけておりますでしょうか。
○阪本参考人 それは公立高校ですね。
我々の生活は、市民社会において活動する場合と、ある組織体に入って生活する場合とあります。私は公務員で、国立大学の中で勤務するときにはその階層構造にあって、公務員であるがゆえに私の持っている市民的自由は当然に制約されるという局面にあります。そういうのを、従来の法学では特別権力関係と呼んできました、または特殊な法律関係。
我々がある組織に入りますと、一般的な市民自由をそこでは断念して、その組織にふさわしい、その秩序の中で生活をしないといけない。人権の問題というは、組織以外で我々が一般的に生活をしているときに、私は国歌・国旗に対して反対だ、こういう自由を主張するのならばいい。ところが、学校という組織の中に入って一定のヒエラルヒー構造にあり、一つの役割を背負った人間が市民社会における権利主張をここでするということは間違っています。
組織の中における行動と市民社会における行動というものは、人権主張の程度、やり方が違っているということを大学では教えるはずなんですが。
======【引用ここまで】======
○公務員の政治的基本権脚注
======【引用ここから】======
阪本昌成はある程度詳しく判例学説を論じた上で、独特の根拠に基づく違憲説を説く。「公務員の政治活動の自由は、組織のルールによって制限されざるをえない」と述べた上で、次のように違憲説を採る。「非管理職の現業公務員が〈中略〉勤務時間外に職務または国の施設を利用しない活動については<組織内部の指揮命令に服さなければならない>、と結論することは困難である。また、猿払事件のように、機械的労務提供を職務内容とする社が、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、職務上の権限を行使することなく行った政治的活動に対して刑事罰を加えることは、『組織のルール』の範囲に含まれない。」(『憲法理論』第三巻、成文堂一九九五年刊八五頁以下)
======【引用ここまで】======
『ヒューマン・アクション』L.v.ミーゼス著 村田稔雄訳 342頁
======【引用ここから】======
もし公務員たちの最高の長(それが主権者である国民であろうと、至上権をもつ独裁者であろうと問題でない)が、公務員たちに自由裁量を許すとすれば、彼らのために自己の至上権を放棄することになるであろう。これらの公務員は、無責任な役人となり、その権力は国民ないし独裁者の権力を上回り、彼らの長が要望していることではなく、自己の好きなことをするであろう。このような結果を防ぎ、公務員たちを長の意思に従わせるためには、あらゆる点について業務処理を定めた詳細な指示を与えておく必要がある。それによって、公務員は、これらの規則を厳守して、すべての業務を扱うことが義務となる。具体的問題のもっとも適切な解決と思われる方法へ、行為を適応させる自由は、これらの規則によって制限される。彼らは官僚、すなわち、あらゆる場面に所定の非弾力的な規則を守らなければならない人々である。
======【引用ここまで】======
「『自分の意志で公務員になったんだから思想・良心の自由なんか主張するな!強制されても文句いうな!』なんてのは現在ではおよそ通用しない考え方」
といった意見が一部で横行している。
この見解によれば、勤務時間内であっても、命令が自分の思想良心に反するものである場合、その命令は違憲無効だから従う必要がない・・・らしい。
おかしい。
どうも納得がいかない。
ということで、以下、考察。
一般職の地方公務員(以下、職員という)は、講学上、補助機関と呼ばれている。職員は、首長の一部権限の委任を受け、また臨時にその職務を代理し、首長の意思遂行を補助する存在として設置されている。
補助機関たる職員は、首長の指揮監督の下、統一して職務を遂行することが求められる。このことの憲法上の根拠として、私は、憲法第15条第1項を挙げる。
この規定により選定罷免される公務員は、選挙を通じて住民に対し責任を負っている。選挙を通じて責任を負う公務員とは首長であり、職員は選挙を通じた対外的・一次的な責任を負っていない(国家賠償における求償権はあるが、これはあくまで内部の話である)。
住民は選挙を通じて首長を落選させることができるが、職員がどんなことをしても、住民が職員を直接辞めさせることはできない。責任を負うことのない職員が勝手に行動して、責任を負う首長の意思の遂行を妨げてはならない。首長と職員が内部で意見交換や議論を行うことはあるが、最終的な意思決定をするのは首長である。職員はあくまで補助機関であり、決定された方針・命令を覆して統一性を失わせることは職員としての立場、裁量を逸している。
ここで、憲法第19条の思想・良心の自由は、内心に留まる限り、保障は絶対的だ。しかし、これが外部的な行為・不作為を伴う場合、制約を受ける。そして、職員は上記のように補助機関として設置されており、上意下達の中で強制・命令を受けることを前提としている存在だ。よって、職員への命令の合憲性を判断するにあたっては、国民対国家における厳格な違憲審査基準は妥当しない。国民は政府から強制を受けないのが原則であるが、職員は首長から強制を受けるのが前提であり、そこには大きな差がある。
私は、職員が命令違反で処分を受けた場合に、司法審査による救済を求めること自体は否定しない。その意味で、いわゆる特別権力関係論をそのまま採用するものではない。しかし、国民一般における場合と異なり、職員に対しては強制・命令がなされること自体は当然予定されていることであるから、命令が著しく不合理であることが明白でなく、かつ、命令違反行為と処分内容を比較し、命令違反行為に比べて処分が著しく重すぎるといったことがなければ、違憲・違法の問題は生じないと判断して良いだろう。
「公立校の教員に、国歌斉唱の際に起立させる命令自体が、憲法第19条に違反し無効」
という主張をするのは勝手だが、こうした主張がまかり通った場合には、公権力のあり方、組織のあり方が根底から覆ることになる。辛うじて成立していた、行政への民主的コントロールが及ばなくなる。
組織のルールと、市民社会のルールは違う。
市民社会は自由を基礎に成り立っているが、組織は命令・強制を前提として成り立っている。
性質が全く異なっており、これを混同してはならない。
さてここで。
「日の丸・君が代はんたーい」
な人たちの拠り所となっている、藤田裁判官の反対意見を見てみよう。
○日野「君が代」伴奏拒否訴訟 最高裁判決 反対意見より引用
======【引用ここから】======
本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。
======【引用ここまで】======
「公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」
「本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。」
「公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得る」
教員へのピアノ伴奏命令
↓
ピアノ伴奏は参加者(児童・保護者)への国歌斉唱の強制
↓
ピアノを伴奏して参加者に国歌斉唱を強制することは信念・信条に反する
↓
ピアノ伴奏命令は教員の信念・信条そのものに対する直接的抑圧
↓
教員「伴奏拒否!」 藤田「保護に値する」
というのが、藤田裁判官の話の流れだ。
しかし、これはおかしい。
本件では、「公的機関」の内部では命令が出されているが、「参加者」たる児童・保護者に向けて「その意思に反してでも一律に行動すべく強制」はされていない。ピアノを伴奏する行為に、参加者(児童・保護者)の意思に反して一律に行動させるほどの強制力はない。ピアノの伴奏が流れたところで、参加者は「え?なんか曲が流れてる?俺は歌わないよ」と無視することもできるのだから。
このように、通常、ピアノ伴奏をしたところで、参加者に国歌斉唱を強制することにはならない。ピアノ伴奏を参加者への国歌斉唱の強制と捉えるのは、信念・信条の問題ではなく、単なる事実誤認、妄想である。
もし、「公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制すること」が行われていたのであれば、これは教員へのピアノ伴奏命令とは比較にならない大問題である。参加者への強制となれば、これは公的機関内部の話、組織のルールの話ではない。
参加者に対し、その意思に反してでも一律に国歌を斉唱をするよう強制する処分は、違憲となるであろう(例えば、参加者全員が国歌斉唱の際に起立するまで式を進行しない、とか、参加者全員が起立するまで体育館の鍵を開けない、とか、座ったままの参加者の所へ鞭を持った教員がやってくる、とか)。そして、この一環としてピアノ伴奏命令が教員に出されたのであれば、この教員への命令も違憲となるであろう。しかしこれは、参加者の自由(思想・良心の自由、身体の自由、一般的行為の自由etc)を侵害したから違憲となるのであって、教員の思想・良心の自由を侵害したから違憲なのではない。
藤田裁判官のように、教員の思想・良心の自由の制約かどうかを分析する際に、外部の参加者への強制を持ち出すと、そこに組織のルールと市民社会のルールが混在してしまう。そうなれば、行政末端への民主制によるコントロールが及びにくくなり、かえって市民社会の自由は脅かされることになる。
○第154回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第3号(平成14年4月11日(木曜日))
======【引用ここから】======
○武山小委員 世間一般に、人権人権と言って、本当に権利を主張している人が大勢いるわけです。最近の新聞の中で、公立の学校の音楽の先生が、卒業式に国歌斉唱の伴奏をしなかったというわけです。それで、教育委員会も処分をしない、県も処分をしない。ここ数年そういう状態が続いた。その先生は、私は、国旗掲揚、国歌斉唱に、人権を無視して反対だということで、音楽の先生としてピアノを弾かなかったということが新聞記事に出ておるんですけれども、こういう場合の人権と、先ほどお話しの公法という意味、国家、市民社会という意味では、どう先生は位置づけておりますでしょうか。
○阪本参考人 それは公立高校ですね。
我々の生活は、市民社会において活動する場合と、ある組織体に入って生活する場合とあります。私は公務員で、国立大学の中で勤務するときにはその階層構造にあって、公務員であるがゆえに私の持っている市民的自由は当然に制約されるという局面にあります。そういうのを、従来の法学では特別権力関係と呼んできました、または特殊な法律関係。
我々がある組織に入りますと、一般的な市民自由をそこでは断念して、その組織にふさわしい、その秩序の中で生活をしないといけない。人権の問題というは、組織以外で我々が一般的に生活をしているときに、私は国歌・国旗に対して反対だ、こういう自由を主張するのならばいい。ところが、学校という組織の中に入って一定のヒエラルヒー構造にあり、一つの役割を背負った人間が市民社会における権利主張をここでするということは間違っています。
組織の中における行動と市民社会における行動というものは、人権主張の程度、やり方が違っているということを大学では教えるはずなんですが。
======【引用ここまで】======
○公務員の政治的基本権脚注
======【引用ここから】======
阪本昌成はある程度詳しく判例学説を論じた上で、独特の根拠に基づく違憲説を説く。「公務員の政治活動の自由は、組織のルールによって制限されざるをえない」と述べた上で、次のように違憲説を採る。「非管理職の現業公務員が〈中略〉勤務時間外に職務または国の施設を利用しない活動については<組織内部の指揮命令に服さなければならない>、と結論することは困難である。また、猿払事件のように、機械的労務提供を職務内容とする社が、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、職務上の権限を行使することなく行った政治的活動に対して刑事罰を加えることは、『組織のルール』の範囲に含まれない。」(『憲法理論』第三巻、成文堂一九九五年刊八五頁以下)
======【引用ここまで】======
『ヒューマン・アクション』L.v.ミーゼス著 村田稔雄訳 342頁
======【引用ここから】======
もし公務員たちの最高の長(それが主権者である国民であろうと、至上権をもつ独裁者であろうと問題でない)が、公務員たちに自由裁量を許すとすれば、彼らのために自己の至上権を放棄することになるであろう。これらの公務員は、無責任な役人となり、その権力は国民ないし独裁者の権力を上回り、彼らの長が要望していることではなく、自己の好きなことをするであろう。このような結果を防ぎ、公務員たちを長の意思に従わせるためには、あらゆる点について業務処理を定めた詳細な指示を与えておく必要がある。それによって、公務員は、これらの規則を厳守して、すべての業務を扱うことが義務となる。具体的問題のもっとも適切な解決と思われる方法へ、行為を適応させる自由は、これらの規則によって制限される。彼らは官僚、すなわち、あらゆる場面に所定の非弾力的な規則を守らなければならない人々である。
======【引用ここまで】======